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「お前トロすぎんだろ。何だったらできんの?」
騒がしい朝の廊下を歩いていると、大きな笑い声と共に罵声が聞こえた。不快に思いながら振り返ると、そこには牛谷と金井戸君が向かい合うようにして立っている。牛谷は顔に笑顔を浮かべ、心底楽しそうに金井戸君の頭を小突いていた。金井戸君も笑っている。
嫌な気持ちでそれを見ていると、牛谷と目が合った。
「何?」
大声で威嚇される。
「それマジでやってんの?ダサすぎるんだけど」
叫び返すと、「うるさいカス!」とさらに返された。私はカッとなってまた言い返そうとするが、牛谷は足音を立て、すぐにその場から去っていく。金井戸君はこちらを気にしつつ、そのあとについていった。
まだ怒りが収まらない私は、頭の中で牛谷に対する悪口を並べ立てる。だがいつまでもそうしているわけにもいかなくて、しばらく経つと教室へ足を向けた。
六年二組と書かれたドアを開けると、いつも通りの光景が広がっている。生徒達はみんな、授業で黙っていなければならない時間分、今喋り倒そうとでもいうかのように、ワイワイと騒いでいた。
一直線に自分の席まで歩いて行こうとするが、途中で焦土に声をかけられる。
「秋ちゃん、おはよう。…何かあったの?」
「おはよう。何もないけど」
若干声に怒気を含みつつ、私は返す。
「また牛谷?」
「そう」
それだけ言うと私は机に鞄をかけ、席に着く。すぐ後で、担任が誰よりも元気に挨拶しながら教室に入ってきた。それを受けて、焦土は席に戻る。
元気良く朝の会が進行されるのを眺めながら、今日も授業が始まってしまう、と私の気持ちはさらに滅入った。
会が終了すると短い休憩を挟んで、一時間目に算数が行われる。私は鞄から机に教科書を移し、そのままの流れで算数に必要な道具も引っ張り出した。机上に置いて、授業が始まるのを、頬杖をつきながら待つ。
そしてようやく算数が始まるが、不思議なことに時間の進みが異様に遅い。私は何度も集中力を切らしつつ、時計を眺めた。
途中で担任が私達の眠気を覚まそうと、クラス全員に対して問題を出す。低学年の頃はまだみんな手を挙げて答えたものだが、六年生ともなると縮こまって誰も動かない。
そんな中で、後ろの方から声が聞こえた。ついそちらに耳を傾ける。
「お前いけよ。手挙げろって」
「でも分かんないから」
牛谷が近くの席の男の子に、手を挙げるよう促していた。男の子は迷惑そうだ。それでもまだ牛谷は絡み続ける。
「答えなくていいから、なんか面白いこと言えよ」
「無理だって」
担任は小声で言い争う二人の方を少し気にしていたが、誰も手を挙げないと分かると、自分で答えの解説を始めた。
「なんだよ、面白くねー」
牛谷はあからさまに悪態をつく。私含め会話が聞こえていた生徒は、居心地悪そうに顔をしかめていた。
授業が終了し短い休み時間に入ると、私は机に突っ伏した。まだ一時間目だというのに、もう疲労困憊だ。
そのまま目を閉じて考え事をしていると、またもや牛谷の声が耳に入り、私は神経を尖らせた。
「なあ、さっきの授業で出た宿題、難しくね?」
「え…うん、そうだね…」
今度は女の子を相手に、何かしようとしているようだ。私は顔を上げて、声のする方に目をやった。
「下北さ、この前のテストで算数いい点取ってたじゃん。俺の分もやってくれない?」
「え、なんでよ」
下北さんは嫌そうな顔をする。
「代わりに今度何かするからさ。今日だけ。マジで一生のお願い」
「…」
断りづらいのか、下北さんは沈黙していた。私は席を立ち、教室を出るついでに近くを通って呟く。
「自分でやればいいじゃん」
「はあ?」
牛谷は耳ざとく反応したが、私は止まらずに教室を出て、女子トイレに入る。何分か時間を潰して戻ると、もう牛谷は自分の席についていた。
何事もなく二時間目が始まる。その前に担任が、お知らせがあると、大声で私たちに呼びかけた。
「今度ある東西祭りで、舞を踊ってくれる生徒を募集してるんだけど、誰かやりたい人いますか?最終日の十七時からなんだけど」
私は前の席に座る彩の方を確認する。
彩は焦土と同じく入学当初からの友達で、女の子らしい女の子だ。小学校一年生の頃から東西市伝統の舞踊を習っていて、今年は一緒に祭りに出ようと話し合っていた。
彩がこちらを見て手を挙げたのを確認すると、私も思い切って手を挙げる。正直踊りは得意ではなく、参加の決断には勇気が必要だった。だけど友達と一緒に思い出を作るため、そんな年があっても良いじゃないかと開き直ってみた。
しかし後ろから響いた、「マジ?」という声に、私の威勢は急激に弱まる。牛谷だ。
「秋は踊り下手だし、やめといた方がいいだろ」
教室中に響き渡る声でそう言われ、私は恥ずかしさから手を下ろした。先ほどまで強気で牛谷にあれこれ言っていたにも関わらず、今になると何も言い返せなくて、情けない気持ちになる。
「そんなことないだろう。誰にだって舞を踊ることはできるぞ。秋、参加するんだろ?」
「…いえ、やっぱりいいです」
「本当にやらなくていいのか?」
「…いいです」
担任は何度も説得したが、結局私は参加を拒否した。それよりも恥ずかしさの方が勝っていたため、早く授業を始めてほしいとさえ思っていた。
彩には申し訳ないが、私には向いていない。そう言い訳をして、二時間目の間中、私は決して彩の方を見ずに、ずっと下を向いていた。
授業が終わるとすぐ、私の周りに人が集まってくる。彩と焦土だ。私は顔を上げることができない。
そうこうしているうちに担任まで机の前に来て、私に二言三言励ましの言葉をかける。流石に申し訳なかったため、私はいい加減前を向いて空元気を振りまいた。担任が教室を出ていくと、彩と焦土は慰めるように私に話す。
「秋、牛谷の言うことなんて気にしなくていいから。私、秋の踊り上手いと思うよ」
「そうだよ秋ちゃん。牛谷は言いすぎてる」
「…ありがとう。でも本当に、踊りは向いてないから。彩、一緒に出ようって言ってたのにごめんね」
「そんなのいいって。それに向いてないことなんて絶対ないから、気にしないで」
二人は懸命に私を励ましてくれた。嬉しいが、恥ずかしくて少し居心地が悪い。
「それにしてもあんなこと言うなんて、牛谷って本当最低。デリカシーがないって言うか。一回酷い目に遭えばいいのに」
彩は牛谷に対してまだ思うところがあるのか、過激なことを言い出した。
「酷い目って…先生に怒られるとか?」
「そんなんじゃなくてさ…うーん」
「あ」
突然焦土が一音、声を上げた。しかし「何?」と聞く間もなく、担任がまた教室に戻ってくる。
私達は慌てて席に着き、次の授業の準備を始めた。
担任が教壇につくと日直が号令をかけ、挨拶をする。緩やかに授業が始まるが、その間私は牛谷のことをチラチラと盗み見ていた。
また何か余計なことを言いやしないかと心配だったのだ。だが詳しく言うと、踊りのことを言われたのが想像以上に腹立たしく、言い返すタイミングを窺っていたという方が正しい。
その後も私は牛谷の様子を頻繁に確認したが、一度目が合ってからは、気にしていると思われることの方が腹立たしいと気づいてやめた。
それと同時に、黒板を眺め続ける時間も終わる。給食と昼休み、掃除を挟んで、ようやく一日が終了した。解き放たれたかのように騒ぎ始める同級生を見ながら、私は鞄に荷物を詰める。放課後になるとみんな一斉に教室から出ていくため、廊下から声が反響して、朝と同じくらい騒々しい。
最後から二番目くらいのタイミングを見計らって、私は教室を出た。下駄箱まで行き、他のものには目もくれず、自分の靴箱に急ぐ。
「何か急いでるね」
声が聞こえて振り向くと、焦土が立っていた。
「まだ帰ってなかったの?彩は?」
「さあ?先に帰っちゃった」
焦土も靴を履き替えて、そのままの流れで二人一緒に学校を出る。並んで歩道を歩いた。
「秋ちゃんは今日何か予定があるの?」
「ないよ。早く帰りたいから急いでただけ」
「そう」
焦土は興味があるのかないのか、視線を上にしながら言った。
少し進むと、途中で東西神社を通りがかる。住宅やコンビニが並ぶ道に、突然石畳と赤い鳥居が顔を出していて、そこだけ雰囲気が違って見えた。
二人して横目で眺めつつ、通り過ぎていく。奥からは威勢の良い声が聞こえてきた。
神社は縦に長い敷地のため、毎年お祭りの際は石造りの道に沿って縁日が行われる。東西祭りはもうすぐだ。今はその準備だろう。
「秋ちゃんは本当に、最終日にある舞を踊らなくてよかったの?」
神社の近くに来たからなのか、焦土は思い出しかのように舞の話題を出した。私がそれに「うん」と答えると、彼はこちらを見やりながら話を続ける。
「えー、でも俺、秋ちゃんの踊り見たかったな」
「どうせ変だよ。踊りは得意じゃないし。…嫌いだし」
「それでも見たかったな」
「変だと思うよ」
「変でも見たいんだよ」
「なんで?」
「なんでだろうね?」
焦土は黙って、私を見つめた。見つめ返すと、やがて彼は笑いながら目を逸らす。こちらが聞いているのに、聞き返される意味が分からない。これ以上馬鹿みたいな問答を繰り返すのは不快で、話を変えた。
「それよりさ、あの舞ってちょっと不気味だよね。怖い噂も流れてるし」
「ああ、まがり様の怪談でしょ?」
「そう。昔神社の裏山で首を吊った人が苦しんでもがいて、首が伸びて曲がっちゃったっていう」
「そのまま生き続けて、それがまがり様になったんだよね。町まで降りてきて巫女に倒されたけど、その恨みで今も彷徨ってるとか。舞で丸い人形を囲って踊るけど、あれがまがり様の首を表してるらしいね。噂じゃ、まがり様の怒りを鎮めるために、神社が建てられたとも言われてるし」
「怖…。それ本当の話なのかな?誰かが橘さんに聞いたって言ってたけど」
「どうだろうね。でも橘さんが言ってたなら本当かもね」
町内会の会長である橘さんはこの近所に住んでいて、東西市に関することを長ったらしく話してくれることで有名なおじさんだ。よく通学路で見かけたし、見守り隊という変なタスキをかけて、朝は挨拶してくれる。
橘さんの近くに住んでいる子なんかは頻繁に交流があるらしく、面白い話を教えてもらうと、それはすぐに東西小に広まった。私はあまり話したことがないが、橘さんのことはよく知っている。焦土はどうだろうか。
「焦土の家って、橘さん家の近くだっけ?」
「いいや。秋ちゃんの家も近くではないよね」
「うん。…そういえば私、焦土の家って遊びに行ったことないな。帰り道は途中まで一緒なのに」
「確かにそうだね」
「いつか遊びに行ってもいい?」
「…秋ちゃんや彩ちゃんの家で遊ぶ方が楽しいじゃん」
「ダメなんだ」
「…」
「…焦土の家って大きいんでしょ?」
「そうかな」
「みんな話してたよ。お金持ちだって」
「別にお金持ちではないよ」
「でも遊びに行くのはいいじゃん」
「そういえば牛谷のことだけど」
力技で話を変えられた。遊びに行けないのなら、無理強いしても仕方がない。これ以上話をするのは無駄だと、私は強引に焦土との会話を終わらせようとする。もうお互いの家に帰るための分かれ道が近かった。
「牛谷のことは聞きたくないからいい。それより焦土、今日はありがとう」
「…何が?」
「色々。彩にもお礼言わなきゃな」
「秋ちゃんは律儀だね」
「そうでもないよ。逆に焦土は律儀とは言えないよね。いつもみんなのこと適当にあしらってない?」
「え、そんなことないよ」
「すぐ嘘つくよね」
「そんなことないよ」
「でも一緒にいて楽しいから、そういうところ好きだよ。とにかく今日はありがとう」
「…」
焦土はしばらく私の顔を見た後、表情を隠すように下を向いた。丁度T字路の分かれ道に差し掛かる。私は左、焦土は右だ。
私は焦土に声をかけて道を曲がるが、彼は何も言わず立ち止まっていた。埒が開かないため焦土を無視して、私は家への道を進んだ。
翌日、教室に入って席に着くと、彩がソワソワと辺りを見回しながら私の前まで来た。
「彩、おはよう。昨日はありがとうね」
「え?いいってそんなこと。秋の元気が出たならよかったよ」
言いながらも、彩はなんだか落ち着きがない。
「どうしたの?」
「あ、えっと、焦土君のこと見なかった?」
「焦土?」
言われて、私も彩と一緒に教室の中を見回してみる。いつもなら焦土を見かける時間だったが、いないようだ。
