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097 ウォーターハザード

 吐きそう。

 というか寝落ちしそう。


 俺たちは渋谷区と新宿区にまたがる庭園……新宿御苑(しんじゅくぎょえん)へとやってきた。

 好天に恵まれた休日ということもあってか、芝生広場には観光客やカップルの姿が目立つ。


 色とりどりの季節の花。

 カメラを片手に散歩する写真愛好家たち。

 皇居といい、明治神宮といい、都心にはまあまあ自然が多い。


 この庭園へやってくるのは二回目だ。

 上京してきたばかりの頃、知人からもらった旅行ガイドブックを片手に来園して、足がクタクタになるまで歩いた記憶がある。


 ……時間の流れがゆっくりに感じられるな。

 俺がそう思うのは、木々の緑がバリケードとなり都会の景色をシャットアウトしているからだろう。


「のどかだね〜。お昼寝したくなるよね〜」


 社長が綿あめのような雲を見上げながらいう。

 32種類のケーキ&タルトを制覇したお陰でご満悦といった様子である。


「ですね〜」


 俺は手入れの行き届いた芝生に寝転がっていた。

 フサフサした感じが心地よくて、胃袋の疲れが大地に吸い込まれていく。


「姫ちゃんたちはもう目的地に着いたかな?」

「さすがに移動中じゃないですかね?」


 姫井や神宮寺は別行動をしている。

 デザートビュッフェのあと、電車で横浜まで移動して、中華街やベイエリアを散策する予定なのだとか。


『どうしても神宮寺さんに食べさせたい豚まんがあるのです!』


 姫井は面倒臭そうにする相方を引っ張っていった。


『えっ⁉︎ 豚まんなら近場でよくない? 電車賃の方が高くつくでしょ?』

『だからこそ横浜なのです! だからこそ価値があるのです!』

『テキトーだよな……そういうゆり姫理論』


 神宮寺は抵抗したのだが、最後は根負けしたのである。


 にしても豚まんか。

 想像しただけでお腹が苦しくなる。


「ちょっと待ってて」


 社長は小走りに去っていくと、ペットボトルのお茶を片手に戻ってくる。


「マサくんは食べ過ぎたから。胃の中が気持ち悪いでしょ。飲んだら少しは楽になると思うよ」


 ペットボトルの底の部分を俺のおでこにピタッと押し当てた。


「ありがとうございます」


 冷んやりした感触が心地いい。

 社長の優しさには中毒性がある。


「フサフサだよね」

「ええ、芝はフサフサです」

「違うよ。マサくんの髪の毛だよ」

「ああ……」


 社長の手が頭皮をマッサージしてくる。

 やや癖のある髪に指を通してから、俺の顔にペタペタと触れてきた。


「社長はいつも楽しそうですね。特に理由がないのに」

「理由ならあるよ。マサくんと一緒にいるから」

「それは……」


 また社長に一本取られた俺は、何と返すか迷ってから、けっきょく相応しい言葉が見つからず、嬉しさを隠すように前髪をいじった。


「それは?」


 柔らかな風が吹いてツインテールを揺らす。

 はにかんだ表情が可愛らしい。


「…………いや」

「何が嫌なの?」


 あざとい追い打ち。


「社長ってズルいですよね。俺の何倍もお利口さんですから。交渉が得意ですし。人脈が広いですし。いつも返事が早いから、デキる人間という印象です」

「う〜ん、そういう自覚は全然ないけどな〜」


 社長が困ったように笑っている。

 この謙虚な一面も魅力の一つといえるだろう。


「少し寝たらどうだい? 私が見張っているから」

「すみません。目覚めたら温室を散歩しましょう」


 社長の言葉に甘えて10分だけ仮眠した。

 頭をスッキリさせてから移動を開始したとき、スマートフォンに神宮寺からのメッセージが舞い込んでくる。


『元町中華街に上陸したぜぃ!』


 続いて姫井とのツーショット写真も送信されてきた。


「私たちも写真を送ろうよ」


 近くにいた来園者にお願いして一枚撮影してもらう。


『私たちは新宿御苑で休憩しています』

『渋いチョイスだな〜』

『マサくんがお疲れだから』

『私たちのせいか……申し訳ない』


 その一行には汗の絵文字がついていた。


『いえいえ……お気になさらず』


 俺からもお世話になっている先輩にメッセージを送っておく。


 温室の入り口を潜るとジャングルのような景色が広がっていた。

 回廊が立体的になっており、開放感のある空間を楽しむことができる。


「マサくんはどの植物が好きなのかな?」

「強いていうと……」


 俺は西瓜(すいか)サイズの多肉植物を指差した。


「サボテンですかね。ずんぐりむっくりして、棘の太いやつが好きです」

「あれは金鯱(きんしゃち)だね。王道って感じで格好いいよね」

「へぇ〜。とても強そうな名前ですね。洒落ています」

「サボテンは愛好家が多いから。多種多様なんだよ」


 社長は植物について玄人はだしの知識を持っていた。

 学名・和名のプレートを見なくても次々と名前を言い当てていく。


「社長はどの植物が好きなのですか?」

「う〜ん、悩ましいけれども……」


 社長が指差したのは食虫植物。

 ツルの先端にポットのような袋を持つウツボカズラである。


「格好いいよね。虫を捕まえるって。植物の一線を超えちゃっている感じでさ」


 俺は袋の中をのぞいてみた。

 まだ虫は入っておらず透明な液体が溜まっている。


「前から気になっていたのですが、この液体って真水なのですか? それとも特殊な汁なのですか?」

「それは消化液だよ」


 社長はまだ未成熟のポットを見つける。


「この蓋が開く前は比較的きれいな状態だから。やむを得ない場合は水の代わりに飲んじゃうらしいよ。私は未経験だけどね」

「……溶けないですかね……口とか歯とか……」

「とても弱い酸性らしいから」

「なるほど」


 社長といい神宮寺といいかなり好奇心が強い性格をしている。

 それが博識さを支えているのだろう。


「もう一周してみようよ」

「いいですよ」


 社長は(はす)を浮かべた池のところで足を止めた。

 身を乗り出して水中をのぞき込む。


「何かいますかね?」

「う〜ん……」


 俺も一緒に観察してみたのだが動いている影は見当たらない。


「あっ! あそこ!」


 社長が一点を指しながら興奮気味に体を乗り出す。

 その重心があろうことか前に崩れた。


 幼女の体ってやつは……。

 うっかり転倒しやすいから……。


 俺のアクションは素早かった。

 社長の襟首をつかんで陸の方へ投げたのだ。


 まさに間一髪のタイミング。

 社長の転落阻止に何とか成功する。


 しかし問題はここからだ。

 体位をくるりと入れ替えたということは、社長の落下エネルギーがすべて俺の体に乗り移ったことを意味する。


 腕をぐるぐる回して粘ろうとしたのだが、折り悪くも進入禁止用のロープが足に引っかかり、土俵を割ってしまう形となった。


 体が一瞬だけ無重力に包まれる。

 澄んだ水面が尻目に見える。


「マサくん!」


 生還した社長が悲鳴のような声を上げた。


 ボチャン!

 俺は大切な人を救った代償として水生植物を飼育している池にお尻から落ちてしまったのである。

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