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月下の桜-届かない星へ-

作者: せく

 長い長い、気の遠くなるような時間の間。いつも一人で窓を見つめていた。いつも同じ風景を見ていた。そしてその中で走り回る自分の幻影を探していた。たおやかに咲く花。飛びまわる鳥たち。鳴く虫の声一つにさえ、大きな夢を抱いていた。でもそれは叶うことのない夢だった。叶うことがないと知っていても、祈ることをやめられない夢だった。そうしないと笑顔が崩れると知っていたから。けれどそうして最後まで祈っても、大事なことだけは何一つかなわず目の前から姿を消した。あなたは、今も笑えているだろうか。君は、今どんな顔で笑っているのだろうか。



 _________________________________





 六月。長袖のシャツが半袖のシャツへと変わり、今まで見えなかったものが見えるようになってきた。じりじりと日が照る中を歩く人々は、日が少しでも隠れるたびに気が安らいだかのような表情を浮かべている。


 他人の影のみを見て好き勝手に歩いていく雑踏の中、俺は学校にもいかず、何かを想うこともなく、ただ一人そこにたたずんでいた。


「生きる意味って、なんだ?」


 こぼした呟きに訝しげにこちらを見る視線もあったが、それもすぐに何処かへと行ってしまった。


 俺はいつも一人でぼやいていた。生きること、死ぬこと、歩くこと、感情を持つこと、自由であること。どこまで考えたところで、この世界の意味すらもわからなかった。


 俺は以前からこんな人間だったわけじゃない。狭い世界でも精一杯生きなければならないと思い、勉強に部活動、ボランティアなど様々な事を積極的にやってきた。この世界に生まれて十数年と経つが、その大半は意志を持って堅実に男らしく生活してきたと自信をもって言えるだろう。


 名は体を表すと言うが、俺には当てはまらなかった。どちらにおいても。


 親がくれた桜という名前は、名字の川女もあいまって全体的に女子のような雰囲気がして昔は嫌いだった。子供のころ、駄々をこねる俺に母親が言ってくれた


「桜のように、最後まで人に胸のはれる人生を送りなさい」


 という言葉がなければ、今でも嫌いだったかもしれない。


 しかし、俺個人の好き嫌いに関係なく、その名が俺を表すことはもうない。俺のことを呼ぼうとするやつなど今はもう誰もいないからだ。忌まわしきあの事件以来……。





 ________________________________






 俺はこれまで必死に頑張って生きてきた。毎日襲い来る誘惑を跳ね除け、学生の本分を全うしてきた。


 そうしてきた甲斐もあってかそれは自分自身の成績となって返ってきた。勿論大人からの評価もよく、そのおかげか女子からも人気があった。


 だがそんな俺を快く思わない人間がいたのも事実。


 あからさまに無視してくるだけならまだ実害はないが、影でこそこそと暴言を吐く奴もいれば、事あるごとに突っかかって来るような奴もいた。


 とは言え一々構っていてはいつまで経ってもそんな奴らは消えない。だからどれも些事だと放置を続けた。が、そのツケは溜まりに溜まって俺に帰って来た。


「桜君! またね!」


「ああ、ばいばい」


 その日も、いつもと何も変わらない一日で終わるはずだった。


 最後の授業も終わり、家に帰るため帰り支度を整えている時にそれは起きた。


「あれ? 桜君写真落としたよ」


「え?」


 俺の鞄の中から一枚の写真がひらひらとと揺れながら地面に落ちていった。しかし俺には写真を入れた覚えはなく、考えるため少し動きが止まってしまった。今更のことではあるが、この時疑問に思う暇があるなら先に拾ってから考えるべきだったのだろう。


 親切心からか、近くを通った女子が写真を拾い上げた。


「は? なにこれ?」


 この時すぐにならまだ弁解の余地はあったのかもしれない。写真を俺に向けた女子の声には、信じたくないかのような震えが混じっていた。


 その声に焦って俺は写真を見る。そこに映っていたのは、体育の時に更衣室で着替えている女子だった。


「これはどういうことなの桜君!?」


 女子がいきなり大きな声をを発したからか、付近にいた生徒がこちらを見る。そしてすぐ近くにいた二人組が寄り、写真を見るなり大声をあげる。


「は? 盗撮とかありえねぇ!」


「この人間の屑! ふざけたことしてんじゃねぇよ!」


 その声はクラス中どころか廊下まで響き、興味がなさそうにしていた者までこちらへと詰め寄ってきた。


「これって桜君がやったの!?」 


 俺の頭は疑問符でいっぱいだった。なんで写真が? いつ入った? いったい誰が?


「え、あ、い、いや、俺じゃ、俺じゃ」


 まともに頭が働かなかった俺の口からは、否定すべきことすら否定できずに、ただただ声がもれただけだった。


 そんな俺を見て盗撮犯だと確信したのか。映っていたクラスメイトの女子は俺の頬を大きくはたいて走り去っていった。




 その翌日、大きな不安と疑問を抱きながらも、俺は高校へと向かった。


 案の定噂は校内に広まっており、下駄箱にいる俺を遠巻きに見てひそひそと話す生徒が多かった。 


 噂の元である自分のクラスでは、直接暴言を吐いてくる者もいるだろうと、最初から億劫な気持ちで俺は教室に向かう。ドアの前に立ってみると、教室の中からは意外にも賑やかな生徒たちの声が聞こえてきた。だが、あんなことがあった日の翌日に賑やかなクラスに嫌な予感を覚えた。


「……おはよう」


 ドアの前で立っていても周囲には常に人だからが出来ており、勇気を出して俺はドアを開けた。だが俺がドアを開けた瞬間、賑わっていた教室は一瞬で静まり、多くの生徒がこちらを見て下卑た笑みを浮かべていた。


 その無言の圧力の中、俺は自分の席へと向かう。


 それが絶望の始まりだった。


 机の中はゴミや濡れた雑巾であふれ、机の上には花が置かれて、死ね、盗撮魔、変態などの文字が刻まれていた。


 俺がその席を呆然とみつめていると、担任の教師が教室に入ってきた。


「早く席に着けー」


 教室内をぶらついていた生徒も席に着き、俺は席にあるゴミや雑巾をどけ、軽くティッシュで拭いたのちに座る。乾いた椅子がやけに冷たく感じた。


 そうして何事もなく普段通りにHRが行われた。俺の机の上には未だ花が置かれゴミや雑巾であふれかえったままではあったが。


「川女、後で職員室に来い」


 HR終了後、担任が今までと真逆の冷たく軽蔑した目つきで俺を呼んだ。信頼を得ていたであろう教師からもこんな態度をとられることに、今までとは一味違う悲しみを感じた。


 机の上のものをどけてから職員室に向かい、提出物の採点をしているであろう担任を見つける。


「なぁ川女、なんで呼ばれたかわかるよな?」


 優等生だったころの名残か、担任が試すような口調でこちらに問いかけてくる。


「先生、俺は何もやってないんです! 誰かが俺の鞄に写真を入れたんです!」


 初めからこちらの話など聞くつもりがないのか、担任は採点をしたままチラリとこちらに視線をむけることもしない。俺は話を聞いてもらおうと必死に呼びかける。


「先生ならわかってくれますよね!? 俺がそんなことするはずないって!」


 それでもまだこちらを向かないことに、俺は怒りと同時に焦りを覚えていた。そうして訴えること3分ほどで担任がこちらに向き直った。ようやく思いが通じたか。そう考えたのも束の間、


