参考にさせていただきます
昔々、とある国の王都に、アリシャという女の子が住んでいました。
アリシャは貴族の娘ではありますが、正妻の子ではなかったため、二人の姉たちから酷く苛められていました。本当のお母さんは流行り病のため、アリシャが幼い時に死んでしまったのです。
お父さんは仕事が忙しく、殆ど家に居ません。このため、アリシャを助けてくれる人は、お屋敷に一人もいませんでした。
「一体、いつになったら出ていくのかしら?」
「妾の子の癖に厚かましい」
「メス狐が……どうやってお父様に取り入ったのかしら」
継母や姉達は、口々にアリシャを罵ります。けれど、アリシャはなにを言われても、どんな嫌がらせを受けても、一向に意に介しませんでした。
「すみません。母の方がお義母様よりも数段美しかったものですから」
アリシャの言葉に継母たちの目が点になります。怒りで顔が真っ赤に染まりました。
(妾の子であることは事実だし、厚かましいのも全部事実)
アリシャとしては、事実をただ述べているだけのつもりですが、彼女のことを傷つけたい継母や姉たちは、当然面白くありません。嫌がらせは年々酷くなっていきました。
父親がアリシャに贈ったドレスを破ったり、食事を与えなかったり、屋敷から締めだしたことも一度や二度じゃありません。けれど、アリシャは何とも思いませんでした。
(別に破れていても着られないわけじゃないし)
姉たちからビリビリにされたドレスを着て街を歩いてみたり、屋敷の外に立派なねぐらを建ててみたりとやりたい放題です。屋敷に与えられた部屋よりも立派な部屋が出来たと、誇らしげにする始末でした。
さて、アリシャ本人がノーダメージな代わりに、姉たちが大きな痛手を負いました。
『子爵家はドレスを買い直すお金すらないらしい』
人々が口々にそんな噂をします。プライドが高い継母や姉たちはカンカンになりました。噂の火消しをするため、高価なドレスをたくさん買って、三人で街を練り歩きます。けれど、さしたる美しさもない彼女達を見るものは誰もいませんでした。
「完全な無駄金ですね」
アリシャの一言に、ついに姉たちの堪忍袋の緒が切れました。
ある日のことです。ベッドで眠ったはずのアリシャは、自分の身体が小刻みに揺れていることに気づきました。頭まで布ですっぽりと覆われて、身動きが全く取れません。
(眠い)
けれどアリシャは声を上げようとはしませんでした。ぐぅぐぅ眠り続け、そのまま朝を迎えます。目覚めた時には、鬱蒼と生い茂った草木が四方を覆っていました。
「おぉ……」
いつかはこんな日が来るだろうと思っていたアリシャはただ一言、そんな声を漏らしました。彼女は姉たちの手で、森の奥深くに捨てられてしまったのです。
(これからどうしようかなぁ)
大きな木の幹に座ってぼーーっとしながら、アリシャは考えます。お腹がぐぅと大きな音を立てて鳴りました。既に三日ほど、食事を抜かれていたのです。
(迎えに来るつもりはないんだろうなぁ)
座っていても仕方がない。アリシャは食べ物を探すため、ゆっくりと立ち上がりました。
都会育ちのアリシャにとって、森の中は過酷な場所でした。着古した寝間着に薄布で作られた靴。とても森歩きに適した格好ではありません。あちこちに枝が引っかかり、足がツキツキ痛みます。
おまけに、昼でも日の射さない森の中は酷く冷えました。
(ちょっと休憩)
アリシャはそう思いつつ、目を瞑ります。ウトウトしていると、何かが彼女の頬を優しく撫でました。
(擽ったい)
薄れゆく意識の中、アリシャはそんなことを考えます。けれど、待てど暮らせどその感覚は消えてはくれません。
「――――鬱陶しい」
ついに耐え切れなくなり、アリシャはそう口にしました。「えぇっ⁉」という小さな声が聞こえます。
目を開けると、彼女の側で何かが飛んでいました。花びらのような鮮やかな羽を持った、愛らしい見た目の妖精です。けれど、アリシャはむすっと唇を尖らせ、ため息を吐きました。
「鬱陶しい」
「えぇっ⁉」
本日二回目の叫び声でした。妖精は絶望的な表情を浮かべ、アリシャの周りを飛び回ります。
「そ、そこはもう少し『可愛い』とか、『妖精に会えるなんて夢みたい』とか、『嬉しい』とか、そういう感想を戴きたい所なんですけど…………」
