087 ありがとう
神宮寺がワインボトルを見つめる。
それからお酒を飲んでいる周りのお客を眺める。
うまい料理。
芳醇なワイン。
すべての欲求から目を背けるように瞳を閉じた。
簡単に自分を曲げるような人じゃない。
俺のよく知る神宮寺ならば……。
「いくらゆり姫の頼みでも無理だ」
それを聞いた姫井は表情ひとつ変えずに次の言葉を待っている。
「……なんて言い返せるわけないよな。ここまでお膳立てされたんじゃな」
神宮寺が観念したように目を開けた。
これまでの四年間。
歳月を積み重ねると1,461日。
一分一秒まで仕事のことを考えてきた。
会社のため。
社長のため。
そういって何かを犠牲にしてきた。
その一つが大好物のお酒だ。
飲む機会はあったにもかかわらず、禁酒を守り通してきた。
「頭のどこかでは理解していたよ」
神宮寺が敗北を認めるように首を振る。
「ちょうどいい機会だ。ルールを変えるときがきた。ゆり姫がそのキッカケをくれた。感謝するよ。当たり前の事実に気づかせてくれてありがとう」
しかし姫井はニコリともしない。
何があっても社長以外の前だと笑わない。
「あなたは偏屈なのですよ」
ピシャリと叩きつけるようにいう。
「素直じゃないのはお互い様だろ?」
「違います。気づいていながら行動を変えない。それを責めているのです。聡明な神宮寺さんらしくありません。仕事はできるくせに自分の管理はできない」
「それを指摘されると返す言葉がないな」
神宮寺は顔をしかめながら茶髪をいじった。
「感謝するのは早いです。大変なのはこれからです。気を抜かないでください」
「大変なのはこれからって……どういう意味だ?」
「今まで七日でやっていた仕事……」
姫井は手で数字の七をつくる。
そこから一を引いた。
「これからは六日で終わらせてください。浮いた一日を休暇にします」
「さすがに無理があるんじゃ……」
「何のために仲間がいるのです」
これ以上にない正論だ。
神宮寺が黙り込む。
「神宮寺さんの負担を減らす方法は、あくまで僕と社長が考えます。それが管理者としての務めですから。だから神宮寺さんには協力的な姿勢をお願いしたいのです」
「それなら問題ないが……」
姫井がワイングラスを勧める。
大地の恵みをぎゅっと凝縮させたような赤色の液体が揺れている。
「仕事の話を控える。今朝そういう約束をしましたね。忘れていました。ごめんなさい」
「ケッケッケ。ゆり姫にしては殊勝な発言だよな」
「まったく。あなたって人は……」
ふたりは互いの四年間を祝うようにグラスを鳴らす。
先にワインを飲んだのは神宮寺だ。
舌の上でたっぷり味わってから飲み下す。
それを確かめてから姫井も口をつけた。
イギリス産の容姿にはワインがよく似合う。
「なあ、ゆり姫。ひとつ聞いてもいいか?」
神宮寺があらたまった口調でいう。
「四年前の今日、私たちはゆり姫を誘った。私たちの夢にゆり姫を巻き込んだ」
「よく覚えていますよ。社長と神宮寺さん。理想に燃えていましたね。あの熱意に僕は絆されました」
ブルーサファイアの瞳は神宮寺だけを見ている。
「後悔していないのか?」
「いまさら何を後悔するというのです?」
「ゆり姫が一番多くの犠牲を払ってきた。前職のこととか……。婚約者のこととか……」
「他人のプライベートに首を突っ込むなんて神宮寺さんらしくないですね」
「こっちは真剣に心配しているんだ」
神宮寺は語気を強めてから、ごめん、とすぐに謝る。
「あの日、ゆり姫を誘わなければ良かった。そうすればゆり姫には別の人生が用意されていた。きっとコンサルティング会社で働いていて、ゆり姫の隣には配偶者がいた。……それを私たちが奪った」
神宮寺は罪を吐き出すように続ける。
「人は夢がなくても生きられる。それでも私たちは夢を選んだ。その結果、ゆり姫がダメージを受けた。なのに……私は……」
ぽつり、と。
一粒の涙が落ちてきた。
一番驚いているのは神宮寺だ。
パーカーの袖でごしごしと水滴を拭う。
「……くそ……幼女の体ってやつは……涙もろいな……」
ふと社長を見つめると、目頭のところを指で押さえている。
「私でさえ悔やまない日はない。いのりはもっと悔やんでいる。この一年間は特にだ」
「何かと思えばそんな心配ですか」
「そんなって……」
しばらくの沈黙が降ってくる。
姫井が言葉を選ぶようにゆっくりと話し出す。
「最近、こんなセリフに出会いました。
『人生は残り二万枚のチケット。毎日それを一枚ずつ千切っていく』
二万日。だいたい五十五年くらいです。僕たちの世代の残り寿命がそんなものです。人生なんてあっという間なのです。
そして神宮寺さんには次の言葉を送ります。
『もっと仕事をやればよかった。死の床でそれを悔やむ人はいない』
僕だって元は仕事人間でした。コンサル時代はたくさん働きましたよ。まあ、神宮寺さんほどじゃありませんが。
あの時の苦労があったから今の自分がある? それは否定しません。肯定もしませんが。
神宮寺さんには肯定してほしいのです。自分の生き方を。自分の努力を。……僕を巻き込んだ? 犠牲を払った? 人生を台無しにした? そんなことに悩む暇なんて一分一秒もないはずです。いまの神宮寺さんには。だってあなたは天才なのだから。神宮寺さんを見ていると自分がつくづく嫌になります。才能の差を感じます。それに……」
姫井の口から笑い声がもれた。
それが俺たちの席まで聞こえてきた。
「何ですか? 同情ですか? 神宮寺さんらしくない」
クスクスという声が強くなる。
姫井は上機嫌に笑っている。
「責任を取ってください。そういえば僕と結婚してくれるのですか? 一生養ってくれるのですか? 理想の王子様を演じてくれるのですか?」
笑わない姫。
なのに周囲がびっくりするくらいの大声で笑っている。
「僕は変わったのです。この会社で。社長や神宮寺さんと出会って。それは人生の宝物です」
ようやく笑いが収まったとき、姫井の目にも光る雫が浮いていた。
「一片の悔いもない。そういったら嘘になります。僕は弱い人間ですから。時には悔やみます。強がりで武装します。それでも……」
神宮寺が顔を持ち上げる。
乾ききっていない涙の跡が俺の位置からでもわかる。
「正解だったと思います。社長や神宮寺さんと出会って。一緒に会社を立ち上げて。誰が何と言おうと変わりません。素敵な人たちに囲まれていますから」
姫井が少女のように笑う。
傷ついた神宮寺を癒してあげるように笑みを向ける。
「神宮寺さん、こんな僕のために泣いてくれてありがとう」
人生は残り二万枚のチケット。
毎日それを一枚ずつ千切っていく。
「その涙だって人生の宝物です」
今日という一枚は虹色に輝いていることだろう。