「先生の予想通りでした」


「そうでしたか、わざわざありがとうございます」


 俺の後ろから教頭が現れ、俺の鞄を担任の机の上に置いた。教頭は俺をにらむような眼で見たあと、足で俺の座っている椅子を軽くけりながら自分の机へと戻っていった。


「川女、鞄の中身を勝手だが調べさせてもらった。なぁ、お前が盗撮をしてないというなら、これは一体なんなんだ?」


 担任は一枚の盗撮写真を手に取ったあと、俺の鞄の中から大量の盗撮写真を一枚一枚俺に見せるようにして机の上に置いていく。ようやくこちらを向いたと思った担任の目には、既に昔の俺など映っていないのだろう。ただの盗撮犯、そう決めてかかっている。


「もう言い逃れはできんぞ」


 担任はまた提出物に目を向けた。


「違うんです! この写真もきっと誰かが入れたんです! 普通に考えて、疑われている次の日に、写真を持ってくるわけがないでしょう!?」


 冤罪を晴らそうと必死で自分の弁護をするが、担任はとても不機嫌な顔で言い放つ。


「いい加減に自分の罪を認めろ! 証拠がこんだけ出そろってるのに、いまさら何を言ってるんだ。処分は追って連絡するから、今日はもう帰って頭を冷やしてろ」


 もうこちらの話しを聞き入れてくれるはずもなく、俺は翌日から無期停学処分となった。





 ________________________________






 俺はただただ一人で歩き続けた。盗撮事件は公然のものとなり、親や近所からは軽蔑の目で見られ信じてもらえず、挨拶の代わりに罵声が飛んでくる。


 そこから離れるため何も考えずに歩き続けた俺は、自分でも何処だかわからない場所まで来ていた。一筋の風が頬をなで、それに身を震わせて初めてかなりの時間がたっていることに気が付いた。辺りは暗くもうすぐ夜中といってもいい時間帯だが、親から捨てられたような状態にある今、家に帰ろうという気力など湧いてくるはずもなかった。


 俺はその場所からさらに奥へと向かって歩き、広い海の見える綺麗な丘に辿り着いた。真っ黒で底の見えない海は今の自分と似ているのではないかなどと、ありえない幻想を胸に浮かべ、塩の香りをあびてより一層香りだつ腐った自分に自嘲の笑みがこぼれる。


 夜の海を見るのはこれが最初で最後になるかもしれないな。


 人生というものを諦めきった俺には、ここからの身投げも悪くないと思える。今まで挫折らしい挫折を知らなかった俺に今回の事件はあまりに重く、心に空いた穴は大きかったのだ。


 美しい景色を最後に目に焼き付けようと、その丘に腰を下ろし空に浮かぶ船を数える。中でも一際大きな船は、自由に泳ぐ満月だ。兎の餅つきなどといわれるあの模様が、今では船に襲い掛かる荒波に見える。


 丸い満月。見たのはただそれだけだが、心の穴に丁度すとんと落ちていった。俺はその満月を胸に刻んだ。


「綺麗だな」


 何かを想うこと自体が久しぶりすぎて、それ以上はもう何も出てこない。


 そうしてしばらくの間もの思いにふけっていたその時だった。君と出会えたのは。


「こんばんは」


 突然後ろから高めの声が聞こえ、驚きながらもゆっくりと後ろを振り返ると、そこには白い服を着た女の子が立っていた。


「き、君は?」


 少女はどことなく普通の人と違う雰囲気をまとい柔らかな笑みを浮かべていた。特に何をしているわけでもないが、近くにいるだけで少しずつ心が癒され安心感がもたらされる。


「私、あそこの病院から抜け出して来たんです」


 そう言って少女が指さした先には少し寂れた病院があった。周りも見ずに歩いてきたため、病院どころか周囲の地形すらまともに認識していなかった。


「何でここに?」


 病院を抜け出したという言葉が気になり、俺はそう質問する。あの事件以来誰とも話すことなどなくなっていたが、少女とは不思議と話せるような気がした。


「ここから見える景色が好きなんです。それでたまにここへ」


 そう言いながら海を指さす少女の腕は、とてもほっそりとしていた。病院、抜け出す、細い腕。そこまできて、俺はようやく少女が来ている服が患者用の服だと気が付いた。もう働くことがほぼなくなってしまった頭を回転させながら、俺は少女と会話を続ける。


「……抜け出してきて大丈夫なの?」


 詳しいことなど全く分からないが、外で日常的に活動できるようにはとても見えない。


「本当はダメですけど……どうしても種を植えたくて」


 そう言って少女は手に持っていた袋から種を取り出す。数種類の種はそれぞれきれいにわけられている。


「種? どうしてわざわざ?」


「私にとってこの丘は宇宙と同じなんです。動き回ることはできないですけど、決して手が届かないわけじゃない世界の外側」


 だから花を植えてもっと素敵な場所にしたいんですと、俺に語る少女は真っ直ぐでとても澄んでいた。少女の瞳には満月と海が映っており、それこそ宇宙のようだった。しかしそこに映る自分の姿がとても卑しく見えて、耐えきれずに目をそらした。


 少しの間少女は動きを止め、その後持っていた種を植え始めた。


「俺も手伝うよ」


 考えなくともどうしてか体が勝手に動いた。きょとんとした少女は少し考えた後俺に種を半分渡し、一緒に花の種を植え始めた。途中何度か少女がふらつき、自然と俺はその体を支えていた。


「よし、ようやく終わりっと」


 持ってきた種をすべて植え終わり、俺と少女は隣同士で腰を下ろした。


「ありがとうございました。花、咲いてくれるといいんですけど……」


 呟く少女の姿は、満月に照らされとてもきれいにみえた。少女の隣にいる時間だけは、何も考えないでいられることが心地よかった。


 少し落ち着き、今更だがまだ名前を聞いてないことに気が付き俺は少女に尋ねる。


「名前、なんて言うの?」


「美星といいます。名字は川端です。」


 川端美星。その名前を俺は忘れないようしっかりと反芻する。


「美星かぁ。いい名前だね。」


「えと……あなたの名前も教えてくれませんか?」 


 上目づかいで尋ねてきた美星に、俺は名乗ることのなくなった自分の名前を教える。そうして名前を教えあった後、俺と美星は座り込んだ丘で長い間話しこんだ。美星とは今日初めて会ったはずだが、前からずっと知り合っていたかのように自分のことについて教えてくれた。