「――――――妖精を見たところでお腹が膨れるわけじゃ有りませんから」
アリシャの機嫌は、本人が思うより悪化していました。相当お腹が空いていたのです。ドスの効いた声音で、妖精のことを威嚇します。
妖精は身の危険を感じました。このままアリシャの側に居れば、自分は食べられてしまうかもしれない――――そんな風に思ったのです。
「しっ……失礼しました」
妖精は苦笑いをしながら後ずさりします。けれどアリシャは、妖精の羽をむんずと掴みました。ひぃっと小さな悲鳴が上がります。
「私の食事になるのと、食事を用意するの――――どっちが良いですか?」
淡々とした口調からはアリシャの感情は読み取れません。
「後者で! 食事を用意する方でお願いします! っていうか、わたしは最初から、あなたを助けようと思ってここに来たんです!」
妖精は慌てふためきながらそう言います。アリシャは妖精を解放すると、彼女の後に続きました。
「足、痛いんですけど」
歩きながら、アリシャはそう口にします。
「わっ、わたし達妖精は怪我や病気は治せません」
「空を飛べるようにしたりとか」
「できません」
「――――――思ったより使えないんですね」
ふぅ、とため息を吐きつつ、アリシャは眉間に皺を寄せます。
妖精はアリシャに声を掛けたことを、激しく後悔していました。けれど、そこは妖精の性。困った人を見過ごすことはできません。
(それに、この子にはわたしのことが見えている)
妖精は誰にでも見えるわけではありません。心の綺麗な人だけが見ることができます。
(正直、とてもそんな風には見えないけど)
心の中でそう呟くと、アリシャがじっと妖精を睨みます。妖精はもう、考えることを止めました。
「――――どうして森の中に家があるんですか?」
どれぐらい歩いたのでしょう――――アリシャがそう尋ねます。そこには大きな家が建っていました。王都にあるアリシャの家とさして変わらない程、大きなお屋敷です。
「そりゃぁ当然、人が住むためですよ」
散々アリシャに意地悪をされた妖精は、少しだけ小ばかにしたような言い方をします。ささやかな仕返しのつもりでした。
「それもそうですね」
アリシャは小さく息を吐くと、真っ直ぐ、家の入口へと向かっていきます。中からは美味しそうな食事の香りがしました。アリシャの口に涎が溜まります。
妖精は「ただいま戻りました!」と言いながら、壁の中をすり抜けて行きました。アリシャは屋敷の中に駆け込みたいのをグッと堪え、扉の前で居住まいを正します。
ややして姿を現したのは、アリシャと同じぐらいの年齢の少年でした。銀色と緑が混ざったような、世にも変わった髪色に、瞳は青味がかった緑色です。銀糸や金糸の織り込まれた高そうな洋服を身に纏っていて、中性的な綺麗な顔立ちをしています。この森の神秘的な雰囲気と相まって、見る人が見たら妖精のようにも見えます。
「初めまして、僕はディミトリーだ」
少年はそう言って穏やかに微笑みました。アリシャは同じように自己紹介をします。表情は変わりませんが、気持ちは急いていました。とにかく食事がしたかったのです。
「この子から事情は聞いたよ。大変だったね。さぁ、中へどうぞ」
そう言われるや否や、アリシャは遠慮なく屋敷の中に入ります。
中にはディミトリーの他に、数人の使用人が居ました。皆お揃いの服をキッチリと着込み、上品で洗練された佇まいをしています。
彼等はアリシャの様子を見るなり、甲斐甲斐しく世話をしてくれました。
たくさんの温かい食事に、冷えた身体を温めるガウン、湯浴みの準備も進めてくれます。
「どう? お口に合うと良いんだけど」
「美味しいです。ものすごく、美味しい」
さすがのアリシャも、それ以外の言葉が出てきません。久々の食事は涙が出るほど美味でした。そもそも、温かい食事が取れるのも、食事に肉や野菜がこんなに入っているのも、実に数年ぶりのことです。
「アリシャは細いから、たくさん食べた方が良いと思う」
ディミトリーは気の毒そうな表情でそう言いました。アリシャの身体には殆ど肉が付いて居ません。姉達の数年間の嫌がらせの賜物です。ディミトリー達には、彼女がこれまでどのような生活を送って来たのか、容易に想像が出来ました。
