082 貸切風呂(前)
今日の本命は海鮮丼。
だとすれば大本命というべきは……。
「やった〜! 温泉だ〜!」
社長がその場でくるりとターンすると、ツインテールの毛先が新体操のリボンのようにカーブを描いた。
「本当は宿泊できたらいいのにね! 一泊二日の豪華プラン!」
あいにく明日は仕事である。
だから日帰り入浴なのだ。
「社長の仕事が落ち着いたら泊まりにきましょう。一泊とはいわず。二泊くらい」
「それじゃ何年先になるか分からないよ! だって私は社長なんだよ!」
「直してください。仕事中毒。社長も」
「う〜ん、それは難題だね〜」
「優先課題です!」
俺はもう一度だけ温泉宿を見上げた。
この中に貸切風呂がある……らしい。
そして社長が予約している……らしい。
嬉しさが半分。
戸惑いが半分。
それが俺の正直な気持ちである。
「おっとっと……」
脇見していた社長がバランスを崩す。
「危ない!」
両腕でキャッチするとお姫様抱っこのような格好になった。
「うわ……びっくりした……」
「それは俺のセリフです。危なっかしいのですから」
「ごめんね。いつも心配させちゃって。マサくん様々です」
俺は腕の中の社長をじっと見つめた。
「これはお父さんからのお仕置きです」
そういって頬にキスをする。
三秒くらいのタイムラグがあってから、社長の顔がかっと赤らんだ。
「ど……ど……どうしたの⁉︎ マサくん⁉︎ 急に積極的だね?」
「神宮寺さんと姫井さんがイチャイチャしていたので。俺もやってみたくなりました」
「あうあう……マサくんからキスされちゃった」
その反応が可愛かったので頬に追加のキスをする。
「今日はお父さん役ですから……」
社長の体を抱っこしてみた。
腕力の差を知らしめるように限界まで持ち上げてみる。
「さっきのキスは瀬古太郎にしたのです。だから社長の中ではノーカンでお願いします」
「うにぁ……そんなの自分勝手すぎるよ」
社長が抵抗するように足をバタつかせた。
それが俺の独占欲を刺激してくる。
「社長の方が自分勝手じゃないですか? 俺に内緒で貸切風呂を予約するって。そっちの弁明はないのですか?」
「だって、秘密にした方が楽しいと思ったんだよ。サプライズ演出だよ。マサくんも嬉しいよね」
「もちろん嬉しいですよ。でもそれ以上に……」
社長の体をぎゅっと抱きしめてみる。
薄い胸板。
頼りない腰回り。
枝のように細い手脚。
それらのパーツを全部スキャンしてから解放してあげた。
「俺がその気になれば社長をいつでも好き放題できるのです。巨人と小人くらい筋力が違いますから。そっちの心配も少しはしてください」
「好き放題って……例えば? 具体的には?」
「ご想像にお任せします!」
俺に何をいわせる気なのだ。
この人は……。
「大丈夫だよ。マサくんはいつも優しいから。信頼している」
甘えるように天使のような笑顔を向けてくる。
「何をされても許すよ。何をされても我慢する」
「じゃあ、社長の全身をこの場でコチョコチョとくすぐります。くすぐり地獄の刑です」
「さすがにそれは……60秒くらいが我慢の限界かも……」
「ほら。無理なものは無理でしょう」
「それは揚げ足取りなんじゃ……」
俺は社長の頭にポンと手をのせた。
「貸切風呂。いいでしょう。今日は一緒に入浴しましょう。俺も楽しみです。でも一つだけ約束してください」
社長がこくりと頷く。
「あんまり俺を挑発しないでください。露骨に俺を誘惑しないでください。社長の可愛さは俺が一番理解しています。社長が調子に乗りすぎると……」
この幼女社長を傷つけたくない。
心の中でそれを再確認する。
「俺は嫌がる社長に五回くらいキスします」
「ええっ⁉︎ たったの五回なの⁉︎」
「ええと……それじゃ十回くらい!」
慌てて訂正した。
「それじゃ足りないよ! 不完全燃焼だよ!」
「わかりました! 十五回! これならどうです? 両手じゃ数えられない回数ですよ?」
「あっはっは! 五十歩百歩じゃん!」
社長が笑いながら助走をつけた。
その勢いのまま俺の体に飛びついてくる。
「全然足りないよ!」
ジャンプ。
からの頬っぺチュー。
完璧なコンビネーションのせいで俺の思考がフリーズする。
「一回のキスが百回のキスに勝る場合もあるんだよ! こんな風にね! インパクトが大切なの!」
これが瀬古いのりの本気だ。
いつも俺の予想を裏切ってくる。
「だから五回とか十回とか十五回とか、回数で勝負しているうちはダメだね! 私を驚かせたかったら一撃のインパクトに賭けないと!」
「社長には敵いません……」
俺はやれやれと首を振ってから歩き出した。
この場に神宮寺と姫井はいない。
俺たちよりも先に海鮮食堂を出発したから、いまごろ露天風呂で幼女トークしているだろう。
「社長は自由すぎます」
失念していた。
これは俺と社長の初デート。
「やっとマサくんと二人きりになれたね」
「勘弁してくださいよ。本当に」
社長は変装のためのサングラスを外したあと、人差し指を唇に当てて、クスクスっと悪戯っぽく笑った。
「何も変なことはしないよ。だから私を信用してね」
詐欺師のようなことを言い放ちながらその場でくるりとターンする。
「まったく……」
この幼女社長は可愛すぎる。
その認識を強くした俺はツインテールに追いつくため歩くスピードを上げた。