「へー、絵を描くのが好きなんだ」


 話の中で教えてくれたことだが、美星の趣味は絵画らしい。


「病院でできることってこれくらいだから……」


 少し恥ずかしそうに話す美星は、俯いている。聞くところによると年齢的には中学生のはずだが、病院に長い間いたせいで恥ずかしがり屋になったのだろう。


「いつか俺の絵も描いてくれる?」


 冗談半分で尋ねてみると、


「いい……で……すよ」


 予想外に了承してくれた。俺は自分の心が躍っていることを自覚した。


「ありがーーって!おい!美星!」


 だが、返事と共に苦しそうな表情を浮かべながら、美星はその場に倒れた。


「しっかりしろ!美星!」


 辛そうに呼吸する美星をそのままにするわけにもいかず、お姫様抱っこで持ち上げ病院に向かった。美星はとても軽く、その軽さに不安を覚えた。


 病院に着くと俺はすぐに院内の人を大声で呼んだ。


「川端さん!?」


 駆け付けたナースの方はすぐに美星の状態を探った。


「急に倒れたんです!早く見てやってください!」


 俺は美星を院内の人にまかせ、診療室の前で長い時間座り続けた。


 美星の無事を祈って1時間弱だろうか。奥からコツコツと足音が聞こえた。


「もう大丈夫です」


 現れた医者は俺の元に駆け寄るなりそう伝えてくれた。体中の力が抜け、倒れそうになる自らを抑え、美星の病室に向かった。


「大丈夫か?」


 病室のドアを開けて、美星が視界に入る前にそう尋ねる。


「もう大丈夫。心配かけてごめんね」


 確実なことはわからないが、大丈夫そうな美星の顔を見て今度こそ体の力を抜いてほっとした。あんなつらそうな美星は二度と見たくない、そう言おうとしたが、まず今日が初対面であったことに気が付き自分の中での美星の大きさに驚く。


「……そうか。じゃあ俺帰るよ。お大事に」


 無事を確認したので帰ろうとドアに向き直ったとき、俺の服の袖を美星がそっと握る。


「……また、会えるよね?」


 不安そうな美星の声に、俺考えるのが馬鹿らしくなって微笑みながら振り返った。


「また会いにくるよ」


 そう言うと美星は握っていた服を放して微笑み返してくれた。その笑顔は今までで一番穏やかに見えた。


 病院から出た俺は昔の俺とは違う。そう断言できるほどに、自分の中の感情が色鮮やかに蘇ってきていることに気が付いた。冷たくも柔らかい風に包まれながら、俺は病院を後にした。






 ________________________________







 そしてその日から月日がたち、九月になった。


 実際に俺が撮ったという証拠は当然だが結局見つからずじまいという事で謹慎が解け、周りの生徒から屈辱的な行為を受けながらも俺は学校に通っている。


 最初こそ制服を着ることすら抵抗があったが、元から俺は学校では一人だった、そう思い込めばそんなに苦にはならなかった。


「川女、ノート貸せよ」


「いいよ」


 普段話しかけてこないどころか近づいてすら来ない男子が突然話しかけてきたことを不自然に思いながらも俺はノートを貸した。まぁ何をされるかなどある程度予想はついていたが。


「じゃあ後で返すから」


 そう言ってその男子は自分の机の上に俺のノートを置くとどこかに行ってしまった。


 ノートが返ってこないので昼休みにゴミ箱の中を見ると、案の定ノートが見つかった。しかもノートはカッターのようなもので切り刻まれている。


「ったく……これは盗撮よりも犯罪だろ」


 とはいえこんなことにももう慣れてしまい、今ではこんな事は苦にならなくなった。


 確かに全くつらくないと言えば嘘になるかもしれないが、つらい事があっても楽しい事はある。俺は生きている事に楽しみがあった。あの日に行った丘にある病院に行くことだ。毎日行けるわけではないが、特にやることがない俺はよく病院に通った。美星に会うために。


「入るよ」


 俺は病室のドアをノックしてからそっと開けた。


 中に入ると、窓を呆けた顔で眺める美星の姿があった。


「外、出たいの?」


 かけられた言葉でようやく俺の存在に気付き、急に俺の脇腹に飛びついてきた。


「いらっしゃい!」


 俺にとってこの病院は唯一の心の解放場所になっていた。この三ヶ月間、生きる事を諦めないでいられたのも美星のおかげだ。三ヶ月間で随分仲良くなることもできた。


「今日は何してたの?」


 病室内でできることは限られているが、その中においては美星は多芸だった。


「絵を描いてたの」


 美星はそう言うと一枚の絵を取り出した。


「おー、ここの窓から見える景色じゃん」


「ここで描けるのこれくらいしかないから」


 不満そうに言った美星の言葉に俺はどこか不憫さを感じた。


「今日の夜に抜け出して丘に行かないか?」


 俺の些細な気持ちが伝わったのか美星は微笑み、頭を縦に振った。


 夜になると約束通り病院を抜け出し、美星と一緒に丘に向かった。満月が青い海を綺麗に照らしていた。


「この絵を描かないか?」


 そう言って俺は月と海の間を指差した。


「うん、私もそうしようと思ってたところ」


 描くものが決まったからか美星はキャンパスを立ててその場に座り込み、鉛筆を持って絵を描き始めた。美星の顔は俺と最初に出会った時と同じように、月光に照らされてきれいに見えた。


 しばらくの間無言の時が続き、俺の口から不意に心がもれる。


「ここに来てなかったら、多分死んでたんだろうな。生きる気力なんてなかったし。」


 聞いた美星は手を止め、俺の方を見る。時のとまったキャンパスには、すでに綺麗な月が描かれていた。


「どうして?」


 素朴な綺麗に、俺は答えを窮した。学校であった事、家での自分、これからの事。とてもじゃないが話すことはできず、俺は何も言わないまま空を見上げた。


 また少し静かな時間が過ぎ、美星が語る。


「私は、生きていることには意味があると思う。」


 真剣な美星の瞳には、俺が映っている。


「意味がないのなら、こんな世界に命なんて生まれない。そうでしよ?」


「あぁ……そうかもな。」


 その様子にうろたえながらも、答える。俺のことをしっかりと見据え、美星は続ける。


「でも……死ぬことにも意味がある。そして、責任も。」


「死ぬことの……責任?」


 その言葉の意味がわからず、俺は聞き返す。美星は鉛筆を地面に置き、俺の手を取って立ち上がった。


「生きていく中で、寿命を全うした者は次の世代へその意思を伝える。病気で亡くなった者は、残された者に想いを伝え、自らをデータとして残す。事故で亡くなった者は、二度と同じことが起こらないよう、後世へと戒めさせる。」