「もっと食べても良いのですか?」
言いながら、アリシャは瞳を輝かせます。お腹が満たされると、イライラも大分マシになってきました。すると、先程の妖精に意地悪な物言いをした自分が、少しだけ恥ずかしくなってきます。
「――――連れてきてくれて、ありがとう」
ディミトリーの背後からひょっこり顔を出した妖精に向かってお礼を言うと、妖精は嬉しそうに笑いました。
***
「それにしても、アリシャはどうしてこんな場所へ連れてこられたんだい?」
アリシャが落ち着いたのを見計らって、ディミトリーが尋ねます。ボロボロだった寝間着から、使用人のドレスに着替えたアリシャは、見違えるように美しくなりました。凛とした佇まい。思わずディミトリーは見惚れます。アリシャはそんな彼の様子をまじまじと見つめながら、徐に口を開きました。
「私の存在が気に喰わなかったからでしょうね」
それは、至極冷静な分析でした。
これまで、嫌われるきっかけは数えきれない程ありました。神経を逆撫でさせるようなことを言っていることも、きちんと自覚していました。けれどそれ以前に、姉達は初めから、アリシャのことが大嫌いだったのです。
「存在が気に喰わない、とは?」
「妾の子ですからね。盗人とか、卑しいとか、醜いとか……そんなことを言っていました。恐らくですけど、私の存在は姉達にとって、自分の存在意義や価値を否定することに繋がるようです」
アリシャの言葉に、ディミトリーは顔を歪めます。
彼自身もいわゆる妾の子でした。アリシャほど酷い扱いを受けているわけではないものの、何となく言わんとしたいことが分かったのです。
「だからって普通、妹を森に捨てる?」
「姉達は普通じゃありませんから」
「……犯罪行為だよ? もう少し、こう――――怒るとかないの?」
「いつかはこんな日が来ると思っていたので、特段」
話しながら、ディミトリーは段々イライラしてきました。顔も知らないアリシャの姉達に対して、沸々と怒りが湧いていきます。
「父親は? あなたを探してくれそうにないの?」
「忙しい人ですから、私がこんな状態だって知るのにあと何日掛かるか……あっ、戴いたご飯の代金ぐらいは払ってくれると思いますので、父の職場に請求書を送付していただけますと幸いです」
アリシャの言葉にディミトリーは唸り声を上げます。
こんな状況――――普通の少女なら、泣くなり喚くなりする筈です。反骨精神が多少旺盛ならば、相手を罵るなり、復讐を誓うなりするでしょう。けれど、アリシャはそのどちらにも当てはまりません。
(あまりの辛さに、頭のネジが一本飛んでしまったのだろうか?)
そう疑わずにはいられませんでした。
「――――取り敢えず、僕はしばらくこの屋敷に滞在している。その間はあなたもここで静養すること。良いね?」
「行く当てもありませんし、ディミトリー様が良いならば」
よろしくお願いしますと言って、アリシャは頭を下げました。
***
一ヶ月程時が経ち、アリシャとディミトリーは随分打ち解けました。
初めこそ、アリシャの独特な感性に驚いていたディミトリーでしたが、数日も経てば耐性が付きます。
虐げられて育った割に、アリシャは物知りで、聡明でした。本をたくさん読んだのだといいます。姉や義母達がアリシャの部屋を狭くするために、本をたくさん置いて行ったのです。その中には貴重な蔵書も多数含まれていました。姉達は絶対読まないような、難解な本です。
「勿体ないね」
「……何がですか?」
言いながらアリシャは、ほんの少しだけ首を傾げます。ディミトリーの屋敷には、アリシャの家よりもたくさんの本がありました。今もその内の一つに目を通している最中です。相変わらず無表情ですが、割と楽しんでいるらしいことが、ディミトリーには見て取れます。
「生まれてくる家が違っていたら、あなたはもっと、色んなことを学べただろうに」
ディミトリーは小さくため息を吐きつつ、アリシャのことを見つめました。
知識は本等から自ずと学び取ることが出来ます。けれど、貴族の令嬢に望まれる理想的な振る舞いや礼儀というものは、知識だけでは完結しません。