「私が来る途中では見かけなかったよ。教室にもまだいないね」
「そ、そうだね」
「…何かあるの?」
「えっと、誘おうと思って…ほら、土日に。でもそっか、見てないならいいよ。それより算数の宿題だけど…」
彩は明らかに、今週の土日にある東西祭りについて話したそうだった。だが私に対する変な気遣いと照れ屋な性質からか、発言がちぐはぐになっている。そんな彼女が微笑ましくて、私は彩に話の先を促した。
「東西祭りに焦土を誘いたんだ?」
「…うん。あ、もちろん秋も一緒だよ?」
「ありがとう。でも最終日は私、家族と回るから」
「そっか」
「なんの話?」
すぐ横から焦土の声がした。見ると、鞄を持ったままそこに立っている。
普段は彩がいの一番に彼に挨拶するが、今日は緊張しているのか何も言わない。代わりに私が声をかけた。
「焦土、おはよう。東西祭りの話だよ」
「朝から怪談話?」
「え、いや、そうじゃなくて、誰と一緒に行くかっていう…」
「あ!東西神社の怪談!二人はもう聞いた?私知ってるんだけど」
突然彩は大声で、怪談話について喋り出した。何かを誤魔化すように流暢に話す。焦土を祭りに誘うのではなかったのかと私は困惑するが、結果的に良かったかもしれない。焦土はこの話題に食いついた。
「彩ちゃんも知ってるんだ?」
「うん。みんなそればっかり話してるもん」
「秋ちゃんは怪談、詳しく知ってる?」
「詳しく?」
昨日焦土とは怪談の話をしたにも関わらず、彼はまた私に話を振った。
「私知ってるよ!知ってる!祠のやつだよね?」
「うん」
「祠って?」
彩の言葉に、疑問を抱く。祠に関する怪談があるみたいな口ぶりだ。気になってきた。
「あのね、東西神社の裏に古い祠があるんだって」
「裏に?神社とは関係なく?」
「そう。神社にはちゃんとあるから、その祠はもう使われてないの。裏側にあるから見えないし、誰もお参りになんて行かない」
「それがどうしたの?」
「お祭りの最終日、舞が踊られてる最中にその祠に行って目の前に立つと、まがり様みたいに首が曲がって死ぬんだって」
「えー、本当に!?怖!」
思わず大きな声でそう言うと、教室が一気に静まり返った。びっくりして私は周囲を見る。先ほどまでみんなうるさく喋り散らかしていたのに、こういう時に限って声は聞こえない。クラスメイトの視線が私達に集まっている気がして、恥ずかしかった。
「それまがり様の怖い話だろ?」
デカい声が聞こえて目をやると、牛谷が席を立ってそう言っていた。
「誰かさ、祭りで舞やってる時に、怪談通りに祠の前に立って見ろよ。肝試ししようぜ」
牛谷は言うが、誰も反応しない。
「誰かやる奴いない?てかみんなでやってみようぜ」
教室内はより一層、静まり返る。牛谷はみんなが何も言わないことに腹を立てたのか、「つまんな」と口にすると、金井戸君を呼びつけ、そのまま教室を出ていった。廊下に足音が響く。その音が遠のくと、今度は焦土が声を発した。
「今の案、いいと思わない?」
みんな、特に女子達が、その声に反応した。「どういうこと?」と生徒の一人が聞く。
「みんなで肝試しに行くふりして、牛谷を祠の前に置いていこうよ。いつも横暴だし、ちょっとくらい脅かしてもバチは当たらない。どうみんな?やらない?やる人手挙げて」
そう言うと、みんなは一斉に手を挙げた。そして口々に、牛谷は自分勝手だとか迷惑してるとか、そういった声が飛び交った。
「秋ちゃんと彩ちゃんはどう?」
焦土は振り返って聞く。彩は「私もやる」と答えた。
「秋ちゃんは?」
「え…」
「ちょっと脅かすだけだよ。祠の前に行かなくても、山の入り口付近で置いていけばいいし。どうせ帰って来れるよ。秋ちゃんも参加するでしょ?」
「…うん」
そう答えてしまった。躊躇ったが、牛谷に踊りが下手だと言われたことをまだ根に持っていたし、脅かして、怖い目に遭えば良いという気持ちも少しはあった。そんな邪な思いで、私はみんなと同じく、焦土の意見に同意してしまったのだ。
その日のクラスは一日中、浮き足立っていた。もれなく私もそうで、放課後になってもなんとなく落ち着かない。
だが彩はもっと地に足つかない心地のようだ。牛谷の件もあるが、それ以上に焦土のことで頭がいっぱいらしい。教室を出て家に帰る生徒を気にもかけず、彩は焦土に、一緒に帰ろうという旨の誘いをしていた。
それを見て私はさっさと廊下に出る。図書室で時間を潰して学校を出ようと考えていた。ところがそこで、誰かに声をかけられる。
振り返ると意外にも牛谷が立っていた。肝試しのこともあり少し気まずい。何か嫌味を言われるのだろうかと身構えたが、違う話だった。
「…あのさ、秋は東西祭りに行くのか?」
「…肝試しは行かないよ」
「それはもういいんだよ。普通に行くのかって話」
「まあ」
「誰と?」
「え?」
「彩とか焦土と行くのか?」
「いや、まあ…決めてないけど」
「じゃあ…」
「…」
言葉を待つが、牛谷は何も言わない。「じゃあ」の後に続く言葉は限られる。私は眉根を寄せて様子を窺うが、相変わらず牛谷は何も言わなかった。痺れを切らして先を促す。
「何?」
「いや、別に」
「はっきり言ってよ」
「何もないって」
それだけ言うと、牛谷は駆けていった。
牛谷のことは嫌いだったが、なぜか今は胸が痛む。先生に叱られながら廊下を走っていく牛谷の姿を見送ると、私は下駄箱まで歩いていった。
靴を履き替え、正門を出る。一人で牛谷について考えながら歩いていると、後ろから「秋ちゃん」と声をかけられた。
立ち止まると、隣に焦土が現れ、私と並ぶ。驚いて彼の顔を見た。
「彩は?」
「分かんない」
分かんないはずがなかったが、焦土はそれだけ言うと、早く行こうと言うように歩き出した。私もそれに釣られて前に進む。
「あのさ焦土、牛谷のことだけど…」
「ああ、肝試し?」
「…やっぱりやるの?」
「うん。みんな牛谷には呆れてる。秋ちゃんだって色々言われて、嫌な思いしたでしょ?」
「そうだけど…」
「家に、東西市に関する古い資料があるらしいんだ。もしかしたら神社とかまがり様についても書いてるかもしれないから、調べてみようと思って」
「え、そこまでするの?」
「あはは。俺が気になるから、ちょっと調べるだけだよ。牛谷に関しては、本当に脅かすだけ。まあ何か分かれば、試してみてもいいけど」
「え」
焦土の方を見る。いつものようにニコニコしていた。
「嘘だよね?」
「どうだろう」
「…焦土ってさ、どうしようもないよね」
「え、ごめん」
不意に口をついて言葉が出る。焦土はショックを受けたように俯いた。それが意外で、私は急いで言葉を足す。
「あ、いい意味でだよ?」
「…」
「…焦土はさ、誰と一緒にお祭りに行くの?」
「決めてない」
「え、嘘」
「うん嘘。秋ちゃんは誰と行くの?牛谷と?」
「え?」
「誘われてたよね?正確には違うけど、どうするのかなって」
「…」
あの時、廊下には誰もいなかった。遠くに先生が見えたくらいで、それ以外には私と牛谷の他に見かけなかった。そう思っていたが、私が気づかなかっただけで、焦土もどこかにいたのだろうか。
「…誘われてないから。牛谷とは行かないけど…」
「誘われてたら行ったの?」
「さあ…」
「…」
「…焦土は誰かに誘われてないの?」
「誘われてないよ」
「え?でも」
「彩ちゃんにってこと?」
「…彩と一緒に行かないの?」
「うん」
「なんで?」
「なんでだろうね?」
焦土は答える気がないのか、私を少し見て目を伏せた。東西神社を通り過ぎていく。
「秋ちゃんも決まってないなら、俺と行かない?」
「…なんで?」
「なんでだと思う?」
「こっちが聞いてるのに聞くんだ…」
「俺とは行きたくない?」
「そうじゃないけど」
「じゃあ行きたいってことだよね」
「そうはならないでしょ」
「俺はそう受け止めるけど」
意味のない問答をしているうちに、分かれ道に差し掛かった。安堵する。私は自分の意思を曖昧にしたまま、「バイバイ」と言い、左に曲がろうとした。だがそこで焦土に手を掴まれる。
「え、何」
「今どっちか聞きたいんだけど」
「…なんで?彩は?」
「そんなに彩ちゃんと行ってほしいの?」
「うん」
正直に告げると、焦土はムッとした顔になる。私はジリジリと左側の道に移動するが、手は自由にならないままだ。
「じゃあ、また明日ね」
強引に話を終わらせて、手を前に引く。しかし離せという意思は伝わらなかったのか、手首は掴まれたままで、焦土も動かない。段々と腹が立ってくる。
「もう帰るから」
「行くか行かないかだけ聞かせて」
「行かない」
「…」
「焦土と彩と私の三人で行こう」
「…」
「じゃあ来年、二人で行こう」
「秋ちゃんは俺が嫌いなの?」
「好きだよ」
焦土は目を見開いて私を見た。ようやく手を離す。しばらくどちらも動かなかったが、私はまた小さく別れの挨拶をすると、左の道に進んでいった。
翌日の放課後、牛谷が帰ったことを確認し、みんなで教室の真ん中に集まった。金井戸君も一緒だ。中心に立つ焦土は、明日の東西祭りで行う肝試しについての詳細を話し始めた。
まず肝試しだと嘘をついて、牛谷を呼び出すとこらから作戦は始まる。その後、舞が開始されたのを確認し、みんなで神社の裏手へ歩いていく。山の麓まで来ると少し先まで入り、そこで牛谷を置き去りにする計画だ。
祠は神社の裏側だが、そこまで行くには山の斜面を通り、遠回りをする必要がある。流石に深くまで入ると戻ってこられない可能性があるため、それは避けようという話になった。
彩は伝統の舞に参加するため肝試しに来ることはできないが、舞の開始を知らせる役割を担う。終わったら牛谷の様子を教えてくれと頼まれた。
「もしも何か起こっても、責任は俺が負うから。何かあった時は、みんなは絶対に、肝試しに行ったことは黙ってて。何も言わないでね」
最後に焦土は、念を押すようにこの言葉を繰り返した。
話が終わると、みんな一斉に教室から出ていく。この時のクラスの団結力は、放置した砂糖ぐらい強固なものだった。それだけ牛谷に対する不満が溜まっていたということなのだろうが、私は先日の牛谷とのやり取りから、この計画に乗りきれずにいた。近くを通った焦土を呼び止める。
「あのさ、焦土。本当にやるの?」
「うん。不安なの?」
「…」
「本当に、少し脅かすだけだから大丈夫だよ」
焦土はそう言って微笑んだ。
祭りの最終日、私達は彩からの連絡をもらい、肝試しをスタートした。一塊になって進んでいく。
私の緊張した気持ちとは裏腹に、縁日からはいろんな人の楽しそうな声が響いてきた。舞が踊られ、鈴や太鼓の音が聞こえる中、私たちの周りには異様な雰囲気が漂う。クラスメイト達は興奮した様子で、しきりに何かを囁き合っていた。
肝心の牛谷はというと、人一倍楽しげで、大きな声を出し、祠など怖くないと見栄を張っている。その様子を見て、私は俯いた。
「秋ちゃん」
急に耳元で囁かれ、飛び跳ねる。焦土が笑っていた。
「そんなにびっくりしなくても」
「何?」
「いや、牛谷を山に置いてきた後のことだけど」
「…」
「俺だけ戻ろうと思うんだ」
「え?」
「山の麓とはいえ、何かあったら嫌でしょ?だから俺が牛谷を連れて戻るよ。置いてけぼりにして、びっくりさせられればそれでいいし。みんなの気も晴れるでしょ。それ以上の目には遭ってほしくないから」
「…そうだね」
安心して言うと、焦土はまた笑った。
「でも二人じゃ危なくない?私も行くよ」
「いいよ。秋ちゃんが危ない目に遭うかもしれないじゃん。俺が行くから、秋ちゃんはみんなと待ってて。絶対に」
焦土は私の目を見てそう言った。だが私はすぐにその視線を避ける。
もうすぐそこは森だ。木々がひしめき合い、鬱蒼としている。不気味で暗い。
「本当に行くの?」と誰かが言った。それに牛谷が反応する。
「当たり前じゃん。ビビってんの?」
「牛谷、そんなに言うなら、牛谷が先頭で行ってよ」
「は?」
「ほら、早く行こう」
焦土が急かすと、牛谷は一瞬顔を強張らせたが、結局は強がって前を進んだ。
道もない場所を、みんなで並んで歩いていく。木々に邪魔され、通り道は狭いため、必然的に私達は一列か二列になって歩いた。
そして事前の計画通り、少し進んだところで立ち止まる。牛谷はそれ以上進もうとしない私達を振り返って馬鹿にしたが、一人の生徒が急に彼を突き飛ばした。
息を呑む。やりすぎだと思ったが、誰も止めない。私自身も。
