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060 電話とナイフ

 俺はいったん電話を保留モードにした。

 そして平静なふりをして席を外した。


 これは時限爆弾を抱えている気分だ。

 なるべく周りの注意を集めないよう意識しながら姫井の席へ接近する。


「姫井さん、いま大丈夫ですか?」

「はい、何でしょうか?」


 伊達メガネの奥にあるブルーサファイアの瞳が鈍く光っている。

 心なしか声にも普段のような覇気がない。


 きっと寝不足なのだろう。

 敬愛している社長から注意を受けたから。

 能吏タイプの姫井であれば落ち込む理由に十分なりえる。


「姫井さん宛てに電話です。相手はパパという単語を連呼しています」

「⁉︎⁉︎」


 姫井は飲みかけた紅茶を盛大に吹いた。

 手元にあるハンカチで慌てて口元とデスクをぬぐっている。


「うぅ……まさか……いや……」

「どうしましょうか? いま保留にしていますが? 折り返しお電話しますか?」

「繋いでください。また掛けてきたら厄介ですから。未成年ゆえに常識が欠けている面もありまして。僕から叱っておきます。須田くん、対応ありがとうございます」


 姫井が渋々といった感じて電話を受けた。

 かと思いきや逃げるように休憩エリアへ駆け込んでいく。


「はい……僕です……だから会社に……そうです……個人携帯にかけてきなさいと……はぁ……自分のスマートフォンを紛失? 母親の番号がわからない? まったく……急になにを……こっちはいま……そうです……仕事で……」


 やっぱり身内というのは本当らしい。


 いるのか?

 姫井さんに高校生くらいの娘さんが?


 気になって仕方がない俺は申し訳ないと思いつつ聞き耳を立ててしまう。


「学校はどうしたのです? ……えぇ⁉︎ ……今日は気分じゃない⁉︎ ……それで病欠を理由に⁉︎ ……勉強さえできれば何をやっても許されると思ったら大間違いです。あなたもお母様のようになりたかったら……」


 父親……というより兄貴のような態度だな。

 面倒見がよくて我がままな妹に甘いタイプのお兄ちゃんキャラ。


 これは姫井の意外な一面といえるだろう。

 電話を盗み聞きしながら、俺はそんなことを考えた。


「手持ちのお金はありますか? いまどこですか? ……はい、あなたのお母様には僕から連絡しておきます。……そうです。……あと学校には行きなさい。……あと嫌いな野菜も食べなさい。……はい? 誕生日?」


 姫井の声がひっくり返った。

 きっと都合の悪い話を切り出されたのだろう。


「すみません…………忘れていました。…………ええ…………そうですね。…………申し訳ありません…………本当に…………はい…………」


 姫井の口数がどんどん少なくなっていく。

 怒られているのだろうか?

 自分の娘さんに?


「あなたのお母様はお仕事が忙しいのです。けっして家族の絆を軽んじているわけではありません。理解してあげてください。それと……」


 そして最期にポツリと。


「あなたに父親らしいことを一切してあげられなくて本当にごめんなさい」


 姫井は本物の父親らしいことを口にした。


 俺はしばらくその場を動けなかった。

 見てはいけないものを見たような気がしたからだ。


 通話を終えた姫井と視線がぶつかる。

 どんな言葉をかけるべきか迷っていると、


「ああぁぁぁぁぁぁぁぁあ〜」


 という嘆きともため息ともつかない声がした。


「ときに須田くん……」


 姫井がくるりと子機(でんわ)を持ち替えた。

 そのお尻の部分をナイフのように俺の腹部へ突き刺してくる。


 もちろん手加減はしている。

 だから痛いというよりむず(かゆ)い。


「これは事案……まさに事案発生です」

「それって俺が話を聞いちゃったからですか?」

「そうです。須田くんには内緒にしておくつもりでしたから」


 やっぱり深掘りするのはNG行為だったのか。


 何も姫井に限った話ではない。

 社長だって神宮寺だってあまり身内の話はしない。

 質問したら答えてくれるだろうが、なるべく詮索しないようにという不文律のような空気がある。


 見ざる。

 言わざる。

 聞かざる。

 身内の不都合には触れないのが、職場の人間関係を円滑にする鉄則なのである。


「というわけで口封じが必要です。須田くんの物忘れのツボを僕のスタンガンで刺激します。そして10分以内の記憶をすべて消し去ります」

「いや、それはさすがに冗談ですよね? 姫井さんが真顔でいうと、まあまあ本気な感じがしますよ」

「もちろん冗談です。物忘れのツボがあったら僕が教えてほしいくらいです」


 にしても困ったな。

 一度記憶に刻まれた情報は忘れたくても忘れられない。


 姫井がじっと探るような目を向けてくる。

 息が詰まりそうなほど美しい天然のブルーサファイア。


「まあ、いいでしょう。紛うことなき真実ですから。ちなみに社長と神宮寺さんはこのことを知っています。というか彼女と面識があります」

「やっぱり本当の娘さんなのですか?」

「その呼び方は語弊がありますね」


 姫井が声のトーンを落とす。

 そして一片の感情も感じさせない、氷のように冷たい声で、いかにも事務的な口ぶりで、俺のちっぽけな憶測を一刀両断してきた。


「あれは娘のような存在です。娘に似ている何かです。世間一般にいわれるような父娘の関係ではありません。僕は昔から独身です。そしていまも独身です。つまり法的な繋がりは皆無。いわば赤の他人なのです。それは三年後も五年後も変わらないでしょう。また変えるつもりもありません。そこのところを勘違いしないでください」


 冷血なナンバーツーらしく、ぴしゃり、と言い放ったのだ。

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