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 放課後、私は急いで教室を出た。そのまま早歩きで下駄箱まで進んでいく。

 靴を履き替えるとすぐに高校の敷地から出て、塀沿いに隣接する東西小学校の旧校舎を目指した。

 そこには滅多に人が訪れない。時折学校の行事などで広いホールが使われるが、基本的には誰もいない。

 だから昼休みに一度様子を見に行ったのだが、その時に私は大切なものを落としてしまったらしい。なくすなんてことになったらと、ソワソワとした気持ちになる。

 急ぎ足で進むと、木造の校舎を取り囲むコンクリート塀に、ようやく終わりが見えてきた。

 だがそこから敷地内に入ろうとして、私は足を止める。

 校舎の玄関近くの壁に、誰かがもたれかかって立っているのだ。よく見ると私と同じ東西高校の制服を着ている。その男子生徒は真剣な顔で、手に持った携帯を見つめていた。

 金髪だ。ヤンキーかもしれない。

 私は塀の影に隠れ、様子を見守った。怖くてとても、「探し物をするのでどいてください」とは言いに行けない。

 とりあえずしばらく待ってみるが、彼が動く気配はない。このままでは時間を無駄にするだけだ。

 頭を捻って、何か策はないかと考える。結果、物音を立てて別方向に誘導する案を思いついた。だが彼が戻るまでの間に落としたものを見つけるのは難しいし、そんな耳だけ良いモンスターみたいな扱いでどうにかなるとも思えず、諦める。

 なら先生が来たとか適当な嘘をつくのはどうだろう。考えて、これもまた無理だと気づく。

 まず私にはろくに友達がいない。人に話しかけるのですら勇気がいるのに、ヤンキーに話しかけるなど到底無理だ。それに嘘がバレた時の報復が怖い。

 もういっそ、明日探しに来ようか。いや、一刻も早く見つけなければならない。しかし都合良く解決策が浮かぶわけでもなく、一向に状況は変わらなかった。

 半ば途方に暮れかけて、いなくなっていやしないかと、私はもう一度ヤンキーの様子を窺う。するとその時、目が合った。マズいと思いすぐに視線を逸らす。塀に体を隠してやり過ごそうとするが、努力も虚しく、声をかけられた。

「ごめん、俺邪魔だった?ここ使うんならどくけど」

 想像とは違い低姿勢だ。予想外の声かけに驚き、私はどもりながら返事をする。

「い、いや、大丈夫です。ちょっと落とし物をして…」

「落とし物?…よかったら俺も探そうか?」

「え、いや、いいですよそんな」

 初対面の人に手伝ってもらうのは申し訳ないし、何より気まずい。それに落とし物以外にも、私には探しているものがある。

 ヤンキーの申し出を断るが、彼は携帯をポケットにしまうと、私の前まで歩いてきた。

「君が一人で探してる中、俺だけ携帯見てるの気まずいじゃん。手伝うよ」

 親切だ。ヤンキーはみんなこうなのだろうか。こういうタイプの人と接した経験がないため、申し訳なさも相まって、私はガチガチに緊張する。

 そして早く何か言わなければと、慌てて考えた。断ることばかりが頭を回ったが、せっかくの親切を無下にするのも良くないだろうか。長考の間を唸り声で繋いだ後、私はこのヤンキーの厚意を受けることにした。

「すみません。お願いします」

「うん。何落としたの?」

「えっと…首飾りです」

「どんなやつ?」

「えー…紐が藁、みたいなので編まれてて、鉱石というかえっと、なんていうのかな…何か、何かの石、みたいなのが付いてるやつです」

 自分で言っていて意味が分からなかった。絶対に変なものを探している根暗な奴だと思われたと、勝手に想像して傷つく。

「この辺りで落としたの?」

「はい。旧校舎の入り口辺りで」

「分かった。じゃあ手分けして探そう」

「あ、ありがとうございます」

 言うと、ヤンキーはすぐに旧校舎の玄関付近を探し始めた。私も少し距離を取って、近くを探す。

 昼休みに訪れた時は入り口辺りを主にウロウロしていたが、そういえば校舎の東側にも行った記憶がある。思い出すとすぐに、私は地面を注視しつつ、東の方へ移動した。

 旧校舎とはいえ現在も使われているため、敷地内の草はあらかた刈られている。流石に塀付近の草は伸び放題だが、ここを通ったりはしていないため、草むらに落ちているということもないだろう。早めに見つけて、もう一つのものも探さなければ。

 下を向いて首飾りを探していると、やがて地面に終わりが見えた。

 いつの間にか、旧校舎の壁際まで移動していたらしい。顔を上げると、等間隔に並んでいる窓が視界に入った。つい気になって、中を覗いてしまう。

 廊下が見える。当然、誰もいない。放課後とはいえ夏だからまだ日は高く、太陽の光で埃がくっきりと見えた。

 窓に手をかけて開けようとしてみるが、鍵がかかっており動かない。昼にも確認したが、やはり中には入れないようだ。

 移動して別の窓からも中を覗いてみる。しかし想像していたようなものは何もない。日に焼けた机があったりなかったり、それだけだ。

 ため息をついて、また窓をガタガタとやってみる。だが案の定開かない。やっぱりダメだ。

 肩を落として、私は後ろを振り返った。

「何やってるの?」

「うわ!」

 目の前に、金髪の彼が立っていた。思わず失礼な反応をしてしまう。

「首飾り、あったけど。これだよね?」

「え」

 彼は手に見覚えのあるものを持っていた。藁で編まれた、不恰好な首飾りだ。

「それです、それ!どこにあったんですか?」

「玄関辺りに落ちてたよ」

「本当ですか、ありがとうございます。大事なものなので、助かりました」

「いえいえ。見つかってよかったよ」

 そう言うと、彼は微笑んだ。最初こそ怖いと思ったが、良い人のようだ。

「…気になったんだけどさ、その首飾りって、つけてて痛くないの?」

「え、さあ…。鞄に入れて持ち歩いてるだけですから。お守りなんです、これ」

「そっか」

 私は受け取った首飾りをちょっと見つめ、それから鞄に入れた。そのまま、彼が立ち去るのを待つ。

 しかししばらく経っても、私達はその場を動かなかった。謎の膠着状態が続く。

 もしかすると彼も私と同じように、まだ何か用事があるのだろうか。

 そう思いつつ、必要以上に鞄の中を掻き回して時間を稼いでいたが、ついに手持ち無沙汰になる。そのままお互い無言で向き合い、居た堪れない空気になった。変な汗が出てくる。

「まだ何か用事があるの?」

 黙っていると、彼が口を開いた。

「いや、えっと…あの、あなたは?」

「佐野」

「え?」

「名前。佐野って言います」

「ああ。佐野さんも何か用事があるんですか?」

「俺は暇を潰してるだけ。君は?」

「私は…まだちょっと探し物を…」

「いや、名前」

「え?」

「名前なんて言うの?」

「あ、(みやび)です」

「雅ちゃん。いい名前だね」

「…。あの、私まだ探し物をしてて」

「うん。何探してるの?」

「…ちょっと変かもしれないんですけど…」

「変?」

「はい。…お札を探してるんです」

「お札?」

 佐野さんは鸚鵡返しにする。

「あの、旧校舎の怪談って知ってますか?」

 そう言うと、彼はすぐに反応を示した。

「旧校舎の怪談って確か、教室にお札があるとか、夜になるとまがり様が山から降りてくるっていう?」

「あ、そうです。それです」

 どこの学校にも七不思議などの怪談があるように、この東西小学校旧校舎にもありがちな怪談があった。七つもあるわけではないが、何十年も前、まだ校舎が使用されていた頃、誰かが教室の後ろにかけてあった額縁の裏に、お札を見つけたらしいのだ。さらには校庭に使用されているわけでもない小さな祠もあることから、まがり様と呼ばれる怪異を封印するためのものだという噂が出回った。

 その存在がどういったものであるのか、具体的には定かでなかったが、とにかく旧校舎で目撃される幽霊は昔からそう呼ばれている。

 もちろんこの怪談は私と佐野さんの通う東西高校でも有名だ。何せ小学校と高校は隣接しており、行事の際には私たちも旧校舎を使うことがある。学生であれば誰でも敷地内を行き来できるため、自然、このことは肝試しや怖い話のネタにされてきた。

 しかも最近になってまた、旧校舎付近で夜中に人影を見たなど、怪談が広まっているらしい。

「雅ちゃんは、その怪談に出てくるお札を探してるんだ?」

「はい。なので昼休みに校舎が開いてないかと思って、確認に来たんです。でもやっぱり入れなくて」

「その時に首飾りを落としたんだ?」

「はい…」

 私はちょっとバツが悪くて俯いた。

「こっちに来て」

 黙っていると、佐野さんは突然そう言って校舎の玄関まで進み、私の方を向いて手招きした。困惑するが、素直に従い、私は玄関まで進む。

「あの…?」

「肝試しに来る奴とか、防犯の意味で、普段はどこも鍵が閉まってるんだよね。でもあそこ、見える?」

 言いながら、佐野さんは玄関の扉から右、少し上の方を指さした。視線をやると、そこには木枠に嵌められた窓がある。

「そこだけ鍵かかってないの。ちょっと待ってて」

 そう言うと、佐野さんは窓枠に手をかけた。背が高いからこそ成せる技だ。私には届きそうもない。羨ましく思っていると、彼は窓を横にずらして開けた。そのまま軽くジャンプして、壁に足をつきながら登っていく。

 呆気に取られているうちに、佐野さんは窓をくぐり、中に入った。よっこいしょという声と共に、着地したような音も聞こえる。

 私はどうすれば良いのだろう。戸惑っていると、玄関の扉が開き、佐野さんが出てきた。

「どうぞ」

「え、すみません。ありがとうございます」

 お礼を言いつつ、おずおずと中に足を踏み入れる。校舎内は埃っぽくて、独特の匂いがした。蒸し暑い。私は佐野さんの方を見て尋ねる。

「あの、いつも勝手に入ってるんですか」

「いや。初めて入るよ」

「え?」

 侵入方法から見てそんなわけがないと思ったが、私は言葉を飲み込んだ。

 校舎の中には、窓から日の光が差し込んでいる。携帯を確認すると、十六時半だった。まだ外は明るい。

 明るいはずなのに、それがなんだか埃の舞う校舎とはアンバランスで、不気味に感じる。真正面に続く廊下を見つめると、所々に落ちる影がまるで人のようで、足が震えた。

 普段賑やかそうな場所が閑散としていると、なぜこうも恐怖を感じるのだろうか。

 元々お札は明るいうちに一人で探すつもりだったが、今隣に佐野さんがいなければ、私は恐怖で死んでいたかもしれない。冗談ではなく。

「あの、佐野さん」

「何?」

「…初対面で図々しいとは思いますが、よければお札を探すのを手伝ってくれませんか…?あの、できればでいいので」

 できれば、ではなく絶対に一緒に来てほしかったが、こういう言い方しかできなかった。来てくれ来てくれと祈りながら、佐野さんの返事を待つ。

「いいよ。暇だし。俺がいないと戸締りできないしね」

「本当ですか、ありがとうございます。助かります」

「いいよ」

 佐野さんは笑顔で返事をする。

「ところでさ、雅ちゃんはなんでお札を探してるの、とかは聞いちゃダメかな」

「えっと…」

「話したくないならいいけど」

「いえ。ただそれもまた、ちょっと変なんです。それでもいいなら…」

「聞くよ」

 私は携帯で時刻を確認した後、なるべく手短になるよう考え、話しを始めた。

「あの、私は母と二人でアパートに住んでるんですけど、そのアパートっていうのが、いわく付きで…」

「…」

「あ、私の住んでる部屋じゃないですよ。隣の部屋です」

「ああ、うん」

 突拍子もない話のため、私はしきりに佐野さんの様子を窺いながら喋る。彼の表情は特に変わらない。

「最近、夜になると、その隣の部屋から時々、物音がするようになったんです。隣室には誰も住んでいないはずなのに」

「ええ?」

「変ですよね。母も私も、怖くて眠れなくて。母に至っては不眠のせいか頭痛がするって」

「引っ越さないの?」

「…うち、お金ないので…」

「…そっか」

「…えっと、隣室には元々、部屋の壁にお札がかけてあったらしいんですけど」

「お札が?」

「はい。そのお札が最近、なくなっていたらししいんです」

「それは…」

「…原因としか考えられませんよね。だからお札をなんとか探してみようと思って。なんでもいいから情報を手に入れられないか、調べました」

「うん」

「それで、その途中、ネットの掲示板で気になる記事を見つけたんです。なんでも東西小学校の旧校舎にあるお札が、二つに増えたと」

「増えた?」

「はい。怪談でよく言われてるお札は一つなんですが、書き込みをした人が確認したところ、二つあったらしいんです。真偽は定かでないですが…」

「…だからアパートのお札が、旧校舎に移動したんじゃないかって?」

「はい。自分でも突飛な考えだとは思います。アパートと旧校舎の怪談を繋げるなんて。でももう、そうとしか考えられなくて」

 母の体調のこともある。たとえ関係がなかったとしても、探してみることはしたかった。

「そのお札はどこにあるの?」

「分からないです」

「は?」

「す、すみません。お札のある教室までは分からないんです。額縁の裏にあるとしか…」

「うーん…じゃあとりあえず、一階から順に探してみようか」

「あ、はい」

 さっさと進み始めた佐野さんのあとについて、私も校内を見て回る。

 明るいはずなのにやはり不気味だ。とりあえず一番手近にあった教室を二人して覗いてみたが、額縁は確認できなかった。佐野さんはこちらを振り返る。

「額縁ってさ、何が入ってるの?絵とか?」

「うーん、分かりません。額に入ってるものと言ったら、絵や賞状のイメージがありますから、多分そんな感じのものだと思うんですけど…」

「ええ?本当にあるんだよね?」

「あ、ありますよ。多分…」

「多分?」

「いや、あります。掲示板の人はあるって言ってましたから」

「本当かな…」

 佐野さんは不安そうに声を漏らし、また前を向いて進み始めた。

 教室はすべて、私たちの進行方向から見て右手側に位置している。先ほど確認した教室を通り過ぎてまっすぐ進むと、また同じ作りの教室が現れた。窓ガラスから額縁が見えはしないかと、覗き込む。

 すると教室の後方に、木でできた額を発見した。私は佐野さんに声をかけ、すぐに扉に近づいていく。

 鍵がかかっているかと思ったが、意外にも教室の扉はすんなり開いた。しかしスムーズに開いたと言うわけではない。立て付けが悪いのか、もう滑らなくなっているのか、扉はいちいちどこかに引っかかって開きづらかった。

 その振動が他の箇所にも伝染し、静かな校舎にうるさい音が響き渡る。

 やっとのことで中に入ると、私は一直線に額縁の前まで向かった。佐野さんもあとからついてきて隣に並ぶ。

 見ると、筆で書かれた縦書きの文字が紙に並び、大事そうに額に収まっていた。絵や賞状ではない。

「これ、論語だね」

「え、読めるんですか」

 佐野さんの方を見る。紙に書かれた文字は、グチャグチャとしていて読みづらかった。私には簡単なひらがなしか理解できない。

「読めないけど、習ったでしょ?」

「そうでしたっけ?」

「…。朋遠方(ともえんぽう)より来たる有り、()た楽しからずやってやつ」

「あー…。でもそんなの小学生の教室に飾って意味あるんですか?文字もグネグネしてて読めないですよ」

「まあ、確かにそうだね」

「それより早く裏を見てみましょう」

 私は額縁に手をかけ、そっと浮かして持ち上げる。なんなく壁から離れた。

 少し緊張しながら裏返してみたが、そこには木材でできた薄い板があるだけで、他には何も見当たらない。

「ないね。次行こうか」

 額縁を壁に掛け直し、佐野さんと一緒に教室を出る。

 そのまま歩いていくと、右手に階段が見えた。素通りしようとするが、一応佐野さんに声をかけてみる。

「佐野さん。階段がありますけど、まだ奥にも教室があるので、先に一階を全部見て回っちゃいましょう」

 彼は軽く頷いて、返事を返してくれた。先ほどまでとは違い、何か話しかけやすい。なんとは無しに、なぜだろうと考える。

 しかしすぐに階段先の教室に着いてしまったため、意識はそっちの方へ引っ張られた。

 今度は佐野さんが額を発見したようで、私に知らせてくれる。この教室にも鍵はかかっていない。というか、もとから鍵がついていないようだった。

 東西高校の校舎では、玄関にはもちろん、教室一つ一つにも鍵がついて管理されているため、少し不思議に思う。

 東西小学校の旧校舎は人家でもないし、外から入れないよう大元の入り口にも鍵はついている。しかし私達のように勝手に入ることは可能なため、結果的に鍵がないのは大変そうだ。古い校舎だからだろうか。

 その割に、廊下に面している窓にはしっかりと、ネジみたいなものをクルクルして閉めるタイプの鍵がついている。そういえばこれの名前はなんと言うのか。

 どうでも良いことに気を取られているうちに、佐野さんは既に教室の中に入り、額の裏を確認していた。急いで私も近くに行くが、彼はもう確認を終えたようで、額を壁に戻すところだった。

「ありました?」

「いや」

 あっさりとした彼の答えを聞いて、残念に思う。額縁をぼんやりと見ながら、もっとペースを上げて教室を見て回るべきかと考えた。

 相変わらず額には筆で書かれた小難しい文字が並んでいる。漢字とカタカナで構成されているそれは、見ただけでげんなりするし、読む気にもならない。

 どの教室にも、この額や先ほど見た論語のような、格言めいた言葉や文を飾っているのだろうか。

 ふと気になって、私は佐野さんに問いかけた。

「これはなんのやつですかね」

 額を指さしながら、佐野さんの方を見る。

 彼はちょっと驚いたような顔で私を見ながら、答えてくれた。

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」

「…」

「学問のすすめ」

「ああ、あの…」

「福沢諭吉」

「ああ!一万円札の。知ってますよ」

「うん」

 佐野さんは少し笑いながらそう答えると、あとは何も言わず、教室を出ようと、私を促した。

 廊下に出てからすぐ、隣に続く教室も確認したが、額の裏には何もなかった。

 私は段々と、お札が見つからなかったら佐野さんになんと言えば良いのかと、そんなことを考え始める。

 一階にある教室は今確認したものですべてだ。廊下の突き当たりにはまた階段がある。

 自信をなくしつつ、私は佐野さんと共に二階へ続く階段に足をかけた。

「そういえばさ」

 隣を歩いていた佐野さんが話しかけてくる。前後に並んで歩いていた時よりも、遥かに話しやすかった。

 いつの間にか佐野さんは隣に並んでいたのだ。いつからだったかは思い出せない。人の後ろばかりを歩く私には新鮮で、同時に緊張もする。

「旧校舎の怪談って、夜になるとまがり様が来るって言われてるよね。あれなんでまがり様って呼ばれてるんだろう。ただの幽霊でしょ?」

 思いもよらないことを聞かれて、一瞬口ごもる。なんと答えたら良いのだろう。

「…確かにそうですね。なんででしょう…。昔からそう言われてるので、名前の由来なんて考えたことなかったです」

「昔から」

 佐野さんは呟くように、私の発言をまた鸚鵡返しにした。私は特に気にせず、話を続ける。

「クラスの子の話では、首が曲がった幽霊だから、とか言われてましたけど。でもただの怪談ですから」

「首が曲がってる幽霊ねぇ…」

 佐野さんはなんだかぼうっとしながら、言葉を繰り返し呟いていた。もうこの話題には興味がないのだろうか。

 階段を上り切って二階の教室に向かいながら、私は彼の表情を確認する。と同時に、身震いもした。

 旧校舎に来てから時間が経っているため、廊下が暗く見えて不気味なのだ。

 携帯の時計は十七時近くの数字を示していた。まだ九月だから、真っ暗闇というわけではない。だが先ほど自分が話した怪談によって、私の中の恐怖は増していた。

 旧校舎を回りながら怪談話などするものではないと後悔しつつ、できるだけ早足で廊下を進む。佐野さんは私の焦りように気がついたのか、何も言わずに歩幅を合わせ、隣を歩いてきてくれた。