 これが私の好きな言葉、と言う美星に言えることなど何も持っていなかった。少し考えたのち、尋ねる。


「それが、どう責任に繋がるんだ?」


 子供のように質問を続ける俺に、美星はゆっくりと話す。


「今言った死に方は、未来へとプラスに繋がる。でもね、マイナスにしかならないような死に方もあると思う。」


 それは俺にとって簡単な答えだった。だが、その答えは中々でようとてくれなかった。


「……自殺か」


「その通り。あなたがしようとしていた…ね」


 美星は鉛筆を拾い、キャンパスへと向きなおる。俺はその様子を呆然と見ていた。


「……知っていたのか」


 最初の自分を知られていたことが恥ずかしく、俺は尋ねた。


「なんとなく……だけどね」


 そう言う美星の手はサラサラと動き、生きた景色がキャンパスを泳ぐ。その隣に座り、筆先を見つめる。


「自殺はマイナスにしか働かない。未来へと伝わるのは、怒りや哀れみ、軽蔑や同情と言った負の感情だけ」


 教科書から引っ張ってきたかのように話す美星の言葉には、しかしそんなものからは感じない実感がこもっていた。


「桜にどんなことがあったかは知らない。でもね、人の痛みを笑わない人はきっといる。本当の自分を理解してくれる人は必ずいる。そのことに感謝しながら生きて、後世では傷つく人を減らせるように願って伝えていく。これが生きる意味だと私は思うよ。」


 全てを見透かしたように話す美星の言葉は、俺の心を温かく包んだ。


「もちろん、私も笑ったりしないからね」


 遠まわしな美星の優しさに耐えきれなくなり、俺は泣き崩れた。声が漏れるのも抑えられず、ただただ泣いた。


「……ありがとう」


 ようやく泣き止んだ後、俺は美星に心から感謝した。空には満天の星が見える。


 美星は微笑み、絵を描き続けた。だが、その瞳は淡く光っているように見えた。


 その後数日間に渡り夜に丘へと向かい、一週間経ったところで絵は完成した。その日は満月ではなかったが、絵には満月をすぐに想像できるほど美しい月が浮かんでいた。精緻に描かれた草も、流れを歌う海も、何もかもが不思議な強さと優しさを持っていた。ただ、あの左側にある黒い影は、どことなく悲しい雰囲気をまとっていた。






  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄






 十月になった。


 あの事件から時が過ぎ、俺は学校では空気の様な存在になっていた。今でも嫌がらせをしてくる人間はいるが、以前より質も量も落ちた。


 美星のいる病院にはあれからも毎日のように学校が終わると向かっている。そして今日も美星のいる病室にノックの音を響かせた。


「入るよ」


 一声かけてから部屋に入ると、美星は窓際で絵を描いていた。美星は入ってきた俺に気がつくと、慌ててその絵をベッドの横の収納箱に入れた。


「また絵を描いていたんだ」


 以前からそうだったのかもしれないが、ここ最近、病室に入ると美星が絵を描いている姿を見ることが多かった。


「することなかったからね。でも、桜が来てくれたから今はおしまい」


 嬉しそうに言う美星に、毎度のことながらここに来てよかったと思う。


「丘に行こうか」


 俺がそう言うと、美星は笑って頭を縦に振った。


 美星の負担をできるだけ減らすために買った車椅子を、隠しておいた場所から出し一緒に丘へと向かう。


 空には美しい満月が浮かんでいた。ぬるい風が頬を撫でる。あの日と同じ夜だ。ふとそう思った。


「あの日と同じ夜だね」


 同じ想いを語った美星に、俺の胸がとくんと揺れる。なんとなく感じた気恥ずかしさを押し隠すように俺は少し足を早めた。


 丘についた俺たちは静かに海を見つめる。


「あの時もし出会ってなかったら、俺はここにはいなかったんだろうな」


「そう言うことはもう言わないの」


「ああ……ごめん」


 何とはない会話であったにも関わらず、自分の鼓動が早くなるのを感じる。あの事件が起きた後は勿論、起きる前よりも幸せな時間を過ごしているのだろう。そう想わずにはいられなかった。


 自然と上に向かう視線が、今夜の空模様を伝えてくれる。まるで絵のような景色、そう思い至ったところで、最近美星が描いているであろう絵のことが頭に浮かんで来た。


「そうだ、最近何描いてるんだ?」


 聞かれるとは思っていなかったのか、美星は少し困ったようは顔を見せた。マズイことを聞いたかと俺が後悔した瞬間、美星すぐに挑発的な表情に変わり


「ふふ、完成するまで秘密」


 と笑った。美星の手のひらの上で踊らされたように感じて、一言何か言ってやろうとした次の瞬間————


「おい、美星?」


 美星は尋常じゃない表情で苦しみ、その場に倒れた。俺は何を言おうとしたのか思い出せなかった。


 あの日と同じ夜に、あの日と同じように苦しむ美星。二度と同じ目には会わせないと、そう誓ったはずだったのに。俺の混乱する頭が出した結論は、何より早く美星を助けることだった。


 俺は死ぬ気で走って美星を病院まで運んだ。久々の全力に、体が悲鳴をあげるが、それも今だけは心地よかった。考える余裕なんてあったら、気が狂ってしまっただろうから。


「美星が……美星を……!」


 病院に着くなりすぐに医者を呼んだ。状態を聞かれたが、俺はまともに説明できず、美星の名前を言い続けただけだった。無力な自分が、こんなに嫌なものだとは思いもしなかった。


 長い検査の間、俺は椅子に座りながら美星の無事を祈り続けた。


 そうし続けてどれだけだった頃だろうか。看護師が、40代後半くらいであろう男性を連れてきた。詳しい理由はわからないが、とても辛そうな顔をしている。


「こちらです」


「ありがとう」


 男性が礼を言うと、看護師は奥の方へと戻って行った。


 男性は俺の二つ隣に座り、こちらを向く。


「……君は?」


 深夜手前とも言えるような時間帯にここにいる俺が気になったのだろうか。男性が話しかけてくる。威厳を感じさせる低い声だった。俺はいきなり話しかけられて戸惑ったが、聞かれたからにはと何とか答えを返す。


「ええと、美星さんの知り合いで川女と言います。」


 男性は何も言わなかったが、目はこちらを厳しく睨めつけていた。


「あの……あなたは?」


「美星の父親だ」


 それを聞いた瞬間、俺は勢いよく頭を下げた。そうせずにはいられなかった。


「すいませんでした!全部俺が悪いんです!」


 俺は全てを話した。


 初めてあった時のこと、内緒でしばしば夜に外出していたこと、体のことを知りながら連れ出していたことも。


 何もかも、全てを。


 話を終え美星の父親の方を伺うと、あきらかな怒りの表情と共に拳を震わせていた。


「ふざけるな!!」


 美星の父親の拳が、俺の頬を強烈に打った。一瞬目の前が真っ白になり、何が起きたのか分からなかった。


「す……すまない。やり過ぎた」


 怒りで我を忘れていただけだったのか、美星の父親はすぐに謝ってきた。しかし、俺は今の出来事をやり過ぎと思うことはできなかった。

 

