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073 姫井の理想

 俺たちはしばらく無言で歩いた。

 ちょっとだけ重苦しい、まるで倦怠期のカップルのような空気。


 気の利いた話題がほしい。

 できれば俺から切り出したい。

 そう念じれば念じるほど言葉が迷子になってしまう。


「須田くんは……」


 姫井に先を越された。

 どこまでも情けない俺は心の中でため息をもらす。


「僕のことをつまらない幼女だと思いますか? 自分らしく生きる。その一点にこだわる僕のことを笑いますか?」

「そういう質問は卑怯じゃないですか? わからないですよ。俺なんかじゃ」

「須田くんならそういうと思っていました」


 姫井が嬉しそうにいう。

 ちょっとだけ卑怯な先輩の背中。


「でも心配しないでください。僕の幸せは僕が見つけます。社長でもなく。須田くんでもなく。僕自身で決めます。いつか心から愛せる恋愛パートナーを」

「将来的には結婚を考えているということですか?」


 姫井がこくりと頷く。

 迷いのないブルーサファイアの瞳。


「相手が成人女性なのか、成人男性なのか、幼女なのか、それはわかりません。外見なんてどうでもいいです。一緒に歳を重ねて円熟味を増していく。外見の美しさなんて一時のものですよ。……花と一緒です。咲いている時間よりも咲いていない時間の方が長い。恋人だって同じです。会える時間よりも会えない時間の方が長い。でも会えない時間でも幸せなら、それにまさる幸福はないでしょう。最強の二人と同義でしょう」


 姫井の口からメロディーが流れてきた。

 オーストリア出身の音楽家。

 クライスラー作曲。


『愛の喜び』

 天国の階段をのぼっていくような美しい旋律だ。


 姫井の右手が指揮者のように空気をかき回した。

 すれ違った成人女性の二人組が思わず足を止める。


 歩く芸術。

 魂を宿したフランス人形。


『あの子……』

『本物の幼女さんかしら?』

『お人形さんみたい』

『目が綺麗ね』


 俺の心までソワソワしてきた。


 ロングドレスの裾が遊ぶように揺れている。


「僕の理想は高いですよ。ロマンチストですから。恋人に望むものを列挙すると……」


 姫井が助走をつけてからジャンプした。

 近くの縁石に着地して、その上を平均台のように歩いていく。


「一つ目。僕のことをいつも気にかけてくれる人。僕はあまり感情を表さないタイプですから。鈍感さんでは困ります。……二つ目。僕の些細な変化に気づいてくれる人。僕は髪型とか服装にこだわりますから。興味を持ってほしいです。……三つ目。明るくて人望がある人。僕は友だちが多い性格ではありませんから。周りから慕われる人に憧れます。……そして四つ目。仕事に対する情熱がある人。なにも僕と同等のレベルは求めません。それでも自分の仕事に対する尊厳と誇りを持ってほしいです」


 姫井は左右の手でバランスを取っている。

 この小さなバレリーナに通行人の視線が突き刺さる。


「そして五つ目。これが一番重要です。……社長と須田くんを大切にしていくれる人。この条件だけは絶対に譲れません。……出身とか年収とか趣味とか、そういうことは気にしません。小さな問題ですから。お金で幸せが買えるのなら、寂しい金持ちなんて存在しないでしょう。でも現実はそうじゃない。お金よりも大切なものをたくさん持っている人。そういう人物こそ本当に豊かな人だと思いませんか?」


 姫井の体がふらふらと揺れる。

 俺はいつでも手を伸ばせるよう心の準備をした。

 

「いますかね? 姫井さんの理想の人?」

「どこかにいるはずですよ。白馬の王子さまが。でも僕はおとぎ話のヒロインとは違いますから。待ちません。自分から探しにいきます。この足で。何年かかっても。地球の裏側でも。五つの条件を引っさげてね」


 五つ目の条件が難しい気がする。

 社長と須田くんを大切にしていくれる人。

 俺たちと面識があるとすれば、ここから半径10キロの空間にいる可能性が大きいから。


 だとすれば……。

 この世に神宮寺さんしか存在しないんじゃ……。


 俺の心の声が聞こえたわけではないだろうが、


「例えるなら神宮寺さんとは真逆のタイプです。あの人は五つ目の条件しか該当しないですから。……知っていますか? 会社の業務とは関係のないことをやっているのですよ。勤務時間の三割くらい。仕事に対する情熱を疑います。僕が指摘しても、


『いや〜、知人に頼まれちゃって。向こうの会社の仕事を手伝っている。半日くらいで終わるよ。世の中は持ちつ持たれつだろ?』


 なんて本人はいいますが、サラリーマンとして失格です! もはや浮気行為に等しいです! 一回や二回じゃありません! 一年中そんな感じです! 僕としては自社の仕事に専念してほしいです! 神宮寺さんに注意しない社長も社長なのです! そんな人物が会社のエースなのです! これは由々しき事態なのです!」


 姫井は真っ向から否定してきた。


 ボケているのか⁉︎

 新手のジョークなのか⁉︎

 姫井に限ってそれはないだろうが、冗談だといってほしい!


 あと神宮寺に友だちが多い理由もわかった。

 社会人になってもギブ&テイクを継続している。

 言葉にするのは簡単だが、これを実践できる大人は多くないと思う。


「僕の理想はとても高いです。それに僕には前科もあります。慰謝料の支払い。どうかしていると思います。自分でも。とても。そういう欠点があっても愛し合えるのなら……」


 姫井がバランスを崩した。

 ゆっくりゆっくりと沈むように。

 俺の方へすべての体重を投げ出してくる。


「姫井さん、危ない!」


 俺はすんでのところで姫井の体を受け止めた。

 地面からは30センチくらいの高さ。


 腕の中にいる姫井と視線がぶつかる。

 くすんだ金髪がさらさらと流れる。

 その目の奥が笑っていた。


「須田くんなら絶対にキャッチしてくれると信じていましたよ」

「もしかしてわざとバランスを崩したのですか?」

「さあ、どうでしょう」


 すっとぼけてくる姫井が最強レベルで可愛らしい。


「早く事務所に戻りますよ。また神宮寺さんに小言をいわれたのではかないません」


 俺はやれやれと首を振った。


 神宮寺さん、と発音する姫井の口ぶりは、面倒くさそうな言葉とは裏腹に、少しだけ嬉しそうだった。

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