 二階の教室も一階と同じく、教室数は四つのようだ。階段を起点にして、順に見て回る。うち三つの部屋には額縁があったものの、相変わらずお札は見つからない。私は佐野さんに対して罪悪感を感じながら、二階最後の教室に入った。

「天は(みずか)ら助くるものを助く」

 額縁の前に立ち、佐野さんは呟いた。

「これはなんのやつですか?」

「さあ?分かんない」

「え、でも読めるんですか」

「雅ちゃんも読めるでしょ」

「…佐野さんは古文とかも読めるんですか」

「読めないよ」

 佐野さんは真顔で言いながらサッと額を外し、ひっくり返して見た。そして「あ」と言う。

「え、なんですか?ありましたか」

 期待と恐怖を抱きながら尋ねると、佐野さんは頷いて、私に額の裏側を見せてくれた。

 そこには確かに、古びて変色したお札があった。紙には所々に亀裂が入っている。紙面に筆で何か書かれていたが、私には読めない。

「雅ちゃん、これ持って帰るんだよね?」

 佐野さんはなんでもない風にお札を指しながら言った。

 私は旧校舎の入り口で、「絶対にお札はある」と言い切ったことも忘れ、本当にお札があったことに青ざめて、若干反応が遅れる。

「そ、そうですね」

 答えたものの、本当に持ち帰っても良いのだろうか、という考えが頭に浮かぶ。だが母のこともあるため、悪いことであろうと、どうしてもお札は欲しい。それに元々アパートにあったものならば、尚更お札を戻すことは必要だ。

 私は恐怖を拭い去り、これは正義に基づく行いだと自分に言い聞かせる。

 それからお札に手を伸ばそうとするが、そこで一旦止まり、また考えた。

「あの、佐野さん。お札は二つあるので、もう一つをちゃんと見つけてから、どちらか一枚だけを回収したいんですけど…」

「え?なんで?」

「いや、その、お札が二つあるって言うのが嘘の可能性もあるじゃないですか。私がネット掲示板で見つけた情報ですし…。一つしかないお札を持ち帰るのはダメですよ」

「持って帰ればいいじゃん」

「何言ってるんですか。お札っていうのは理由があってその場所にあるんですよ。元々アパートにあったものなら戻すのは当然ですけど、そうじゃないのに勝手に剥がしたりしたら、ま、まがり様の怒りを買うかも…」

「…」

「…いや、あの、だいぶ手伝ってもらいましたし、もう帰るんでしたら、全然…。私のわがままで付き合ってもらってますし…すみません」

 自分で彼について来てほしいと言っておきながら筋の通らない主張をしてしまい、私は急に申し訳なさに襲われた。なんてことを言ってしまったんだろうかと後悔し、弁明を試みる。自分が非常識で情けない人間に感じられ、自己嫌悪に陥った。

 佐野さんは元々、私に付き合う必要などないのだ。暇だからとついてきてくれたが、もう飽きて帰りたくなっているかもしれない。

 私は焦った思考回路で可能な限り自分を下げ、佐野さんに帰る選択を促した。同時に、一緒に来てほしいという思いも押し付ける。本当は絶対に帰ってほしくなどなかった。恐る恐る佐野さんの顔を窺う。

「確かに勝手に持ち帰ると罰当たりだね。もう一つ見つけてからにしよう」

 彼は口元に手をやりしばらく考えていたが、突然そう言うとさっさと教室から出ていこうとする。私は驚いて声をかける。

「え、あの、一緒に来てくれるんですか?」

「そうだよ。二階の教室はここで最後だし、三階に行こう」

「佐野さん!」

「何?」

「ありがとうございます」

「いいよ」

「佐野さん…!」

 感動した。総理大臣のようにそう思い、その気持ちを繰り返し心の中で唱えた。

 並んで歩きながら、また階段を上る。空はまだ明るい。

「佐野さん、本当にありがとうございます。一人じゃ多分、三階まで見て回れなかったです。そもそも校舎の中にも入れなかったかも…」

「いいよ。雅ちゃんはお母さん想いなんだね」

「…母には凄く感謝してますから。あ、もちろん佐野さんにも凄く感謝してますよ。正直最初に見た時は、非常識なヤンキーかと思いましたけど…」

「凄い失礼だね」

「すみません」

「いいよ。分かっててこの髪色にしてるし」

「あ、でも、今見るとめちゃくちゃカッコいいですよ。私も金髪にしたくなってきました」

「嘘っぽい。てか雅ちゃんはその髪色でいいじゃん。俺黒髪好きだよ」

「そうなんですか?私は佐野さんみたいな髪の人が好きですよ。怖いですけど、強そうで憧れます」

「非常識なヤンキーでも?」

「佐野さんは非常識なヤンキーではなかったので…」

「それもそうだね」

 話しながら、階段を上り切った。

 また教室巡りに取り掛かる。どうやら三階の教室も全部で四つのようだ。

 まず一番手前に位置する教室を覗いてみる。やはり額縁があったが、お札らしきものはない。次に入った教室にもなかった。三つ目に入った教室にも。

 私は掲示板の情報がデマなのではないかという不安に駆られるが、佐野さんは気にする様子もなく、廊下の一番奥、最後の教室に入っていく。

 私もそれに続くが、佐野さんが額の前に立ったまま動かないのを見て、不思議に思った。そのまま並んで、佐野さんと一緒に額を見る。

 今度の文字も、筆で達筆に書かれていた。だがこれまでの額入りの書写とは違い、これはいよいよ本格的な古文書のように見える。何一つ読めない。

「佐野さん?あの…これなんて書いてあるんですか?」

「一、当家のもの

 円五尺程。書の通り印の真中に立つべく候」

「どういう意味ですかね?」

「さあ」

「でも佐野さん、やっぱりこういうのも読めるんですね」

「読めないよ」

「凄いです。頭いいんですね」

「…えー?ありがとう」

 佐野さんは言いつつ額縁に手を伸ばし、それを壁から取ると裏返した。

「あ、あったよ」

「え」

 驚いて覗き込むと、そこには確かにお札、というよりも木札のようなものがあった。二階で見つけた物同様、墨で文字が書かれている。媒体は違うが、これもれっきとしたお札のようだ。

「本当に二つありましたね…。しかもこれ、書かれてるの、紙じゃなくて木ですよ」

「そうだね。どっちがアパートにあったものか分かる?」

「え、えっと…」

「分かんないか」

「すみません…」

「とりあえずお札は二つ見つかったし、こっちの方を持って帰ってみる?」

 佐野さんは額縁の裏から取った木札を手に持ち、私に見せた。

「えっと…」

 どちらがアパートにあったものなのか、しっかりと確認してから持ち帰りたかったが、言えるわけがなかった。私がちゃんと、アパートにあったお札は紙と木のどちらでできたものなのか、調べておくべきだった。

 ここまで佐野さんに付き合ってもらっておいて、どっちか分からないので持ち帰るのはまた今度にしましょう、などとは到底言えない。佐野さんからすれば完全に骨折り損だ。

 私は早く返事をしなければと焦った末、思考を放棄した。

「そ、そうですね。そっちを持って帰りましょう…」

 勢いで言ったも同然で、言い終えてすぐに後悔する。もしもこの行動、選択が間違いだったなら。そう考えて冷や汗が出る。

 だが言葉は取り消せない。私は肩にかけていた鞄を軽く掛け直し、ゆっくりと佐野さんの方へ手を伸ばした。木札を受け取る。

「よし。じゃあ帰ろうか。そろそろ暗くなってきたし」

「え?」

 佐野さんの発言を聞いて、思わずそう言った。

 まだ空はかろうじて明るかったはずだ。旧校舎に入ってからしきりに窓を確認していたため、間違いはない。

 昼のように明るくもなければ、夜のように暗くもない。かと言って夕暮れでもない。じゃあなんなのかと言われると私にも分からないが、とにかく微妙な色合いの空を見たはずなのだ。

 日の光はずっと建物に入ってきていたし、校舎内はいまだに蒸し暑い。

 だが窓の外を見てみると確かに、もう空は日没間近のような色合いをしていた。紺色が目立ってきている。私は携帯を取り出して画面を覗き込む。液晶には数字で、十八時三十分と表示されていた。

 思わず驚く。いつそんなに時間が経っていたのだ。私は佐野さんに声をかけると木札を鞄に入れ、急いで教室を出た。

 何に焦っているのか自分でもよく分からなかったが、とにかく目的を達成したからには、すぐにでも外に出たいという気持ちが強くなった。暗い旧校舎の中を歩くということに対して、急に恐怖を感じ始めたのだ。

 三階の廊下を早足で歩き、階段に向かう。

「まさかこんなに暗くなってるとは思いませんでした。ついさっきまではまだ十七時だと思ってたのに」

「いつの間にか、かなり時間が経ってたんだね」

「すみません。私が色々言ったせいで長引いてしまって」

「え?別に遅くなるのはいいじゃん。夜の学校ってワクワクするでしょ?」

「…」

 私は口を半開きにして、佐野さんを見た。

「そういえばさ、その木札を見つけた教室、丁度窓から見える位置に祠があるらしいんだよ。不思議じゃない?二階で見つけたお札には、別に何もないのに」

 佐野さんが突然そんなことを言ったため、私は立ち止まった。

「なんで今そんなこと言うんですか!?めちゃくちゃ怖いじゃないですか!」

「え?ごめん」

「…いや!いいですよ、全然いいですけど…それより早く外に出ましょう。私本当に帰れなくなりそうです」

 私は鞄から携帯を取り出し、また時間を確認した。そしてそのまま、ライトをつける。

 もう旧校舎はかなり暗かった。階段を降りるのも一苦労になりそうだ。

 そしてまた、確認するのが癖になっているのか、私は窓に目を向けた。日は入ってきていない。もう一度窓越しに外を見ようと、そばまで近づいていく。

 その瞬間、ブワッという音が頭の中で響き、耳元で反響した。それが全身に広がり、一瞬のうちに冷や汗をかく。

 目が合ったのだ。旧校舎三階の暗い廊下、そこから窓の外を見ると、何かと目が合った。砂や砂利が敷き詰められた地面、草の生えた雑草地と裏山を背にして、誰かが立っている。

 制服を着た女の子のように見えた。見えた、というのはその人が視界に入ってからすぐに目を逸らしたため、そう言い切れる自信がないからだ。

 私は下を向き、そのまま動かない。絶対にもう窓に目をやりたくなかった。少しでも動けば死ぬような気がした。

 だが恐怖に負けて、窓を視界に入れないよう慎重に後ずさる。

 異常なのは彼女の首だった。奇妙なのだ。首が伸びて、折れ曲がっていた。

 本当に見たのは一瞬だったにも関わらず、それだけが鮮明に記憶に残っている。今すぐにでも頭の中からその光景を忘れ去りたかったが、そうしようとすればするほど、伸びた肌色と逆さになった顔、その表情を思い出した。

 いやに体が熱い。私は窓を見ないよう細心の注意を払いつつ、懸命に佐野さんを探した。

 意外にもすぐ近くにいて、彼の体が目に入る。私は咄嗟に佐野さんの腕を掴んだ。

「どうしたの?」

 佐野さんは私の行動に怒るでもなく、呑気に返事をした。なんだか自分の状態とはかけ離れた反応で、彼に対して一瞬、理不尽に腹が立つ。がそれよりも、一刻も早くここを出たくて焦った。私は可能な限りの小声で、異常事態を伝える。

「窓。外に、外にいます」

「何が?」

「人が」

 幽霊が、と言うと幽霊の怒りを買いそうで、私は言葉を慎んだ。昔テレビで、心霊スポットに行って無礼な行為をした人が呪われたという話を見てからは、心の中でさえ失礼があってはいけないと注意を払うようになった。それはもう、払い過ぎなくらいに払った。

「窓の外。見てください」

 なんとか佐野さんにも私が見たものを確認してほしくて、そう言った。もしも私にだけ見えている、ということにでもなったら発狂する自信がある。

 私は窓を見ないようにしていたため佐野さんの足元しか目に入らなかったが、彼が振り向いて窓を確認したことは分かった。服が擦れる音がする。息を呑んで、何か言ってくれるのを待った。

「誰もいないよ」

「…」

 そんなわけがない。本当にいた。信じてほしい。言いたいことは山ほどあったが、何も口には出せなかった。心の内で、なんでなんでと連呼する。

 私がダラダラと汗を流して固まっていると、佐野さんは再び口を開いた。

「とりあえず外に出よう。雅ちゃん、歩ける?」

「…なんとか」

「…なんで小声なの?」

 佐野さんも私に釣られたのか、声を低くする。

「見つかりそうじゃないですか」

「何に?」

「人に」

「…」

 佐野さんは階段の方に体を向けた。私はまだ腕を掴んだままだったが、彼は気にしていないのか、そのまま歩いていこうとする。

 私も、すみませんともなんとも言わなかった。普段なら謝っていただろうが、焦っているためそれどころではない。

 歩いていく佐野さんについて、私も進む。だがもうすぐで階段というところで、突然微かな物音がした。気がした。私は掴んでいた佐野さんの腕にギュッと力を込める。

 佐野さんは少し顔をしかめたが、何も言わずに立ち止まった。

「何か聞こえなかった?」

 私は黙って頷く。佐野さんにも聞こえていたようで、ちょっと安心する。

 そして同時に考えていた。あの制服を着た人物を窓の外で見かけた時からずっと、木札を額縁の裏に戻すべきではないかと。

「佐野さん」

「何?」

「下に行くのはやめましょう」

「なんで?」

「窓の外に、確かに誰かを見たんです。本当です。外には出られません」

「うーん」

「お札を戻しましょう。すぐに」

 そう言った途端、旧校舎中に、床が軋むような、ギィという音が響いた。

 意識するよりも先に私の体は跳ね、大声で叫んでいた。その勢いで、佐野さんの腕を強く引っ張ってしまう。どこに行こうということも考えていなかったのだが、とにかくこの場を離れようとして、知らぬ間に一歩後ずさっていた。

 そしてその後で、自分の想像以上の悲鳴と行動に、自分でびっくりして固まる。

 佐野さんは目を丸くして私を見ていた。

「…」

「…」

「…すみません」

「いや、いいんだけど、一回腕離してくれない?」

 そう言われて、私はようやく佐野さんの腕を離した。掴んでいた手首には、私の手形が赤くついてしまっている。

「本当にすみません」

「俺もびっくりしたよ。家鳴りかな」

「そんなわけなくないですか」

「そう?それよりお札、戻しに行くんだよね」

「はい」

「じゃあ行こう」

 佐野さんは言うが早いか、すぐに歩き出した。その瞬間、置いていかれる恐怖がこれでもかというほど湧き上がってきて、私はまた彼の腕を掴んだ。

「うわっ」

「待って!なんでなんでなんで!?どこ行くんですか!?一人で行動したら死にますよ!」

「分かった、ごめんごめん。ちゃんと一緒に行くから安心して。置いていこうとしたわけじゃないから」

 私は佐野さんのことを信じられないという風に睨んだが、少し経つと腕を離し、隣に並んだ。

 二人でお札を見つけた教室に戻る。恐怖から、気づかないうちに私の息は荒くなっていた。

 先ほどの物音は家鳴りということにしてとりあえず飲み込んだが、今度説明のつかないことが起きたら、もう動けなくなりそうだ。

 物事の起こった詳しい原因や理由がはっきりしないと、怖くてずっとその大元探しに頭が支配される。そうなってしまうともう、無理矢理にでも理由付けをしないと動けない。今のはなんだなんの音だと、見えない誰かに縋りつき、泣きたくなるのだ。ポルターガイストなんて信じたくない。

 へっぴり腰でジリジリ移動する私のスピードに合わせて、佐野さんはゆっくりついてきてくれた。ちょっと笑っているようにも見える。

「雅ちゃん、大丈夫?」

「大丈夫に見えますか。さっきの音本当に家鳴りなんですか。科学的に説明してください。不安で夜も眠れませんよ」

「…校舎出た後家まで帰れるの?」

「言わないでください。考えないようにしてたのに…」

 さっき三階を回った時よりも大幅に時間をかけ、私達は教室に辿り着いた。これ以上暗くなる前に、早くここを出なければ。教室の中をライトで照らしながら、額縁に近づいていく。

 外では風が吹いているのか、校舎の窓がガタガタと鳴った。私はビビりながら、木札を鞄から取り出す。何度も佐野さんが隣にいるかどうか確認しつつ、慎重に額縁を外した。

 窓の音は鳴り止まない。私を焦らせる。次第に恐怖が増長していき、手が震えた。

 額縁の裏に木札を置いて壁に戻そうとするが、札は固定されていないため、音を立てて地面に落ちる。小さな音でさえ大きく響いたように感じられた。すぐに木札を拾ってまた額縁に戻すが、どうしても壁にかけられない。

 なぜという疑問と焦りと恐怖と苛立ちで涙目になりながら、何度も震える手で木札を戻そうと躍起になる。

「雅ちゃん、ちょっと落ち着いて」

 同じことを繰り返していると、見かねたのか佐野さんに止められた。

「貸して」

 佐野さんは私から木札を受け取るとそれを額縁に嵌め、壁に戻した。私の時とは違い、すんなりと木札は額縁に収まる。

「佐野さん…!」

「うん」

「ありがとうございます…」

「いいよ。行こうか」

 佐野さんは私を待って、それから一緒に教室を出た。窓の音はもうしない。風が止んだのだろうか。

 廊下に出ると、まずその暗さにびっくりした。日は完全に落ちてしまったようだ。辺りはすっかり暗闇に包まれ、光はどこからも入ってきていない。

「暗いから気をつけて進もう」

 佐野さんの言葉に頷く。手に持った携帯のライトを照らしながら、廊下を歩いた。ゆっくりと階段を降りていく。

 玄関に近づくにつれ、私の緊張は高まった。窓から見たあの人物がいたらどうしようか。そんな不安が拭いきれず、立ち止まりたくなる。ここにいつまでもいるのも嫌だったし、かと言って外に出るのも嫌だった。

