バレンタインデーからの一歩
二十六歳の北野璃子は、百貨店の和菓子売り場で働いている。しかし、バレンタインデーの今日は、バレンタインチョコのブースのヘルプに入っていた。
和菓子売り場は、洋菓子売り場よりも普段から人が少ないので、そんなに忙しくない。それがいきなり、多忙を極めるバレンタインデーチョコのブースに放りこまれたので、閉店時、璃子は疲労困憊だった。
洋菓子売り場のおばさん達は、普段から忙しいのに慣れているのか、
「今日はちょっと忙しかったわねー」
等と言い、談笑している。
(ちょっとどころじゃないって……)
心の中でそう思う。
おばさん達の一人が
「北野さん、お疲れー。バレンタインデーの日にサービス残業にまでなっちゃって、ツイてなかったねぇ。これから彼氏と会えそう?」
「いえ、彼氏も今日は仕事で遅いので……。特に会う予定はないんです」
彼氏の智広が今日は仕事なのは本当だが、時間的にも距離的にも今から会えなくもない。璃子の彼氏は、璃子の勤めている百貨店から二駅のところに勤めていたのだから。会わない理由は他にあった。今、ケンカ中なのだった。
(智広のほうから謝ってくればいいのに……)
璃子は意地を張っていた。
「北野さん、これ。チョコの売れ残り。生チョコはあまり日持ちがしないからね。明日、値引いて売ったところで、そんな売れやしないから。持って帰っちゃいな」
「ありがとうございます」
璃子はゴディバの生チョコを三箱位、受け取った。
(高級品の売れ残りがもらえるのが、この仕事のいいところかも)
百貨店から外に出ると、二月の夜は、凍てつくように寒い。
璃子は、疲れた足取りで帰路を歩く。
(疲れた……、今日は本当に疲れた……)
仕事の疲労に加え、寒さが更に疲労に拍車をかける。
駅までの道に公園があり、公園内の自動販売機が光っている。普段は素通りする公園だが、璃子は光に寄せられる虫のように、自動販売機に近付いていった。
(温かいものでも飲んで、少し休んでいこう……)
ハンドバッグから財布を取り出す。
(お札しかないや……)
千円札を自動販売機に入れ、コーヒーのボタンを押そうとした時、璃子は自動販売機の向こう側に見えるベンチに、女の姿を見た。うつむいてぼんやりしており、生気がないので、一瞬、幽霊かと思って驚いた。驚いた拍子にボタンを二回押してしまった。缶コーヒーがガタンガタンと音を立てて、二個出てくる。
(幽霊……じゃないよね、うん、人間だ……)
璃子はその女性に目をやる。改めて確認しないとわからない位、その女性は生気がなかった。
(缶コーヒー、二個出ちゃった。仕方ないか……)
璃子は缶コーヒーとおつりを取り出すと、その女性が座っているベンチと逆のベンチに向かった。
「……」
でもどうにも、あの女性が気になる。
璃子は引き返し、その女性の座っているベンチに向かっていき、思いきって話しかけた。
「ねぇ、あなた。さっきからこんなところで一人でじっと座って何してるの?寒くない?」
「え……」
驚いたように、その女性は璃子を見上げる。その女性は綺麗な顔立ちをしていたが、やはり元気がなく、疲れているようだった。年は二十歳位といったところか。
「寒いでしょ。缶コーヒーあげる」
璃子は缶コーヒーを差し出す。
「そんな……、もらえません」
「いいのよ、間違って買っちゃったんだし」
璃子は半ば無理矢理、缶コーヒーをその女性に渡した。渡す時に女性の手に少し触れてしまったが、氷のように冷たい。
(この人、いつからここにいるのかしら……?)