残念なことに、彼女の周りには、お手本となる様な人間が居ませんでした。姉達や義母は下品の代名詞のような人々でしたし、外出も殆ど許されませんでした。何が理想的なのか、知る機会に恵まれなかったのです。
「そういうことは、あまり考えないようにしています」
アリシャは視線を上げないまま、そんなことを言います。
「私があの家に生まれたのは紛れもない事実。今更親を取り変えることはできません。変わらないものに疑問を抱いたり、拒否をすることは疲れます。期待をするから傷つく。ならば、期待をしなければ良いのです。
最悪のことを想定していたら、何があっても『あぁ、この程度で済んだ』と思えます。今回みたいに、淡々と事実を受け入れられるのです」
アリシャは珍しく饒舌でした。ディミトリーは妖精たちと顔を見合わせます。
それは、彼女がいつも巧妙に隠している感情が浮き彫りにされた瞬間でした。
「――――そうか」
ディミトリーは呟きます。
先程からアリシャの視線はピクリとも動いていません。本の中の一点を見つめ、神妙な面持ちで唇を引き結んでいます。
「――――ディミトリー様はあとどのぐらい、このお屋敷にいらっしゃるのでしょう?」
ややして口を開いたアリシャは、そんなことを尋ねました。
「え? ……あぁ、あと大体2週間ぐらいだろうか?」
ディミトリーはしばし逡巡してから答えます。途端にアリシャの表情が曇りました。
その時、ディミトリーはアリシャと初日に交わした約束を思い出しました。
『――――取り敢えず、僕はしばらくこの屋敷に滞在している。その間はあなたもここで静養すること。良いね?』
アリシャにとってディミトリーがこの屋敷を出ることは、自分の居場所が無くなることを意味しています。王都にある子爵家へ戻っても、アリシャを歓迎する人は一人もいません。第一、アリシャは事故死したとして、公に存在が消されている可能性すらありました。
(私が戻れば、姉達は心底嫌な顔をするのだろうなぁ)
それ自体は見て見たい気もしますが、彼女達の元に戻りたい訳ではありません。同じことを繰り返しても、不毛なだけです。
アリシャは頭をフル回転させました。考えうる最悪の状況を必死に考えているのです。
(ディミトリー様ならきっと、私が森を出るための手助けをしてくださるでしょう)
彼は女性一人で森を抜けろと言うような薄情な方ではありません。麓まではきっと同行してくれるでしょう。けれど、その後のことは想像できません。
(彼とさよならをして、それで――――)
自分はどうするのだろう?そんな不安が胸を過ります。
「アリシャ、あのさ」
ディミトリーが徐にそう切り出します。
「この森を出たら――――僕の両親に会ってくれないか?」
彼の言葉はそんな風に続きました。アリシャは驚きに目を見開きます。それは、あまりにも思いがけない提案でした。
「良いのですか?」
「もちろん。アリシャが良ければだけど」
そう言ってディミトリーはアリシャの手を握ります。白くて細い手のひらでした。それでも、初めて会った日よりは、多少肉付きが良くなっています。
「――――よろしく、お願いします」
アリシャの声は震えていました。
***
さて、二人が森を出る日がやってきました。たくさんの騎士たちがやって来て、屋敷の中の荷物を運び出します。
アリシャは豪奢なドレスを着せられ、馬に乗せられました。森を抜けるには不似合いなドレスです。けれど、ディミトリーは頑として譲りませんでした。なんでもそれは、必要なことだと言うのです。二人仲良く馬に乗って、ゆっくりと森を後にします。
妖精達はとても、寂しそうにしていました。彼等は都会で暮らすことが出来ないのです。
「また来るよ。アリシャも一緒に、ね」
言えば妖精たちは、とても嬉しそうに笑いました。
森を抜けて王都に入ると、街道がたくさんの人で賑わっていました。熱い視線がアリシャとディミトリーに注がれます。街の真ん中を騎馬で練り歩くなど、普通は許される行為ではありません。けれど、誰一人として止めるものはいませんでした。
(変なの)
破けたドレスで街を歩いた時とは、異なる種類の視線でした。アリシャは酷く居心地が悪く、馬から降りることを主張します。けれど、ディミトリーがそれを許しませんでした。
「ダメだよ。見せつけなきゃいけないんだから」