 せめて校舎を出る時は一人にしないでほしい。そんなことは無理だと分かっていながら、佐野さんの顔を何度も確認して、挙動不審になる。

 やがてようやく、私達は玄関に到着した。佐野さんは扉を開け、私にそこから出るように促す。

「雅ちゃんは先に出て待っててくれる?俺は鍵閉めてから出るから」

 しかし私は意を決し、抵抗した。

「佐野さん、あの、一緒に出ませんか。鍵は明日私がなんとかして閉めるので。今日は二人で出ましょう」

「なんとかしてって、どうやって?」

「踏み台か何か持ってきます。なので不用心ですけど、今日はもう帰りましょう。一人にしないでください」

 思わず本心が出る。

「怖いんだ?」

「すみません。本当に怖いんです。鍵閉めてもらってる間、一人になるじゃないですか。耐えられないんですよ。一緒にいてください。ずっと一緒にいてください!」

「告白みたいだね?」

「もう帰りましょうよ!」

「落ち着いてよ。十秒で戻るから」

 そう言って、佐野さんは私を旧校舎から出そうとする。私は必死で彼にしがみつき、それを拒んだ。

「待って佐野さん!本当に待って!行かないでください!一人にしないで!」

「大丈夫だって。怖いだろうけど、本当にすぐ戻るから。あ、ついでに俺のスマホ持っててくれない?落とすと怖いから」

「待って!佐野さんをここに置いていってください!腕だけでもいいですから!なんなら魂でも!」

「じゃあちょっと待っててね」

 佐野さんは強引に私に携帯を預けると、そのまま玄関の扉を閉めた。鍵をかける音が聞こえる。

 こうなったら仕方がない。私は外に出されてすぐに校舎の壁際に寄り、木壁を背にして立った。後ろを振り向くとそこには…ということがないよう、万全を期すためだ。それに後ろが壁だと、気持ち的にも、本当に少しだが楽になる。

 佐野さんが戻ってくるまでの間、私は急いで携帯で可愛い動物の画像を検索した。だが通信環境が悪いのか、なかなかネットに繋がらない。この待ち時間が余計に怖く感じられ、私はすぐに諦めて携帯の電源を落とした。

 辺りを見回す。夕方に見た旧校舎とはかなり雰囲気が異なる。時刻は十九時。もう夜だ。風に揺られて、近くに生えている雑草が揺れていた。

 何もないのに、何かが現れてきそうで私は息を呑む。視界の端に映る自分に影に怯えた。

 そうして過ごすうちに、横の窓から物音がして悲鳴を上げる。が、すぐに佐野さんだと気がついた。彼はまた「よっこいしょ」と言いながら、小窓から降りてくる。

「佐野さん!無事に帰ってきてくれてよかったです。本当にすぐでしたよ」

「でしょ?じゃあ帰ろうか」

「はい」

 旧校舎の門扉は閉まっているため、一旦東西高校まで移動する必要がある。私は急いで旧校舎の敷地を出ると、裏門の前で佐野さんを待った。ここまで来ると、なぜか根拠もなく大丈夫な気がしてくる。

 もう少しすれば警備員さんが鍵を閉めにくるだろう。呑気に歩いてきた佐野さんを急かし、私達はようやく学校から外へ出た。

 しかしどちらも歩き出すことはなく、しばらくの間沈黙が続く。

「…帰らないの?」

「あの、佐野さん、今日は本当にありがとうございました。そして遅くまで付き合わせちゃってすみません。もうこんなに暗いですけど、ご両親に怒られたりとかしませんか」

 私の言葉を聞いて、佐野さんはちょっと変な顔をした後、笑った。

「え?怒られないよ。別に気にしないで。普段からこれくらい帰るのは遅いし。雅ちゃんの方こそ大丈夫?」

「私も大丈夫です。ただ…」

「…」

「あの、佐野さんって家どっち方面ですか?」

「雅ちゃんは?」

「あっちです」

 私は東西高校から右に続く道を指さした。

「じゃあ行こう。送るよ」

「え?」

「え?」

「送るって?」

「家まで送るって意味だよ」

「そんな!そんな、いいですよ」

「なんで?」

「だって、いいんですか?」

「いいよ」

「本当に大丈夫ですか。私さっきから怖い怖い言って迷惑かけてますけど」

「一人で帰らせる方が怖いでしょ。早く帰ろう」

「佐野さん…!」

「…」

「イケメンですね」

「え、ありがとう」

 冗談抜きで、佐野さんが神様に思えた。私の目には確かに、彼から後光がさしているのが見える。こんなにも紳士的な男性がいただろうか。男性と全く関わったことがないため他の例を知らないが、私は頭の中で佐野さんを褒めちぎる。

 そして並んで帰り道を進みながら、最初彼に偏見を持っていたことを後悔した。

「あ、雅ちゃん、そういえば携帯」

「ああ、どうぞ」

 私は預かっていた携帯を手渡す。彼はそれを受け取りながら、私の方を見た。

「結局、お札は手に入らなかったけどよかったの?」

「…よくはないですけど、いいんです。身の安全が第一ですから。それに一番の目的である首飾りは見つかったので」

「そう。ならよかったよ」

「はい。アパートの件はまた考えます」

「…そういえば、雅ちゃんが見た人って誰だったの?」

「え?」

「三階の廊下で、誰か見たって言ってたよね」

 言われて、またあの人物のことを思い出す。今日はもう絶対に眠れないと悟った。

「…なんだったんでしょう。もしかしたら、まがり様かもしれません」

「まがり様」

 あと少し進めば車通りの多い道になるが、まだこの辺りには街灯もなく暗い。

 再びちょっとした恐怖心が私の中に湧き上がった。後ろを振り向いて、あの人物がいたらどうしよう。そう思い始めると、もう後ろが気になって仕方なくなる。

「この話はやめましょう」

 佐野さんのことも心配になった。もしも帰り道が逆方向であるならば、佐野さんはまた旧校舎の前を通り過ぎて帰らなければならない。ただでさえ怖いのにそれは恐ろしすぎる。私は逆に、佐野さんを家まで送り届けたい気持ちでいっぱいになった。

「佐野さん、あの、帰り道大丈夫ですか?よかったら送りますよ」

「え?それじゃ意味ないでしょ」

 佐野さんは私を見て笑う。

「俺は雅ちゃんみたいに幽霊を見てないから、まだ怖くないよ」

「よかったです。じゃあ何か面白い話してください」

「…無茶言うなぁ」

「いや、忘れようとすればするほど、思い出しちゃって。気を紛らわせたいんですけど、うまくいかないんです」

「面白い話ねぇ…。明日でもいい?」

「明日?」

「明日までに考えてくるから、また会おうよ」

「え、どこで…」

「学校で」

「佐野さんは何年生なんですか」

「二年。雅ちゃんは?」

「同じです」

「じゃあ昼休みに会いに行くね」

「え」

「友達とお昼食べる予定でもある?」

「ないです。友達いないので」

「…そっかぁ」

「…」

「雅ちゃんのアパートのこととか、旧校舎で見たっていう幽霊のことも知りたいし、それも明日聞かせてよ」

「え、いいですけど…でもなんで」

「面白そう」

「…」

「雅ちゃんにとっては只事じゃないって分かってるんだけど、何か気になるんだよね」

「…分かりました。じゃあ明日また会いましょう」

 アパートまで無事、佐野さんに送ってもらう。私はやはり彼の帰り道が心配だったが、意外にも家はここから近いらしく、心配しないで良いと宥められた。

 それから帰り際、佐野さんともう一度、明日会う約束をした。ここまで何度も約束をすると明日にも死にそうな気がしてくるが、とりあえず私は頷いておく。

 それに友達と呼べる人と約束をするのは、私にとって大変喜ばしいことだった。そのことを考えると恐怖が和らいだし、何より高校の友達は一生の友達になるとも言う。だから意識をそちらに移すと、ニヤケさえできた。

「佐野さん、今日は本当にありがとうございました。送っていただいて」

「いいよ。じゃあまた明日」

 玄関前で佐野さんを見送って、私はアパートの扉を開けた。


 気がつくと、私は草の生えた道を歩いていた。サンダルで柔らかい雑草を踏む音が聞こえる。

 視線は下を向いていて、ここがどこなのかは分からない。ただそれを疑問に思ったりはしなかった。

 目の前に映るのは自分の手と、それを掴んでいる誰かの腕だ。私は誰かに手を引かれて歩いている。

 私の手は普段見知った自分のものよりも小さくて、まるで子供の手のようだった。

 それにどういうわけか、顔を上にあげることができない。とにかく視線は下がったままで、どこか分からない獣道を、誰かと一緒に歩いているのだ。

「戻ってきてくれてありがとう」

 どこからか、不貞腐れたような声がした。私のものではない。男の子の声だった。私の前を歩き、手を引いている子かと思ったが、どうやら違う。

 おかしなことにこの声は、私から発されたように聞こえるのだ。

「アキちゃんのこと、好きだったんだよね」

 今度は前から声が聞こえた。

「…うん」

 私ではない誰かが小さくそう言った時、目が覚めた。

 無意識に、時計を確認する。目覚ましが鳴る三十分前だ。いつもなら二度寝をするところだが、今はそんな気にもなれない。

 目覚ましを切る。私は掛け布団をどかすと起き上がり、それを畳んだ。

 夢の中で私――正確に言うと私ではないが、手を引いていた男の子の声は、なんとなく佐野さんに似ていた気がする。

 といっても昨日会ったばかりのため、そんなに声を覚えている自信もない。

 夢をこんなにはっきりと覚えていることも、私にしては珍しかった。しかし大した夢ではなかったため、きっとすぐに忘れるだろう。

 私はそばにあった母の布団を避けて、居間に向かった。


 四時間目の終了を知らせるチャイムが鳴った時、私の緊張は限界まで高まっていた。

 佐野さんが会いにくる。昨日三時間も行動を共にしたとはいえ、今まで友達とお昼を食べたことのない私は、緊張を通り越してもはや吐きそうだった。

 昨夜から、何を話そうかとか、そんなことばかりを考えている。正確に言うと旧校舎の幽霊のことについても考えていたのだが、二つのことがあまりにもかけ離れていたため、考えている間中、私の頭は混乱していた。つまり眠れていないし、何もまとまっていない。

 席に座ってクラスの子達が一斉に動くのを眺めながら、私はキョロキョロと落ち着きなく廊下を見回した。

「雅さん」

「え!?はい!?」

 急に声をかけられてびっくりする。急いで声のした方を向くと、机の前に一人、女子生徒が立っていた。同じクラスの子だ。

「佐野君が呼んでるけど」

「え」

 彼女が指を廊下の方に向けたため目をやると、そこには確かに佐野さんが立っていた。周囲から浮いた、派手な髪色の頭が目立つ。

 私と目が合うと、パッと笑顔になって手を振った。ただ本当に私に向かってかどうか確信はない。勘違いだったら恥ずかしいため、手は振り返さなかった。

 女子生徒にお礼を言い、私は席を立つ。佐野さんのもとへ行こうと、教室の出入り口に向かった。

 その間、笑うつもりなどなかったのだが、なぜか目が合う度に面白くなってしまい、私は微妙な顔をして笑う。だが中途半端に笑いを堪えようとしたためか、いつも以上に酷い顔になったかもしれない。そう思い直して、すぐに下を向いた。

「佐野さん、こんにちは」

「こんにちは」

 佐野さんは特に変わらず、お弁当を手にして私と向かい合っている。

「昼ご飯持った?」

「え、はい」

「じゃあ行こう」

「どこにですか?」

「実習棟の空き教室」

「え?」

 私はお弁当を入れた袋を持ち、言われるがまま、佐野さんについていく。

 てっきり、私か佐野さんのどちらかの教室で食べるのかと思っていた。

「空き教室って、勝手に使っていいんですか?」

「いいよ。使う代わりに掃除するって言ったら、許可もらえた」

「してるんですか?」

「どう思う?」

「…」

「穴場なんだよね。クラスにいるとうるさいし」

「あー…確かに…?」

 言い淀みながら、私はあることを思い出した。

「あの、佐野さん」

「何?」

「昨日、鞄とか大丈夫でした?」

「鞄?」

「はい。会った時から持ってなかったですよね。校舎に置いてきちゃったんですか?」

「いや。俺学校に鞄持ってきてないよ」

「え?」

「教科書は全部教室に置いてるし、いつも財布と携帯だけ」

「…課題は?」

「学校でやってる」

「…」

「あ、内職じゃないよ?」

 自分の常識では考えられないような学校生活を送っている佐野さんが、見たことのない生物のように感じられた。そしてそんな人と一緒にお昼を食べられることを誇らしく思う。

 やがて佐野さんは教室の前で立ち止まり、扉を開けた。

 ここが目的地のようだ。中に入ると少し埃っぽかったが、普段使っている教室となんら変わりはない。

 ウロウロと挙動不審に動き回っている間、佐野さんは机を寄せて、さっさとお昼の準備を始めていた。私も慌ててそれを手伝う。

 その後で向かい合って座り、机の上にお弁当を置いて蓋を開けた。タイミングを見計らって、私は彼に声をかける。

「あの、昨日私が話したこと、信じてくれますか」

「ん?」

「幽霊を見たって話です」

「ああ。まがり様かもしれないっていう?」

「そうです。家に帰ってから、一睡もしないで考えてました。でも今思うともしかして、私の言ってることは馬鹿ばかしいんじゃないかと思って」

「でも見たんでしょ?」

「見なかったことにできませんかね」

「それを俺に言われても」

「…あの人はなんだったんでしょう」

「さあ。どんな人だったの?」

「…」

 あの時見た光景がフラッシュバックする。思わず目を瞑りたくなるが、眉をひそめるだけにとどめた。

「お札は持ち出せませんでしたが、他になんとかできないでしょうか…」

「そうだなぁ…アパートのいわくの方は?」

 そう聞かれて思い出す。佐野さんを怖がらせるかと思って、いや、本当は私が怖いから言い出さなかったのだが、まだ話していなかった。もし昨日幽霊を見ていなければ、すぐにでも話していたのだが。

 私は少し躊躇した後で、口を開く。

「私の住んでるアパート、隣室で十六年前に、住人が亡くなったらしいんです。その人は首が曲がって亡くなっていたとか…。それから住人の部屋でお札が見つかって、アパートはいわく付きと呼ばれるようになりました。噂ではその住人は、何かの儀式?をしてたんじゃないかって言われてます」

「儀式?」

「はい。その辺りは本当に噂で、真偽は分からないんですが…。それに昨日私が見た人も、その…首が…ちょっと、その…」

「首が曲がってた?」

「…」

 私はただ頷いた。鳥肌が立つ。

「怖くなってきたね」

「はい…」

「他に何か気になることは?」

「あ、もう一つあります」

「何?」

「掲示板のことです」

「えっと…お札が二枚あるっていう書き込みの?」

「それです。その書き込み、実は論争が起こっていて」

「論争?なんか大事になってるじゃん」

「あ、そんなに大層な話ではないですよ。お札が一枚だって言う人と二枚だって言う人で、喧嘩が起こっただけの話で」

「…そうなんだ」

「お札を見たことがあると言う人は結構いたんです。三人くらい。ただみんな、お札の場所に関して主張がバラバラで、それがちょっと気になりました。額縁の裏というのは変わりないんですが、教室の位置についてです。二枚あったと言う人は、奥の教室とか真ん中の教室とか。あとの二人は、お札は一枚だったという主張で、教室の場所は六のニだとか、五の一だとか」

「ちんぷんかんぷんだね」

「はい。でもとにかく、この情報に賭けてみようと思って。まさか本当にあるとは」

「うーん…」

「…」

「雅ちゃんってさ、東西小学校に通ってた?」

 突然そんなことを聞かれ、少し戸惑う。

「え?はい。新校舎の方ですけど」

 佐野さんもそうだろうか。

「結構人数に変動があって、教室の位置とか変わらなかった?一年生は二組だったけど、翌年には三組にまで増えてたり」

「えー…どうでしたっけ?」

「俺はそういう記憶あるなぁ。旧校舎の方でもそうだったんじゃない?各階に教室は四つでしょ。大抵三階が六年生と五年生。一階が一年生と二年生。もしくはその逆」

「渡り廊下から行ける別棟にも、ホールや教室がいくつかありますよ」

「それは一旦省こう。もし年度ごとに使う教室が変動してたんだとすると、そのせいでお札を見た場所がバラバラになってたのかもしれない」

 佐野さんの考えに、私は納得する。確かにそうかもしれない。しかしすぐにその思考は覆った。

「…二枚あるって言ってた人は、どうして奥とか真ん中とか、位置で教室を示したんでしょうか」

「うーん…。別棟にはホールがあって、今でもよく使うけど、それに引き換え本校舎の方はあんまり使われてないよね」

「はい」

「使われてないから、教室を示すプラカードもなくなってた。お札は一枚だと言ってる人達がいつ、どんな方法で確認したのかは知らないけど、見たのがかなり前のことなら、その時はまだ教室の表記が残ってたんじゃないかな。だから二枚だと言う人は比較的最近確認して、教室の番号が分からずに、位置で説明したとか」

「はあ」

「それに旧校舎の敷地って、学校関係者以外は入れないようになってるでしょ。だから通ってた人にしかお札を見ることはできない。いつから旧校舎の教室番号を示すカードがなくなってたのかは分からないけど、最近確認できたなら、掲示板に書き込んだ人はまだこの学校にいるかもね」

「…え?」

「そいつは『お札が二つに増えた』って書き込んだんでしょ?じゃあ少なくとも2回は確認してる。というかそもそも、全員が教室の位置を伝え合えば喧嘩にならずに済んだのに、なんでだろう」

 佐野さんは考え込んだ。

 私はというと、話が別方向に舵を切り始め、やはり困惑する。だがその可能性があるということは、書き込みをした本人に直接話を聞けるチャンスもあるということだ。

 またも巡ってきたお札チャンスに、恐怖と若干の喜びを抱く。もしかするとこれで、隣室の不審な音も、母の体調も、解決に向かうかもしれない。そう思い直した。

 私はほとんど食べ終えた弁当の残りを突きながら、彼に向き直る。

「あの、書き込みをした人が、お札をアパートから移動させた可能性は?」

「それはどうかなぁ。そういう物好きな奴って何か…」

「探せば見つかりますかね?」

 私は机に身を乗り出して、佐野さんにそう聞いた。彼はちょっと固まっていたが、しばらくすると何か思いついたかのように口を開く。

「いや」

「やっぱりしらみつぶしに探すのは無理でしょうか…。三年生ですかね。それとも東西小学校の誰か…。先生って可能性もあるかも」

 佐野さんは黙ったまま、私の言葉を待つ。

「人が多すぎますね…」

「そうだね」

 諦めずに探せば見つかるだろうが、やはり時間がかかる。こう言う時に頼りになるのが、やはり佐野さんだ。人脈が多そうというのもあるが、何より彼は頭が良い。かもしれない。私は再度、佐野さんに意見を仰いだ。