牛谷は地面に尻をついて呻く。それから徐々に顔を歪ませ、憤慨した。突き飛ばした相手に対し、暴言を浴びせかける。それを誰かが、「うるさい!」と一喝した。牛谷は目を丸くして驚く。
「調子に乗りすぎなんだよ。いつもいつも、みんなに迷惑かけて、自分のことしか考えてなくて」
「下北ちゃんに宿題やらせようとしてたよね」
「秋のことも馬鹿にしたし」
「金井戸君のことも、いつもこき使ってる」
「自分がされて嫌なことは人にしちゃダメだって、幼稚園で習わなかったの」
みんなは口々に、牛谷に対する不満をぶちまけた。
「そんなんだから、こういう目に遭うんだよ。反省しなよ牛谷!行こうみんな!」
最後にそう言ったのは、驚くべきことに金井戸君だった。みんなはそれに同調すると踵を返し、山を降りていく。牛谷はただ呆然として、地面に手をついたまま私たちことを眺めていた。
「行こう、秋ちゃん」
焦土に言われ、私も引っ張っていかれる。
数分歩くと、すぐに山を出た。祭りの音が近くに聞こえる。みんなはそのまま、牛谷の驚いた様子を語ったり、金井戸君を称賛したりしてそれぞれ散っていく。興奮冷めやらずに感想を言い合うクラスメイト達を見て、私は沈んだ気持ちになった。
「秋ちゃん、彩ちゃんのところに行って待ってて」
「…うん」
「絶対明るいところにいてね。ついてきちゃダメだよ」
「うん。あのさ」
「何?」
「牛谷、大丈夫かな」
「…」
焦土は私とすれ違い、山に戻っていった。
それから祭りが終わるまで、ずっと焦土のことを待っていたが、彼が戻ってくることはなかった。私はただ放心し、彩は大泣きしていた。その後で迎えに来た親により、私達は強引に、家に連れ帰られた。
しばらくはご飯も喉を通らないほどの精神状態だったが、やがて焦土が見つかったという連絡があり、心底安心したのを覚えている。
しかし何日経っても牛谷が学校に登校することはなかった。担任によって彼が行方不明だと告げられた時、みんな一様に暗い顔をして、下を向いていた。
それから焦土は肝試しの後の一連の出来事を、こう説明した。
牛谷を連れて戻ろうとしたが、嵌められたことが悔しかったのか、戻ることが恥ずかしかったのか、意地になって彼は話を聞いてくれなかった。説得しても戻らないと言い張り、山の奥に進んでいってしまったらしい。心配になって夜まで探したが見つからず、今に至るそうだ。
経緯を説明し終えると、焦土は牛谷がいなくなったことに対する責任を取ると言った。
昨夜牛谷と一緒に山に入ったのは自分だけ。みんなは祭りを楽しんでいて何も知らず、肝試しにも行っていなければ、牛谷のことも知らない。そういうことにしようと言い出した。誰も焦土を責めなかったし、彼の提案に反対もしなかった。むしろ感謝すらしていた。励ましさえした。
その後焦土はクラスを代表して先生や警察に経緯を語ったが、それ以外は誰一人として、肝試しについては話さなかった。
「ずっと後悔してる」
母は言うと、それから口を閉ざした。食卓はなんとも言えない空気に包まれる。
「焦土…」
話にその人物が出た途端、血の気が引いた。夢で聞いた名前だ。
手を引かれていたのは恐らく牛谷君で、焦土君が彼を祠の前まで連れていったのだろう。そして牛谷君は亡くなった。いとも簡単にそんな憶測が組み上がって、私は恐怖する。
母は多分、このことを知らない。私も言うつもりはないが、なぜ焦土君は牛谷君を殺したのだろう。
それに牛谷君の記憶を追体験するように、私があの恐ろしい夢を見た理由も分からない。ただ一つ思い浮かぶのは、牛谷君の無念が私に見せたなんらかのメッセージ、という短絡的な考えだ。
もしかすると、これまで私が怯えていたものはまがり様の呪いではなく、牛谷君の呪いなのかもしれない。だがそう考えると、辻褄の合わないことも多々出てくる。
そもそも私が東西小学校の旧校舎で見たのは、首の曲がった女の子だ。牛谷君とは違う。
では私が今恐怖しているのは何に対してなのか。ますます分からなくなる。
一人で悶々と考えていると、佐野さんが口を開いた。
「あの、秋子さんの話は分かったんですけど、隣室で亡くなったのは?」
そう言われて、私も気がつく。確かに話の中に、アパートという単語は一切出てこなかった。母を窺うと、顔に汗を浮かべ、言いづらそうにしている。
「お母さん?」
「…ん?うん、大丈夫よ。えっと、アパートよね。牛谷がいなくなってから一年後に、神社は取り壊されたの。そのまた一年後にこのアパートが建って、私が二十三歳の時に入居した」
「え…なんで…」
「色々と事情があったのよ」
母はじっと、テーブルに置いた自分の手を見ていた。その手は忙しなく動いている。
祠の存在するこのアパートに、母がなぜ住み続けるのかは分からない。金銭的に引越しが厳しいこともあるが、そもそもどうしてここに入居したのだろう。同級生がいなくなったこの場所に。
「…もしかして、隣室で亡くなったのは焦土さんですか?」
佐野さんが聞くと、母はまた押し黙り、それから答えた。
「そう」
「え…」
母は私に向かって真剣な目でそう言うと、時計を確認した。
「遅いけど、焦土のことについても話しておきましょうか」
私は佐野さんと水面さんの方を見た。焦土君、いや焦土さんがどうなってしまったのかは気になるが、もう時刻は二十二時を回ろうとしている。迷った結果、私は二人に先に帰ってもらうことにした。これ以上遅くまで付き合ってもらうのは申し訳ない。
それを告げると水面さんはすぐに頷いたが、佐野さんは食い下がった。ここまできたら最後まで話を聞きたいらしい。
だが夜が更けてきたのも事実だ。私が後日焦土さんについて伝えることを約束すると、ようやく彼は納得した。
話がまとまったところで、私達は席を立ち動き出す。母は佐野さんと水面さんを車で送っていくため、二人を呼び寄せた。私は不安げにその様子を見つめる。すると母は小声で、私の名前を呼んだ。
「ごめん、お皿洗い頼んでもいい?お母さん先に孝二君と水面ちゃんを送ってくるから」
「うん、分かった」
言ったものの、心配で仕方がない。母の顔色が悪くなっているのだ。「ねえ、大丈夫?」と声をかけるが、母は「大丈夫」と絞り出して、ただ笑っていた。不安は拭いきれないが、ここで母に執着していても何にもならない。私は渋々と母の背中に手をやりながら、見送りのために玄関へ向かった。
狭い廊下で三人の後ろ姿を眺める。すると佐野さんは自然に母と水面さんを先に外へ出し、最後尾になったところで私に声をかけた。
「雅ちゃん、秋子さんの話、俺にも絶対聞かせてね」
「分かりました。あの、佐野さん」
「うん?」
「明日、旧校舎にお札を取りに行こうと思うんです。…一緒に行ってくれませんか」
母に聞こえないように声を落とす。迷惑だろうということは重々承知で頼み込んだ。
「…あの、無理ですかね…」
「いいよ。じゃあまた明日、旧校舎に集合で」
佐野さんはあっさりそう答えると外へ出た。私は拍子抜けする。玄関扉が閉まるのを見ながら、こっそりと胸を撫で下ろした。
そしてしばらくその場に留まった後、居間に戻ろうと踵を返すが、突然また玄関の扉が開いたため、驚いて振り返る。
「…水面さん?」
玄関の隙間から顔を出していたのは、水面さんだった。すぐに彼女の近くまで駆け寄る。
「どうしたんですか?」
「雅、あんた明日旧校舎に行くんでしょ」
「え?えっと…」
「隠さなくていいわよ。これ、お守り」
「え」
水面さんは手を差し出し、私に向けた。受け取って見ると、そこには人の形をした布の塊がある。
「これは…?」
「だからお守り。気休めにしかならないけど、持ってないよりはマシでしょ?」
「作ってくれたんですか」
「まさか。…気をつけてね」
「水面さん!ありがとうございます!」
近所迷惑も考えずに大声で叫んで、彼女の手を掴む。何度もお礼を言いながら、その手を上下に振った。
それを水面さんは「鬱陶しいな」と一蹴して振り払うと、すぐに扉を閉めて出ていってしまう。相変わらず冷たかったが、優しいところもあるようだ。なんとなく彼女の態度が照れ隠しに思えて、私は玄関で一人、微笑んだ。
それからしばらくは水面さんのおかげで、なんとか落ち着きを保っていられた。だがそれも五分と経たずに効果が薄れてくる。母に頼まれて留守番を引き受けたのは良いが、このアパートに一人でいるのはだいぶキツイ。次第に恐怖心が蘇ってきて、私は急いで家事を終わらせると、布団にくるまって母を待った。
この歳にもなって恥ずかしいことだが、今日は母がそばにいてくれなければ、風呂にも入れないかもしれない。
壁を背にして耐えているうちに、玄関から音がした。まがり様かと思い体を強張らせるが、姿を見せたのは母だった。
「…何やってるの?」
不思議そうな顔をして聞く母を見て、私は安堵する。立ち上がってそばに行くが、そこで違和感に気づいた。様子が変だ。顔色はより一層悪くなり、呼吸も少し荒い。
「お母さん、洗濯も私がやっておくから、今日はもう寝なよ。酷い顔だよ」
「え、でも…」
「いいから横になって。今布団敷くから」
「でも、焦土のことは?」
「気になるけど、また今度聞くことにする。具合悪そうなのに、無理矢理話なんてさせられないし」
「…」
強引に母を説き伏せ、布団を準備する。母はまだ渋っていたが、私が強い口調で休むことを勧めると、ようやく首を縦に振った。
母が風呂に入っている間に、怯えながら戸締りを確認する。私は早朝に風呂に入ることを決め、着替えを先に済ませた。
やがて母が布団に入ったのを見てから、襖を閉める。「今日は私、遅くまで起きてる予定だけど、気にしないで寝ててね」と断ると、母は頷いた。流石に人が寝ている部屋の電気をつけっぱなしにすることはできなかったため、私は居間に移る。テレビをつけて音量を下げた。
携帯を見つめながら時間を潰す。意外と、朝まで寝ないというのは難しいことかもしれない。普段であればできたのだろうが、まがり様のことを考え始めると怖くて、意識を失った方がマシだと思えてくるのだ。
一人体を揺すりながら日が昇るのを待っていると、突然手の中で携帯が振動した。着信通知だ。画面を見るとそこには、「佐野さん」の文字が浮かんでいる。慌てて携帯を操作し、耳元に持っていった。母以外の人から電話がかかってくるなんて初めてで、緊張して手が震える。
「もしもし…?」
「あ、雅ちゃん。今日はありがとね」
「え、いえ、お礼を言うのは私の方ですよ。今日は本当にありがとうございました。明日もお世話になりますし」
「いいよ」
「それであの、なんの用ですか?」
「え?」
「え?何か用事があってかけてきたんですね?」
「別に用事というほどのこともないけど。友達に電話するのに、用事なんてなくてもいいじゃん。ただ喋りたかっただけ」
「友達になってくれるんですか」
「それはもちろん」
「ありがとうございます」
「どういたしまして。てかやっぱり、雅ちゃんは今日、一日中起きてるつもりなの?」
「はい」
「そっか。なら丁度よかった。俺も遅くまで起きてるつもりだし、このまま通話繋いどこうよ」
「…いいんですか」
「いいよ」
「ありがとうございます」
恐らく気を使って電話をかけてきてくれたであろう佐野さんに、私は感涙する。申し訳なさも畏敬の念も感じたが、この優しさに甘えない手はない。これで幾分か恐怖心もマシになる。私は長い夜を、佐野さんと話しながら過ごすことに決めた。
洗面所で髪を乾かして歯を磨く。いつものように髪の毛を結ぶと、私は家を出た。
まだ真昼間で日が眩しい。暑さが残り、少し歩くだけでも汗が滲んだ。
通りは明るく、恐怖は微塵も感じない。日に守られている気さえして、私はこの瞬間、太陽がいろんな宗教で崇められる理由が分かったような気がした。
旧校舎に着いたのは十三時の五分前だ。建物に近づくとすぐに、見知った黄色髪を見つける。
「佐野さん」
声をかけると、彼は笑って手を振った。
「今日はすみません。よろしくお願いします」
「うん。じゃあ行こうか」
佐野さんは慣れた手つきで窓を開けると、旧校舎の中に侵入した。内側から鍵を開けてくれる。
室内はやはり蒸し暑い。熱気を帯びた空気が、奥に進むたび肌に当たった。
「…橘さんの話じゃ確か、旧校舎に寄贈されたのは紙のお札だったよね」
隣を歩く佐野さんが言う。
「はい。後に届けられた方が木札で、アパートにあったものだと思います。この前見た通り、三階の奥の教室ですね」
