098 働いたら負け
月曜日に出社すると神宮寺がいた。
雑誌をデスクの上に広げて優雅に紅茶を飲んでいる。
「おはようございます」
「ああ、須田ちゃんか。おはよう。今日も早いね」
先輩の猫顔をまじまじと観察してみた。
典型的な夜型人間であり、朝はいつもローテンションなのに、今日はやけに元気なのだ。
「この時間帯に神宮寺さんがいるということは、昨日も姫井さん家に泊まったのですか?」
「いやいや……」
神宮寺が茶髪をいじったとき、清涼感のあるトリートメントの香りが広がる。
「ゆり姫が私の家にきたよ。一緒に酒飲みながら簡単な料理をつくってさ。そのまま泊まっていったな」
「……メチャ仲良しじゃないですか」
「ん? 普通じゃないかな?」
ないないない!
俺は心の中で否定する。
「中華街でこれを買ったんだよね。有名店の調味料。ゆり姫のイチオシなんだってさ」
神宮寺が写真で見せてくれたのは鶏ガラ出汁の素である。
お湯に溶かしてつかう顆粒タイプのやつでラベルに屋号が印字されていた。
「名店の味を家庭でも再現というやつですよね」
「それそれ。ゆり姫って料理できるから。見た目はごく普通の中華スープなんだけどさ。びっくりするくらい美味しいんだよな。私の胃袋をつかまれちゃったぜ」
神宮寺がお腹の辺りをスリスリしながらいう。
緩みきった表情があまりに幸せそうであり、惚気話に付き合ってあげたい気分にさせられる。
「泊まるときの歯ブラシってどうしているのですか?」
「そりゃ、お互いの家にお互いの歯ブラシを置いているよ。日用品なんだし。須田ちゃんの家だってそうだろ?」
「俺は……社長とルームシェア状態ですから……。そこを同列に語るのは間違っていると思います」
「あれ? そうかな?」
神宮寺がスマートフォンの画面をタップすると、ラフな服装をした姫井の写真が出てきた。
くすんだ金髪をおだんご結びにしている。
お風呂上がりらしく、上はTシャツ、下はハーフパンツという組み合わせだ。
片手にカクテルのグラスを持っており、もう片方の手を撮影者に向かって抗議するように伸ばしている。
「とても新鮮な雰囲気がありますね。姫井さんは本気で嫌がっていますが」
「このTシャツ、私が貸したんだよな」
「ですよね」
お姫さま然とした姫井には似つかわしくない軽薄なデザインだ。
胸元には『働いたら負け!』と大きくプリントされており、ブサイクな霊長類がビールジョッキを片手にまどろんでいるから。
フォトには続きがある。
カクテルを机に置いた姫井が……。
よろよろと立ち上がり……。
盛大に尻餅をつく。
「お風呂上がりの女の子って謎の魅力があるよな」
そういう神宮寺も女の子だけどな、と俺は内心で突っ込む。
「何となくわかります。社長もそうですね。髪をとかしている無防備な姿とか好きです」
「あれ? ゆり姫って実は相当に可愛いのかな? いつも職場では喧嘩しているけれど、休日だと穏やかな感じなんだよな。あと寝顔が愛くるしい」
神宮寺が写真を行ったり来たりしながら目を細めた。
「俺がいうのも何ですが、姫井さんは本気出したらすごいですよ。幼女カフェでも可愛かったですし。普段とのギャップです。性格がキツそうなふりして、根は優しいのですよ。可愛さの絶対値でいうと……」
わざと間を置いてから強めの声で伝えた。
「神宮寺さんといい勝負じゃないですかね」
二人なら釣り合いが取れている。
その暗示を与えたつもりだが……。
「やだな〜。照れるじゃねえか〜」
額面通りに受け取った神宮寺はニヤニヤと口元を緩めている。
「俺に褒められて嬉しいですか?」
「嬉しいに決まっているよ」
「なるほど……」
打てば響くような天才のくせに時々鈍感だから困りものだ。
「ゆり姫ってきれい好きなんだよな。部屋の掃除とかやってくれてさ。健康的な飯もつくってくれるし、私としては大助かりだよ。また泊まりにこないかな。水回りの掃除を一人でやるのは面倒なんだよな」
「その発言はNGですってば。家政婦じゃないのですから。絶交までありえますよ」