 その時看護師がやってきて、美星の診療の終わりを告げる。


「美星さんは無事です。ですが、あと少し遅れていたら危なかったでしょう。」


 美星の父親はそれを聞くと肩の力を抜いて一息ついた。


「そうですか……ありがとうございます」


 そう言って美星の病室に向かおうとした美星の父親が足を止めて振り返り


「二度と美星に近づくな」


 寒気のする声でそう言った。その言葉に俺は何も言えなかった。


 胸を刃が突き抜け全身の力が抜けた俺は、とぼとぼと歩いて病院を出た。


「満月……」


 帰る途中に見えた月の光はとても鈍く、憐れまれているよように思えて俺は足を早めた。



  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄





 病院に一度も行かず、十二月になった。


 ただただストレスのみが積み上がる毎日に生きる意味を見出せなくなってしまった俺は、動く人形のようになっていた。学校でのいじめも含め全てがどうでもよくなり、毎日あるはずのないことばかり妄想するようになった。


 美星に会いたい。美星と話したい。美星と一緒にいたい。会えないのならいっそ–––––––


 心のよりどころを失った俺がそう考えるようになるのに、そこまで時間はかからなかった。


「おい川女、聞いてんのか?金貸せって言ってんだけど」


 どんな言葉をかけられようと、答えを返す気力すらなかった。


「こいつ完璧な腑抜けになりやがった」


 そう言って俺を蹴り始め、気が済んだところで背を向け去っていく男子へ、俺は咄嗟に手を伸ばした。


 何故それだけで止めるんだ。俺はこの程度で終わっていい人間じゃないだろう。


 引き留めようと開けた口は、しかし咳き込むだけに終わり、遠ざかる背中から嘲笑が聞こえる。 


 くだらない。ほんとうに、なにもかも。


 喧騒と女子による陰湿ないじめが支配していた健全な教室も、今ではすべてが個人のスピーチ会場だ。余程伝えたいことがあるのだろう。


 伝えるべきことも、伝えたかった人も、全てを失った俺には何も関係ない変化ではあったが。


 自分でも自分が分からなかった。何故こんなに絶望しているのだろう。


 そうか、美星に会えていないからか。なら会いに行けばいい。こんな牢獄にいることなんか無駄でしかない。


「死のう」


 口に出して自らの気持ちを再確認し、俺は立ち上がりドアへと向かう。


「何言ってんだ川女!席に戻れ」


 だがドアを出る手前で、なぜか教師が俺の腕をつかんで引き戻した。


「いきなりどうした変態?罪は死んでも償えないぞ」


「いきがってんなよ腑抜けが」


 的外れなことをほざく生徒たちを一瞥した後、俺は再びドアへと向かおうとする。しかし、教師はまだ俺の腕を離していなかった。


「とっとと席に戻れ!」


 そう言って俺の腕を引く教師を心底邪魔に思いながら、話してくれるよう軽く伺う。


「うあ……」


 一体俺はどんな顔をしていたのだろうか。こちらを見る教師の顔は、言いようのない恐怖に彩られていた。


 教師が腕を離した隙に、俺は教室を飛び出した。授業中なので当然のことだが後ろからの足音は聞こえなかった。


「お、おい待て川女!」


「逃してやがんの、だっせー」


 後ろで何かを言っているようだが、これから死ぬ俺には何の関係もないことだ。どうせ授業を再開でもしたのだろう。校門を出る頃には、窓からこちらを伺う視線すらなかった。





  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄







 死に場所を求めひたすら歩くも決まらず、気づけば夜になっていた。空には霞みがかった月が浮かんでいる。雲に隠れて半分に割れたそれは、俺の眼から涙を溢れさせた。


 拭う袖が冷たくなってきて、天と地を右往左往していた視線が前を向く頃には、もうあの丘に辿り着いていた。


 死ぬのならば、今ここで。


 決意をして軽く進むと、目を逸らしていた光景が嫌が応にも飛び込んできた。ただの建物が、いとも容易く決意を揺さぶってくる。


「美星は……今どうしているだろうか」


 目に入ってしまったらもう無理だった。短くも煌々と輝く黄金が、脳内を駆け巡る。共に過ごした時間が、共に浴びた風が、共に描いた希望が、俺の中を瞬いては消えていく。


 いつまでも続いてくれればと望んでいた日々。しかしそれは俺のせいであっけなく終わってしまった。終わらせてしまった。


 今再び病院を目にして初めて、もうあの日々が戻ってこないことを自覚した。俺は決意を新たに、丘から続く崖へと歩む。


 最期に映す月は、どうせなら綺麗な満月が良かった。


 そんなくだらないことを考えながら身を投げようとしたその時。


「待ってくれ!」


 男性の叫ぶ声が聞こえた。聞き覚えのある、いや耳から離れなかったあの声が、俺を呼んでいた。


 あの人に声をかけられては無視できるはずもなく、俺は美星の父親の方を向いた。見ると何か大きな板のようなものを持って走って来ている。


 美星の父親は、何かを堪えている顔で俺の眼をじっと見つめた。時折口が開いてはしまってを繰り返している。


 そうしたまま数分が経ち、俺から声をかけようかとすら思い始めた頃に、美星の父親はようやく話し始めた。


「…………美星が、死んだ。その日から君のことをずっと待っていた。」


「え–––––––––––」


 こいつは何を言っているんだろうか。俺は思わず振り上げた手を振り下ろしかけたすんでのところで無理矢理止めた。それ程にその言葉は衝撃的で、冗談であっても許せることではなかったのだ。


