1.ステラ
窓から聞こえてくる剣の音に、ふと手を止めた。
捏ねていた生地から手を離してそっと窓辺に近寄る。
窓の外、家の裏の小さな庭に一人の女が立っている。スラリとした体躯に背中まである白髪。彼女が剣を振るたびに背中で踊る白髪が光を反射する。
ずっと見てきた光景だった。
彼女がこの家に来てから数十年。毎日、毎日。欠かさず繰り返された日常だ。
ダンは目を細めると再びキッチンに戻った。湯気を立てる鍋を火から下ろすと、先程の生地を捏ねる作業に戻る。
キッシュにパイ、オニオンスープと焼き立てのパン。少しの肉に、いつもよりちょっとだけ良い酒もある。
豪勢な献立に、彼女が驚く姿を想像して口元を緩めた。
今日は彼女にとって門出となる目出度い日だ。
騎士になると言われた時に、きっと彼女はやり遂げてしまうだろうという妙な確信がダンにはあった。そして彼女の言葉通り晴れて騎士登用試験に合格したステラは、明日から騎士になる。
貧乏ながらもできるだけ御祝いしたくて奮発したおかげでいつもは質素な食卓が溢れんばかりの料理で埋め尽くされるはずだ。
生地をオーブンに突っ込むと、一時の休憩をとるために先程の窓辺に椅子を引き寄せて座った。
ダンはステラが剣を振るう姿が好きだった。
綺麗なステラに似合う、踊るような剣捌きはいつ見ても美しいと思う。
ふと、彼女と出逢った日を思い出す。
街外れの森の中。野草を探しに出掛けていたダンは泥と汗と垢塗れで黒く汚れた彼女を見つけた。
手足はガリガリで酷く痩せており異臭が鼻を突く。手には千切られた虫を握りしめており、口の端から節足動物らしき足がはみ出していて、彼女が口を動かすと軽い咀嚼音がしたのを覚えている。
普段の自分ならばそんな人間を見たら悲鳴を上げて逃げていただろう。だが、その時のダンはまるで雷に打たれたかのようにその場から動けなかった。
あの時、こちらを見つめてきた彼女の瞳は美しく透き通っていた。
強い意志を宿す瞳に彼女本来の気高さが垣間見えて、あの一瞬で彼女に心を奪われた。
愛とか恋とか。子ども心故にそんな俗物的な感情なんて一切ない。
ダンにとっては魂が震えるような、そんな出会いだった。
警戒する彼女をなんとか家に連れ帰り、それからずっと一緒に暮らしていた。幼い頃に両親を亡くしていたダンにとっては、ステラだけが家族で、友人で、大事な人だ。
だから、幸せになってほしいとずっと思っていた。
彼女が剣を振るう理由をダンは知っている。彼女の髪が白く光を弾くたびに、柔らかい皮膚が肉刺で硬くなるたびに、夜中にひとり声を殺して泣いている彼女を見かけるたびに、何度も、何度も、口をついて出そうになった言葉がある。
そのたびに飲み込んで、独りになろうとする彼女の手を掴んだ。
それが正しかったのか、ダンにはわからない。
ただその言葉を言えば、彼女がダンの元から去って独りになる事だけは分かっていた。
最期まで彼女の傍に居たい。
直ぐに独りになろうとする彼女の傍に自分がいることで、少しの間だけだとしても彼女が安らぎ安心できるならば、それでいい。
窓の外の彼女を見つめる。
こちらに気付かずに一心に剣を振る彼女は、あの頃と少しも変わらず、美しい。
部屋に香ばしい匂いが満ちる。
そろそろ出来上がった頃だろうかと重い腰を持ち上げてオーブンへと向かった。
美味しそうに焼き上がったパイに満足する。スープを温めなおして、パンをオーブンの残り火で少しだけ焼いたら完成だ。
声を張り上げてステラの名を呼ぶと、少し間が空いてひょっこりと彼女が窓から顔を出した。
「ステラ、出来たよ」
ダンは破顔すると彼女を部屋に手招いた。
夜も更けた深夜。
酒の進んだ夕食も終わり、そろそろ日付が変わる頃。とろりとした雰囲気の中、揺れる蝋燭の火が壁に影を作っては形を変えていく様を、酒を片手に二人でぼんやりと見ていた。
「……ステラ」
ふとダンが小さく呟く。
ステラはゆっくりと目の前の友人に視線を移す。酒に酔った友人がどこか遠くをみながら懐かしそうに目を細めている。蝋燭の灯りに照らされた友人は少しだけ大人びて見えた。
「ステラ、忘れないで」
ダンは自分が酷く酔っているのを自覚する。
「君はきっと近いうちに悲願を叶えるだろうから…これが僕達の最後になるかもしれない。だから伝えておきたいんだ」
いつの間にか今日が終わって明日になっている。もう誰にも彼女を止めることはできない。
「僕はずっと何があっても君の味方だ。僕のたった一人の友人で、家族で、大事なステラ。…君ならきっと君が望む未来を掴み取ることができるよ」
君の未来に祝福を。
今日何度目かの祝福を贈る。
ステラは瞼を伏せると、有り難うと呟いた。
翌朝。
ダンは一人、晴れた空を見上げる。
起きた時、すでにステラはいなかった。
ー…ステラは今でも、夢に見る。
国が焼けて死んでいくさまを。
国中に木霊する悲鳴と飛び交う怒号。夥しい数の足音と金属音。
上がる土煙、肌を刺す熱い空気。自分を抱えて走る、父の荒い呼吸と震えた手。
あの夜の情景を、今でも夢に見ている。