私達は寄り道をせず、一直線に三階へと向かった。
私にとってはもう三度目になる景色を見ながら階段を上っていると、ふと佐野さんに断っておくべきことを思い出した。
「あの、佐野さん。事前に言っておきたいことがあるんですが」
「何?」
「前にここに来た時、まがり様を見たって言ったじゃないですか。またあの時みたいなことが起こったら私、佐野さんに何かするかもしれません」
「…何かってなに?」
「端的に言えば恐怖のあまり、佐野さんの腕をへし折る可能性があります」
「え、やめてよ」
「何かあったら逃げてくださいね」
「雅ちゃんから逃げるの?」
「どっちともから逃げてください」
「…」
ふざけたことを言いながらも、またまがり様と目が合ってしまったらと考え、不安になる。
だが前に佐野さんと旧校舎を訪れた時とは違い、今は昼間だ。明るさは精神を正常に保ってくれる。
以前は完全に、来る時間帯を間違えていた。暗いということ自体が脅威となり、私に幻を見せたのだ。それに必ずしも、まがり様に遭遇するとは限らない。今日は大丈夫。
私は水面さんからもらったお守りを手に、そう思い込むことによって、なんとか自分を奮い立たせた。そうでもしないとここに立っていられない。
やがて目的の教室に着くと、私達は中に入り額縁の前に立つ。手に取って裏返すと、そこには変わらず木札があった。
それを掴んで、サッと額を戻す。すぐにでもここから立ち去ろうと振り返ったが、ほんの僅かに誰かの視線を感じ、周囲を見渡した。
何もない。何もないはずなのに、視界の端、廊下の隅、あらゆるところから視線を感じ、寒気がした。
とにかく早く教室から出たい。そう思い佐野さんの方を見るが、彼はまだ額を眺めていた。
「佐野さん?何かあるんですか?」
「いや…」
「早く行きましょう」
「そうだね」
佐野さんと一緒に来た道を戻る。木札を持っていることから私の気持ちは逸り、自然と進むスピードが増していった。
階段をできるだけ早く降りる。何があるわけでもないのに、なぜか終始誰かに監視されているような、変な感じがした。
玄関まで戻ってくると、佐野さんを一瞥することもなく、私は扉に近づいた。勢いよく前に押すが、少し進んだきりガチャっと音を立て、扉は止まる。
すんなり開くと思っていただけに、扉に激突しそうになった。手元を見る。鍵は取っ手のすぐ下についており、こちら側から摘みを回して開ける仕組みだ。焦るあまり、私は鍵がかかったまま扉を開けようとしていたのかもしれない。急いで摘みを回して、また扉を押した。しかし今度もまったく同じ目に遭う。
そうかと気がついて次は引いてみたが、扉はガチャガチャと音を立てるだけで一向に開かない。焦って何度も摘みを回し、ドアを押したり引いたりしたが、やはり開く気配がなかった。なぜ開かないのかと、段々苛立ちの方が勝ってくる。
だが一旦落ち着いて手を止めた。じっと扉の隙間を覗いてみる。普通、鍵を閉めた時に扉から伸びるはずの突起がない。つまり今、鍵はかかっていない。では開くはずだと、もう一度ゆっくりドアを押した。ガチャっという音と共に足止めされる。引いてみる。ドアは開かない。
私は凄い勢いで佐野さんの方を振り返った。
鍵はかかっていないのに、玄関の扉が開かない。この異常事態でまだ取り乱さずにいられたのは、閉じ込められたのが私一人ではなく、佐野さんと一緒だったからだ。早く彼に意見を求めようと口を開く。だが何も言えなかった。
振り返った先、まっすぐ続く廊下のどこにも、佐野さんはいなかった。
一瞬間で、私の恐怖は限界に達する。先ほどまでいた人物が突然消えた。旧校舎で一人きりになった。しかも扉は開かない。
そのすべてが、簡単に私をパニックに陥れた。何よりこの場所に一人でいるという事態が一番恐ろしい。孤立無援の状況で立ちすくむ。
「佐野さん!?」
叫んでも返事はない。
再び扉に手をかけるが、一度静まり返った空間にまた音を響かせることが怖くて、何もできなかった。ここから動いて佐野さんを探すことも、足がすくんでできそうにない。
「佐野さん…!」
なんとか自分を鼓舞し、すり足で、本当に少しずつ移動する。涙目になりながら、一番近くの教室を恐る恐る覗いてみた。誰もいない。
「…佐野さん!佐野さん!」
もうどうしようもなくなって、私は突然、一心不乱に佐野さんの名前を叫んだ。動けない。
窓枠に手をついてしゃがみ込もうとした時、突如として、誰かに腕を掴まれた。
思わず悲鳴をあげて振り払おうとするが、「雅ちゃん、俺だから」という声に我に返る。
「佐野さん!?」
顔を上げて彼を確認しようとする。だがそれは叶わなかった。なんの前触れもなく、急に手を強く、前に引っ張られたのだ。思わずつんのめる。
「あ、ごめん」
佐野さんは謝るが、そのまま止まることなく前進していく。転けそうなところをなんとか耐えた私は、言葉を発する間もなく、引きずられるようにして彼についていった。
「佐野さん、どこに行くんですか?玄関は鍵が閉まってて…」
「こっち」
それだけ言うと、佐野さんは黙ってしまった。言いようのない不安が私の中に流れ出す。
早く佐野さんの顔を見たい。ようやく足取りがしっかりしてきたところでまた、私は顔を上げようとした。
「顔あげないで」
「…え」
何も言い返すことができない。なぜ顔を上げてはいけないのか。なぜ急に佐野さんは消え、戻ってきたのか。なぜ玄関は開かないのか。分からない。分からないことが怖かった。
「…本当に佐野さんなんですか…?」
「…」
ふっと息の漏れるような音がした。多分笑っている。
「何それ。ちゃんと俺だよ」
「…」
「大丈夫だから」
それ以上何も言えず、黙って私は手を引かれていく。
思っていたよりも手首は強く掴まれていて、そう簡単に拘束を解くことはできそうにない。五秒に一回くらいの頻度で、私は佐野さんの手を振り解きたい衝動に駆られたが、なんとか堪えた。
そのまま、しばらくは階段を上る気配もなく、ただまっすぐ歩いて行く。やがて進路は変わり、どこかの教室に入った。
「佐野さん…?」
「保健室。勝手口があるから、そこから出よう」
手を掴まれたまま床を眺め、佐野さんが何やらドアをガチャガチャとやっている音を聞く。と思ったら次の瞬間、ガンッという衝撃音が響いた。びっくりして私は叫ぶ。
「ごめん、びっくりした?」
「しましたよ。何やってるんですか」
「鍵壊した」
「え」
しばらくすると辺りは静かになり、また手を引っ張られる。
「段差あるから気をつけて」
体を支えられながら外に出た。慎重に、グラウンドの砂を踏む。まだ昼のはずなのになぜか暗い。空は曇ってしまったのだろうか。
「雅ちゃん、木札持ってる?」
「はい」
「じゃあそのまま、しっかり持っててね」
「あの…顔を上げても…?」
「ねえ雅ちゃん、ここから少し、俺の言うこと聞いてくれる?」
「え…?言うこと次第ですけど…」
「絶対に顔はあげないで。アパートまで俺が引っ張っていくから」
「なんでですか?」
「色々いるから」
「え…何…何がですか。何がいるんですか?いるってなんですか、ねえ!」
叫ぶが佐野さんは黙ったままで、再び私の手を引いて歩き出した。
来た時は本当に日が照っていたのに、肝心な時に晴れていないのが腹立たしい。それにやけに周囲が騒がしかった。まだ旧校舎を出たばかりで、この周辺は休日、昼でも人通りは少ないはずだ。それなのに私たちの周りからは、なんの音とも判別のつかないざわめきが聞こえてきていた。
音は次第に耳元に近く、大きくなる。囁き声のような、木の葉が擦れるような不気味な音。薄暗い空気。人の気配のない道。手を引かれ、顔を上げてはいけない状況。私の胸には不安が広がっていた。
夢で見たあの状況と同じなのだ。しかも目的地であるアパートには祠がある。
それに加え、私はまだしっかりと佐野さんの顔を見ていない。彼は笑っていたが、本当に私の手を引いている人物は佐野さんなのだろうか。いや、佐野さんだったとしても信用はできない。
確かに彼とは友達だ。頼りになるし、何度も助けてもらった。彼は私を裏切らない。理由がない。そう信じている。牛谷君も、焦土君に対してそう思っていた。
私はこれから祠の前に連れていかれ、牛谷君と同じように首が曲がって死ぬのだろうか。そう思いだすと止まらない。
妙に生々しいあの夢の光景を、私はまだ鮮明に覚えている。母の話してくれた出来事と夢は合致しているのだ。
血の気が引いた。体は冷たく、寒気がするのに汗が止まらない。何を信じれば良いのかも分からなかったし、どうすれば良いのかも分からなかった。
ただ恐怖だけが際限なく広がって、私は衝動を抑えきれなくなる。
気がつくと顔を上げていた。安心したかった。何もいはしないと、佐野さんは絶対に私を祠の前へ連れていったりしないのだと、確信したかった。
だが見上げた瞬間、呼吸が止まる。目を見開いて、馬鹿みたいに口を開けたまま、私は動けない。息を吸おうとしてもおかしな音が出るだけで、何にもならなかった。
目前に顔がある。知らない顔だ。だが見たことがある。男性とも女性ともつかないその顔の角度は、何よりもおかしく、非現実的だ。
視界が歪む。大きな音を立てて、ようやく一回息を吸う。
動けることが分かった途端、振り返って腕を強く振り、私は懸命に、反対方向へと足を踏み出した。旧校舎まで戻ることになるが構わない。今はここから、とにかく逃げ出したかった。
だが意に反して、体は前へと引っ張られる。
「雅ちゃん」
より一層手首は強く握られた。離れようと必死にもがくが、手を掴んでいた人物はこれまで遠慮していたかのように、急に力を込め、私の腕を思い切り引っ張った。
「雅ちゃん!」
「うわっ!」
ぐっと引っ張られ、勢いでぶつかりそうになる。涙で視界がはっきりしない。瞬きをすると少しマシになった。
目には佐野さんが映っている。まがり様はいない。どこを見ても、私と佐野さん以外に人はいなかった。
見慣れた顔を見つめ返す。
「大丈夫だから」
「…」
「落ち着いて、息吸って」
「…」
「怖いだろうけど、まだ下向いてて」
いつも通りに笑いかける佐野さんを見て、急に頭がはっきりする。
私はしっかり地面に足をつけ、立っていた。佐野さんと私以外に、この道には誰もいない。そのはっきりとした現実が頭に浸透し、怪異の存在を薄れさせた。
言われた通り深く息を吸うと、気持ちが落ち着いてくる。佐野さんは表情を変えずにこちらを見ていた。それだけのことでも、心の底からホッとする。
彼はもう一度ぎこちなく笑うと、背を向けた。私もまた、下を向く。
灰色のアスファルトを見ながら、もう何もせず、言わずに、黙って二人で歩いていった。何気なくポケットに手を入れると、バラバラになった布切れに触れる。取り出してみるとそれは、見る影もなく崩れてしまった水面さんのお守りだった。
やがて私の履く靴は砂利を踏む。視界の内には途切れ途切れにロープが映り、アパートの駐車場に入ったことが分かった。
砂利に雑草が混在し始めると、進むにつれてその割合は増えてくる。次第に目に映るすべてが草や土に変わって、小さな虫が足元をかすめていった。
もうアパートの前の地面だ。佐野さんに掴まれた腕をじっと眺めていると、いよいよ景色は共用通路のコンクリートに変化した。
105、104、103と、心の中で部屋番号を数えて通り過ぎる。再び耳元のざわめきは大きくなり、顔の近くに誰かがいるような、気持ちの悪い視線を感じた。
前を歩く佐野さんの足が止まる。私も一緒にその場に立ち止まった。
腕が離され、掴まれていた手首は私の意思に関係なく、緊張が解けたように落下した。すぐに胸の前に手を持ってくる。強く掴まれていたからか、少し痛んだ。
下を向いたまま木札を持つ。ざわめきは気がつくと人の呻き声のようなものに変わり、私を焦らせた。意識しなければそれは風の音のようにも、機械が稼働する際の些細な音のようにも聞こえる。
とにかく形容し難い音はどんどん大きく、近くなってきた。それを掻き消すように声を出しながら、私は震える手で木札を102に近づける。下半分の景色しか見えない中、壁に手を沿わせ、札をかけられそうな突起を探し当てた。手のひらにそれが突き刺さるが関係ない。誰かの吐息が耳にかかったと同時に、私は木札を壁にかけた。
途端に、嘘のようにざわめきが収まる。