誰に?と尋ねようとしたその瞬間、アリシャには答えが分かりました。
「アリシャ! ……やっぱりそうだわ! お母さま、アリシャよ!」
甲高い、芝居がかった声が響き渡ります。二人の道を塞ぐようにして、三人の女性が躍り出ました。アリシャの姉と継母です。
三人は貼り付けたような笑みを浮かべ、あぁっ!と大仰な声を上げます。
「良かった、アリシャ! 生きていたのね!」
「ずっと探していたのよ」
「あなたの乗っていた馬車が行方不明になって……わたくし達がどれほど心配したことか!」
姉達は口々にそんなことを言います。
「……一体、なにを言っているの?」
アリシャは思わず呟きました。姉達の発言に対して、アリシャが疑問を呈すのは初めてのことです。これまで、どれ程酷いことをされても何も感じなかったというのに、今は違います。アリシャの中でどす黒い感情がとぐろを巻くようにして蠢いていました。
「今まで一体どこにいたの?」
「ビックリしたわ! ディミトリー殿下と一緒にいるんだもの」
「本当に、こんなところであなたに再会できるなんて、思っていなかったわ」
媚びるような視線がディミトリーに注がれます。
殿下――――ディミトリーはこの国の第三王子でした。王位継承権は持たないものの、いずれは爵位を得て、活躍を期待されている御方です。森や妖精たちの研究をすることは、彼の大事な公務の一つでした。
「あぁ、殿下にはなんとお礼を申し上げたら良いか」
「さぁ、一緒に家に帰りましょう?」
「早くそこから降りなさい」
姉達の唇は弧を描いていますが、瞳は笑っていませんでした。
『何故アリシャ如きが殿下と一緒に居るの――――?』
そんな激しい憎悪と嫉妬が見え隠れしています。
姉達は、何とかしてこの場を取り繕うとしていました。アリシャを心配している振りをし、自分たちがアリシャを森に捨て置いたことを『無かったこと』にしようとしています。
加えて彼女達は、一刻も早くアリシャをディミトリーから引き離したいと思っていました。姉達のそんな意図は容易に透けて見えます。それがアリシャを激しく苛立たせました。
「いい加減にしてもらおうか」
それは、ディミトリーから発せられたとは思えない程、冷たく鋭い声音でした。姉達が一気に竦み上がります。アリシャは驚きに目を見張りました。
「僕の行く手を遮った上、婚約者にまで変な言いがかりを付けるなど――――不敬にもほどがある」
言えば、数人の騎士たちが姉達を一斉に取り囲みます。事態を見守っていた群衆たちも、ザワザワと騒ぎ始めました。
(婚約者?)
アリシャは真顔のまま思い切り首を傾げます。けれど、そんなアリシャの様子はそっちのけで、姉達は激しく取り乱していました。
「そっ……そんな! その娘は正真正銘わたくし達の妹で」
「そうです! 言いがかりだなんて、そんなつもりは」
「第一、その子に殿下の婚約者だなんて、とても務まりませんわ! 卑しい妾の子ですもの」
「――――僕も妾の子なのだが、知らないのか?」
ひぃっと小さな悲鳴が上がります。
「しかし、アリシャが君達の妹だというなら丁度良い。王宮でじっくりと話を聞こうじゃないか」
「ほっ……本当ですか?」
姉の一人が希望に瞳を輝かせます。この期に及んで、アリシャに成り代われると思っているのです。ディミトリーはニコリと微笑むと、騎士たちに向かって指で合図を送りました。
「ええ。彼女は自分の家族に、酷い虐待を受け、挙句の果てに森に捨てられていましたから」
「えっ……? あっ……えぇ?」
「まさか、そんな」
「何かの……何かの間違いではございませんこと?」
姉達はしどろもどろになりながら、互いに顔を見合わせます。騎士たちは問答無用で三人を捕らえました。
本来なら、街でアリシャを見つけたとしても、姉達が声を掛けることはありませんでした。あの状況下でアリシャが生きているとは思っていなかったからです。もしもアリシャが生還したら、自分たちが罪に問われる――――その可能性も考えていなかったわけではありません。
けれど、アリシャがディミトリーと一緒に居たことで、姉達は頭に血が上ってしまいました。醜い嫉妬心に駆られたこと――――それが彼女達の運の尽きでした。