フロアの奥では姫井と社長が会話している。
「姫ちゃん、昨夜はどうだったの?」
「大変でしたよ! 神宮寺さんの家まで着いて行ったのですが、あの人ったら放っておくと平気で夜の三時とか四時まで起きているのです! なので無理やり寝かしつけました! 将来が思いやられます! 人間の生活じゃありません! 恋愛パートナーをつくってもすぐに破局するでしょう!」
「それは苦労しそうだね。でも姫ちゃんのお陰であすかの出社時刻が早くなったよね」
社長が心底から同情するような声でいう。
その反応が嬉しかったのか、姫井のイライラのトーンが落ち着いた。
「社長の方こそ大丈夫だったのですか? 須田くんが池に落ちたとかどうとか……」
「それね〜。落ちそうになったのは私なんだけどさ〜。マサくんが体を張って助けてくれたんだよね〜。思い出しだけで興奮するよ〜。映画のヒロインになった気分かな〜。胸がキュンキュンしちゃうよね〜」
社長が俺のことを自慢している。
とても大切に想ってくれている証拠であり、体温がかっと上がった。
「はう……それは羨ましい」
姫井は一瞬だけ神宮寺を見つめる。
「どこかの誰かさんとは大違いです。他人の恥ずかしい姿をフォトやムービーに記録して愉悦に浸る誰かさんとは。僕が酔っているのをいいことに、ヘンテコなTシャツを着せられましたから。もう一生恨みます。許しません」
すると笑っていた神宮寺の表情がひきつる。
「あれ? 須田ちゃん、そんなに怒ることかな? 私の評価がかなり落ちているのだけれども……」
「悲観する状況ではないと思いますよ。民放のドラマだって喧嘩したあとに男女の関係が深まるじゃないですか? あれは早く次のアプローチを寄越せという姫井さんなりのメッセージです」
俺はやれやれと首を振りながらいう。
「くそっ……人間の感情ってアナログだから嫌なんだよな……ゆり姫の思考回路とか複雑怪奇すぎるしさ……悟るのに限界があるんだよな……」
神宮寺は拗ねるように眉を寄せてから、天井の一点をじっと見つめた。
「悟りたい気持ちはあるのですね」
「仲間であり上司だからな」
ポツリと発言したその横顔は、真剣そのものといってよく、一年間も隣にいる俺でさえ、色気のようなものを感じる。
「須田ちゃん、昨日は大変だったんだろ。新宿御苑の池に落ちちゃってさ。風邪引かなかったのかよ」
「まあ、何とか……。財布とスマートフォンが濡れちゃいましたが……」
「おっ! 新しい機種に変えたんだ!」
神宮寺が食いついてくる。
ちなみに前の機種は防水加工であり、問題なく動作するのだが、あの一件を申し訳なく思った社長から、
『マサくんに新しいスマートフォンを買い与えるの!』
と迫られてハイスペック機種が手に入ったことにより、サブ端末へと降格している。
「財布も新しいです。これも社長に買ってもらいました」
黒革の札入れをデスクに置いた。
「へぇ〜。ブランド物じゃん。いいな〜。役得って感じでさ」
「いやいや、素直に喜べないですよ。かなり高そうなやつを与えられそうになったので、社長を説得するのに苦労しました。俺は庶民ですから高級な財布を持っていると落ち着かないのです」
この財布だって一泊二日の国内旅行くらいの値段はする。
そもそも社長からの贈り物という時点で特別だし、価格だって社会人二年目の平凡なサラリーマンとしては十分過ぎるだろう。
「でも愛されているな。自分のところの社長にスマートフォンと普段使いの財布を買ってもらうなんてさ。世の男子が羨むぜ」
「……まあ……冷静に考えるとそうっすね」
神宮寺はコンビニ等で売っているチョコレートの箱を取り出すと、そこに感謝の気持ちを綴った付箋を貼り付ける。
「本当は私が食べるつもりで買ったんだよね……。でも、ゆり姫のご機嫌をとっとこ。この後、決裁もらわないとだし……」
200円くらいのチョコレートなのだけれども、突然のプレゼントに驚いた姫井は、その箱を大事そうにぎゅっと抱きしめた。
この手の気配りは神宮寺が社内で一番上手かったりする。