放心状態でしばらく突っ立っていると、「いいよ」と言う声が聞こえた。
だが私は動かない。下を見ながら、佐野さんのことを探す。
「雅ちゃん、もう顔あげていいよ」
今度ははっきりとそう言われるが、私は頑なに上を見なかった。顔を下げたまま両手を伸ばし、ゾンビのようにして佐野さんに触れようとする。
少し足を前に出すと、私に向かって差し出された佐野さんの手のひらを見つけた。その手を掴む。
「雅ちゃん?」
「…」
「顔あげていいよ…?」
「…」
「それ首痛いでしょ」
「…」
「…もしかして上げれないとか?」
「いえ。まがり様が佐野さんを騙って言ってるかもしれないので…」
「…」
佐野さんの両手を握って、真剣に言う。先ほど恐怖に負けて取った行動が私にトラウマを植え付け、絶対に顔を上げたくないという気持ちにさせていた。
もうあの恐ろしい顔は見たくない。
「…でもずっと下向いてるわけにもいかないでしょ」
「…」
「顔あげてよ」
「待ってください」
「…どのくらい?」
「…明日まで…?」
「…じゃあ俺帰るね」
「なんで!?」
パッと顔をあげると、真顔の佐野さんが目に映った。
眩しさに顔をしかめる。あんなに薄暗いと思っていた空は、私の思い過ごしだったかのように、何食わぬ顔で晴れていた。
ようやくすべてが終わったという安堵感で、私は脱力する。
「お疲れさま」
「…」
「まだ昼だし、しばらく一緒にいてもいいかな?」
「…すみません、お願いします」
言うと、佐野さんは笑った。
「あれ、あなた秋子さんとこのお嬢さんよね?」
学校終わりの夕方、薬や食料品の入った袋を下げてアパートに帰っていると、私は原口さんに呼び止められた。例の如く、名前は覚えてもらえない。
「原口さん」
まだ空は明るい。こんにちはとこんばんは、どちらで挨拶しようか迷ったのち、私は結局のところ、「こんばんは」と挨拶した。
「こんにちは」
原口さんは臆することなく、お昼の挨拶を私に返してくれる。少し気まずくて、私は改めて「こんにちは」と言い直した。
「秋子さん元気?」
「あ、いえ、それが…ちょっと体調崩しちゃったみたいで…」
「あら、そうなの?心配ね」
「はい」
半分嘘で、半分本当だった。
アパートに木札を戻してから、母の体調は回復に向かうと思っていたのだが、その予想は外れてしまった。ちょっと体調を崩すどころではなく、慢性的に体調が悪くなったのだ。
初めのうちは季節の変わり目による不調だと思っていた。しかし日に日に具合は悪くなり、とうとう母は仕事を休んで寝込んでしまった。
木札が母の不調の原因ではなかったのだろうか。色々と考えを巡らせてみたが、結局何が原因なのかは分からない。病院に行っても風邪としか診断されなかった。
どうしようもできない状況でどんどん弱っていく母を見て、私は不安に襲われた。このまま悪い方に進んでしまったらと思うと、何も手につかなくなる。母を失ってしまったら、私は生きていけない。
心の余裕もないまま、私は愛想笑いで原口さんと会話をする。
「最近体調崩す人が多いからね。あなたも気をつけてね」
「はい。…原口さんも」
「あら、私は大丈夫よ。ただ本当に、季節の変わり目だからか、多いのよね。つい最近なんかも、アパートから人が出ていっちゃったでしょ?部屋にいると頭痛がするって…」
「…え?」
原口さんの言う通り、最近になってアパートを退去する人がいたのは知っていた。だが退去理由など知る由もなかったため、それを聞いて唖然とする。
「ただの体調不良だから寝ときなさいって言ったんだけどね、何か誰かに見られてるような、変な感じがして気味悪いって」
「…それ、いつ頃ですか」
「さあ…いつからかは知らないけど…。でもこのアパートって元々いわく付きでしょう?だからって言って別に幽霊が出たなんて話もないのに。思い込みじゃないかしらって私は思うんだけど」
「…102って空室ですよね?」
「ええ。家賃は安いんだけど、気味悪がって、やっぱり誰も住まないわね。それだけでも大変なのに、他の部屋からも苦情が出たんじゃ、やってけないわよ。迷惑なもんよね」
「…そうですね…」
「それにほら、お札!」
「お札?」
急に叫ばれ、私は言葉を鸚鵡返しにする。
「もう小学生がずーっと話してるじゃない。学校にお札があるとか、まがり様がどうだとか」
「え、ずっとですか?それに学校にって…」
「だからか知らないけど、アパートにお札がかけられててね。誰かが悪戯したんでしょうけど、タチ悪いわよね。私もう頭きちゃって」
「あ、あの、それは…」
恐らく私がかけたお札だ。申し訳なさから事情を説明したかったが、それは母に野球のルールを説明するのと同じくらい手間がかかる。モゴモゴしていると、次に原口さんはまた、新たな事実を口にした。
「だから私外したのよ。気味悪いからね、あんなの」
「え、嘘!?」
思わず叫ぶ。住人や母が体調を崩したのは、そのせいではないだろうか。
「お札はどこにやったんですか!?」
「学校に戻したけど…ダメだったの?」
「…」
なんということだ。振り出しに戻ってしまった。
「あの、すみません、失礼します!」
早々に会話を切り上げると、私は急いで102に向かった。遠目に扉が見えてくるが、そこであれっ?と思う。木札はちゃんと掛かっているのだ。
目の前まで来て、よく目を瞬いて見る。だがやはり、そこにはしっかりと木札があった。
それを見つめながら思い至る。失礼だが、原口さんは少し認知機能が低下してきている。彼女の思い違いかもしれない。
先ほどまで私には、振り出しに戻った絶望と、体調不良の原因が分かったことによる安心とがあったのに、すべての感情が無駄になって、必要以上に落ち込んでしまう。結果的にはプラスマイナスゼロで、木札がある分プラスに傾いているはずなのに。
気づかないうちに溜め息を吐きながら、私は隣の101号室の扉を開けた。
「ただいま。お母さん、具合どう?」
部屋に入るとすぐに、母に声をかける。布団に寝ていた母は少し頭を浮かせ、私の方を見た。
「大丈夫よ。明日には仕事も行くから」
「何言ってるの、寝てないとダメだよ」
「…そうね…」
「…熱は?」
「相変わらず平熱。ただ体がダルいだけだから、もどかしいわ。…ごめんね」
「いいって。あ、そうだ、ご飯十九時頃にする?食欲ありそう?」
「うん、大丈夫。ありがとうね」
「うん」
言うと、私は居間に戻り、テーブルの上に買い物袋を置いた。まだ夕飯を作るには時間が早い。とりあえず洗濯物を取り込もうと動き出す。
するとその時、制服のポケットに入れていた携帯が振動した。つい手に取って、無意識のうちに電源を入れる。
画面に表示されていたのは、水面さんからの連絡を示す通知だった。なんだろうと触れかけるが、そこで手を止める。
コツ、という音が、アパートの外から聞こえた。誰かが歩いていく音が共用通路に響いている。ただそれ自体はよくあることで、いちいち気に留める程のことでもない。
では何が気になったのかというと、その音が向かう方向だ。アパートの二階に上がることもなく、一階の通路を歩き、角部屋であるこの101号室に近づいてきているのだ。
一気に体が強張った。木札を戻したことにより、もうすべてのことが終わったと思っていたのに。母や退去した住人のことと言い、まだ続きがあるのだろうか。
私は鳥肌の立った腕をさすりながら、母の眠る部屋へと急いだ。とにかく誰かと一緒にいたかった。
「お母さん、何か宅配頼んだ?それか近所の人かな。回覧板かな、ねえ」
「…どうしたの?」
母は心配そうに私を見る。
私の頭には、先の「こんにちは」という声が再生されていた。怯えて布団のそばに座り込む。だが外から響く足音はやがて、101を通り過ぎていった。この部屋を過ぎれば、あとは何もないはずだ。外の人物はどこに向かっているのだろう。
母の横でじっとしていると、台所のそばの磨りガラスから、不意に何かの影が動くのが見えた。人だ。アパートの裏手に回っていく。
あそこには祠がある。
立ち上がって、私はお守りである首飾りを掴んだ。一体何をどうしてそんな行動を取ったのか分からないが、私は急に歩き出すと、玄関から外へ出た。そのまま足音を追うようにして、アパートの裏手に歩いていく。
誰かに何かあったら大変だ。木札は戻したのだから大丈夫。言い訳を並べ立てながら草むらを行き、建物の裏に足を踏み入れた。
そこで私は驚いて立ち止まる。
初めてこの場所に訪れたが、視線の先には夢で見た通り、草に埋もれた石造りの祠があった。だが問題はそこではない。その前に立ち、祠をじっと眺めている人物が問題なのだ。
金髪にピアス、制服のポケットに手を突っ込んで、佐野さんが立っていた。
私に気づいているのかいないのか、じっと祠を眺めている。
「佐野さん?」
「…」
声をかけるが、反応はない。
「佐野さん!」
「…何?」
もう一度呼ぶと、顔も視線も動かさず、祠を見たまま、佐野さんは答えてくれた。
私にとって、身近な人がおかしくなるということがこの世で一番恐ろしいことだったため、返事をしてくれて安堵する。
「…何してるんですか?こんな時間に、こんなところで。何かあったんですか?」
聞くと、ようやく佐野さんは目線だけを動かし、私の方を見た。顔は相変わらず、祠を見つめている。
「うーん…あのさ、雅ちゃん」
「はい?」
「なんで『様』って言うんだろうね」
「…は?」
「まがり様って怪異でしょ。初めて聞いた時は、畏怖してるから、とかそう言うことなのかなって思ったけど…」
「…なんの話ですか?」
「矢津に頼んで橘さんに聞いてもらったんだよ。東西市の成り立ちとか。昔は東西が分離して、村だったらしいんだよね」
「あの…」
私が言うのも聞かず、佐野さんは一人でペラペラと喋り続ける。
「で、思い至ったんだよ。家にそういう資料なかったかなって。で、探してみたら、蔵の奥にある金庫に、古い箱を見つけてね。開けてみると紙が入ってて、呼び出し方が書いてあった」
「…なんのですか?」
「まがり様」
何か言おうとしたが、何も言えない。落ち着いてきたと思ったのに、また全身に鳥肌が立つ。
「明確には書いてないんだけど、そうとしか思えない」
「…」
「陣に札を置き、まじないを唱える。対象に縄をかけ、箱の前に立たせる」
「…それ、なんなんですか」
「昔から、山に入るなって、よく大人に言われなかった?」
「え?…はい」
佐野さんの話は途切れ途切れだ。いきなり話題が変わり、ついていけない。彼は何を言おうとしているのか。
「東の方はそんなでもないけど、西の方は結構山に囲まれてて、俺も親によく言われてた。なんで山に入っちゃいけないんだろうって、理由を聞いたら、滑落事故があるからとか、猪が出るからとか言われたけど。でも結構、自殺者がいたみたいなんだよね」
「え…」
「聞いたことない?俺も知らなかった。多分昔から多いんじゃないかな。飢饉があったとか、そんな記録が残ってるから」
「あの、それで…?」
「だからまがり様って、本当に存在するんじゃないかと思って」
「え?」
「だから」がどこと繋がっていたのか理解できなかったが、よく考えると、私にも状況が飲み込めてきた。
「秋子さんの話じゃ、禍って、自殺した人の首が伸びて曲がって、そのまま生き続けた怪異のことなんだよね?」
「…そう…そうです。…何か、繋がってますね…」
「ね。きっと昔の人からも、まがり様は恐れられてたんじゃないかな。初めは普通に」
「普通に?昔の人…」
「なんで怪異なんか呼び出したかったんだろう。それにさ、『対象』ってなんだろうね?」
「対象?見つけた紙に書かれてたことですか?」
「そう。俺は最初、まがり様を鎮めるための生贄のことかなって思ったんだ。でも『対象』なんてまるで、ターゲットみたいな言い方じゃない?」
「…そうですかね……」
「俺はさ、まがり様を利用して、一部の、俺の家の人間が、村民を殺してたんじゃないかって思うんだ。邪魔者を排除してくれる存在。だから禍が転じて『まがり様』」
「…」
手に持っていた携帯が振動した。佐野さんは変わらず祠を見ている。
私は震える手で胸の辺りに携帯を持ってきて、画面を見る。水面さんからのメッセージが届いていた。開くとそこには、先ほどと合わせて、二つの文章が並んでいる。
[だいぶ遅くなったけど、お札調べてもらった。片方は封印の札なんだけど、もう片方、木でできてるやつが、霊を呼び寄せる札みたい。]
[雅、大丈夫?]