 俺のその様子を見た後に、美星の父親はゆっくりと、諭すかのように語る。


「美星は死んだ。元からそう長い命ではなかった。だから、君にあの時言った言葉をひどく後悔している」


 再び突きつけられた現実に、目の前が暗く堕ちていく。美星の幸せだけはずっと祈っていたのに、それすらも嘲笑われた。何故、美星だけが死ななければならなかったのか。


 なんで、俺を一緒に連れて行ってくれなかったんだよ、美星。


「あの時美星の好きにさせてやれなかったことは悔やんでも悔やみきれない……。そして、君にも。本当にすまなかった」


 心から謝っているのが傍目からでもよくわかる表情で、美星の父親が深く頭を下げる。しかし、モノクロの視界に映るそれを見てもなにも感じなかった。


「君が美星にとってどれだけ大切な人だったのかは、これを見てから気づいた。いや、ただ見て見ぬ振りをし続けていただけか。あたかもマトモな親であるかのように」


 自嘲と苦痛の見える笑みを浮かべながら、美星の父親は震える手で大きな板を俺に手渡す。


 表面にかかっている布の所為で少し苦労したが、持ってみると見た目よりも軽かった。


  「これは……?これを渡すためにあなたはずっとここで?」


「美星が最期に君に渡すよう頼み残したものだ。私がここに来ていたのは、罪の重さに耐えきれなかった為の逃げだよ」


 顔を伏せてそう呟く美星の父親の肩は震えていた。


「あの日から君にそれを渡すためだけに待っていた。それを渡した以上、君の前に私から現れることはない。最後に……本当にすまなかった。そして、ありがとう」


 涙を零しながら一礼し去ろうとする美星の父親に声をかける。奇しくも、それは俺が止まった時と酷似していた。


「待ってください」


 俺の言葉に美星の父親は足を止め振り返る。そこに俺は自分の気持ちを伝える。


「美星を外に連れ出し、負担をかけていたのは自分です。あなたがやったことは、親として正しい行為だったと、そう思います。」


 この人は、何も悪くないのだ。勝手に連れ出していた自分が悪いのだ。行くのならせめて、美星の父親の罪の気持ちくらいは背負って美星の所に行きたい。


「それでも、私は娘の気持ちひとつわかってやることが出来なかった……」


 美星の父親は気持ちを押し殺し、手を震わせながら自責の言葉を口にする。今にも溢れ出しそうな怒りが、こちらまで伝わってくる。


「わかっていたでしょう?最期の頼みとはいえ、自分なんかをわさわざ待っていたのですから」


 だからこそ、その怒りをこちらへ向けさせようとした。浴びせられる罵声とともに自らの物語を終わらせるために。


 しかし、それは次の美星の父親の言葉により止められた。


「それは違う。私の気持ちが変わったのは、全てそれのお蔭だ」


 美星の父親はそう言って板を指差す。急に板が重くなったように感じた。


「美星の……残したもの」


 この板が美星から俺へ残されたものだということを思い返し、俺は板の布を掴む。布を外すと、そこから出てきたのは一枚の絵だった。


 美星から、俺への。


「あの約束……ほんとうに……」


 額縁の中に入っている絵には、丘に佇む俺の姿だった。後ろ姿な上基本的には黒でしか表されていないが、それでも尚俺とわかる。そんな優しい雰囲気を持つ絵だった。


 最初の満月の夜にした、俺の絵を描くという約束。それはとても微かなモノだったはず。だが美星の絵からは、積み重ねてきてくれたであろう確かなものが感じとれた。


「ああ……」


 持っている指から、裏に何か紙が挟まっていることが伝えられた。俺は額縁を裏返し、その紙を取る。そこには綺麗な字で美星の言葉が綴られていた。


「桜君へ。あなたがこれを読んでるってことは、多分私はもういないんだろうね。最期に桜君に会えないのは寂しいけど、そればっかりはどうしようもないのかな。だけどさ、約束の絵だけはちゃんと描ききったよ。どう? 自分では結構上手く描けたと思ってるんだ。桜君が笑顔で見てくれたら嬉しいな。私はもう終わっちゃうけど、桜君は私の分まで生きてね。あなたのことはずっと見守ってる。諦めることだってあっていい。でも、桜君が後悔しない道を選んで歩いて行って。桜君の幸せをいつまでも祈ってるよ。大好きです。美星より」


「ああ……ああ……み……ほしぃ……!!」


 俺は泣き崩れてその場に跪く。美星の想いが、美星への想いが、ただひたすらに俺の中を駆け巡っていた。


 病弱どころか、明日死んでしまうかもしれない恐怖の中で、いつも笑顔を向けてくれていた。自分だって苦しいはずなのに、それでも親身に助言をくれた。怖くて寂しくて涙を流しながらでも、最期まで俺の事を考え手紙を遺してくれた、美星。


 それほど俺を案じてくれた人がいるのに、俺は今自殺しようとしていた。俺なんかよりよっぽど死と闘い続けた美星の側に居たくせに、そんな最低な行為をしようとしていた。本当に救えない自分が嫌になった。


「忘れていた……。美星の教えてくれたことを……」


 すぐ近くに美星の父親がいるにも関わらず、俺は泣き叫んだ。今迄の自分を捨てさるために。救えない最低な自分を、それでも前に向かせるために。


 そして、美星への謝罪と感謝、溢れ出す想いを届けるために。


「君のお陰で、美星は最期まで笑っていたよ。私もまた気づかされたことが多くある。これは私の連絡先だ。君にはまだ償いきれていない。何か困ったことがあったら連絡してくれ。必ず力になる。」


 美星の父親は俺の側に一枚の紙を置いて去って行く。時々振りむきこちらを伺ってはいたようだったが、俺の様子に変化がないことを確認し足を早めていった。


 どれだけの間泣き続けていただろうか。涙より先に声が枯れそうになって来た頃、俺の肩に何か白いものが降りてきた。着くなりすぐに消えてしまったが、少しずつ量を増してまた降り注いでくる。上を見上げると、もう空は白く彩られていた。


 雪。それは俺の泣き叫ぶ声に答えを返すように、ちらちらと降り注いだ。


「美星?」


 まるでそうだとでも言うかのように、雪は伸ばした手の先に降りてきた。泣き叫ぶ事を止め、舞う雪をじっと見つめる。美しさなんてもう感じることはないと思っていたが、その光景は俺の心に色をまた一つ戻してくれた。


 しかし手に雪が触れたことで絵をまだ表にしたままだったことに思い至り、視線を落とす。そこには相変わらず優しい絵が描かれており、ふっと心が温まる。


 結局布をまた掛けることをせず眺め続けていると、絵の端に何か文字が書かれていることに気づいた。顔を近づけて読んでみると、俺の顔には久しぶりの笑顔が浮かんだ。


 思い出をありがとう。


 あえて紙には書かず、必ず俺が目を向ける絵に残したのだろう。たった一言だけだったが、それほどに嬉しい言葉もなかった。美星の最期の感謝に、俺は涙を流して笑いながら夜空に向かって言ってやる。


「どういたしまして。」


 一頻り笑ったあと、俺は立ち上がろうと地面に手をつく。すると手に何かが当たる感触がした。手を挙げ覗き見ると、そこにあったのは一輪の花だった。何処かで見た覚えがあると記憶を探れば、それは直ぐに思い出すことができた。


「咲いてる……」


 これは、あの日美星と一緒に植えた種だ。その種が季節を少し外れて今咲いているのだ。辺りを見渡せば、あちらこちらに疎らだがまだ花が咲いており、白い地面にアクセントをつけている。月明かりに照らされる雪は切なく綺麗で、まるで美星の心を表しているようだった。


 花を踏まないように注意しながら立ち上がり、俺は最後に一言残す。


「思い出をありがとう」


 どこからか優しい笑い声が聞こえた気がした。






  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄






 あっという間に時は過ぎ、一月になった。冬休みが終わり学校がまた始まるが、今の俺にもう迷いはない。いつもならば人目を気にして歩みが早くなる道程も、今日はゆっくりと一歩一歩確実に進んでいった。