「あの、もう一度、旧校舎に行くっていうのはどうでしょう?」

「え?」

「本当はもう絶対に行きたくないですけど、母のことが心配で。ちょっとでも何かしたいんです。今度は休みの日、お昼の明るいうちに行って、お札は持ち出さずに掲示板の人が来るのを待ってみるとか…」

 旧校舎に肝試しに来る人は、恐らくもう滅多にいない。それにまだ気温は高く、蒸し暑いのだ。待つというのは到底無理そうな提案だったが、彼は意外な反応を示した。

「まあ、いいんじゃない?」

「え、本当ですか」

「うん。旧校舎の門は閉まってるけど、高校は部活で裏門が空いてるし、なんとか入れるかも」

「また一緒に行ってくれますか?」

「いいよ。お昼に集合で」

 佐野さんはお弁当を片付け始める。

「あ、そういえば俺、怪談が好きな奴知ってるから、今度紹介させてよ」

「え、本当ですか」

「うん」

「ありがとうございます」

 私は感謝の念を込め、佐野さんを見つめる。彼とお昼を共にする前はあんなにも緊張していたのに、知らぬ間に、何も考えずに話せるようになっていた。


 学校を出て、正門に向かっていた。佐野さんとの会話を思い出し、一人で反省会をする。見つかった反省点を正当化し、精神状態を保ちながら歩いていると、ある違和感に気づいた。

 正門まで残り半分というところ、グラウンドの先に誰かが立ち止まっている。いつもの帰り道の光景が、その人物によって阻害されていた。

 別にグラウンドに人がいるのはおかしなことではない。ただなんとなく、立っている彼女と目が合っている気がするのだ。

 私は気まずくて、下を向きながら、なんでもない風に通り過ぎようとする。

「ねえ、ちょっと待ってよ」

 真横から声が聞こえた。でも私を呼んでいるのではないのかもしれない。そう思って歩いて行こうとするが、手を掴まれた。

「待ってって言ってるじゃん」

 掴まれた手の先にいたのは、東西高校の制服を着た女の子だった。髪は茶髪でクルクル。口には色が付いていた。日焼け対策なのか、制服の上から薄い生地のパーカーを羽織っている。

「はい?」

 可愛い女の子に声をかけられたことに緊張しつつ、九割ぐらいは恐怖を感じながら、彼女の呼びかけに答えた。声が震える。

「あんたコウジと知り合い?」

「工事?」

 今は周辺で工事を行っている場所はない。そう思った後で、コウジとは人の名前であると気がついた。

「いえ。コウジさんとは知り合いじゃありません」

「嘘でしょ。今日一緒にいるところ見たけど」

「え」

 記憶が呼び起こされ、思い当たる人物が頭の中に大きく映る。私が今日一緒にいた人物は一人しかいない。

「もしかして、佐野さんのことですか?」

「え?マジで?あんた名前も知らなかったの?」

 当たりのようだ。彼女と佐野さんの関係について想像してみる。

 まず思い浮かぶ関係性は友達だ。そして次に浮かぶのが恋人。その次は何も思い浮かばない。

「あの、私に何か…?」

「もういいや。名前も知らないんだったら、別にいい。でも一応聞いとくけど、コウジとはどういう関係?」

 どういう関係。初めて聞かれた。

「えー…どうなんでしょうかね…友達…ですかね。私はそう思ってるんですけど、向こうはそう思ってないかも…」

「はあ?」

「どう思います?」

「知らないわよ、そんなの。てかいい?その…友達じゃないんだったら、あんまりコウジと親しくしないでよ」

「あの…佐野さんの恋人ですか?」

「………違うけど」

 恋人ではなかった。じゃあ恐らくこの人は元カノか、佐野さんに片思いをしている人だ。

「佐野さんのことが好きなんですか?」

「なんで初対面の奴にそんなの言わないといけないわけ?」

「え、じゃあ、名前なんて言いますか?」

「なんだっていいでしょ」

「私雅って言います。あの、良ければ佐野さんに彼女いるかどうか聞いてきましょうか。好きなタイプとか」

「…ヤバ」

 彼女は顔を引き攣らせると、足早に去って行こうとする。

「待ってください!なんなら好きな食べ物とかも聞いてきますよ!」

 もう彼女はかなり遠くにいる。

「友達に…」

 言葉が届くことはなく、私は項垂れた。


 土曜日の十三時、私はやかましい東西高校のグラウンドを抜け、旧校舎に向かっていた。

 以前のようにコンクリート塀に沿って歩き、校舎の玄関を目指す。

 だがまたしても私は、目的地の一歩手前で足を止めた。誰かが立っているのだ。佐野さんではない。黒髪だ。

 白い服に黒いズボン。部活生というわけでもなさそうだ。

 私はまた尻込みして動けずにいたが、いつまでもここにいるわけにもいかない。佐野さんが来る気配もないため、勇気を振り絞り、私は立っている彼に近づいて声をかけた。

「あの…こんにちは」

「…こんにちは」

 近づいてみて改めて分かったが、この人はかなり背が高い。だいぶ見上げる形になる。自分を、身長というアドバンテージすらないゴミのように感じながら、彼が何か言うのを待った。

 だが何も言わない。仕方なく、私は言葉をまとめてから、また声をかける。

「あの、あなたはこの場所に何か用事が…?」

「…雅ちゃん?」

「え?」

 彼は私を見下ろしながら尋ねたが、その後は何も発しないため、困惑する。

「そうですけど…」

「…矢津です。佐野の代理」

「え、代理?佐野さん、何かあったんですか?」

「…急用」

「急用?」

「…家の用事」

「家の用事?」

「…」

 まさかの佐野さんが来ないという事実を聞かされ、驚愕する。では私はこれから、初対面の人とここで過ごさなければならないのか。震えてきた。

 友達の友達という立場の人ほど気まずいものはない。だって友達の友達は友達ではないのだから。

「えっと、じゃあ今日はあなたが、私と一緒に?」

「…矢津です」

「あ、矢津さんが一緒に来てくれるんですか?」

「そう」

「あー…すみません。よろしくお願いします」

「よろしく」

 そう言ったきり、矢津さんはまた黙ってしまった。なんだか独特で掴めない人だ。

 だがペースを乱されている場合でもない。今日はここでやることがある。

「あの、佐野さんから、今日何をするかとかは聞いてますか?」

「聞いてない」

「ええ?」

「ただ女の子が来るとは聞いてたから、オシャレしてきた」

「…」

 信じられないほど気まずい空気に押しつぶされそうになる。なんと言えば良いのか分からない。私のような者が来て申し訳ないという謝罪ならできるが、そういうことはきっと聞きたくないだろう。

 私は気味の悪い愛想笑いを浮かべた。

「確かに、オシャレですね」

「…ありがとう」

 矢津さんは真顔だ。言い損みたいで心が砕ける。

「あの、じゃあ今日の予定を話しますね。ここでえっと、人を待つ予定だったんですけど、ちょっと他にもやりたいことがあって。手伝ってくれますか?」

「…内容による」

「…。私、前にこの旧校舎の中に入って、お札を見つけたんです。それで、今日はそのお札の写真を撮りたいなと」

「…なんで」

「えっと…本当はお札を持ち出したいんですけど、それは無理なので、写真を撮ろうかと…」

「…それ効果あるの」

「分からないです。ないかもしれません」

「…」

「あ、でも、神社に持って行ったら、写生してくれるかも」

「…神社に知り合いがいる」

「え、本当ですか」

「本当」

 ここで意外な繋がりができたことを、私は喜んだ。神社の知り合いは心強い。ぜひ紹介してもらいたい。

「…早く行こう」

「あ、はい」

 喜びに浸っていると、矢津さんに急かされた。私は旧校舎の玄関に向かう。だがそこで止まって、一つ問題があることに気がついた。

 矢津さんは旧校舎の中に入る方法を知らない。今更気づいた事実に、私は焦る。矢津さんの方に向き直って、相談を試みた。

「あの、旧校舎に入る方法なんですけど…」

「…任せて」

 そう言うと、矢津さんは玄関の右上にあった小窓から中に入った。佐野さんと同じようにして、内側から鍵を開けてくれる。

「…ようこそ」

「あ、はあ。ありがとうございます」

 中に入る。今日も変わらず、屋内は暑い。

「佐野さんに開け方を聞いてたんですね」

「…いや逆」

「逆?」

 矢津さんが佐野さんに開け方を教えたということか。聞こうと思って矢津さんを探すが、彼は既に先に進み始めていた。

「あ、待ってください。一緒に行きましょう」

「…分かった」

 私は矢津さんの隣に並んで、一緒に歩き出す。

「お札の場所なんですけど、二階と三階の奥の教室にあります」

「…知ってる」

「…」

 会話が終わって、そのまま黙って歩く。矢津さんについて思うことは多々あるし、聞きたいこともあったが黙っておいた。

 しかし私はあることを思い出す。先日帰り道で出会った女の子のことだ。佐野さん本人に聞くことは憚られるが、その友達なら丁度良いかもしれない。

「あの、矢津さん。佐野さんって彼女いますかね?」

「…いない」

「じゃあ元カノとかは?」

「…いる」

「あー…。じゃあ今好きな人いますかね?」

「…さあ」

「え、何か言ってませんでした?そのほら、茶髪の可愛い子がなんとかとか」

「聞いたら教えてくれるけど、あんまりそういう話はしない」

「あ、じゃあ、好きなタイプとか知ってます?」

「…自分で聞いたら?」

 シャッターを下ろされたような対応をされ、心が悲鳴を上げる。

 それに私が佐野さんを好きみたいになってきていてもどかしい。

「そうですね。そうします」

「…」

「あ、ちなみに佐野さんの好きな食べ物は?」

「…寿司」

「普通だ…」

 会話をしながら、階段を上る。今日は明確に目的地が決まっているため、進むのも早い。

 汗をかきながら上り、階段の終わりを目指した。

「雅ちゃんは?」

「え、はい?」

 唐突に話しかけられるが、何を聞かれているのか分からずに戸惑う。

「恋人は?」

「ああ。いません」

「元カレは?」

「いません」

「好きな人は?」

「いません」

「好きなタイプは?」

「優しい人です」

「好きな食べ物は?」

「オムライスです」

「…可愛い」

「そうですかね」

 息が上がる。矢津さんの方を見るが余裕そうだ。体力の違いを感じて、なんだか恥ずかしくなる。

「矢津さんにも同じこと聞いた方がいいですか?」

「恋人はいない。元カノはいる。好きな人はいない。タイプは明るい人。好きなのはカレー」

「…凄い。ありがとうございます」

「彼女は募集中」

「あ、はい」

 階段を上り切り、二階の教室に向かう。扉を開けて、二人で額縁の前まで進んだ。

 私はまだ息が整わず、矢津さんの後ろでゼアハア言っていた。彼はちょっと心配そうに私を見ていたが、「気にしないでください」と言うと、振り返って額縁に手をかけた。ひっくり返して、しっかりとお札があることを報告してくれる。

 ようやく落ち着いた私は額縁に近づき、写真を撮ろうと携帯を取り出した。だがそこで動きを止める。

「…どうしたの」

「いや…呪われませんかね」

「…え?」

「な、何か怖くなってきました。もし写真に何か…何かその、異常事態が起きたら…」

「…じゃあ俺が撮る」

「え」

 そう言うと矢津さんは携帯を取り出して、いとも簡単に写真を撮った。そのまま額縁を戻す。

「…写真を送るのはいいの?」

「あ、心霊写真になっていなければ」

「…じゃあ後で送るから、連絡先教えて」

「…すみません」

「え」

 矢津さんはショックを受けた顔をする。

「え?…あ、いや、代わりに撮ってもらってすみませんって意味です!連絡先ですよね?交換しましょう!」

 私は慌ててそう言うと、矢津さんと連絡先を交換した。初めて携帯に登録した母以外の連絡先に感動し、しばらく画面を見つめ続ける。

 矢津さんは黙ってその様子を見ていたが、しばらくすると痺れを切らしたのか、私に声をかけた。

「…写真は二枚撮るの」

「あ、そうです。二階と三階にあるお札は、それぞれ種類が違うので」

「…アパートにあるお札を探してるんだっけ」

「はい。そこは佐野さんから聞いてたんですね」

「肝心なところは教えてくれないけど」

「…そうですか」

「どっちがアパートにあったのかは分からないの」

「はい。調べてはみたんですけど…」

「…そう。じゃあ三階に行こう」

「はい」

 促され、教室を出る。

 三階の教室に向かって歩きながら、せっかくだから会話をしようと意気込んだ。矢津さんの横顔を見る。

「あの、矢津さんは佐野さんと友達なんですよね?」

「…そう」

「普段どんなこと話してるんですか?」

「思い出せない」

「え?」

「忘れた」

「……えっと、二人はいつから友達なんですか?」

「小学生の頃から」

「あー…へぇ、そうなんですね…へぇ…」

「…」

「…あ、あの、矢津さんは休みの日は何を…」

「無理しないで」

「…すみません」

 気まずい空気が流れる。気を使わせてしまった。

 矢津さんにも思うところはあったようで、今度は彼から話しかけてくれる。

「…雅ちゃんはいつ佐野と知り合ったの」

「つい最近です。いい人ですよね」

「まあ」

「苦手なことなんてなさそうです」

「…褒められるのは苦手」

「…え、そうなんですか」

 そういえば私は佐野さんを褒めた気がする。母の教えによってそうしていたのだが、知らないうちに佐野さんを傷付けてしまったのではないかと不安が過る。褒められて嬉しくない人などいないと思っていた。

「どうして褒められるのが苦手なんでしょう…」

「うまく返せないから、らしい」

「え…意外です」

「自分も相手を褒めたいのに、いつも満足いく返しができなくて、もどかしくなるんだって」

「…」 

 なんて良い人だろう。そんな人類が存在していたのかと、心が温かくなる。多分これまでの人生で、母の次に好きな人類かもしれない。

「度を超えたいい人ですね。あんまりいい人なので、四六時中張り付いて、佐野さんに幸せが訪れる瞬間を見届けたくなりました」

「え、何?」

「矢津さんもいい人ですよね。休みの日にわざわざ付き合ってくれて…」

「…いい人ではないです」

「でも私、佐野さんのこと褒めたかもしれないです。不快にさせちゃったかもしれません」

「…褒めるのはいいこと。不快にはならない」

「そうだといいんですけど…」

 この場にいない人のことを話しているうちに、私たちは三階の教室に着いた。

 額縁の前に行き、また矢津さんに写真を撮ってもらう。

「ありがとうございます」

「…うん」

 これで今日の目的を一つ達成した。携帯を確認する。まだ二十分程しか経っていない。

 この後はしばらく、旧校舎の外に出て掲示板の書き込み主を待つ予定だ。そこまで矢津さんは付き合ってくれるだろうか。

 とりあえず私たちはまた一階に戻り、旧校舎から外に出る。矢津さんが窓から脱出したのを確認してお礼を言うと、私はこの後のことについて話した。

「矢津さん。私はこの後、人を待つ予定なんですが、正直言うと、来るかどうかは分からないんです。なのでかなり待つことになると思うんですが…一緒に待ちますか?あの、疲れたなぁとか思ってらしたら、帰ってもらっても全然大丈夫ですよ。もうかなり手伝ってもらいましたし」

 私は慎重に言葉を選んで、矢津さんの答えを待つ。まだ配慮が足りなかったかもしれないと心配になるが、彼の答えは想定外のものだった。

「…時間による」

「…えっと、時間はとりあえず…来るまで?」

「…誰を待ってるの」

「えっと…」

 私は矢津さんの顔を見る。今日の予定は何も聞いていないと話していたが、どこまで佐野さんに説明を受けているのだろうか。

 アパートのことは知っているようだった。別にすべてを話しても構わないのだが、佐野さんが話したことと重複して、同じことを二回聞かされるのも嫌だろう。私はどう説明すべきか悩んだが、最終的に、掲示板のことだけを話すのに決めた。

「あの、私、お札探しの関係でネット掲示板を調べてたんです。その掲示板に、旧校舎のお札が二枚に増えたと書き込んだ人がいて。今日は端的に言うと、その人がまた旧校舎に来るのを待ってるんです」

「…え」

 矢津さんは怪訝そうな顔をした。表情は特に変わらなかったが、声に棘がある。

 何がそんなに気に入らなかったのか分からない。私は戸惑う。

「あの、矢津さん…?」

「…それ俺なんだけど」

「…え?」

「掲示板の」

「…」

 混乱した。掲示板に書き込んだのは矢津さんだった?