お守りを持つ手に力がこもる。絶対に今、このメッセージを開くべきではなかった。凄まじい後悔の念に駆られながら、佐野さんを見やる。
「古い記録にあった縄って多分、首吊りの縄を模したものだと思うんだよね。箱は祠で、札は木札のことかな。まあどっちにしろ三つとも、まがり様に対象の位置を知らせるための目印なんだろうね」
「…」
「そして縄は対象者の首にかける。首飾りみたいに。…知ってる?首飾りって魔除けにも使われるんだよ。もしも、まがり様を退けるお守りだとか言って、儀式に使う縄が出回ってたんだとしたら、怖いよね」
「…」
「雅ちゃんはそのお守り、誰にもらったの?」
佐野さんは顔を上げると、私の方を見た。
だが私は下を向いて、何も喋れなくなる。頭が痛い。血が足りていないかのように、額が冷たかった。
そんなはずがない、そんなはずがないと、心の中で繰り返す。うまく息を吸えない。ぎゅっと首飾りを握りしめる。それから小さく、私は絞り出すように声を発した。
「…母です」
「…」
「…」
草をザクザクと踏む音が聞こえる。佐野さんがこちらに歩いてきていた。
「行こう」
言うと、私の手を掴み、佐野さんはアパートの方へ歩き出した。
居間を通り過ぎ、暗い和室に入る。カーテンを閉めると、天井から垂れ下がっている紐を引っ張り、電気をつけた。布団のすぐそばまで移動する。そのまま畳の上に腰を下ろすと、母はこちらに顔を向けた。
「…あれ、どうしたの?…孝二君も…」
隣には佐野さんも座っていた。私の気持ちとは裏腹に、笑顔で「お邪魔してます」と挨拶する。
私は瞬きもせずに、部屋の一点を見つめていた。早く首飾りのことを聞かなければならないのに、言葉が出てこない。ゆっくり息を吸うと、ようやく私は口を開いた。
「あの、お母さん…」
「ん?何?」
「…あの…これ…」
そこからまた、声が出ない。膝の上でただ首飾りを握りしめて、それを眺める。
見かねたのか、佐野さんが横から言葉を引き継いでくれた。
「どうして雅ちゃんに、首飾りを渡したんですか?」
「…」
思ったよりも佐野さんはストレートに質問し、私はヒヤヒヤする。
母は彼の言葉を聞くと、徐に体を起こして、布団の上に座った。
「寝てた方が…」
声をかけるが、母は「大丈夫」と手で示した。
「…その首飾りはね、あなたのお父さんにもらったものなの」
「え…」
目を見開く。もう何年も、「父」という単語は聞いていない。その言葉が母の口から出たことに、私は驚いた。
父は私が生まれた時からいない。母は幼い私に、お父さんは遠いところで暮らしていると説明してくれたが、それが私を悲しませないための嘘だということは分かっている。父について知るのはそれ以上無理だということも、分かっていた。
だからこれまで父について、母と話したことはない。気になりはしたが、母と二人で暮らすことができればそれで良かったため、自分から聞くこともしなかった。
「…あなたが高校を卒業して、望むなら、お父さんのことは話そうと思ってたの」
「お父さんって…?」
「…あなたのお父さんは、焦土よ。この前話した、同級生の」
「…」
何も言えない。いろんな情報が頭に溢れ出し、ごちゃごちゃとして何も考えられなくなった。母の顔を見つめたまま、ただ時間が過ぎていく。
焦土。隣室で亡くなった。牛谷君を祠の前に連れていった。そんな人と、母は結婚した。事実だけが繰り返し響き、感情が出てこない。多分受け入れられていなくて、何かを感じる暇がない。
「…あなたが生まれる前に、焦土とはその…揉めたの」
母は心配そうな顔で私の様子を窺いつつ、話を始めた。途中途中で咳き込んでは、枕元に置いてある水を飲み、ゆったりとしたペースで喋り続けた。佐野さんは労わるように、それに相槌を挟む。
母がこのアパートに入居したのは二十三歳の時だ。高校の時から恋人関係だった焦土さんと一緒に、同棲を始めたらしい。
住まいを決めたのは焦土さんだった。母は初め、牛谷君のいなくなった東西神社の跡地に住むことを拒んでいた。
「牛谷がいなくなったのは俺の責任だから。牛谷のことを忘れないため、供養のためにも、ここに住みたいんだ」
そう言う焦土さんの話を聞き、説得される形で、母は渋々了承した。
この時既に、母は私を妊娠している。どっちみち今から遠方に移動することは不可能だったため、101に入居することを決めたのだそうだ。
ただアパートに入居する以前、母の言葉通り、私のことで二人は揉めた。
焦土さんは男の子が生まれることを強く望んでいたらしい。だが今現在私がそうであるように、お腹の中にいたのは女の子だ。それを告げた途端、焦土さんは怒り出した。
母はこの話をする時、とても言いづらそうにしていたが、「堕ろせ」とまで言われたそうだ。それを聞いて、当時の母は激怒した。そしてついに別れを切り出す。
それを聞いた焦土さんは、凄い勢いで母に謝り倒したのだという。信用はできなかったが、可哀想になるほど懇願され、母はかろうじて別れをとどまった。恐らく私のこともあったのだろう。
それからようやく、二人はアパートに入居する。そしてお互いの精神が落ち着きを取り戻してきた頃、母は私が生まれる前に籍を入れようと、焦土さんに提案した。
しかしそれは却下される。却下というよりも、「待ってほしい」と言われたそうだ。母は意外にも、それをすんなり受け入れた。
なんでも焦土さんは家業を継ぐ予定で、当時は忙しかったらしい。実家は大きな家だったが、古いしきたりに拘るところがあり、元々折り合いが悪かったのもある。私が生まれる前は特に酷かった。家とのやり取りで苦労しているのを、母は何度も目にしたそうだ。
とにかく母は私を無事産むことが最優先で、ややこしい義実家の問題に巻き込まれるくらいなら、結婚はいつでも良いと考えた。そのため焦土さんとは事実婚の状態になる。
そしてある日から焦土さんは隣室を借り、頻繁にそこに出入りするようになった。理由を聞けば、娘が無事生まれるよう、ちょっとした願掛けをするのだと言う。
突然スピリチュアルなことを言い出した焦土さんに母は戸惑ったが、娘のことを受け入れてくれたならと、少し安心したそうだ。
だが翌日、焦土さんは隣室で亡くなった。遺体の状態は凄惨で、直視できない程だ。さらにおかしなことに、部屋の床には何かの陣が描かれており、木札まで見つかった。それはまるで儀式のようにも感じられる、不気味な様合いだったらしい。
「焦土は102で何をしてたんだろう…」
「…」
話し終え、母は呟いた。
焦土さんが何をしようとしていたのかは、大体見当がつく。恐らくまがり様を呼び出そうとしていたのだ。
「…秋子さんはなぜここに留まっているんですか?」
佐野さんが聞くと、母は答えた。
「亡くなった後、遺体は焦土の実家の方で引き取られて、ちゃんとしたお葬式もしなかったみたい。私も手を合わせることができなくて、心残りだったから…ここを離れられずにいるの」
「そうなんですね」
佐野さんは律儀に相槌を打つ。
「…黙っててごめんね。原口さんや古くから住んでる人はこのことを知ってるけど、あなたが年頃になるまでは話に出さないよう、私がお願いしたの…」
「…」
母は私が何も言わないのを見て、心配そうに言葉を続ける。
「焦土と揉めたのは本当だけど、私達はあなたが生まれてくることを凄く楽しみに待ってたの。あなたが生まれてきてくれて、凄く嬉しかった。きっと焦土だってそうだよ」
「…」
「焦土は亡くなる前に、私にその首飾りを渡してくれたの」
母は私の持っていた首飾りを指さして言った。
「生まれてくる娘に、これをお守りとして持たせてくれって。あなたのこと、愛してたのよ」
そう言って微笑んだが、私は何も答えられなかった。耳鳴りがする。「そうなんだ」となんでもない風に答えるべきなのに、引き攣った笑みさえ浮かべられないまま、口も聞けずにいた。自分が今、どんな顔をしているのか分からない。
「雅ちゃん」
佐野さんは低い声で私に呼びかけた。
「一旦外に出よう」
そう言うと、ゆっくり立ち上がる。私が動かないでいると、「立てる?」と手を貸してくれた。
それから母に対しても声をかける。
「秋子さん、具合悪い中話してくれてありがとうございます。俺も聞いちゃってすみません」
「…いいのよ」
「ちょっと雅ちゃんと出てきますね」
「…ええ。あんまり遅くならないように気をつけて。…ねえ、孝二君」
「はい?」
「孝二君ってもしかして…」
「違いますよ」
母が言い終わる前に、佐野さんは笑顔で答えた。なんのことかは定かでないが、そんなの今はどうでも良い。
まだ時間は少ししか経っていない。特に走ったりもしていないのに、なぜか私は疲れを感じていた。だるい体を引きずりながら玄関を出る。
怒りだとか悲しみだとかが溢れていたが、母は何も知らないのだと思うと、心が痛んだ。
アパートから数メートル離れたところ、草むらの上で、私たちは風を浴びながら立っていた。
「…大丈夫?」
「……私最近、夢を見たんです」
「…。…どんな?」
「牛谷君が置き去りにされた山の中、手を引かれて歩く夢です。手を引いているのは焦土さんで、佐野さんに似て落ち着いた人でした。牛谷君を引っ張っていきながら、何かを『しっかり持ってて』なんて言って…あれはもしかすると、首飾りだったのかな…」
「…」
フワフワと、そんなことを話す。佐野さんにしてみれば今初めて聞くことで、なんのことかよく分からないはずだ。だがお構いなしに、私は自分の話したいことを吐き出した。内容は途切れ途切れで、ただ聞いてほしくて喋り続ける。
「…私の名前、カズキって言うんです」
「え?」
「数字の一に、希望の希で一希。雅は苗字です」
「…てっきり、雅が名前だと思ってた」
「それでいいんです。そう思う人は多いですから」
「…」
「小さい頃、自分の名前が男の子みたいで嫌でした。だから近所の人にも、私のことは雅って呼んでって、お願いしたりして」
今更ながら私は、原口さんが名前を呼んでくれない理由に気がついた。少し泣きそうだ。
「父は男の子を望んでたから。本当に、男の子につける予定の名前だったんでしょうね。母を騙して、首飾りを渡して…。私はきっと、死ぬために…」
「違う」
佐野さんははっきりとした声で、私の言葉を遮った。
「絶対そんなことないから、言わないで」
「…」
「秋子さんは、雅ちゃんのことを愛してる。そんな人がその名前を付けるのを許したのは、ちゃんと雅ちゃんのための名前だと思ったからだよ」
「…」
「一つの希望って書いて一希。秋子さんもお父さんも、心からそう思ってたんじゃないかな。俺はその名前、好きだよ」
「…」
真顔で言い切った佐野さんを見て、私は唇をぎゅっと結んだ。目に涙が滲む。今泣くと、嗚咽で何も言えなくなりそうで私は堪えた。
「…ありがとうございます」
「…」
もっと言いたい言葉があったが、涙を堪えるので精一杯で、それしか言えなかった。ようやく心に、一ミリほどの余裕を持てた気がする。
佐野さんも私も、しばらく無言で向かい合っていた。私は涙を引っ込めるために深呼吸を繰り返し、彼は黙ってそれを見る。
正直なところ、母が私に、明確な意図を持って首飾りを渡したんじゃないと分かってホッとした。父に必要とされていなかったことは悲しいが、生まれる前に亡くなったのだから、そんなに激しい感情も抱けない。
それよりも父のせいでこんな事態になっているのだと思うと、腹立たしかった。
私が何度目かの深呼吸で息を吐き出し、とりあえず落ち着いたのを見て、佐野さんはまた喋り出す。今度もまた、ガラッと話が変わった。
「…俺の家に、勘当された人がいてさ」
「感動?」
「いや、勘当。縁を切ったってこと」
「関係ある話ですか?」
「うん。とりあえず聞いて」
「はい」
「家系図にもその人の名前は載ってないし、誰も話したがらないんだ。ただどうしても気になって、父親にしつこく聞いたら教えてもらえた」
「へえ」
「佐野焦土って言うんだけど」
「…」
「…」
「…え?」
聞き覚えのある名前に、びっくりして言葉を失う。衝撃の事実に何かしらの発言をしたかったが、タイミングを失い、口から空気が漏れただけだった。なんとかして言葉を紡ぐ。
「焦土って…あの…?あの焦土…?」
「うん、その焦土。俺の父親の弟で、叔父さんにあたる人らしい。だから俺と雅ちゃんは従兄妹だね」
「…」
「びっくりした?」
「…しました。凄く」
「俺もした。雅ちゃんのこと、何か放っておけないわけだね」
涙も引っ込んでしまった。
私と佐野さんが従兄妹。単語を反芻して、どうにかその事実を飲み込もうとする。だが今日知ったことが多すぎて、私の頭が受け入れられる容量を超えていた。脳に口はないけども、私の脳は「従兄妹」と言う単語をぺっと吐き出す。
「…いつから知ってたんですか?」
「まあ、それはいつだっていいじゃん」
かなり重要なことに思えるのに、佐野さんは話をはぐらかした。
まがり様の件や古い文書のことと言い、彼はいつから調べていたのだろう。
「…焦土が亡くなった当時、家が無理に縁談を迫ってたみたいでさ。そんな時に不審な亡くなり方をしたものだから、自殺だと捉えられて、誰も話をしなくなったらしい。みんな罪の意識を感じてるのか、しつこく聞いたら白状したけど」
「しつこく聞いたんですか…」
「しつこくとは言うけど、そんなでもないよ」
「…」
信用できない。
「母さんは俺を産むのが遅かったから、きっと焦土の方にも圧力をかけてたんだろうね。家のしきたり的に、男子を求めそうなものだし」
「し、しきたり…」
「そう。古い考え方してるから。代々、佐野家の男子には許嫁がいるのが普通らしいよ」
「許嫁!?」
「今日日聞かない言葉で、笑えてくるよね」
言った佐野さんは、まったく笑っていなかった。
初めて彼の家のことを聞くが、驚くべきことばかりで、私は目を白黒させる。同じ東西市出身のはずなのに、住んでいる世界が違うみたいだ。
「母は玉の輿に…」
「玉の輿ってほどでもないけど…。それに焦土は、秋子さんとの結婚を反対されてたんじゃないのかな。大方、家のお年寄り達が、『男子を産むなら結婚を認めてもいい』とか、脅してたんでしょ」
「そんな。母はそれを知らなかったんでしょうか」
「聞く限り、知らなかったんだろうね」
「なぜそんな大事なことを隠して…」
「…まあ、板挟みだったんじゃない。家に結婚は認めてほしいけど、実家のあれこれを話すと、秋子さんが自分から離れていくと思ったとか」
思っていたよりも複雑な家庭環境の焦土さんに、どんな感情を向ければ良いのか分からなくなる。家とのやり取りに苦労していたとは聞いたが、想像以上だ。