 学校に着くと、俺の席には既に男子が座っており、その周りにも数人の男子が固まっていた。下らなく思いながらも自分の席に向かうと、その中の一人が俺が来たことに気づきこちらに向かって大声で話し始める。


「よう川女、久しぶりだな。また金とかの面で助けてもらうことになるだろうからよろしくな」


 その言葉に周りの奴らも笑いだした。反応の大きい奴に至っては思いっきり手を叩いている。


 少しして笑いもおさまってくると、あの忌まわしい事件の日俺を盗撮犯扱いした男子がこちらに向かって歩いてくる。そしてさも当然かのように金を借りようとしてきた。


「んじゃとりあえず3万貸してくんね?」

 

 今迄の俺ならば確かに出していたかもしれない。だが、俺はもうそんな生き方はやめた。一息吸い込んだあと、ニヤついた笑みを浮かべてこちらに手を出す男子生徒に向けて俺は中段蹴りを放った。


「黙れ」


 勢いよく飛んでいった男子は、壁際の机にしたたかに腰を打ち付けて止まる。そしてそれを見ていたクラスメイト達がざわめき始めた。


「なにがあったの!?」


「川女がキレやがった!」


 野次が飛び交う中、俺は倒れている男子の胸ぐらを掴み持ち上げながら言う。


「いつまでも下らないことしてんじゃねぇよ。俺は盗撮何てしていない。大方お前らの誰かがやったことだろう? 人の価値下げる暇があんなら、自分を少しでも磨こうとしろ。俺はもうお前らのオモチャじゃない」


 相手はそれに一瞬怯えたような動きを見せたが、直ぐに腕を振り払い構えを取る。


「今さら何言ってやがんだ。てめぇが盗撮犯なのはもう変わんねぇんだよ!」


 大振りの右で殴りかかってくる相手の手首に手を当てて力の方向を逸らしながら一歩踏み込み、相手の勢いごと利用して俺は男子を投げ飛ばした。


 その光景にクラスが静まりかえる。どうやらスピーチの主演は俺となったようだった。


「てめぇ! ぶっ殺してやる」


 そう言ってそいつが勢いよく立ち上がろうとした際、机にあった鞄に体が当たる。男子は慌てて受け止めようとするが間に合わず、鞄から筆箱等が零れ落ちる。しかし、その中には目を疑うようなものも混じっていた。


「え! 何これ!?」


 そいつの鞄の中には、どう見ても盗撮であろう着替え途中の女子達の写真が大量に入っていたのだ。しかも丁寧なことに一枚一枚値札まで貼られている。


 男子は俺などそっちのけで写真を回収するも遅く、女子達の中には既にざわめきが広がっていた。


「てことは、あれは川女じゃなかったの?」


「嘘でしょ……。私、勘違いでやっちゃいけないことを……」


「そういや、あんただっけ? 川女を盗撮犯扱いし出したのって」


 内容は俺への勘違いから徐々に自分達の擁護へと変わっているようにも思えたが、それでもその男子生徒は女子達に捕まった。


「おいおい、何勘違いしてんだよ! どうせこいつが俺の鞄に入れたんだって!」


 苦し紛れの言い訳にしか聞こえなかったが、そこまでのイメージとは凄まじいもので、捕まえていた女子は少しだけ納得した様子でその男子生徒のことを離した。


「確かに。今日なんか様子おかしいし」


「俺この写真を川女が撮ってるところ見たぜ」


 女子達がどちらが犯人なのか迷っている間に、あの男子と仲の良い他の男子が声をあげた。そいつも俺を最初に盗撮犯扱いしたやつで、この二人がグルなのは俺からすればもう明確だった。


「は? やっぱ川女って最低。自分のやった罪人になすりつけようとしてんじゃん」


 女子達はその言葉を鵜呑みにして、俺が最低の変態だと叫ぶ。ころころと意見を変えているが、それでも尚今のこの教室においてはそれが一番大きな声だった。


 俺はそこに反撃の手を打つため、あいつらが言われたら困るであろうことを口にする。


「じゃあ警察を呼ぼう。所持者の指紋が出るだろうし、万が一出なくとも他の証拠は出てくるだろう」

 

 俺がそう言い放つと、投げ飛ばされた男子は目に見えて狼狽したが、それを誤魔化し俺の言葉を否定する。


「は、はぁ? 何言ってんだよ馬鹿。こんなんで警察呼ぶ奴がいるかよ」


 それに同調しようと他の奴らが声を上げる前に、俺はもう一度強く主張する。


「学生とは言え、盗撮は立派な犯罪だろ? なら警察呼んでおかしなことはないだろ。それともなんだ、呼ばれたら不都合なことでもあるのか?」


 努めて笑みを貼り付けながらそう言うと、クラスの雰囲気は少し混じり合ったものとなった。特に面白いのは、一部の奴らは他にも共犯がいるのではないかと探るように周囲を伺っていることだろう。


「一体どっちなの……」


「まぁ今まで通りなら川女だよね」


「どうせ川女よ。賭けてもいいわ!」


 しかしながら、考えるより先に声を出す女子達の前にはそんな人達は無力で。捕まっている男子が不敵な笑みをするのも仕方がないと言えるだろう。


 警察を呼ばずとも俺が犯人で確定という声が高まり、以前と変わらないままの空気が場を支配し始めたその時。


「あ、あの!」


 一人の気弱そうな男子が大きな声をあげ視線を集める。よく見ると、腕は震え指先も落ち着いていない様子だがそれでも話そうとする。


「ずっと黙ってたんけど……俺こいつらが盗撮写真を売っているところを見たんだ」


 捕まっている男子を俯きがちに指差す姿には、的外れだが少し感謝してしまった。しかし、それを許す奴らではなく。


「あ? 何ふざけた事言ってんだてめぇ」


「やめろ」


 捕まっていた男子が弱気な男子の胸倉を掴もうと手を出した。その手は咄嗟に俺が抑えたものの、目は鋭く弱気な男子を睨みつけている。


「それ本当の話?」


 一人の女子生徒が確認をとると、気弱や男子は震えながらもしっかりとうなづいてくれた。


「ああ、そうかよ。こいつ川女とグルだわ。どうせ金かなんかで釣られたんだろ?」


「俺は川女とグルなんかじゃない! もしそう思うのなら、さっき言ってたように警察を呼べばいいだろ!? もうお前らのやってることは見てられないんだよ!」


 心底辛そうな表情で叫ぶようになりながらも、必死に俺を助けようとしてくれている。


「だから警察呼ぶような事じゃねぇって言ってるだろ?」


 しかし、この期に及んでまだ警察を呼ぼうとしない男子に、ついに一部の女子からも反対の声があがり始めた。


「私は警察呼ぶべきだと思う。だって、もし本当に川女君じゃないとしたら私達とんでもないことしてるもの」


 ようやく自分の行いを振り返ったのか、一人の女子生徒が前に出て言う。


「はい、お前もグルだな」


 最早手当たり次第といった感じで、男子がその女子のこともなじる。だがそれはかなりの悪手だったようで、他の女子から痛烈な批判が殺到した。


「はぁ!? なにトチ狂ったこと言ってんだし! この子がグルなわけないだろ」


「それにさっきからやけに焦ってるし。やっぱり警察呼ぶべきなんじゃない?」


 流石にもう返せないと気づき、男子が諦めを口にする。


「あぁ、なら呼べばいいだろ!勝手にしろよ!」


 捕まっていた男子の承諾を得て、警察を呼ぶことが決まった。授業はその日は行われず、俺とその男子、他にも取り巻きの男子数人の指紋が取られ下校となった。検査結果が出るまでは数日かかるらしく、それまでは互いに関わらないよう、一時的な停学扱いにされた。