「…それ本当ですか?」

「本当」

 その言葉を聞いて、私はフリーズする。だがちょっと沈黙した後で、歓喜の声を上げた。

「……凄い。その人を待つ予定だったのに、丁度今日来てくれた矢津さんが待ち人だったなんて。こんなことあるんですね。正直これを提案した時は、到底見つかるはずないって思ってました」

「…多分、佐野は知ってたんじゃない」

「え…」

 指摘されて、よく考える。

「そんなことあるんですか?」

「…ある。掲示板のことは話してないけど、旧校舎に行ったことは話した」

「…」

「まあ、目的が全部達成できたのはよかったんじゃない?」

 矢津さんは真顔でそう言った。


「こんにちは」

 お弁当を持って、教室の扉を開ける。

「あれ、矢津さんもいるんですね」

「…こんにちは。そうだよ」

 実習棟の空き教室を訪れると、そこには佐野さんと矢津さんがいた。二人は既にお昼ご飯を広げ、私を待っていたようだ。

 緊張しながら中に入り、椅子に腰掛ける。座って早々、私は休日に起こった出来事を聞こうと、佐野さんの方を向いた。

「佐野さんは知ってたんですか?」

「何を?」

 彼は分からないという風に、真顔でこちらを見る。矢津さんは呆れたように、「…分かるでしょ」と口を挟んだ。

「矢津さんが掲示板に書き込んだ人だったってことです。知ってたんですよね?」

「知らないけど」

 本当に知らないかのような顔をして、佐野さんはシラを切った。その態度を見て急に自信がなくなる。本当に知らないのだろうか。

「え、じゃあやっぱり、矢津さんと出会ったのは偶然だったんですか。何か運命的ですね」

「…そんなわけない」

 矢津さんは面倒くさそうに答えると、パンを頬張った。佐野さんに対して、諌めるような視線を向ける。

「用事があったのは本当だよ。だから矢津に頼んだの。雅ちゃんを一人にするのは心配だったから」

「え、ドタキャンするのは感じ悪いから、矢津さんに頼んだだけですよね」

「…まあその通り。だって俺雅ちゃんの連絡先知らないし」

 佐野さんは弁明したが、私は感動する。絶対に約束は破らないという紳士的な気概を感じたからだ。

 佐野さんはお弁当を食べながら携帯を触りだす。

「雅ちゃん、連絡先交換しよ」

「いいですよ」

 光の速さで話が変わる。私は興奮気味に携帯を取り出した。またも増えた連絡先に、口には出さずに歓喜する。東西高校に入学してからもう一年半経つが、こんなにも喜ばしいことが起こったのは初めてだ。

「…気づいてたなら、言えばいいのに」

 話が逸れてきていることを察知したのか、矢津さんは話を戻す。

「知らなかったって」

「…ええ?」

「当日言おうと思ってたから。あ、あと雅ちゃん」

 矢津さんにまだ満足いく返答をしないまま、佐野さんは唐突に、私に話しかけた。

「なんですか?」

「俺の好きなタイプは奥ゆかしい子」

「え?」

 何を言い出したのかと思ったが、しばらくの間の後、思い出す。そういえば旧校舎で矢津さんに、佐野さんの好きなタイプを聞いた。

「ああ、そうなんですね。ありがとうございます。というか矢津さん、佐野さんにわざわざ聞いてくれたんですか?」

「…気にしてたとは言った」

「ありがとうございます」

「…どういたしまして」

「あ、ちなみに佐野さん。今好きな人とかいます?」

「なんで?」

「え?」

「なんでそんなこと聞くのかなって」

 ただ理由を聞かれているのか、気持ち悪がられているのか判別がつかず、内心ヒヤッとする。佐野さんに好意を持っているであろう、あの女の子のことを話すべきだろうか。そう考えて、しばらく私は葛藤する。

 もしも彼女がまだ片思いをしている段階なら、私から佐野さんにその気持ちを伝えるのはダメだろう。そもそも好意を持っているかどうかすら私の推測のため、迂闊に話すのは良くない。

 だが私はどうしても、あの女の子の名前を知りたかった。知り合いであるなら佐野さんから彼女の名前を聞き出し、あわよくば意識させたい。

 まだうまい説明の仕方はまとまらなかったが、長考するのもいい加減やめようと、私は言葉を選びつつ話しを切り出した。

「帰り道で女の子にあったんです」

「女の子?」

「はい。茶髪で、髪を巻いてて、あとパーカーを着てる美人な子です」

「ああ、水面(みなも)ちゃんかな」

 佐野さんは合点がいったという風に声を上げた。彼女を思い出しているのか、目線は軽く上を向いている。

 私はというと、あまりにも簡単に名前を知ることができたため、少し拍子抜けした。

「水面さんって言うんですね」

「そう。元カノ」

「元カノかぁ…」

 想像していた関係性とは違った。元カノという難しいポジションにいる水面さんに思いを馳せる。私にあんな風に声かけたということは、彼女はまだ佐野さんに未練があるのかもしれない。

 そう思うと俄然、世話を焼きたくなってきた。私は佐野さんを見つめ、話しかける。

「あの、佐野さん。自分のことを好きかもしれないなっていう女の子に、心当たりありませんか?」

「…え?」

「そしてよく考えてみてください。自分もその人のことを好きだったなと」

「え、何?」

「いるでしょう。心に残っている、好きだった人が」

「いや、いないかな」

「え、でも好きだった人はいるでしょう、ほら」

「いないかな」

「元カノがいるって言ってたじゃないですか」

「いたけど」

「じゃあ好きな人いたんじゃないですか」

「どうだろう。付き合ってって言われたから付き合ったけど。好きだったかどうかは分からない」

「…」

 絶句した。この気持ちを共有したくて、思わず矢津さんの方を見る。すると矢津さんも同じく、絶句していた。

「こういう人っているんですね」

「…最低」

「言っとくけど、俺がフラれてるからね」

 佐野さんは私たちに対して、ささやかなる抗議をのたまった。そして私に向き直る。

「雅ちゃんは、水面ちゃんに何か言われたの?」

「何も言われてませんけど…。あ、でも、佐野さんの下の名前がコウジだということは聞きました」

「そう。ウケるよね」

「ウケはしませんけど…いい名前だと思います」

「ありがとう」

「あ、すみません」

「…何が?」

「褒められるの苦手なんですよね?」

「…」

 佐野さんは矢津さんの方を向いた。次に私を見て、そのまま動かない。

 気まずい空気を感じ、急いで話題を変える。

「あー…矢津さんはどうですか?その、えー…どんな、どんな人ですか?」

 焦るあまり、よく分からない質問を投げかけてしまう。矢津さんは何も答えない。かと思ったら、急に口を開いた。

「…金髪で明るい子。出会いはネットだった。今は運命的な出会いを探してる」

「…」

 話が噛み合っていない。矢津さん自身がどのような人物であるのかを聞きたかったのに、また恋愛の話に戻ってしまった。どうやら彼には先ほどの質問が、矢津さんの元カノはどんな人か、という問いに聞こえたらしい。佐野さんはちょっと笑って口を挟む。

「運命的ってどんな?」

「…落とし物を拾ったり、何気なく手が触れ合ったり」

「わぁ、ロマンチックですね」

「でもそういう偶然って、大体は必然だよ。どちらかが狙ってる」

「…夢がない」

「あー……。あの、矢津さんってどんな人なんですか?この前会ったばかりなので、もっと色々知りたいんですけど…」

 物凄く気を使って、また話題を変えた。矢津さんも佐野さんも、それに乗っかってくれる。

「矢津は怪談が好きだね。高校入ってすぐと小学生の頃、旧校舎に侵入してた」

「…怪談が好きなわけではない」

「地域伝承を調べてるんだっけ?」

「…そう」

「へえ、凄いです!それってどんな感じの?」

「…神社」

「神社ですか。そういえば、神社に知り合いがいるって言ってましたもんね」

 私は旧校舎での出来事を思い出す。すると佐野さんが、意外な名前を口にした。

「それって水面ちゃんのこと?」

「…そう」

「え、待ってください。水面さんって神社に住んでるんですか?」

 新しく聞く事実に、私は食いついた。水面さんが神社の子。彼女に関わりたいという思いがまた強まる。

「神社には住んでないけど。確かお祖父さんが、神社の管理をしてたんじゃないかな」

「へえ。じゃあやっぱり、お札に詳しかったりしますかね?」

「どうだろう。まあ神社に関してなら、矢津も詳しいと思うよ」

 矢津さんの方を見る。

「…お札は分からない。けど神社についてなら、一つ気になることがある」

「なんですか?」

 矢津さんはスマホを取り出して、それを見ながら話しを始めた。

「…雅ちゃんが住んでるっていういわく付きのアパート。そこ、神社の跡地らしい」

「え」

 ゾッとする。神社の跡地。だからと言って何かあるわけでもないが、最近物音が聞こえ続ける隣室やお札の件を考えると、どうにも気味悪く感じられた。

「…東西神社。一八七五年創建。一九九六年解体。まがり様という怪物を鎮めるために建てられた。今も祠が残ってる」

「え、嘘。まがり様って…」

 衝撃の事実に唖然とする。

「まがり様に祠ね…。雅ちゃんはアパートで、祠を見たことあるの?」

「ありませんし、あったことも知りませんでした。ただ、アパートの裏手は山なので、あるとしたらそこなのかも。危ないから入らないようにって、よく母に言われてましたが…」

「今度本当にあるかどうか、見に行ってみる?」

「行きませんよ。面白半分で行くべきじゃありません」

「面白半分ではないけど。矢津はどう?」

「…行く」

 信じられない思いで二人を見つめる。

 矢津さんは私から目を逸らすと、誤魔化すように咳払いをして、アパートに関しての情報も喋り始めた。

「…アパートでは十六年前に住民が変死、お札が見つかり、まがり様の儀式を行ったのではないかという怪談ができた。旧校舎と類似点が多くて気になる」

 確かに話を聞くと、旧校舎とアパートには似かよった点が多い。

「まがり様の儀式…。本当にアパートで、そんなものが行われたんでしょうか…」

「…正確には分からない」

「どっちにしろ、アパートにも旧校舎にもまがり様の怪談があるのは不思議だよね。てかまがり様の儀式ってどんなものなの?」

 佐野さんは矢津さんに話を振った。矢津さんはまたスマホを見つつ、それに答える。

「…諸説ある。呼び出すためのものだとも、封印するためのものだとも言われてる」

「よ、呼び出すって…」

 言葉に詰まる。不安から視線をあちこちに泳がせるが、気持ちは落ち着かない。

「その東西神社には、怪談ってなかった?」

「え」

 佐野さんは何か気になることでもあるのか、矢津さんのスマホを覗き込みながら、続けてそう質問した。矢津さんはのけぞってスマホの画面を隠す。

「…調査不足」

「え〜」

「佐野さんは東西神社が気になるんですか?あそこにはもう、住民が亡くなったり、お札が消えたり、物音がしたり、色々と怪談はありますけど」

「それはアパートのでしょ?矢津の言う通り、そんな不気味な成り立ちの神社なら、アパート以前に、何か怪談があったんじゃないかと思ってさ」

「え、あったとしたら…なんなんですか?」

「別に何というわけでもないけど。ただ旧校舎みたいに、神社にもまがり様の怪談があったなら、肝試しに行く奴がいても不思議ではないなと思って」

「えっと…つまり?」

「そこで誰かが何かやらかして、アパートの儀式でそれを鎮めたとか。封印の儀式の可能性もあるんだよね?」

 矢津さんは頷く。

「もし東西小学校旧校舎の頃に通ってた子供達が肝試しに行ったんなら、旧校舎にまがり様の噂があることに合点がいくと思わない?」

「…」

 唐突すぎる話の展開に若干気圧されるが、納得のいく部分もある。もちろん、納得のいかない部分も。

 旧校舎にある祠や、お札が増えた理由は分からないままだ。

「うーん…旧校舎とアパート、どちらもまだ調べる必要がありそうですね」

 そう言うと、矢津さんは前のめりになって反応を示す。

「…興味ある。任せて」

「矢津さん…!ありがとうございます」

 自分には関係のないことであるにも関わらず、手伝ってくれると言う矢津さんに大袈裟に感激する。

「あ、俺も手伝うよ」

「本当ですか。ありがとうございます」

 今度は佐野さんまで名乗りを上げてくれた。心強い。

 私一人ではどうにもなりそうになかったアパートの怪現象が、この調子でいけばなんとかなりそうだ。

 だが反対に、話が旧校舎の怪談にとどまらず、アパート以前にあった神社にまで広がってきていることに、私は危機感を覚えた。

 アパートの物音はできれば猫などの仕業であってほしいと願っていたが、これまでの話で本格的に幽霊の可能性が出てきたからだ。寒気がする。

 一方佐野さんと矢津さんはあまり恐怖を感じていないのか、お昼ご飯を片付け、雑談を始めていた。

 その様子をぼうっと見ていると、矢津さんは雑談を切り上げ、話をまとめ始める。

「…現時点で、佐野のさっきの推察が正しいとすると、アパートのお札がなくなったのはマズい」

「マズいというのは?」

「…封印するためのものだったなら、お札が移動したことで、まがり様が出てきた可能性がある」

「…」

「…神社に怪談が存在して、肝試しに行った人が怒りを買った。それを鎮めるために儀式を行ったけど、お札がなくなった。そう考えると、かなりマズい」

 言葉が出なかった。何十年も前からあるまがり様の噂など、恐れはしたが、本気にはしていない。そもそもまがり様がどういう存在なのか、それすら分かっていないのだ。

 だが話が現実味を帯びてきた途端、言いようのない恐怖に襲われる。

「お札、なんとかして手に入れないと。それかお祓いを…」

「雅ちゃん、大丈夫?」

 心配する佐野さんに返事をすることもできず、私は青ざめながら二人を見つめた。


 お昼ご飯での出来事から、私は今日の授業に全く集中できなかった。いつも集中できていないのだが、その比ではないくらい、集中できなかった。

 怖いという感情が長時間続き、なんとか気を持ち直そうと、私のアパートで起こっていることはただの思い過ごしか、猫の仕業か、はたまた古い家特有の家鳴りだと思い込もうとした。思い込もうとしすぎて、五時間目あたりからは自分が何をやっているのか分からなくなり、上の空の状態になった。そして考えるのをやめた。

 頭がぼうっとする。今日という日が、随分長く感じられた。

 だが一日中考えていただけあって、恐怖心はいくらか和らいだ気がする。あとはふとした時に佐野さんと矢津さんの話を思い出さないよう、気をつけるだけだ。

 できるだけ楽しいことを考えながら、正門までの道のりを歩いていく。

 そうして半分ほど進んだ時、遠くに人影が見えて立ち止まった。一瞬ビビるが、それが水面さんだということに気づき、嬉しくなる。丁度会いたかった人だ。私は半分緊張、半分興奮しながら、彼女に近づいた。

「あの、この前はすみません。私慌てちゃって。名前、水面さんって言うんですよね…?」

 第一声に謝罪をねじ込み、彼女に話しかけた。明るい声になるよう、必死に意識する。

「なんで知ってるの」

 ドライな態度に少し怯むが、気にしない。

「あの、佐野さんに聞いたんです。あ、そうだ。佐野さん、今彼女はいないそうですよ」

「本当に聞いたんだ…やっぱりヤバ」

 彼女の機嫌を取ろうと情報を伝えてみるが、失敗だった。水面さんは顔を引き攣らせている。

「す、すみません。今度から気をつけます」

「…。あのさ、孝二から私のこと聞いたんでしょ?…なんて言ってた?」

「え?」

「私のこと、なんて言ってた?」

 一度聞き返して、水面さんからの質問をなかったことにしようとしたが、律儀に同じことを聞かれて焦る。私は「あー」とか「えー」とかで間を繋ぎつつ、なんとか良い感じの答えを捻り出そうとした。嘘をつこうと思えばいくらでもつけるのに、いらない誠実さが顔を出し、必要以上に思い悩む。

「えっと…恋人だって言ってました!元恋人!」

「…」

「で、えっと、『水面ちゃん、何か言ってた?』って言って、気にしてましたよ!」

「本当に?」

 水面さんは若干笑顔になってそう言った。言葉の語尾は声が高く、期待のこもった目で私を見つめてくる。

「本当です!」

 嘘は言っていない。

「そっか…」

 彼女は少し目を伏せて微笑んだ。

 私はタイミングを見計らい、話題を変える。

「…あの、これも佐野さんから聞いたんですけど、水面さんのお祖父さんって、神社を管理されてるんですか?」

「え?そうだけど…」

「じゃあもしかして、お札とかも詳しかったりします?」

「いや、私は…」

 水面さんが答えきらないうちに私は携帯を取り出し、矢津さんに送ってもらった写真を見せた。彼女は一応それに目を通してくれるが、すぐに自分には分からないと言い直した。

「お祖父ちゃんが詳しいだけだから。まあ聞けば分かると思うけど…。てかこんな写真、どこで撮ったの?」

「えっと…。あ!じゃあ連絡先交換しませんか?もしお祖父さんに聞いていただけて、何か分かったら教えてほしいですし!」

 何が「じゃあ」なのか自分でも分からなかったが、名案を思いついたというように、私は早口でそう捲し立てた。実際は、水面さんの連絡先を聞き出す理由を見つけ、ごり押しで教えてもらおうとしているだけだ。

 しかし彼女は私の提案を無視した。

「あのさ…孝二とは本当に友達?」

「え?はい。そうだといいんですけど」

「は?それどういう意味?」

 一瞬でマズい空気になる。そういう意味で言ったのではなかったが、言葉選びを間違えたかもしれない。

「いえ、友達だと思ってくれてるといいなという意味で」

「…」

「…あの、水面さんは、普段佐野さんとよくお話しされるんですか?学校で会った時とか…」

 また話を変えたが、言った後で、聞くべきではなかったかと後悔する。しかし既に言葉は口から出てしまった後だ。汗を垂らしながら水面さんの表情を窺うが、予想に反して、彼女は誇らしげな顔をしていた。

「話すわよ。別に別れたって、交流はあるし」

「そ、そうですよね。どんなこと話されてるんですか?私も知りたいです」

 とにかく話を広げようと頑張ってみる。だが水面さんはそこで、言い淀んだ。

「…まあ、普通に、おはようとか…。てか、なんであんたにそんなの話さないといけないわけ?」

「あ、雅です」

「どうでもいいって。…それにそういうあんたは、何話してるの」

「雅です」

「…雅は、孝二と何話してるの」

「…怪談話…?」

「は…?なんで疑問系?」

 水面さんは怪訝な顔をして私を見た。

「色々あって…。あの、水面さん。今度一緒にお昼食べませんか?」

「…急すぎるんだけど」

「すみません。気をつけます」

「…孝二と私の二人でなら、いいよ」

「え、私は」

「今度孝二に聞いておいてくれる?」

「いいですけど、あの、私と二人で食べるっていうのは…」

 最後まで言葉を聞かないまま、水面さんは歩き出した。せめて返事が欲しかった。

 それにまだ、彼女に聞きたいこともたくさんある。寂しい気持ちになりながら、まだ未練がましく、私は水面さんのことを思って、仕方なく帰り道を進んだ。


 眠りについてからどれくらい経ったのだろう。気がつくと私はまた、草の上を歩いていた。

 布団に入ってから今、急に意識がはっきりとするまで、その間の時間がすっ飛ばされたかのように感じられ、不思議な感覚になる。

 まだ目線は下を向いていて、やはり誰かに手を引かれていた。

「なあ、どこに行くんだ?みんなのところに戻るのか?」

 私がそう言うと、前を歩く男の子は答えた。

「いや。だって気まずいでしょ?」

「…うん」

 前の男の子は笑って、私――正確には私ではない男の子を励ますような言葉を続けて言った。

 それを聞いて、なぜだか安心する。私にはこの男の子達の事情は分からないが、手を引いてくれている彼は心底こちらを気遣っているような声音でそう言うため、自然と心が落ち着いた。