焦土さんは儀式を決行した当時、どうしようもなくて、焦っていたのかもしれない。
「それで私を…」
「許されることじゃないけどね。堕胎を迫ったら秋子さんに別れを切り出されたから、まがり様を使ってなんとかしようとしたんでしょ。秋子さんにも危険が及ぶかもしれないのに。結局、儀式は失敗して、焦土は死んだ」
「…祠は102の真裏でしたね」
「…うん。多分焦土は、小学生の頃から秋子さんのことが好きだったんじゃないかな。だから秋子さんに色々言ってた牛谷を、祠の前に連れていった。雅ちゃんの夢の通りなら」
「…歪んでませんか」
「かなり。それほど秋子さんに惚れてたとも言えるけど」
「そんな惚れ方されても嬉しくありませんよ」
「…。秋子さんの話では肝試しに行く前、家の資料を調べたって言ってたから、その時にまがり様のことを知ったんだろうね。文書の入ってた箱は紙で封がしてあったけど、開けられた形跡があったから」
言い終わると、佐野さんは一息つく。
まがり様を呼び寄せる木札に首飾り、それと祠。儀式で使用される道具がこんなに揃っていて、これまでよく生きてこられたなと、自分のことを他人事のように振り返る。
それに目下の問題なのは母の体調だ。またアパートに異変が起こり始めている。まがり様の呪いか、それとも。とにかくこれからどうすれば良いのか、見当もつかない。
他力本願に、私は佐野さんの顔を見た。
「佐野さん、これから…」
「これから、俺の家来ない?」
「は…」
「これからどうすればいいですかね」と言うはずだった質問を、先回りして答えられる。
そして佐野さんは私の返事も待たずに、歩き出した。
午後十八時、私は佐野さんと並んで、夕暮れの町を歩いていた。
「佐野さんの家って…」
「ここから歩いて十分くらい。蔵があってさ。その中をもう少し探したいんだ」
「蔵…」
敷地内に蔵がある家なんて滅多にない。かなり大きい家なのではないかと、今から緊張する。
それに家といえば、他にも思うことがあった。私は意を決すると佐野さんの顔を見つめ、質問を投げかける。
「…あの、佐野さんは、自分の家のことが嫌いですか?」
恐る恐るそう聞いてみたが、当の佐野さんは私を見つめ返すと、予想外に軽い口調で答えた。
「え?なんで?」
「え、あの、焦土さんの話を聞いて思ったんです。それに佐野さんと初めて会った時、ひとけのない旧校舎にいましたし、帰りもいつも遅いみたいなので。家に…帰りたくないのかなと…」
佐野さんは真顔で私の顔を見つめ続けていたが、しばらく経つと口を開いた。
「家は嫌いじゃないよ。むしろ好き」
「え、そうなんですか?…あの、すみません」
「いいよ。…形式的なことに拘泥するのは好きじゃないけど、古風なところは結構好きだと思ってる。風情があっていいよね、雅やかで」
「コウデイ…」
「父さんは許嫁だった母さんと結婚したんだ。家の考えをすんなり受け入れられる性質ならいいけど、焦土みたいに反発する人ももちろんいる。だからそれだけに拘るのは争いのもとになるし、自由もなくて好きじゃない」
「佐野さんにも許嫁がいるんですか?」
聞くと、佐野さんは笑った。
「え?いないよ。流石にもう、そういうのはなくなったね」
「そうですか」
答えたものの、その後なんと言ったものか分からない。新しい話題を考えていると、ふと気になることが浮かんだ。
「あの、縁談って言うとお見合いみたいな感じがしますけど、焦土さんも佐野さんと同じように、許嫁がいなかったんでしょうか」
「どっちも似たような意味じゃない?まあ何にしろ、焦土に許嫁はいなかったと思うよ」
「え?それはどうして…」
「焦土は次男だけど、家業を継ぐ予定だったらしいから。父さんに代わって家の役割を全うすることで、婚約を回避してたんじゃない」
「…佐野さんのお父さんは、家業を継ぎたくなかったんですか」
「そうみたいだね。父さんは家業を継ぐのが嫌で、焦土は婚約が嫌だった。お互いに利害が一致したみたい」
「え、じゃあ、でも、焦土さんが亡くなってからは…?」
そう聞くと、佐野さんはおかしそうに笑った。
「結局のところ継いでるよ。俺が小さい頃、めちゃくちゃ忙しそうだったのを覚えてる」
「それは…大変でしたね」
「どうかな。父さんは予想外のことが起こると変な慌て方をするから、見てて面白かった」
「…」
実の父親が慌てているのを見て、そんな風に思えるものだろうか。佐野さんの感性は理解できなかったが、楽しそうでなによりだと、勝手に思う。
「佐野さんが子供の頃、寂しい思いをせずに済んだのならよかったです」
「ありがとう。雅ちゃんもね」
「え、はい。でもあの…」
「何?」
「焦土さんは結局、ご実家に縁談を持ちかけられてたって」
「…俺が中々生まれなかったから、事態が変わったんだろうね。焦土にも秋子さんじゃなく、家が認めた相手と子供を作るよう迫った」
「そんなの、子供ができるまで待てばよかったのに…」
「…雅ちゃんは将来のためにも、産婦人科でどんなことが行われてるのか、知っておいた方がいいと思うよ」
「…佐野さんは私と同い年ですよね?」
「そうだよ。ギリギリ同い年」
「だったら尚更、焦土さんに縁談を迫る必要はなかったんじゃないですか」
「…まあ、タイミングが悪かったんでしょ。全員が焦り過ぎだった。…ちょっとのズレで人一人死ぬんだから、堪ったもんじゃないけど」
一気に暗い雰囲気になる。佐野さんはそれまで明るい調子で話をしていたが、私は急に、彼のことが心配になった。
「あの、佐野さんのせいじゃないですよ」
「うん」
「…」
「…ごめんね」
「え?」
突然、佐野さんは謝罪を口にした。前後の言葉がないため、何に対してのものかは知り得ない。だからどう返していいのか分からず、私はただ黙っていた。
知らず知らずのうちに、靴を見る。気まずい空気を感じながら、私達は住宅街を歩いた。
ただ住宅街の割には、さっきから住居が見当たらない。右手には塗装の施された綺麗な塀が長々と続き、なんの施設なのか気になってくる。
「雅ちゃん、こっち」
急に言われ、顔を上げる。佐野さんが立ち止まったのは、気を取られていた長い塀の終わり、その門扉の奥に、立派な屋敷が構えている敷地の前だった。
「…え」
佐野さんはごく普通に門を開け、中に入って行こうとする。先ほどまでの空気を忘れ、私は彼を呼び止めた。
「待ってください。え、ここが佐野さんの家なんですか」
「いや、違うよ」
「じゃあここ、なんなんですか」
「おじいさんの家」
「佐野さんの家は…」
「の、隣が俺の家」
「どっちみち佐野さんの家なんじゃないですか。凄く大きなお屋敷なんですね…」
「お屋敷じゃなくてただの一軒家だよ」
喋りながら歩いていく佐野さんに、私もついていく。大きな家かもしれないとは思っていたが、想像以上だ。門から玄関までの距離が長い。
整えられた庭には、松や柿の木が散見された。全体的に和風という感じだが、なかには小さなレンガ造りの花壇もあり、コスモスの花が咲いていた。
いろんなものを眺めつつ、屋敷につながる石畳の上を歩く。やがて佐野さんは敷石を逸れて左に曲がった。
立ち止まった先を見上げると、そこには大きな蔵がある。初めて見た。
「…佐野さんのお家って何やってるんですか」
「さあ。分かんない」
「え、そんなことあります?お父さんの仕事ですよね」
「そうだけど。多分製造業…?か、鉄鋼業?何かの部品を作ってるんじゃないかな」
「その二つってだいぶ違うジャンルですけど…」
「関心がないから分かんないな。継がないし」
「将来慌てふためくことになるかもしれませんよ」
「ならないよ…多分」
佐野さんは蔵の鍵を開けると、扉を開け放しにし、中に入った。空はもう暗く、光はないため携帯のライトを点灯させる。
私も続いて、足を踏み入れた。屋内は埃っぽい。整備されてはいたが、よく分からない匂いが鼻についた。
佐野さんのあとについて奥へ進むと、金庫が見えてくる。私の想像するそれとは違い、大きくて古いものだ。ダイヤルには数字でなく、イロハの文字が書かれていた。
「…この中に文書が?というかこれ、開けたんですか」
「うん。力ずくで」
「力ずくで!?」
「うそうそ。初めから鍵かかってなかったんだよ」
「なんですかその嘘…」
困惑する私をよそに、佐野さんは金庫から木箱を取り出した。言っていた通り、箱には紙が巻かれており、それが千切れている。
中から一枚の古い紙を取り出すと、広げて見せてくれた。
「……なんて書いてるんですか?」
「…ちょっと気になるところがあって…」
佐野さんはごく自然に、金庫の上に腰掛ける。しばらく目を細めていたが、文書の一部を示すと、「ここ」と言った。そばまで行って、読めもしないのに眺めてみる。
「『東国の巫女』って書いてるんだよね」
「…巫女って言うと、禍を倒したっていう伝説の?」
「そう。多分東の方にあるお寺というか、神社に奉仕してた巫女さんってことかな。でもその人、ここには生贄として書かれてるんだ。攻撃的というか、巫女を消そうとしてる感じ」
「え」
「何があったのかは知らないけど、ここに名前があるってことは、まがり様を利用して殺されたんだろうね」
あっさりとした口調で言う佐野さんに、少し不気味さを感じる。
「…本当に何があったんですか…」
「俺の予想だけど、最初はまがり様を鎮めるために、生贄を捧げてたんじゃないかな。それがどんどん汚いことに使われていって、ここにある巫女さんが止めようとしたとか。でも逆に手段が狡猾化して、巫女さんも消されちゃった」
「…予想ですよね?」
「うん。本当のところは分かんないよ。でももしそうだとすると、東西神社の建立理由は、『まがり様を鎮めるため』の方が正しいのかもね」
「…」
佐野さんは紙を丁寧に巻き納めると、大きな溜め息をついた。
「実は東西神社って俺の家が管理してたらしいんだけど、どう思う?」
「え?」
「実際のところは名義だけで、神社の整備は町内会がしてくれてたらしいんだけど。どうして神社を建てたのかって考えると、何か見えてくる気がするんだ」
「え、あの…何が…」
佐野さんはスラスラ話していこうとするが、それ以前に、隠していた事実が多すぎる。明確には隠していたわけではないのだろうが、「なぜもっと早く言わないのだ」という気持ちになる。
「俺もつい最近知ったから。言わなくてごめんね?」
「え!?あの、全然大丈夫です…」
心を読んだかのような返答をされ、私は慌てた。それを見て佐野さんは少し笑う。
「…俺の考えでは、この家の中にも、多くの人を手にかけてきたことを償おうとした人がいたと思うんだ。もしくは呪いとか報復とか、そういうのを恐れたか。何にせよ、懺悔のために東西神社を建てたんじゃないかと思って」
「…」
「…東西小に祠とお札を寄贈したのも、そうじゃないかな」
「え…あ、そういえば」
そういえば、橘さんが言っていた。寄贈を行ったのは佐野さんの家で、話を聞いた時、彼が驚いていたのを覚えている。
それも罪の意識から、ということか。そう考えたところで、私は突如、あることを思い出す。
「あ!あの、水面さんにお札を調べてもらったんですけど、旧校舎に元々あった方は、封印の札だって言ってました」
「そっか」
「…あと、橘さん、何かの額も寄贈されたとか言ってましたよね」
うっすらと、そんな記憶がある。佐野さんが何か知りはしないかと、彼を窺った。
「それ、俺も気になってるんだよね。旧校舎にはたくさんの額があって、どれも勉学に関する格言が書かれてた。でも三階奥にあった額だけは違う。家で見たことある気がするんだ。どこかに…」
佐野さんは口元に手を当て、考え込んだ。私は周囲を見回してみる。「見たことがある」ということは、この蔵のどこかに探しているものがあるのではないかと、安易にそう思った。
しかし視線を動かしただけでは目ぼしいものが見つかるはずもなく、無駄に終わる。
勝手に蔵を漁って良いものか悩んだのち、私はもう一度、佐野さんが手にしている文書に目をつけた。
「…あの、その文書って、他に何か書いてないんですか?」
「うーん…結構頑張って読んでみたんだけど…」
文書をもう一度広げ、佐野さんは目を通す。
「よくそんなの読めますね…」
「本当だよね」
他人事のように言う彼を無視し、私も読めない古文書を遠目に、色々と口を出してみた。
「あの、それってまがり様を呼び出す方法が書いてあるんですよね?」
「うん」
「…だったらその、封印する方法が書いてある文書とかも、どこかにないですかね」
「…」
「まがり様を鎮めるために神社を建てた人もいるわけですし、そういう文書を残した人もいるかも…」
言いかけていると、佐野さんは突然「あ」と言って、口を開いたまま私を見た。
「え、佐野さん?」
正確には私でなく、蔵の壁を見つめているようで、釣られて振り返った。
木でできた古い棚に物が積み重なっているだけで、特に何もない。だが佐野さんはそこに何かを見つけたのか、立ち上がると私を避け、棚に向かった。
たくさんの木箱がある前に立ち、その隙間に手を突っ込む。そして何かを掴むと、一気に手を引いた。
佐野さんが手にしていたのは、額縁だった。木製の立派な額だ。何かの箱に入れられているわけでもなく、埃かぶって、今まで木箱の隙間に眠っていたらしい。
「それは…?」
佐野さんは蔵の外に出て、埃を払う。
「旧校舎にあった文書の続きが入ってる」
「え?どういうことですか?」
「これの前文が寄贈された額なんだよ。複数枚あったみたい」
「じゃあ、それ…」
「まがり様を鎮めるための文書だね」
佐野さんはじっくりと、額縁に入った紙を見つめた。近くに駆け寄って、私も覗き込む。
「なんて書いてありますか?」
「一、札
一、箱
一、縄の全
これ有るに於いては火をもって清めるべく候」
「すみません、佐野さん見ませんでしたか?」
放課後、実習棟の空き教室には矢津さんと水面さんがいた。
扉を開けてすぐ聞いた私に、二人は顔を向け、同時に答える。
「見てない」
なんの情報も得られなかったことに落胆する。二人が知らないのなら、私にはもう聞く人がいない。どうしようかと項垂れ、頭を悩ませた。
「孝二に何か用なの?」
水面さんの声は刺々しい。
「今日、放課後に会う約束をしてたんです。でも教室に行ってもいないし、連絡もつかなくて」
「へえ、孝二が?珍しい。私は約束を破られたことなんてないけど」
「…確かに珍しい」
矢津さんも同調する。
二人の言う通り、佐野さんは無断で約束を破るタイプではない。用事がある時は連絡をくれるし、やれと言われたことは無条件でやる人のため、そもそもドタキャンするということ自体、矢津さんとの出会いを除いて、滅多にないのだ。