 __________________________________








 学校から停学終了の連絡が入り、俺は約一週間ぶりの学校へと向かう。少しばかり家から出ない生活をしただけだが、随分と景色が変わって見える。


 さして遠くもない道のりを、一歩一歩踏みしめて行く。今日という日の全てを、未来へと残すために。


 学校に着くと校門の前にパトカーが止まっているのが見えた。その先にある俺の教室の方には人だかりができている。


 遠目で中を伺うことすら難しい教室へ向かえば、自然と周りが俺を避けてくれるおかげですんなりと入ることができた。


 前方にある黒板には検査結果と思われる紙が貼ってある。しかしその前に立っている警察のせいかそれを確認しに行った生徒はまだいないようであった。警察の方もクラスメイトが全て揃っているわけではないためか、厳かな雰囲気を纏い静かに立っているだけだ。


 朝のホームルーム開始の鐘が鳴る数分前には教室にはほとんどの生徒が揃った。登校していない生徒に関しても担任の方から欠席と伝えられる。


 普段なら鐘がなってもまだ喋り続けているクラスメイト達も、今日は誰一人として口を開こうとはしなかった。


 そうして時が満ち、警察の方が検査結果を読み上げる。最初ニ前提として両者の同意の上行われたものである事や法的罰則は存在しないことが伝えられ、一息の後に俺の無罪とあいつらの有罪がクラスを揺らした。


「嘘……本当に桜君じゃなかったの……」


「マジかよ、俺ら川女にヤベェことしてただけじゃん」


 警察の方が教室から出たお陰で、どことなく感じていた緊張の糸がほぐれたのだろう。その事実に対して皆が皆自らの見解を口にする。


 ボルテージの上がったクラスのざわつき様は半端ではなく、こちらを伺っていた視線は段々と下へと向かっていた。俺の潔白を主張してくれていた男子は、今更ながらグーサインをこちらに向けて笑っている。


 少しすると、あの日最初に俺へ盗撮犯の疑いをかけた女子が泣きながら歩いてくる。そして俺の前まで来ると、机に頭をぶつけるのではないかと言う程の勢いで大きく頭を下げた。


「本当にごめんなさい! 許してもらえるとは思わないけど、それでもごめんなさい!」


 その様子にクラスが一瞬静まり、次の瞬間からは一斉に謝罪の雨が降り注いだ。


「川女、マジで悪かった! 辛かったよな?」


「俺も本気で疑っちまってた。あ、あいつら何処行った!?」


「逃げようとして先公に捕まっちまってたぜ。これで一安心だな、川女」


 掛けられる言葉に俺の中で一つの感情がむくむくと湧き上がって来るのを感じる。しかしそれはここでは抑え、それぞれに返答に詰まっているかの様な笑みを返す。


「そうだ、私他のクラスの子に言ってくる」


「私も行く」


 繋がりの広い女子達の力により、盗撮犯は俺ではなかったという話が校内中を駆け巡る。今日にでも俺に謝りに来る奴がいそうな早さだ。


 クラスが多少落ち着いてきたところで、担任が教卓にて話し始める。


「お前ら、今回の出来事は本来あってはならなかったものだ。これを引き起こしたあいつらには勿論然るべき罰を与えるが、お前らも各々やってしまったことを振り返って次など絶対に引き起こさないよう胸に刻め。今日は流石に授業にならない奴がほとんどだろうから下校とする。最後に川女、学校として対応を誤った。そのことについて学校を代表して謝罪する。すまなかった」


 担任が頭を下げる。その顔は歪んでおり、このクラスの担任と言うに相応しい表情だった。


 何はともあれ俺の疑いは晴れた。元通りといく訳はないしいかせたくもないが、物が盗まれなくなるのは素直にありがたかった。





 ____________________________________







 数日が経ち、学校側から謝罪として幾つか対応が成された。停学になっていた期間も考慮しての成績のプラスや遅刻の取り消しなどだ。学生にとって嬉しいものではあるが、それを告げる校長の言い方的に口止めの意味もあったのだろう。


 ここ一週間、学校に着けば謝罪の嵐が俺を襲う。皆が俺の顔を見ると挨拶がわりに謝り、直接のちょっかいをかけてきていた男子からはこれ以上ない程の綺麗な土下座もされた。


 また真犯人のあいつは盗撮だけでなく他人への罪のなすりつけと言うことも加わり退学処分となり、その後少年院へと連れて行かれた。その周りにいた奴らの多くも退学なり停学なりの処分を受け、いまや校内にあいつらのグループメンバーは一人も存在しない。しかし今後は夜道に気をつけた方がいいかもしれない。


 そうして落ち着いた生活が戻ってきた俺は、あの時美星が言っていた生きる意味について考えるようになっていった。


 生きて生きて一秒でも長く良い経験を積んで、それを後世へと伝えられれば、それは素晴らしいモノなのだろう。


 しかし、俺がこの先積む経験の中で最も意味のあるものは、もう戻ってこないあの時間だと断言できる。だからきっと、どれだけ短い人生でも、最期まで誰かを想い共にいた人生は、それに負けないくらい素晴らしいモノであった筈なのだ。


 何故なら、美星の遺してくれたモノは今も俺の命を繋いでいるのだから。


「なぁ、そうだろう?」


「--------------------」


 静かな風が俺の頬を優しく撫でる。それは微かな甘い香りを含んでいて、色とりどりの花の上にぽとんと落ちる涙が一粒。鮮やかな色で覆われた丘で、俺は何度目かわからない嗚咽をこぼす。


 今も変わらずにあるあの願いが、あの約束が、今の俺を形作っている。俺は夜空を見上げ満月へと手を伸ばし呟く。

 

「あぁ、本当に良かった」

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[一言] 感動です! 悲しい冤罪のいじめから、美星だけを支えに生きる主人公の気持ちはよく分かります。亡くなった後の絵の言葉は、感動でした。 最後の大逆転の展開は、スカッとしました。
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