「今から秘密の場所に行くんだ。誰も来ない、静かなところ。みんなまだ怒ってるだろうから、そこで落ち着くまで、少し時間を潰そう」

「…ショウド、ありがとう」

「うん」

 私は前の彼をショウドと呼び、お礼を言った。状況は分からないが、とにかく私のせいでみんなが怒っていて、ショウド君が助けてくれる、ということらしい。

 周囲からは祭囃子のような音が微かに聞こえてくる。次第に私たちは、かろうじて存在していた道を逸れ、雑草の生い茂る土の上を進んだ。

「絶対に、着くまでは上を見ないで。秘密の場所だから、誰にも道は教えたくないんだ」

「あとどのくらいだ?」

「もうすぐだよ。着いたら教えるから。その時は顔を上げていいよ」

 そう言うと、ショウド君は私の腕を強く引っ張った。


 放課後、実習棟を通り、空き教室を目指す。もう何回か通っているため、道は覚えた。

 教室に着くと深呼吸をして、扉に手をかける。だが丁度その時声が聞こえて、私はそのまま動きを止めた。

「ねえ孝二、聞いて。私最近、怖い怪談話を教えてもらったの」

「うん」

 聞き覚えのある二つの声は、教室の中から響いてくる。佐野さんと水面さんだ。水面さんの声は若干震えていて、緊張しているのが分かる。

 私は気まずい空気を感じ、扉から手を離した。しかしその後どうすれば良いのか分からなくなる。

 二人の会話には興味がある。だが盗み聞きするのは良くないことだ。かと言ってどこか別の場所に行くアテもない。

 自分の教室で待つこともできるが、会話が終わったことをその場で察知して、丁度良いタイミングで戻ってくるなど不可能だ。

 そもそも私は佐野さんに呼び出されて空き教室に来たのだから、申し訳ないがここで待つしかないだろう。

 私は扉に嵌められた磨りガラスに自分の影が映らないよう端に移動して、ワクワクしながら二人の会話に聞き耳を立てた。

「何十年も前、実はこの地域で神隠しが起こったらしいの」

「神隠し?」

「そう。消えた子は小学生で、ある日突然、姿を消したんですって。その日から今日まで、まだその子は見つかってないの」

「うん」

「しかもなんと、その小学生は東西小学校の生徒だったの!」

「うん」

「だから今でも、東西小では毎年誰かが知らないうちに神隠しにあって、戻ってこないって言われてるわ…」

「へー」

 あまりにもあっさりとした佐野さんの反応に、私は思わず眉をひそめた。

 水面さんも同じだったようで、佐野さんに対して抗議し始める。

「ちょっと、何その反応。私の話には興味ないわけ?」

「どうだろう」

「どうだろうって何よ。怪談話が好きなんじゃないの?」

「え?別に怖い話に興味はないけど」

「嘘。だって雅とはよくそういう話してるんでしょ?」

「あれ、水面ちゃんって雅ちゃんと仲良いんだっけ」

 私の話になっている。胃のあたりが気持ち悪くなってきた。

「別に。てか、孝二は雅の話には興味あるけど、私の話には全然興味ないんだね」

 恐ろしい事態になってきている。この後どんな顔をして教室に入れば良いのだ。まだ中に入らないうちから、重すぎる空気に耐えかね、吐きそうだ。どちらかが教室を出た時鉢合わせにならないよう、私は死角になる位置を探し始めた。

「雅ちゃんと怪談について話してるのは、それが俺に関係あることだから。怪談そのものに興味があるわけじゃないよ」

「…」

「それに、俺がいつ水面ちゃんの話に興味ないなんて言ったの?話自体には、だいぶ興味あるけど」

「だって、どうだろうって…」

「それはごめん。ちょっと考えてただけ」

「…」

「ちなみに、その怪談話って誰から聞いた?」

「え?矢津だけど…」

「そっか。ありがとう。あ、そういえば水面ちゃん、今日何か大事な話があるって言ってたよね?これのこと?」

「いや、それは…」

 突然の問いに、水面さんはしばらく口ごもる。

「あの、私帰るわ」

「え、もう?」

「え」

 水面さんの足音が扉の前まで迫るが、佐野さんの言葉によって、それがピタリと止む。私も期待を込めて大きく息を呑み、佐野さんの次の言葉を待った。

「じゃあしょうがないね。また明日」

 明るい声が響く。

 水面さんはまた歩き出し、教室の扉を開けた。彼女は強めに扉を閉め、足音を響かせながら廊下を歩く。そして曲がり角で私に鉢合わせた。

「うわ!なんであんたがここにいるの」

 叫ばれてショックを受けるが、私は瞬時に、用意していた言い訳を答える。

「すみません。ちょっと通りがかって」

「…」

「あの…」

「ねえ、連絡先交換しない?」

「え?」

「だから、連絡先。お祖父ちゃんにお札のこと聞いといてあげるから。さっさとして」

「あ、はい」

 まさかの展開に、反応が遅れた。私は急いで携帯を取り出し、震える手で水面さんと連絡先を交換する。

 ここ数分で緊張したり、恐怖したり、興奮したり。感情を高速で移動して、今自分がどのような状態であるのか分からない。

「れ、連絡してもいいですか…?」

「は?いいに決まってんじゃん。なんのための連絡先よ?」

「ありがとうございます」

 水面さんは私の情緒についていけないのか、綺麗な形の眉をハの字にして、その場を去った。私はまだ感動に浸りながら、ようやく空き教室に入る。が、入ってすぐのところで、佐野さんに呼び止められた。

「あ、雅ちゃんじゃん。お疲れ」

「お疲れさまです。すみません、お待たせして」

「別に待ってないよ。そういえばさっき俺、水面ちゃんに怪談話を聞いたんだけど」

「神隠しですか?」

「そうそれ。聞いてたの?」

「はい。すみません」

「いいよ。で、その怪談、かなり面白いと思わない?」

「面白い?」

 怪談を面白いと思える神経が分からない。

「神隠しは嘘っぽいけどさ。もし本当にあったんだとすると、旧校舎に関係してきそうじゃない?」

「な、何がですか?」

「この前話したことだよ。東西小の誰かが神社に肝試しに行って、まがり様に呪われたんじゃないかっていう」

「…神隠しが、まがり様の呪いだって言いたいんですか?」

「そう。なんか繋がるじゃん」

「…でも、東西神社に怪談があるっていうのは、佐野さんの推測ですよね?」

「その推測が当たってて、消えた子供がいるんだとしたら、弔うために旧校舎に祠が建てられてもおかしくないよね?」

「…」

「今から矢津のところに行こうと思うんだけど、一緒に来る?」

「…行きます」

 私は佐野さんと並び、東西高校を出た。


「矢津、コンビニで待ってるって」

「あ、はい」

 私達は並んで歩きながら、歩道を進む。佐野さんは片手でスマホを持ち、私に矢津さんの情報を知らせてくれた。相変わらず手ぶらで、もう片方の手は制服のポケットに突っ込んでいる。

「そういえば、佐野さんはどうして私を空き教室に呼んだんですか?何か用事があったんですよね?」

「うん。一緒に帰ろうと思って」

「え?」

「雅ちゃん怖がりじゃん?怯えて帰り道進めないと、困ると思って」

「…」

「…俺が色々話したせいで、怖がらせたかなと。全部ただの憶測なのに」

「そんな…」

 言葉が出てこない。彼を可能な限り最大限の言葉で褒めたかったが、いくら言葉を尽くしても足りない気がして、そんな…から後が出てこなかった。

 感謝してもし足りない。

「佐野さん、心配していただいてありがとうございます。本当に、ありがとうございます」

「いや。もとはと言えば、俺が悪いから」

「…実は水面さんも怖がりなんですけど…」

「今度誘ってみる」

「お願いします」

 横断歩道を渡ると、すぐ目の前にコンビニが見えた。矢津さんがいないかと目を凝らしてみる。

 すると肩から鞄を下げて、駐車場の端でスマホを触っている矢津さんを発見した。背が高いため、すぐに彼だと分かる。

 学校帰りに寄り道をしていたのだろうか。制服姿のままで私たちを待っていた。

 佐野さんと一緒にそばまで行くと、気がついたのか視線をあげる。お互いに軽く挨拶を交わして、すぐに先ほどの、神隠しの怪談について尋ねた。

「矢津、東西小の神隠しって怪談、水面ちゃんに話したよね?」

 矢津さんは頷く。

「それについて、もっと詳しく知りたいんだけど」

「…」

 矢津さんは何も言わなかったが、スマホを操作すると、神隠しについての詳しい情報を教えてくれる。かと思ったが、別の話を始めた。

「…東西小で張り込んだ。何人かの小学生に学校の怪談を聞いたけど、まがり様の情報しか得られなかった」

「え、なんの話ですか。というか、何してるんですか」

 矢津さんは私を無視して、話を続ける。

「…俺が東西小の時からまがり様の怪談はある。それ以前を調べようと思った。佐野の言う通り、神社に関する怪談があった可能性も考えて、東西神社が存在していた年に東西小の学生だった方たちに話を聞いた」

「…凄いです」

「…どうも」

 また無視されるかと思ったが、反応が返ってきたためちょっとびっくりする。

「…それで出てきたのが神隠しだった。小さな噂程度の怪談だったけど、覚えてる人がいた。東西小に通う子供は毎年誰か、神隠しにあうらしい。もとを辿れば、昔本当に東西小の子供が行方不明になったことがある、という真偽不明の噂から広まった怪談だった」

「え、本当に誰か行方不明に…」

 怖くなってきた。

「…まだ分からない。それを今から調べに行く」

「どうやってですか?」

「町内会の会長に会いに行く」

「え」

 突如出てきた位の高そうな肩書きに私は驚く。町内会長がどのような人なのかは分からないが、そんなに思い立ってすぐ話を聞きにいけるような人物だろうか。

「公民館とかに行くんですんか?」

「…いや。ここの近所」

「知り合いらしいよ。橘さんって言うの」

 佐野さんが教えてくれる。

「事前に連絡とか…」

「手紙に書いておいた」

「手紙に?」

「橘さんと文通してるらしい」

「文通…」

 今日日聞かない言葉だ。

「何時からの約束なの?」

「…十七時」

「もうすぐだね。早く行こう」

「ちょっと待ってください。私たちも行っていいんですか?三人で押しかけるのは迷惑じゃ…」

「…もとから三人で行くって言っておいた」

「じゃあ大丈夫そうだね。行こうか」

 早々に話を切り上げて、佐野さんと矢津さんはコンビニから移動しようとする。

 行くまでの流れが早い。よく唐突に、町内会長に会いに行くと言われて受け入れられるなと、そういう気持ちで佐野さんを見た。

「何?」

「いえ…」

 二人がいるとはいえ、大人に話を聞きに行くのは緊張する。失礼がないように、私は橘さんという方に会ってからの立ち回りを頭の中で予習した。

 それにそもそも、町内会長が矢津さんと知り合いであるということにも驚きだ。前を歩く二人についていきながら、私は下を向いた。

 しばらくすると住宅街に入った。多くの一軒家が建ち並び、庭の草木や高い塀が目に入る。矢津さんの案内に従って、その中を進んでいった。

 やがてある家の前で矢津さんは立ち止まる。ここが目的地のようだ。白い漆喰に茶色い屋根。庭からは立派に育った柿の木の頭が見えた。

 敷地内に入る前に、塀に設置されたインターホンを押す。何秒か後、機械から家主の声が聞こえてきた。矢津さんが応対すると、数メートル先の玄関から、ポロシャツを着たお爺さんが顔を出す。その人は私達を見て、たちまち笑顔になった。

「矢津君、おかえり」

「…ただいま」

 矢津さんは勝手に門扉を開け、歩いていく。私と佐野さんもそれに続きながら、小声で会話をした。

「橘さんって、矢津さんのご家族なんですか?」

「いや。ご近所さんだって聞いてるけど」

「佐野さんは橘さんに会ったことあります?」

「ない。今日が初」

 二人でコソコソと話していると、橘さんの声に遮られた。

「どうも。私は東西会の会長をやっております。橘です。二人は矢津君のお友達かな」

「友達…えっと、多分そう…ですかね…」

「友達です。俺は佐野って言います。こっちは雅ちゃん。今日は突然すみません」

「いいよいいよ。ほら早く上がって」

「お邪魔しまーす」

「お邪魔します…」

 佐野さんのフランクな態度を尊敬しつつ、私達は促されるまま、橘さんのお宅にお邪魔した。

 広い住居を見回し、立派なお宅だと、一人で感動する。いつか母にもこんな家に住まわせてあげたい。

 そして客間に案内されながら、私は密かに、矢津さんと友達であるという確証を得たことを喜んだ。

「今、家内が留守でね。お茶も出せないんだけど、ごめんね」

 客間に着くと橘さんは私たちに席をすすめ、そう声をかけた。

「いえ、そんな、お構いなく」

 手を振って答える。それを聞いて橘さんはまたごめんねと言いながら、自分も座椅子に座った。

「それで、今日はどうしたのかな」

「…橘さん、東西小学校で、子供が行方不明になっていないか調べてるんだけど」

 単刀直入に、矢津さんはそう聞いた。

「行方不明?東西神社について熱心に調べてると思ったら、今度は行方不明者かい」

「…はい。東西小に神隠しの怪談があったって、梅田さんに聞いたんですけど」

「梅田さんって誰ですか?」

 私は声を低くして、隣に座る佐野さんに話しかけた。

「矢津のご近所さん」

 佐野さんも小声で答えてくれる。

「そういえば、佐野君と雅さんも東西小学校なの?」

 橘さんは突如、私たちに話を振った。

「あ、はい。私は東西小です。佐野さんも…ですよね?」

「うん」

「そうかそうか。ところで佐野君はもしかして、正孝さんとこの?」

「そうです。正孝は祖父ですね。知り合いなんですか」

「知り合いも何も。高校の時の登山部の仲間でね。若い頃はカッコよかったよ。君も似て男前だね。矢津君も男前だけど。はっは!」

 滑らかに話題がすり替わり、苦笑いすることしかできない。お年寄り特有のデカい笑い声にびっくりする。

「…橘さん、行方不明者について知りたいんですけど。会で新聞の記録とか管理してませんかね」

 矢津さんが素早く話を戻す。

「あー、どうだったかなぁ。梅田さんがそういうのまとめてたと思うけど…」

 橘さんは言い淀んだ。私達は黙ってその続きを待つ。

「んー…当時は結構大きな騒ぎになってね。三十年くらい前かな」

 少し迷った後、橘さんはゆっくりと、神隠しの件について話し始めた。

「神隠しって言うのは、多分東西小学校の事故がもとになってると思うんだけどね」

「…やっぱり」

「でも事故って?」

 佐野さんの言葉を受けて、橘さんはさらに説明してくれる。

「いや、当時この近くに神社があってね。そこで毎年お祭りやら縁日をやってたんだけど、最終日に子供さんが一人帰ってこないって連絡があって。迷子の届けなんかはたまにあったんだけど、大きな神社でもないから行方不明なんて今までなくてね。みんな大騒ぎして探したよ」

「見つかったんですか?」

「残念ながら…。警察にも届けて探したんだけど、見つからなくてね。すぐ裏手が山だったから、そっちに行って転落しちゃったんじゃないかって。親御さんは辛かっただろうね」

「…」

 居た堪れない話に、押し黙る。本当に行方不明者が出ていたとは。

「次の年には神社も取り壊しになっちゃってね。結構古くからあったんだけど」

「その神社って、東西神社ですか?」

「ああ、そうだよ。矢津君がよく調べているところでね。禍っていう怪物を討った、巫女さんを祀ってるんだよ。毎年お祭りでは、舞を踊ってねぇ」

「え、東西神社って、まがり様を鎮めるために建てられたんじゃ?」

 矢津さんから聞いた話とは違っている。

「あ、それ、矢津君から聞いたんでしょ?」

「え…はい」

 矢津さんの方を見るが、彼は目を逸らした。

「それはね、違うんだよ。お祭りの最後で踊る舞でね、巫女さんを讃える意味で、首を模した人形を囲って踊るんだけど…」

「え、首を?」

「そうそう。禍は首の長い怪物で、巫女さんはその首を切り落としたって伝説があるんだよ。舞はそれを表しててね。…ちょっと不気味でしょ?」

「…そうですね…少し…」

「当時の子供達もそう思ってたみたいでね。まがり様っていう怪談が流行ったんだよ。子供の間だけだったけどね。それが妙に広まったもんだから、神社の建立理由も色々と変わって伝わってね」

「…神社にも怪談があったんですね」

 私は下を向いて呟いた。神社にも怪談があったということは、佐野さんの憶測が真実味を帯びてきたということだ。そこで肝試しを行った結果、小学生が行方不明になったのかもしれない。

「あの、それってどんな怪談なんですか?肝試しに行った人とかいます?」

 流石に行方不明になってしまった子のことは聞かなかったが、その可能性も考慮して考える。

「いやぁ…まがり様がどうとかを聞いただけで、どんな怪談だったかは…。肝試しに行ったなんて話も聞かないけどねぇ」

「そ、そうですか…」

「あ、今でもまがり様なんて怪談はあるの?流石にないか!はっは!」

「いやぁ…」

 微妙な反応をして笑っていると、次に佐野さんが口を開いた。

「行方不明者が出た後は、どうなったんですか?神社が取り壊しになって、その後は特に何もなく?」

「いやいや、その後東西小に、お札と祠が寄贈されてね。ほら、神社が取り壊しになっちゃったから、お祈りする場所もないでしょ。だからその子が無事戻って来れるようにって」

「それでお札と祠が…」

 これまで分からなかった二つのものの意味が、ようやく分かってすっきりする。今では不気味がられているが、その設置理由はいなくなった生徒を想うものだった。

 私は無闇にお札と祠を怖がったことを、今更申し訳なく思う。

「確か正孝さんのとこが管理してたんじゃないかな」

「え、それって」

「俺の家だね」

 佐野さんは少し驚いたような顔をして、考え込んだ。

「知らなかったんですか」

「うん…」

 東西小の行方不明者と、関わりがあるのだろうか。

「…でも、祠やお札は今では怖がられてる。生徒達に説明はしなかったの」

 矢津さんは当然の疑問をぶつけた。

「うーん…当時の先生方はしたと思うんだけどね」

「…じゃあなんで」

「それは私にも分からないけど、行方不明になった子供さんとこの家が引っ越しちゃってね。それから校舎も新しくなって、風化しちゃったんじゃないのかなぁ。当時の子達や私なんかはまだはっきり覚えてるから、悲しいけど…」

「そうですね…」

 行方不明者を偲ぶために置かれたものが、今や怪談にまでなっているのだから、やるせない。

「お札と祠の寄贈ね…。祠はまだしも、お札は怖がられても仕方ないんじゃないかな。特に事故を知らない新入生なんかは、何かあったんじゃないかって思うでしょ」

 佐野さんはもっともらしいことを口にした。

 確かに事情を知らなければ、お札と祠を見て怖がる子もいそうだ。私もその立場であれば、もれなく怖がる。特に小学生は怖い話なんかも好きだろう。好奇心旺盛な子が面白がったりして、怪談が広まったのかもしれない。

「…額縁の裏にあると、確かに怖い」

 矢津さんも同意した。すると橘さんは首を捻り出す。

「額縁の裏に?そういえば確か、お札と一緒に何かの額も寄贈されたんじゃなかったかな…。いやいや、登下校する子達が、お札があるなんて騒いでるのを聞いたから、先生方が教室に額を置いたんじゃなかったか…」

「え、それって」

「教室には額縁が必ずあった。生徒がお札を見て騒がないよう、先生達が誤魔化したんだね」

 佐野さんが失礼な言葉を繋げるが、橘さんは気を悪くするでもなく、頷いた。

「もしかすると、そうかもしれないね。お札や祠の設置理由はしっかりしたものだったから、撤去するわけにもいかなくて、額を飾ったのかもねぇ。丁度その時期、書写の先生もいらっしゃってたし…」