せめて何か一報入れてくれれば安心できるのだが、それもないと、何かあったのではと不安になる。
「それよりも、放課後に孝二と二人で会って何するつもりなの?デート?」
私が恐ろしい想像に震えている反面、水面さんはそんなことを口にする。
彼女からは「そんなわけないよね」というような冗談混じりのメッセージも感じた。
「そうだったらよかったんですけど…」
深く考えもせずそう答えると、水面さんは目を見開いて、「は?」と大声で叫んだ。
私の脳内には「まがり様」と「呪い」の二つの単語が回り、話半分に聞いていたせいで言葉が足りなかったようだ。考えるのをやめ、急いで彼女に弁解する。
「そっちの方がまだマシだったって意味です。佐野さんと私はデートなんてできませんよ。デートって恋人同士がやるやつですよね」
「別にそうでもないでしょ!」
今こんなことで言い合っている場合ではないのだが、佐野さんが見つからないという事の重さは私と彼女で違うため、酷くもどかしかった。
助けを求めて矢津さんの方を見る。しかし思いは伝わらなかったようで、無言で見つめ返されただけだった。
やがて水面さんの勢いが落ち着くと、ようやく矢津さんも口を開く。
「…何も言わずに消えるのは、よくない兆候」
「え」
喋ったと思えば不吉なことを言い出すため、私は焦る。
「どういうことですか?」
「…佐野が約束を破るのは、大抵何かのため」
「どういう…」
「…連絡があった。『雅ちゃんが来たら、適当な嘘ついて誤魔化しといて』っていう」
「…」
微妙な怒りもあったが、何より嫌な予感がする。体を半分教室の外に出しながら、矢津さんが続きを話すのを待った。
「…『十九時頃にアパートに来て、木札と首飾りを燃やしてほしい』とも。これ、雅ちゃんの首飾りだよね?」
矢津さんはどこからか、藁で編まれた首飾りを取り出した。驚いて、私は咄嗟に肩にかけていた鞄を開き、中を探す。ない。鞄のどこにも、首飾りがなかった。
「それ、いつの間に!?」
「今日の昼渡された」
「すみません、返してください!」
「…どうぞ」
矢津さんが言うと同時に、私は首飾りをひったくるようにして取り戻す。
「…木札とか首飾りとか、多分佐野は…」
矢津さんが言い終わる前に、私は教室を飛び出した。急いで下駄箱に向かう。大きな音を立てながら慌ただしく靴を履き替えると、学校を出た。
走りつつ、突っかけたままの状態の靴に足をねじ込む。普段運動などしないため、ちょっとの距離でもう息が切れる。それでもなんとか足は止めずに、私はアパートまで急いだ。
駐車場を抜け、共用通路に足音を響かせながら、102の裏手を目指す。途中で木札を乱暴に手に取った。やがて目的地に着くと膝に手をつき、私はゼエゼエと呼吸をした。
草だらけだったはずのそこはいつの間にか、比較的綺麗になっている。祠の前には案の定佐野さんがいて、地面に円を描いていた。私に気がつくと顔を上げ、笑顔になる。
「雅ちゃん。なんでここにいるの?」
「矢津さんから聞きました」
「そっか。ごめんね、勝手に学校出ちゃって」
「…一人でやるつもりですか?私も手伝います」
「…」
「それ、何やってるんですか?」
佐野さんは先ほどから地面の上に、木の棒を使って何かを描き続けている。
「旧校舎の額に書いてたのをやってる」
「…」
佐野さんの家で見つけた文書には前文があった。それのことだろうが、私はもう何が書かれていたのかあまり覚えていない。
だが校舎にあった他の額とは違い、内容が異質だったため、一部分だけははっきりと覚えている。「一、当家のもの」そう書かれていた。蔵で見つけたものと繋がっているのならば、これも火によって清めろということか。
ただそれが、「物」なのか「者」なのかが重要だ。大方どちらであるかの予想はついたが、違っていてほしくて、恐る恐る聞く。
「…あの、額に書いてた、当家のものってなんですか?」
「…」
佐野さんは描くのをやめ、手を止めた。
「佐野家の人ってこと。血を継いでる人を生贄に捧げるの」
「…」
何も言えなくて、息を呑む。
「…佐野さんがやるつもりですか」
「うん」
「私だって血を継いでますよ。逆じゃダメなんですか」
「……蓮舫?」
「は…?今真面目な話をしてるんですけど」
佐野さんは目を逸らす。
「焦土は勘当されてるでしょ」
「でも親子は親子です。血に勘当とか関係ありませんよ」
そう言うと、佐野さんは顔をしかめて、私の方を見た。
「誰かが火をつけた後、そのままにしておいたら火事になるでしょ。放っておいても勝手に火は消えない。別の誰かが火を消さないといけないんだよ」
「でも雨が降ったら火は消えます」
「屋内だったら消えないよね?」
「え…え、でも、今そういう話をしてるんじゃないんです」
「屁理屈を捏ね出したのは雅ちゃんじゃん」
「佐野さんが変な例え話をするからですよ!」
感情的に叫ぶが、逆に佐野さんは、何も問題ないというように真顔だった。いつでもすべてが予定調和かのように冷静で、腹が立つ。
「なんで佐野さんがやらなくちゃならないんですか?私が…」
「強情だね。雅ちゃんにそんなことさせたくないんだよ」
「嘘ですよね」
「なんでそう思うわけ?」
佐野さんは珍しく眉間に皺を寄せ、イラついたような声を出した。
とにかく話を聞いてほしくて、咄嗟に彼を否定しただけだったが、怒りに触れてしまったようだ。もしくは食い下がったからか。なんにせよ、私は怯む。
「だって…それは…」
「分かるでしょ?誰かのために犠牲になるなんて言いたくなかったし、ここに来てほしくもなかった」
「…」
「秋子さん連れて、離れててくれる?火使うから」
「佐野さん」
「…」
「佐野さんがやる必要はないじゃないですか。別の方法を探しましょう」
なおも食い下がると、佐野さんは大きな溜め息をついた。
「俺の家ってさ、おかしいんだよね。人を殺してきた家系というか。何人かに一人は焦土みたいに、頭のおかしな奴が生まれてくるんじゃないかと思う。俺の家がなければ、こんなことにはならなかった」
「…佐野さんはおかしくありませんよ」
「どうかな。おかしくないとしても、だからこそやるんだよ。いずれ誰かが後始末をしなくちゃならない」
どちらも強情で、聞く耳を持たなかった。このままでは堂々巡りだ。それに佐野さんは、もうこれ以上は受け付けないというように、また手を動かし始める。
私はその場に突っ立ったまま、口を噛んで下を向いていた。だが考えがまとまると、息を吸って声を出す。
「じゃあ!!」
無理にでも聞いてもらおうと叫ぶと、狙い通り佐野さんはこちらを向いた。だが思っていた以上に声が大きくて自分でもびっくりしたため、咳払いを挟んで声量を調節する。
「じゃあ最後だと思って、私の憶測を聞いてください。中世でもないのに、生贄とか火で清めるとか、現代ではとても信じられない行為を、佐野さんにしてほしくないですけど…。せめて話くらいは聞いてください」
「…」
彼は何も言わなかったが、「嫌だ」と言われたわけでもないため、無言を肯定と受け取り、私は勝手に話を始めた。
「…木札は、まがり様を呼び寄せるためのものでしたよね。だから旧校舎で札を取った後、私は首の曲がった人を見たし、アパートに木札を戻す時も、同じような人を見ました。でも102の壁に札をかけた途端、その気配が消えたんです。どうしてでしょうか?」
私は佐野さんの口調を真似して、問いかけた。彼はこちらを見たまま、何も答えない。
「私が旧校舎で見たのは、制服を着た女の子です。その子以外の人も見たし、たくさんの囁き声も聞きました」
「…」
「まがり様はいたんでしょう。でもそれは何年も前のことです。今私たちを襲っているのは、もしかするとまがり様ではなく、これまで生贄にされてきた、たくさんの人達なんじゃないでしょうか」
佐野さんは目を瞬く。
「私はきっと、こう思うんです。焦土さんが、えっと…十六年前に102で儀式を行ったことで、生贄を捧げる条件は果たされたんじゃないかと」
「…」
「ちゃんとしたお葬式はしなかったみたいですが、多分火葬はしたはずです。…えっと、そうですよね?佐野さんの家は。鳥葬…とかしてます?」
「いや…」
「あ、よかったです。よかったのかは分からないですけど…。えっと、で、だからこのアパートは、それによって、儀式の場所になったんです」
「…儀式の場所?」
「はい。ちょっと呼び方が稚拙ですけど…。儀式の途中の場所というか…。とにかくアパートには木札、祠、首飾りが揃っていて、当家の血を継ぐ生贄も捧げられた。だとすると、図らずもすべてが揃っていることになるんです。あとはここで、物品を燃やすだけなんじゃないでしょうか」
「木札の説明にはなってないけど」
「これからするんですよ」
黙っていろとばかりに、私は佐野さんを制した。彼の蔵を訪れた時からずっと考えていたことを、また頭の中で整理する。
話す順番がしっかりとまとまらない中、私は必死に言葉を出した。
「儀式の犠牲になった人たちは、すべてが清算されるのを待っています。だから儀式の途中となったこの場所に、アパートに、木札が戻ってくることを望んでいた」
「だから、木札を102の壁にかけたら、怪異の気配も消えたって?」
「はい。それが正しいことだから。…もう一度物品を揃えて、儀式が正しく行われ、すべてが終わることを望んでいた。…木札がこの場所から消えたのは、たくさんの人たちにとって正しくないことで、きっと戻すように訴えていたんですよ」
私は後ろに組んでいた両手を前に出した。右手には木札を、左手には首飾りを掴み、それを佐野さんに見えるように掲げてみせた。
「それ…」
「禍も、生贄も、利用されてきた人たちはこの場所が、道具が、利用してきた当家の人が、消し去られることを願ってます」
佐野さんは下を向く。私はそのまま、前に進んだ。
「佐野さんは誰のことも利用してません」
「…」
「だから、佐野さんが何年も前から続く家の因縁を背負う必要はないんですよ」
言って、勢いをつけると、私は足を後ろに引き、ボロボロの祠目掛けて振り上げた。
硬いものが足に当たる感触があり、古い祠が崩れ落ちる。石は音を立て、地面に落ちた。
私はその場に立ち尽くして下を見、崩れ落ちた石の残骸を眺める。
「雅ちゃんってさ…」
視線だけを動かして佐野さんを見ると、彼は驚いたのか、目を見開いていた。
「…頭いいよね」
「…」
「これ…」
佐野さんは祠を見やる。私は頭を上げ、汗がダラダラと伝う顔を彼の方に向けた。
「どうしましょう…。ヤバい…」
「…え」
「流石にやりすぎだったかも…」
「…自分で蹴ったんじゃん」
「まさか壊れるとは…」
彼は困惑したような表情を浮かべる。それから手に持っていた木の棒を捨てると、祠の方に歩み寄った。
「呪われるかも…」
「来て」
佐野さんに手を掴まれ、後ろに引っ張られた。視界から祠が遠のく。
「貸して」
言うと、私は手に持っていた木札と首飾りを奪われた。佐野さんはそれらを崩れた祠の上に置き、ポケットからライターを取り出す。
「…燃やすんですか?」
「うん。雅ちゃんの憶測には納得いったから。これだけにしとく」
「よかったです」
「…首飾りも燃やしちゃうけど」
彼は振り返ると、遠慮がちに私に言った。
「いいですよ。それも燃やさないと、終わりませんから」
私はできるだけ軽い口調で話す。首飾りが儀式に使われていたことを知る前は随分大切にしていたが、もう未練はない。佐野さんを促した。
「けど石って…燃えるんですか?」
「燃えないよ。でも別に灰にしろってことでもないでしょ。火を使えとは書いてたけど、燃やして悪いものを清めろって意味だと思うし」
「そ、そうですか」
「特に指定はなかったけど、切り火じゃなくてライターだし、あとで埋めようか」
「あー…そうですね…?あの、アパートは…」
「草はある程度除去したし、アパートとの距離もあるから大丈夫だよ」
「用意周到ですね…」
言いながら、佐野さんが燃料を撒き、火をつける様子を見守った。
少しずつ炎が上がると、彼は後ろに下がり、私の横に並ぶ。そのまま何も言わずに、私たちはただ、赤い火に包まれて焼かれていく祠と道具を眺めていた。
風が緩やかに吹いていたが、不思議と炎は流されない。まっすぐ伸びてどこにもいかず、そこにあるものを、懸命に焼き尽くそうとしているようだった。
立ち昇っている煙のあとを追い、視線を上にやる。白いそれは上空にいくほど澄んで、やがては消えた。空と混ざる瞬間、境界線ははっきりしないが、煙とは別の何かも、私には見えた気がする。
なぜだか匂いもしなくて、佐野さんと二人でずっと眺めていた。ふと気になって横を見ると、彼と目が合う。
「なんですか?」
「いや、終わったなって」
「佐野さんのおかげですよ。…旧校舎で会ってからずっと、お世話になりました」
「どうしたの?会えなくなるわけじゃあるまいし」
「そうですけど。でも本当に、ありがとうございます」
「…ありがとう」
私がお礼を言ったのにも関わらず、お礼を返されて戸惑う。いつものように、「いいよ」と言われると思っていた。
「あの、佐野さん」
「何?」
「ずっと気になってたんですけど、どうして初めて会った時、佐野さんは旧校舎にいたんですか?暇つぶしとは言ってましたけど、佐野さんのことですから、何か他に理由がある気がして、気になるんです。それに祠の前にいて、急にまがり様について話し出した時も。どうしてあの場所に…」
「ああ。あれは、元々雅ちゃんの家に行って、話そうと思ってたんだよ。その前になんとなく祠に寄っただけ。あの後で家に行くつもりだったよ」
「そうだったんですか。…ちょっと怖かったんですよ。まがり様が来たんじゃないかと思って」
「ごめんね」
「いえ、全然。結果としていろんなことが分かって、助かりました。それに水面さんの家に運んでくれた時も…」
本当に、佐野さんに助けられることは多かった。振り返ってみると短い間に色々起こり、感謝を伝える暇もなかったかもしれない。
せっかくだから今のうちにすべてを清算しようと、私は様々なことを思い出す。そして節々に、疑問を感じた。
「…そういえば、スマホの履歴を見たんですけど、佐野さんへの電話、かかってなかったんです…」
「本当に?俺の方にはかかってきてたけど。怪奇現象が起きてたのかな」
「そうかもしれないですね…。怖い…」
「怖いね」
「…あ、佐野さん」
「ん?」
「旧校舎にいた理由、まだ聞いてませんよ」
「ああ」
「佐野さんはどうして、旧校舎にいたんですか?」
「…」
「…」
「…どうしてだと思う?」
佐野さんは答える気がないのか、私の方を見てただ笑った。