璃子は、その女性の隣に座り、プルタブを開け缶コーヒーを一口飲んだ。
「あー、あったまるー。あなたも飲みなよ」
「はい……」
その女性は、プルタブの開け方も飲み方も上品だった。
「私、璃子。今、仕事帰り。あなたは?」
「愛里って言います。私も仕事帰りです」
「そうなんだ。ねぇ、ここで何をしてるの?」
「私、人を待ってるんですけど……」
「人?」
「はい、彼氏なんですけど……」
「そうなんだ、どれ位待ってるの?」
「一時間前からです……」
「一時間!?この寒い中!?」
「はい、やっぱりおかしいですよね……。実は最近うまくいってなかったんです。ケンカばかりで……。でも今日、バレンタインだしチョコ作ってきたんです。仲直りできないかと思って。でもラインも既読スルーだし……。もうダメなんでしょうね」
(既読スルーされてるのに一時間も待って……。手作りのチョコまで作って……。健気な子……)
璃子は胸が締めつけられるような思いがした。
「ふぅっ」
隣で愛里がため息のような声を出す。
「どうしたの?」
璃子は聞く。
「私、帰ります。もう来ないんです、彼は。いつまでも待ってるなんてバカみたいだし……。このチョコ、璃子さんにあげます。せっかく作ったから誰かに食べてもらいたいし……」
愛里はチョコの入った小さい紙袋を渡す。
「ありがとう……。あ、じゃあこれあげる」
璃子はゴディバのチョコを取り出して、愛里に渡した。
「え!ゴディバの……、いいんですか?こんな高級なのもらっちゃって」
「いいのよ。私、あそこの百貨店で働いてるの」
璃子は公園からも見える、百貨店を指差しながら言う。
「売れ残りをもらってきただけだから」
「そうなんですか……。嬉しい」
愛里はそこで初めて笑顔を見せた。
「開けてもいいですか?」
「いいよ」
「あ、生チョコなんですね。美味しそう。今、食べちゃおっかな」
「食べちゃいなよ。日持ちしないし」
「はい」
愛里はチョコを口にいれる。
「美味しい」
そしてコーヒーを飲む。
「コーヒーにも合いますね」
「私もあなたが作ったチョコ、開けてみていい?」
「はい」
紙袋の中には小さいチョコの箱が入っており、その箱も丁寧にラッピングされている。包装紙を取り、箱の蓋を開ける。
「──!」
それは、ありきたりな手作りチョコだった。板チョコを溶かして型に入れて固めたのだろう。アラザンで飾りつけたチョコと、オレンジピールで飾りつけた二種類のチョコだった。特別、上手な出来という訳でもない。
それでも、璃子はそれを見た途端、目に涙を浮かべた。上手だとかいう問題ではない。そのチョコから、愛情や温かみを感じたのだ。
「……食べてもいい?」
「ええ、もちろん」
璃子はチョコを口にする。
「……美味しいね」
「ゴディバのほうが、断然美味しいですよ」
愛理は笑いながら言う。
「じゃあ、私、行きますね。チョコごちそうさまです」
愛里は立ち上がって、歩き出そうとする。
「……ねぇ!ちょっと待って」
璃子は愛里に言う。
「?。何ですか?」
「これからどうするの?その彼氏との事……」
「どうって……」
「連絡来ないのに……、待っても来ないのに……、また連絡するの?また待つの?」
「……」
愛里は答えなかった。
「やめちゃいなよ、そんな男……」
「!」
璃子は普段は、世話を焼くタイプではなかった。けれど、愛里の手作りチョコを見て言わずにはいられなかったのだ。
(こんな温かみのあるチョコを作る子のラインを無視して、待たせ続ける冷たい男なんて……、この子が付き合う価値はない……)
璃子は智広とは、マッチングアプリで出会った。マッチングアプリでの出会いは、今は主流になってきている。それでも自然な出会いのほうが、なんとなくカッコがつく気がして、璃子は職場の人には「同窓会で再会した同級生」と付き合っている、等と言っていたのだ。でも……。
「ねぇ、マッチングアプリやった事ある?」
璃子は愛里に聞く。
「ないです……」
「やってみたら?星の数ほどいるよ、男の人。私、今の彼氏、マッチングアプリで出会った人なんだ」
「そうなんですか!……少し興味はあるんですけど……、なんか怖い人もいるのかなって……」
「あー……、メッセージのやり取りしてるだけでも少しはわかるよ、どんな人か。変な感じしなければ会えばいいよ。会ったって違うと思ったらやめればいいもん。そんな男、いつまでも待ってるよりも、マッチングアプリでもやったほうがいいよ」
愛里は少し考えこんだ風だったけれど、
「そうですね……」
と言った。そして聞く。
「璃子さんは、今の彼氏と付き合ってて幸せですか?」
「!。そうだね、幸せだよ……」
(今、ケンカ中だけど……)
「そうなんですね。私、なんか背中を押された気がします。ありがとうございます」
「どういたしまして」
「さようなら」
「さようなら」
二人が公園で出会ったのは、ただの偶然だった。これから二度と会う事はないだろう。
けれど、そのただ一度きりの出会いは、二人の心に変化をもたらした。
(彼氏とは、もう自然消滅……。でもいいんだ。マッチングアプリやってみよう。前に進もう。新しい恋をしよう。今日、あの人に会えてよかった。温かい人だった。最近の彼氏にはなかった温かさ……)
愛里は璃子に、勇気づけられた。
(なんて健気な子だったんだろう……。私、つまらない意地をはってないで、智広に電話しよう。私にも悪いところはあった……。謝ろう)
璃子もまた、愛里に会った事で素直な気持ちになり、勇気づけられていた。
二人のただ一度の偶然の出会い。でも、そこから新たな道が開けていく。
バレンタインデーからの一歩が始まる──。
お読みくださりありがとうございました。
ゴディバのチョコ食べたいなー(笑)
最近、忙しくなってきて疲れ気味の新井です……。あと、いつもの事ながら目や体調が不調なので、企画参加の皆様の作品を読むのが遅くなる&少しずつになると思いますm(_ _)mもし、ご感想いただけた場合も返信が遅い&少しずつになると思いますが、ご了承いただければと思いますm(_ _)m
最近、寒いですねー。皆様、体調に気をつけてお過ごし下さい(^^)