「…逆効果っぽい」

「お札があるから、今でもまがり様の怪談が残ってるんだね」

「まだあるのか!」

 佐野さんと矢津さんの言葉を聞くと、橘さんは目をかっ開いて、そう叫んだ。

「あの、ちなみに…寄贈されたお札の素材とかって分かりますか?」

「素材?」

 突然私がそんなことを聞いたため、橘さんは訝しげな顔をした。

「木でできてたとか、紙でできてたとか」

「うーん…多分紙だったと思うけど」

「紙ですね。ありがとうございます」

 重要な情報を手にし、私は内心喜んだ。ずっと気になっていたことだ。これでようやく、アパートに戻すべきお札の見当がついた。

 それにこれまで謎のままだった事柄も随分解決した。だが、まだアパートの不審音解決には至りそうにない。そう思った私は橘さんに、神社の跡地であるアパートについても尋ねてみた。

「あの、橘さん。アパートの怪談についても知ってますか?」

「アパート?」

「東西神社の跡地に建てられたアパートです。そこでも人が亡くなっていて、まがり様の儀式が行われたんじゃないかって言われてるんですが、何か知りませんか?」

 情報が得られることを期待して、私は橘さんを見る。

「ああ、確かにあそこでも人が亡くなってたね…。自殺したんじゃないかって言われてて、ニュースなんかにはならなかったけど」

「…」

「うーん…でも、儀式っていうのは知らないな」

「そうですか…」

「あ、でも」

「なんですか!?」

 橘さんの言葉が続きそうなのを察知して、私は先を促す。

「いや、大したことじゃないんだけどね、前にあそこからお札が見つかったって、届けた人がいたらしいんだよ」

「え、それってどなたですか?」

「うーん…誰かまではちょっと…私も又聞きしただけだから…」

「じゃあ、いつ頃のこととか」

「えー、あれは最近だったから…確か一ヶ月くらい前のことじゃないかなぁ…東西小のものじゃないかって言うから、小学校に届け出たらしくて」

「じゃあ、旧校舎にお札が増えたのって、やっぱり…!」

「アパートのものだったんだね」

 佐野さんが言葉を引き継いでくれる。

 アパートの儀式については分からなかったが、大方の謎は解けた。やはりお札は旧校舎に移動していたのだ。どういうきっかけで移動したのかは不明のままだが、なんにせよ、お札はもとあった場所に戻す必要がある。

 私と佐野さんは橘さんにお礼を言い、立派なお宅を後にした。矢津さんはまだ話したいことがあるようで、橘さんの家に残り、私たちを見送った。

「大体のことが分かりましたね」

 佐野さんと歩道を歩きながら、私はそう言う。

「そうだね」

「それに佐野さんの憶測、結構当たってましたよね。凄い…」

「そうかな」

「そうですよ」

「でもその後が…それに…」

 佐野さんは言葉を切りながら喋る。相槌を打つこともできなくて、私はただ聞いていた。

「というか、気になることも増えたよね」

「気になること?」

「橘さんは三十年くらい前に、東西小の子が失踪したって言ってたじゃん?丁度その時、俺の両親も小学生だったなと思って」

「え、何か関わりが?」

「いや、関わりというか。母さんは違うけど、父さんは東西小だったし、聞けば分かったのかなって」

「ああ。でも三十年くらいって言ってましたし、正確には違う可能性もありますよ」

 私は佐野さんの真似をして、ありそうな憶測を口にした。

「確かにそうだね」

「いえ、分かりませんけど…。そういえば、佐野さんの家は祠の管理もしてるんですよね?」

「うん、古い家だから。あ、そうだ。雅ちゃんのお母さんはどう?」

「え?」

「東西小出身?」

 あからさまに話を変えられて戸惑うが、それ以上聞くことも憚られる。私は大人しく質問に答えた。

「確かそうだった気が…。いえ、違うような気も…。あ、でも三十年前はえっと…小学生…だったかな?」

 自分の母親のことであるにも関わらず、あやふやな答えしか出てこない。それを恥じて下を向く。変な汗が出てきた。

「…」

「あの、もうここでいいですよ」

 私はなんだか落ち着かなくて、アパートよりも随分手前でそう告げた。

「あれ、いいの?アパートまで送ってくよ?」

 佐野さんは言ったが、まだ空は明るい。時刻は十八時だ。東西市は西日本のため日の入りは遅い。

「もうすぐそこですし、大丈夫ですよ。今日は色々分かってよかったです。それじゃあ、ありがとうございました」

 強引にそう言うと佐野さんに対してお辞儀をし、私はアパートへの道を進んだ。


「あれ?あなたもしかして、秋子さんとこのお嬢さんじゃない?」

 アパートに向かって歩いていると、突然道端で声をかけられた。

 見ると、アパートの管理人である原口さんが、手に買い物袋を下げて立っている。とりあえず「こんにちは」と挨拶して立ち去ろうとするが、そう簡単に済むわけもなく、さらに呼び止められた。

 原口さんはご高齢の女性で、最近はもう、何度話してもお嬢さんとしか呼ばれない。母の名前は記憶しているようだが、私の名前は忘れられてしまった。

 小さな頃から私を知っているという会話を、会うたびに繰り返している。何年か前まではまだ私の名前を呼んでくれていたため、寂しい気持ちになる。

「やっぱりそうだ。秋子さんとこの子よね」

「はい」

 精一杯の笑顔で返事をする。

「大きくなったわね。今高校生?」

「そうですね。高校生です」

「私あなたが生まれた時から知ってるのよ。その時から、秋子さんは入居してたから。その子がもう高校生なんてね」

「へへ…」

「高校はどこなの?」

「あ、東西高校です」

「あら、そうなの?秋子さんと同じ?いいわね。最近じゃもう、遠方の高校に行く子が増えたでしょう」

「そうですね…」

「あ、そういえば102のね、亡くなられた方」

「え?…え、ああ…過去に亡くなられた方がいらっしゃるとか…」

「その方も東西高校の出でね。残念だったわ、本当に。秋子さんと同級生でね。もうすぐで…」

「え、え?ちょっと待ってください!今同級生って言いました?」

「え?ええ」

 原口さんは当惑しながらそう返したが、言った私も混乱する。怪現象が起きているアパートの隣室、その住民が母の同級生。

 母はそんなこと一言も言わなかった。知っていたのだろうか。

「母は102で亡くなった方が同級生だって、知ってるんですか?」

「え?」

「え?あの…102で亡くなったのが同級生だと、母は知ってるんですか?」

「同級生?私そんなこと言った?」

「え?」

「そんなこと言ってないわよ。勘違いじゃない?何も言ってないわ、私」

「え、でも、だって…」

「秋子さん元気?体調崩してない?」

「……はい、元気です」

 にっちもさっちもいかなくなったことを察して、私はただそう返事をした。これまで原口さんとなんでもない会話はできたのに、たった今それすら怪しくなってきたことを知って、軽くショックを受ける。

「原口さん、そろそろお部屋に戻った方がいいですよ。あんまり暑い中お話ししてると、具合を悪くするかもしれませんから」

「あらそう?でもいいのよ。私ね、息子の家に住んでるから、何かあってもまあ大丈夫よ」

「そうなんですね。でも息子さんも心配しますし、今日はもう帰りましょう。ごめんなさい、私引き止めちゃって。また今度涼しい場所で話しましょう」

「いいのよいいのよ。じゃあ今日はもう行くわね。また今度ね?」

「はい」

 笑顔で息子さんの家へと帰る原口さんを見送くると、私はアパートに急いだ。


 母はまだ帰っていないだろう。いつも仕事は十九時に終わる。だから今アパートへ急いだところで、隣室の住人について話を聞くことはできない。それに原口さんの発言が信用できるかどうかも分からない。だがもし、本当だとしたら。

 気がつくと、私の足は前へ前へと進んでいた。アパートまでの道すがら、母に聞くべきことを頭の中で整理する。

 人が亡くなったのだから、この件は繊細に取り扱わなければならない。亡くなった方が母の同級生であるなら尚更。

 考えつつ狭い駐車場を通り抜け、所々に生えた背の高い雑草を踏みながら、アパートの101号室に向かう。そこが私と母の住む部屋だ。

 アパートはコンクリート製で、山が近いからか、ジメジメしていて薄暗い。クリーム色の壁は雨染みがつき、少し劣化していた。そして誰もいないはずの隣室からは物音がする。

 心配になって一度は原口さんと共に部屋を確認したが、そこには特に何もなかった。それがますます気味悪い。

 だから共用通路を歩く時はいつも早足になった。恐怖から部屋までの道のりが遠く感じられ、気持ちが急くのだ。

 やがて101と書かれた扉に着くと鍵を差し込み、ドアノブを捻った。中に入ってまた鍵をかける。

 すぐに電気をつけると鞄を所定の位置に置き、制服から部屋着に着替えようとした。その時、チャイムが鳴る。

 中途半端な姿勢のまま、私は動きを止めた。この時間帯に誰かが訪ねてくるのは珍しい。

 脱ぎかけの制服をまた着直して、急いで玄関に向かう。その途中でまた、チャイムが鳴った。「はーい」と大声で返事をし、ドアノブに手をかける。一応ドアスコープを覗こうとして、固まった。

「雅、お母さんだけど」

 冷や汗をかく。ゆっくりと、ドアスコープから顔を遠ざけた。

 母は私のことを雅とは呼ばない。それに家の鍵は持っているはずだ。だとすると、外にいるのは誰なのか。

 息を止めて、音を立てないようにドアチェーンをかける。また、チャイムが鳴った。

 瞬きをすることも忘れ、玄関ドアを凝視する。外にいるのは誰なのか。なぜ、母だと言い張っているのか。

 ドアスコープを覗けば、それは簡単に分かることだ。だがそんなことはできない。もしも扉の前に立っている誰かが、人間ではないとしたら。それを見た瞬間、私は後悔に苛まれるだろう。

「こんにちは」

 外からまた声が聞こえた。母ではない。だが母であってほしいとも思う。そう考えた時、気がついた。母が帰ってきて、外にいる誰かと鉢合わせたら。

 私はいよいよ生きた心地がしなくなって、時計を確認した。まだ母は帰ってこない。安心すると同時に泣きたくなった。

「こんにちは。こんにちは」

 誰かは続け様にそう言うと、またチャイムを押した。

 異常だ。初めは違和感などなかったが、徐々にその声は絞り出すような、苦しげな声音になる。だがそれでもなお、挨拶をし続けるのだ。

 涙目になる。部屋にある窓はすべて閉めただろうか。カーテンは閉まっているだろうか。布団にくるまりたい。

 そんな思いが頭を回るが、後ろを振り返ることすら怖くて、動けなかった。

「…」

 突如、部屋は静まり返った。チャイムの音も、「こんにちは」というしゃがれた声も聞こえない。

 今のうちに戸締りを確認しようと振り返った時、頭が割れるような絶叫が聞こえた。同時に私も悲鳴を上げ、しゃがみ込んで耳を塞ぐ。

 体を前後に揺すりながら、ハアハアと呼吸を繰り返す。何もしていないのに息はどんどん荒くなった。血が回らなくなるのも気にせず、力の限り耳を押さえて目をつむり、すべてから逃れようとする。

 だがどうにかして顔を上げた時、カーテンが閉まっているのを見た。泣きながら四つん這いで移動し、窓のそばに置いた鞄を必死で手繰り寄せる。

 首飾りを、手が白くなるほど強く握りしめた。それから携帯を取り出して、パニックになった頭でどこかに連絡しようと画面を叩く。お母さん、警察、原口さん、お寺や神社。色々なものが頭を巡るが、ホーム画面を開いたまま一向に手は動かない。涙で視界が霞む。

 制服の袖で目を擦ると、知らないうちに佐野さんの連絡先が表示されていた。とにかく誰でも良いから発信しようと、急いで画面に触れかける。だが突然窓から大きな音がして、私は叫び、携帯を放り投げてしまった。

 手のひらで思い切りガラスを叩いたような大きな音。その音がした時、咄嗟に窓の方に目をやってしまったことを、私は後悔した。

 窓ガラスの向こう、カーテンの隙間から部屋を覗いていた、首の曲がった誰かと目が合った。


「なあ、もう着くか?」

「もうすぐだよ。それ、しっかり持っててね」

「ああ」

 前を歩く男の子に手を引かれながら、どこかも分からない場所を歩く。確か彼の名前はショウド君だ。

 ショウド君は絶対に私を助けてくれる。そう思いながら、彼に手を引かれて行く。

 遠くから賑やかな声が聞こえるが、耳を澄まさなければ聞こえない程のものだ。辺りは徐々に薄暗くなり、サンダルは土を踏んでいた。ここなら確かに人は来ない。私はショウド君に掴まれている手首を見ながら、そう思って安心した。

「足元、気をつけてね」

「うん」

 歩くたびにサンダルに土や小石が入り、気持ち悪い。相変わらず視線を上にあげることはできず、掴まれた腕とショウド君の背中、足元しか見えなかった。

 それでもなお、私たちはゆっくりと歩き続ける。

「…俺、みんなのところに戻れるかな」

「やりすぎだったけど、それはみんなもだよ。俺は見捨てないから安心して」

「…ごめん」

「うん」

「なあ、どうしてショウドはあの後、戻ってきてくれたんだ?」

「…どうしてだと思う?」

「…分からない」

 ショウド君は答えるつもりがないのか、それ以上何も言わず、私の手を引いた。

 足元には木の枝で引っ掻いたような土の跡が見える。何かの文字にも見えた。だがそれも一瞬で、またもとの景色が戻ってくる。

 どこまで行っても土と草。変わらない地面の風景を眺めていた時、ついにショウド君は立ち止まった。もう顔を上げて良いのだろうか。私は言葉を発そうとしたが、ショウド君にまた手を引っ張られたため黙った。

 ショウド君は左へ、私を方向転換させるように腕を引いた。それに伴って、視界は少しずつズレていく。まだ下を見たままのその景色に、ゆっくりと何かが現れた。

 古びて苔まみれの石がある。それを見て私は、体の中心から波紋が広がるようにじんわりと、気味の悪い寒気を覚えた。

 まだ顔を上げて良いとは言われていないが、それがなんなのか気になって、段々と上方向に視線を動かしていく。いや、正確にはそれがなんなのか知っていた。だが、そんなはずはない、違うはずだという気持ちから、確認する意味で、その正体を確かめたかったのだ。

 しかし顔を上げれば上げるほど嫌な汗をかく。それが確かに、想像した通りのものだという現実を突きつけられていく。古びた石の上には、さらに石造りの四角い箱が乗っていて、そこには切り取られたように真四角の空洞ができていた。そのさらに上にも、石でできた屋根が乗っかっている。

 忘れられ、打ち捨てられたようにボロボロの祠だった。

 私の中には怒りが湧く。裏切られたという気持ちが、頭の中を支配した。だがその気持ちを口に出せないほどに、同時に恐怖にも支配されていた。

 すでにショウド君は私の腕を離していて、目の前にはもういない。そのまま顔を完全に上げた時、私はただ逃げ出したいと思った。

 口を半開きにして固まる。目を閉じたいと強く願ったが、そうさせてもらえない。

 縦に並んだ二つの目が、私を覗き込んでいた。目の前に体はないのに、横倒しになった顔だけが私をじっと見ている。

 普通ではないものが目の前にある。その違和感が恐怖に変換され、体を巡った。

 前に立つ何者かの目はありえないほど見開かれ、瞳に光はない。どこを見ているのかも分からない。髪も肌も薄黒くボロボロで、鼻をつく匂いがした。口からは何かの液体を垂らし、蛆虫が目に入る。

 息ができない。真横に誰か立っている。恐らく前に立つ化け物の体だろう。首が伸びて曲がっていた。

 声が出ない。懸命に視線を動かすと、遠くに立つショウド君が見えた。驚いたように目を見開き、口元には引き攣った笑みを浮かべている。

 何もできない。思考が空回る。

 知らないうちに私の口からは、何かが流れ出てきていた。上唇に温かい感触を感じ、鼻血が出ていたことを知る。胸が圧迫されたようになり、堪らずに咳き込むと、その拍子に口から血が飛び散った。

 何が起こっているのか分からない中、気づけば私は「あ」と繰り返し言っていた。

 呼吸が荒いと思った瞬間、目に映る景色が縦から横になった。


「うわあ!」

 大声で叫んで目を見開いた時、私の視界には見覚えのない天井があった。

 呆然とした後、顔を動かして辺りを見回す。整えられた広い室内。知らない場所だ。

 視界の端で何かが動く気配がして、すぐにそちらに顔を向ける。そこにはシンプルな木製の椅子があり、スマホを手に座っていた佐野さんが、びっくりしたように私を見ていた。

 状況が掴めない。だが見知った顔を見て、とんでもなく安心する。ここがどこなのかは分からないが、安全で、これ以上私を脅かすものはないのだと、根拠もないのに心から安堵した。

 私は佐野さんの座っているものと対になって置かれているソファに寝ていたらしい。体にはブランケットがかけられている。それを掴んだ後、ゆっくりと上体を起こすと呼吸を落ち着け、無意識のうちに首をさすった。

 頬には涙がつたっており、汗をかいている。私の人生史上、一番リアルで恐ろしい夢を見た。最近よく見る妙な夢と繋がっていたし、いやに記憶に残る夢だ。私はあの夢の中で、首が折れて死んだのだろうか。では次に夢を見た時は一体どうなるのか。心臓発作とかで現実の私も死ぬのだろうか。

 鳥肌が立つ。もう一生寝たくない。

「雅ちゃん、大丈夫?」

「全然…」

 大丈夫ではない。佐野さんは立ち上がって、私の方に近づいた。そばまで来るとしゃがみ、目線を合わせてくる。

 その瞬間、一気に恐怖が湧いた。今目の前にいる佐野さんが、もし本当の佐野さんではなかったら。あの首の曲がった人が化けているのだとしたら。私はアパートで、母を騙った不気味な声を思い出した。

 そういえば私は家で、知らない誰かと目が合った。思い出した途端、またもや悲鳴を上げる。違うことを考えようとして、すぐ目の前にあった観葉植物を凝視する。

 真横にいる佐野さんはそんな私の様子を見て、心配そうに声をかけた。

「本当に大丈夫?」

「ここどこですか!?」

 彼の質問にも答えず、私は叫んだ。

 アパートで何かと目が合った。その後の記憶がない。私は本当に佐野さんに電話をかけることができていたのだろうか。それに本当に、佐野さんは来てくれたのだろううか。来たとしても、間に合ったのか。どうやって私を救ったのか。あの怪物と鉢合わせて勝ったのか。実は私は死んでいて、まだ夢を見ているのか。

 色々な考えが頭を駆け巡るが、怖いという感情だけは確かで、私は失礼にもソファの背もたれに体を寄せ、できるだけ佐野さんから距離を取った。

 だが彼は気にせず、意外な場所を口にする。

「ここは水面ちゃんの家だよ」

「…」

 予想もしていなかった答えに、何も反応を返すことができない。水面さんの家。なぜそんな場所にいるのか。一体私に何が起こったのか。説明してほしかったが、佐野さんは徐に立ち上がると、どこかに行こうとした。