アリシャは呆気に取られていました。彼女はいつも悪いことばかり想像していて、自分に都合の良い想像はしたことがなかったのです。
「ディミトリー様」
「なんだい、アリシャ」
「これは一体……」
姉達がアリシャの目の前で連行されていきます。あっという間の出来事でした。未だ、何が起こったのかきちんと受け止められていません。
「悪いことをしたら、ちゃんと償いをしないといけないだろう?」
ディミトリーは真顔でそんなことを言います。アリシャは一つ、事実を受け止められました。
「あの……それは分かりましたけど、婚約者とは?」
文脈から判断するに、あれはアリシャを指すはずですが、生憎とアリシャには身に覚えがありません。アリシャに縁談が来ようものなら、姉達が全力で潰しにかかる筈だからです。
「当然、アリシャのことだよ」
「私、ですか?」
アリシャは目をぱちくりさせながら、もう一度首を傾げました。
「だって、両親に会ってくれるんだろう?」
ディミトリーは穏やかに微笑みつつ、そう言います。途端にアリシャの心臓が、訳の分からない自己主張を始めました。彼女にとってそれは、初めての経験です。頬が熱くなり、息が上手くできません。半ばパニックに陥ったアリシャを、ディミトリーが後からしっかり支えます。それが却って、彼女の動揺を助長させました。
「わっ……私は! あなたのご両親に仕事を紹介してもらえるものと、そう思っていたのです」
アリシャはディミトリーが王子であることに気づいていました。その上で『城で仕事を貰えたら良いなぁ』と、そう思っていたのです。
「俺と結婚するのは嫌?」
ディミトリーが尋ねます。
「嫌……ではありませんけど」
正直アリシャは困っていました。悪意には耐性があります。けれど、好意を向けられること――――自分に良いことが起こることには、とんと免疫がなかったのです。
「俺はアリシャは良い子だと思うよ」
それは、いつも姉達から言われているのと、真逆の言葉でした。
「可愛いし」
「や……」
「努力家だし」
「やめ…………」
「優しいし」
アリシャはついに両手で顔を覆い隠しました。羞恥心に耐えられなかったのです。
「アリシャが自分を甘やかせない分、これからは僕がアリシャを甘やかすから」
そう言ってディミトリーはニコニコと笑います。
「――――――現実的なお話をしますと」
「うん?」
「姉達が罪に問われるのに、ディミトリー様の配偶者になんてなれないのではありませんか?」
悪い想像をすることは得意です。アリシャは期待を抱かないよう、細心の注意を払って想像を巡らせます。
「そんなの、何とでもなるよ。おとぎ話でもそう相場が決まってるだろう?」
「だっ、だけど、これはおとぎ話ではありませんし」
「王子の僕が言えば、大抵の無理は通るよ」
「――――身分的にも釣り合ってるとは思いませんし」
「その辺も心配ないよ。母も子爵家出身だ」
「ズケズケものを言いますし」
「正直なのは良いことだよ。僕に苦言を呈してくれる人なんて滅多に居ないんだから」
「ですが、教育も――――碌に施されていませんし」
「アリシャは知識は十分あるんだし、大丈夫。良い教師を付けるよ。
ねぇ……そろそろ言い訳も底を尽いたんじゃない?」
ディミトリーはそう言ってケラケラと笑います。
「それにしても――――アリシャは嘘が吐けないよね」
「……何故、そう思うんですか?」
「だって、『俺のことが好きじゃないから』とは言わないから」
その瞬間、アリシャの顔が真っ赤に染まりました。図星だったからです。ディミトリーは満足そうに微笑みました。
「――――これからは『自分に都合の良いこと』ばかりを想像することをおススメするよ」
ディミトリーの提案に、アリシャは唇を尖らせます。彼の言う通り、このままでは心臓がもちそうにありません。
「参考にさせていただきます」
この度は本作を読んでいただき、ありがとうございました。
もしもこのお話を気に入っていただけた方は、ブクマや評価(下方☆☆☆☆☆)にてお知らせいただけると、今後の創作活動の励みになります。
また、昨日完結したばかりの『死に戻り皇帝の契約妃』のリンクを下記に貼っております。こちらの方も是非是非、よろしくお願いいたします。