「待ってください!どこ行くんですか!ここにいてください!どこにも行かないでください!」

 一人になるという恐怖から逃れたくて、私は他人の家であるということも、佐野さん偽物説も忘れ、叫び散らかした。彼の腕を掴み、どこにも行かせまいと引き止める。

「水面ちゃんに知らせに行くだけだよ。雅ちゃんが起きたって」

「ここにいてください!」

「分かった。どうしたの?怖い夢でも見た?」

 佐野さんはすんなりと私の言葉を受け入れると、同情するようにこちらを見た。ソファの横に座り直し、私を諭す。

「急に一人にしようとしてごめん。泣いてたし、どうにかしたくて。落ち着くまではそばにいるから」

 普段であれば、子供を慰めるかのようなこの言葉に、私は恥ずかしさを感じていただろう。だが今はそんなことを考える余裕もなく、私は佐野さんの腕を掴んだまま下を向いて、目を合わせずに言った。

「まがり様を見たんです。私死ぬのかもしれません」

 本気でそう思っていた。制服の袖で顔を擦る。

「死なないよ。大丈夫」

 私が佐野さんの腕を離すと、今度は彼が私の腕を掴んだ。しばらくの間、沈黙が続く。

 次に私が声を発そうとした時、背後から扉の開く音がした。ソファに座ったまま半身を捻り、私は振り返る。そこには部屋着を着た水面さんが立っていた。彼女は私と佐野さんに代わる代わる視線をやると、最後にもう一度私の顔を見て、口を開いた。

「…何か温かい飲み物持ってくるね」

 言い終えると、彼女はすぐに部屋を出ていく。私は固まったままその様子を眺めていた。

「雅ちゃん、深呼吸すると落ち着くよ」

 佐野さんは私の背中をさすってくれる。この段階になってようやく、私は落ち着きを取り戻してきた。

「すみません、もう大丈夫です。ありがとうございます」

「本当に?」

 佐野さんは心配そうに私の顔を覗き込んだ。会釈をしながら、繰り返し「大丈夫です」と言う。

 何分か後には水面さんが戻ってきて、佐野さんと同じようにして私のそばにしゃがんだ。手には湯気の立つマグカップを持っている。「熱いから気をつけて」と言うと、それを私に手渡してくれた。

 慎重に受け取り、私はソファに座り直す。隣では佐野さんが、先程まで私の上にあったブランケットを畳んでいた。

 急激に恥ずかしくなる。二人に気を使わせて迷惑をかけていたと思うと、とても居た堪れない。

「水面さん、飲み物ありがとうございます。佐野さんも、すみません。ご迷惑おかけして」

 下を向いてそう呟くと、水面さんは「本当にね」と言って私の肩を軽く叩いた。佐野さんは相変わらず、「いいよ」と笑顔で言う。

 彼はブランケットを畳み終えると、私の隣に腰掛けた。水面さんも近くの椅子に、足を組んで腰掛ける。

 私はカップを両手で包み、中の飲み物に口をつけた。それから顔を上げ、恐る恐る二人に聞く。

「あの、何があったんですか…?」

 水面さんは不機嫌そうに、「こっちのセリフなんだけど」と言った。代わりに佐野さんが答えてくれる。

「ちょっと前、雅ちゃんから無言電話がかかってきてさ。心配になってアパートまで見に行ったんだよ」

「す、すみません。ありがとうございます」

「どういたしまして。で、行ってみたんだけどいなくて。探したんだよ」

「え」

「そしたら祠の前で倒れてたから、びっくりした」

「…祠?」

 青褪める。私が最後に見たのは101号室の部屋の景色だ。祠はおろか、外に出た記憶もない。

「気を失ってるみたいだったから救急車を呼ぼうと思ったんだけど、何か嫌な感じがしてさ。その場に留まるわけにもいかないし、俺の家まで運ぶわけにもいかないし、矢津はまだ帰ってないみたいだったし、ダメ元で水面ちゃんの家かなって」

「なんで私の家なのよ。意味分からない」

 水面さんはすかさず、当然の文句を口にした。

「水面さん、すみません。突然押しかけて」

「…別にいいけど」

「本当にありがとうございます」

 重ね重ねお礼を言う。

 だが私をここまで連れてきた張本人である佐野さんは他人事のようで、欠伸をしていた。

「で、雅ちゃんの方は一体、何があったの?」

「あ、あの、その前に聞きたいんですけど、私、祠の前で倒れてたんですか?」

「そうだよ」

「アパートにあったんですか、祠が」

「うん。雅ちゃんの家、鍵が開いてたから勝手に入ったんだけど…」

「不法侵入じゃん」

「あ、それは全然大丈夫です」

「探してもどこにもいなくて。前にアパートの裏手に祠があるかもって言ってたから、そっちに行ってみたんだよ。そしたら本当にあったし、雅ちゃんも倒れてた。丁度102号室の真裏だったかな」

「…その祠って、石でできてました?」

 聞かない方が良いと分かっていながら、私は佐野さんに確認する。

「うん、石でできた古い祠だったよ。なんでそんなところにいたの?」

「…」

「雅ちゃん?」

「えっと、私祠には行ってないんです。本当にあったことも知らなかったですし…」

「…マジで?」

「はい。家に帰ったら突然チャイムが鳴って。誰かに連絡しようとした時、目が合ったんです。あの…」

「まがり様と?」

 黙って頷く。

「そこから先の記憶がなくて、今に至ります…」

「そっか。それは怖かったね」

「めちゃくちゃ怖かったです。でもあの、取り乱したりしてすみません…」

「気にしなくていいのに」

「本当よ。そんなの誰でも怖いじゃない」

「ありがとうございます…」

「てかさ、あんたこの後どうするの?」

「雅です…」

「うるさいな、分かってるって。雅はこの後どうするの?ここに泊まる気?」

 そう言われて、考える。アパートには戻りたくない。だが水面さんの家に泊めてもらうのも図々しいだろう。

 とりあえず現在の時刻を確認しようと制服のポケットを探るが、携帯がない。アパートの部屋で放り投げたままだ。

「あの、今何時ですか?」

「二十時だよ」

 佐野さんが答えてくれる。

「え、嘘!?佐野さんすみません、携帯貸してくれませんか。母に電話します」

「いいよ」

 佐野さんから携帯を受け取り、急いで母の番号に発信した。母はあのアパートに帰ってしまったのか。不安に苛まれる。

 だがそんな思いをよそに、電話に出た母は「はーい?どちら様?」と間延びした声で応答した。いつもの母だ。安心する。

 電話をしている間、私は佐野さんと水面さんを交互に見ていた。佐野さんは携帯を失って手持ち無沙汰なのか、しきりに水面さんに話しかけている。話しかけられた水面さんは面倒くさそうにしつつも嬉しそうだ。二人とも私と目が合うと、「何?」と言いたげな顔をした。

「あの、今水面さんの家にお邪魔してるって言ったら、母が迎えに来るって…。お宅の場所がどの辺りか教えほしいんですけど…」

「雅ちゃんの家から近くだし、俺が家まで送ってくよ?」

「私が送るからいいわよ」

「じゃあ二人で送ってこう」

「…そうね」

「佐野さん、水面さん、ありがとうございます」

 二人にお礼を言うと、私は母に伝え、電話を終えた。

「水面さん、今更なんですけど、ご両親は…?私ご挨拶もしてなくてすみません」

「真面目ね。そんなのいいって。親はまだ帰ってきてないし」

「そうなんですか?」

「いつもはいるんだけど、今日は帰ってこないって。なんなら孝二は泊まっていってもいいけど?」

「遠慮しとく」

「そう。…まあそうよね」

「………ああ〜、そういえば!佐野さん、聞いてください。今日の帰り、アパートの管理人の原口さんから、気になることを聞いたんです」

「何?」

「アパートの隣室で亡くなった方が、母の同級生らしいんです。でも原口さんはお年を召してて、その…」

「ああ、うん」

「なので必ずしもそうとは限らないんですけど、気になりませんか?」

「確かに気になるね。この後会った時に聞いてみる?」

「え、それって私も聞くの?」

「いいじゃん。水面ちゃんも聞こうよ」

 水面さんはダルそうな顔をして、実際に「ダル…」と言ったが、結局は聞くことになった。

「よし、じゃあ遅くなると大変だし、早く行こう」

 佐野さんの一声により、私達は水面さんの家を出るため、玄関に向かった。正直私はあのアパートへ二度と戻りたくなかったが、母がいるし、駄々をこねるわけにもいかず、渋々と動き出す。

 水面さんが先に外へ出た時、私は重要な事実に思い至って、佐野さんの背中をトントンと叩いた。

「何?」

「あの、私が倒れて、水面さんの家に来たって、さっき言いましたよね」

「うん」

「もしかしてですけど、ここまで佐野さんが運んでくれたんですか?」

「そうだよ」

「…担架で?」

「素手で」

「水面さんと二人で?」

「一人で」

「…本当ですか。すみません、疲れましたよね」

「別にいいよ。まあ運ぶ時めちゃくちゃ恥ずかしかったけど」

 私は踵の削れた自分の靴を見て、罪悪感に襲われた。

「すみません…」

「いいって。それで、言いたいのはそれだけ?」

「ああ、お礼を言い忘れてたので今言います。ありがとうございました」

「どういたしまして。なんか照れるね」

「照れるんですか」

「そう。俺って意外とピュアだから」

 佐野さんは靴を履いて、外に出た。


 携帯のライトで道を照らしながら、三人で夜道を歩く。目的地がアパートでなければワクワクしたのだろうが、そんな気分には到底なれない。

「水面さん…今更だし、図々しいとは分かってますけど、やっぱり泊めてもらえませんか…?」

「本当に今更ね。家出た後に言ってどうするのよ」

「できれば母も一緒に…」

「…図々しいわね」

「俺の家泊まる?」

「なんでよ!?」

 佐野さんが提案すると、水面さんは大袈裟に反応した。

「客間あるし」

「母もいいですか…?」

「いいよ」

「いいわけないでしょ!本気で言ってるの?」

 水面さんに諌められる。

「だって怖いんですよ!母がいるとはいえ、夜になると眠れません。夢の中で死ぬかもしれないです…」

「はあ?そんなわけないでしょ」

「ありますよ!そういう怪談あるじゃないですか…。今日はもう寝ません。電気つけて起きてます」

「勝手にしたらいいけど…」

「そもそもなんで私は祠の前で倒れてたんですか…。祠になんて行ってないのに!ああもうダメだ、気にしないようにしてたのに…」

 私は両手を体の前に持ってきて握りしめる。手が震えてきた。

「あ、そうだ。雅ちゃん、明日暇?」

「え…はい」

「丁度休日だし、旧校舎にお札取りに行こうよ」

「は?」

 唐突な佐野さんの言葉に、私は喧嘩腰で返す。「明日暇?」と言う質問に「はい」と答えて、こんなに後悔したことはない。

「橘さんの話で、どっちがアパートにあったお札なのかも分かったし、お札をアパートに戻したら、怪奇現象もおさまりそうじゃん」

「そうですけど」

「…」

「でも旧校舎でも見たんですよ!?お札を取った瞬間に!次こそは怒りを買うかもしれません…」

 暗い道でまがり様という単語を出すのが怖くて、言わないように叫んだ。夜だから小声で。

「じゃあ俺が取りに行こうか?」

「そんなのできません!私の都合なのに、佐野さん一人に行かせるなんてできないですよ。それにもし佐野さんが旧校舎から戻ってこなかったら、償いきれません…」

「俺戻って来れない可能性あるの?」

「ありますよ!一人で行かないでください」

「雅って面倒くさい性格ね。行くって言ってんだから、任せたらいいのに」

「ああ、行けって言われたら行くよ」

「行かないでください」

「じゃあどうするのよ」

「…」

 夜の住宅街は静まり返って、声が響いた。

 遠くの大通りでは車の音や光が見えるが、それも途切れ途切れだ。東西市は都会とも呼べない地域のため、この時間帯でも人通りは少ない。

 三人で狭い駐車場を通り抜けた。雑草が生い茂っている。暗い影を落とすアパートに近づくたび緊張は高まり、動悸がした。

 昼間はクリーム色だったアパートも、今は何色なのか分からない。普通であれば101号室まで私が案内するところを、佐野さんが代わりに前を歩いてくれていた。

 表札のない扉の前に立つと、鍵を差し込んでドアを開ける。部屋からは明かりが漏れ、夕ご飯の匂いがした。母が駆けてくる。

「おかえり。こんな夜遅くまで、大丈夫だった?」

 母は私を見つけると心配そうな顔をして、まずそう声をかけた。次に佐野さんと水面さんを見て、驚くと同時に笑顔を浮かべる。

「もしかして、友達?」

「…うん」

 見栄を張ってそう答えた。

「こんばんは。雅ちゃんの友達の佐野孝二って言います。夜遅くにすみません」

「…神田水面です」

 母は二人の挨拶を聞いて、寂しそうな顔をする。

「孝二君に水面ちゃん。暗い中わざわざごめんなさいね。こんなところまで来てくれて、ありがとう」

「いえ」

「まだ時間ある?大したものはないけど、夕飯食べていかない?」

「マジですか?じゃあお邪魔しちゃおうかな」

「ちょっと!」

 流れるように返事をした佐野さんに対し、水面さんは異議を唱えた。佐野さんの服を掴んで引き寄せる。

「もう遅いんだし、迷惑でしょ。それに、これ以上遅くなるっていうの」

「寄ってかないの?水面ちゃんがいてくれると安心できるんだけどな」

「…しょうがないわね」

 水面さんはあっさりと佐野さんに絆された。母は満面の笑みで二人を迎え入れると、狭い居間まで案内する。その途中で、私に耳打ちした。

「随分派手な子達だなって驚いたけど、二人とも凄くいい子だね。ごめんね、夕飯ちょっとショボいんだけど」

「いいって。お母さんの料理はなんだって美味しいじゃん。それより、体調は大丈夫なの?」

「大丈夫大丈夫」

 母はやはり笑って言うと、二人をテーブルに座らせて夕飯の準備を始めた。私もそれを手伝いながら、佐野さんと水面さんと小声で話す。

「二人とも、付き合わせちゃってすみません」

「え?いいよ。美味しいご飯食べられるし。それにお母さんに話聞くんでしょ?丁度いいじゃん」

「そう…ですね。ありがとうございます」

「雅ちゃんのお母さんって、いい人だね」

「確かに。雅は図々しいけど、お母さんはいい人ね」

「…はい」

 母を褒められて、嬉しくなる。

 だいぶ恐怖は和らいできたが、二人が帰り、暗い部屋で過ごすことを私はまだ恐れていた。早くまがり様の件を終わらせて、またみんなでこうして食事がしたい。そしていずれはお金を貯め、このアパートから母を引き離したい。

 明るい雰囲気の中、一人で勝手に重いことを考えながら食器を並べ終える。全員が食卓につくと、母は再度感謝の言葉を述べた。

「今日は孝二君も水面ちゃんも、本当にありがとう。そうだ、水面ちゃんの家にお邪魔してたって聞いたんだけど、ご迷惑じゃなかった?」

 母には私が倒れたということは知らせていない。心配をかけたくないということもあるが、それ以前に、なんと説明すれば良いのか分からなかったからだ。水面さんは微妙な顔をする。

「あ、いえ…別に大丈夫です」

 しおらしい水面さんを見て、佐野さんは笑っていた。

「水面ちゃんって、そういうとこ可愛いよね」

「え」

 分かりやすく水面さんは動揺するが、佐野さんは気にせず、母に料理の感想を伝え始めた。

 私は慎重に、隣室の話を切り出すタイミングを窺う。この楽しげな食卓の空気をぶち壊しにはしたくない。

 考えるあまり私は焦り、話しかけられても空返事をする。会話が一旦途切れる度、今話すべきだろうか、いや今じゃないと、そればかりを考えて、食事にも集中できなかった。とうとう食器の中身は空になる。

 すると佐野さんは雑談をするように自然な流れで、突然話し出した。

「そうだ。秋子さんに聞きたいことがあるんですけど」

 いつ知ったのか母の名前を出し、佐野さんは私に目配せする。

「何?」

 母は笑顔で聞いた。その質問に、佐野さんではなく私が、重々しい口調で答える。

「あの…お母さん、こんな時に聞く話じゃないとは分かってるんだけど、隣の部屋のことについて知りたいの」

「え?」

 母から笑顔が消え、困ったように私を見る。

「隣に住んでた人、同級生だったんでしょ?なんで何も言わなかったの。変な物音がし出してから、怖くなかったの」

「え、落ち着いて。今は孝二君と水面ちゃんもいるし…」

 母は二人の様子を窺い、私を嗜めた。

「佐野さんと水面さんも知ってることだから。ねえ聞いて。隣の部屋のことは、まがり様って怪談が関係あるかもしれない。お母さんも知ってるんじゃない?」

「…」

「体調も悪くなってるでしょ。お母さん、今日も朝からずっと顔色が悪いし。もう寝不足のせいだけとは思えないよ」

「…」

 母は目を伏せた。それからまた、口を開く。

「お母さんとお隣が同級生だって、誰から聞いたの?」

「え、えっと…」

「いや、やっぱり答えなくていいわ。分かってるから。それ以外には何も聞いてない?」

「…うん」

「そう。…でもあんまりね、気持ちのいい話でもないの」

 薄々気づいていたが、もうそんなことを言っている場合ではない。母は分かっていないのだ。このアパートに住み続けることは、もう限界に近い。一刻も早くお札を戻すことが必要だ。

 先程とは打って変わって重苦しい空気の中、私はまた母を説得しようと口を開きかけるが、佐野さんにそれを遮られた。

「雅ちゃん、今日アパートの裏手にある祠の前で倒れてたんですよ。彼女はそんな場所には行っていないって言うのに」

「嘘!?」

 それだけ聞くと母は大声を上げ、両手で私の肩を掴んだ。

「なんで!?大丈夫?病院には」

「私は大丈夫だから」

 必死に母を宥めて落ち着かせる。佐野さんは言葉を続けた。

「秋子さん、東西小出身ですよね。まがり様について知りたいんです。アパートのことも」

「ねえお母さん、もうかなりヤバいよ。引っ越しはできなくても、せめてお祓いしてもらった方が…」

「…」

 母はしばらく私達三人に順番に視線をやり、戸惑っていた。隣室が何かおかしいことは母も分かっていただろう。それが霊的なものである可能性が高いということも。

 母は東西小出身だし、まがり様のことも恐らく知っている。だけども話すことを迷っているかのように、ウロウロと視線を漂わせていた。

 だが溜め息を吐いたかと思うと、母は私の顔を見やりながら、ついに小学生の頃に起こった出来事を話し始めた。

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