041 お寝坊
うにゃあ!
という女の子の悲鳴で目を覚ました。
あまり見慣れない天井がある。
部屋の内装だってかなり変化している。
そうか。
引っ越したんだ。
そんなことを考えながら意識を覚醒させていく。
悲鳴がした?
この壁の向こうから?
「マサくん、大変だ!」
俺が布団から起き上がると、部屋のドアが壊れそうな勢いで開いた。
そこには顔を真っ青にした社長が立っている。
「もう8時を過ぎている!」
「えっ! うそ……」
本当だった。
枕元のスマートフォンで確認すると、すでに8時3分となっている。
「アラームが鳴っているのに気づいた?」
「いえ、まったく……」
「なんてこった!」
社長がショックのあまりその場で崩れ落ちた。
二人暮らしで寝坊はない。
そう断言したのは社長だったか。
いや、俺だな……。
「すみません。俺としたことが完全に不覚でした。思ったよりも熟睡したようです」
「うううぅぅぅ~、どうしよ〜。まさかの重役出勤だよ〜」
「泣かないでください。遅刻はしないですから」
「あれ? そうなの?」
「ほら、引っ越しましたから。会社まで歩いて10分くらいですし」
「あ、そっか!」
社長がポンと手を打つ。
「やらかしたかと思ったよ。あっはっは!」
ちなみに会社の始業は九時となっている。
やることをやれば許されるシステムなので、遅刻くらいで文句をいわれることは無いし、神宮寺あたりは平気な顔で遅刻してくるのだが……。
「8時45分に家を出ても間に合うはずです」
「そうだね! 初日なんだし朝の時間を満喫しようか!」
「俺が軽食を買ってきます。そのあいだに社長は身支度をしていてください」
近くにあるカフェでサンドイッチとホットコーヒーを買ってきた。
俺が戻ってくると、社長はスーツに着替えて髪のセットを終えている。
「ハムサンドとチキンサンドがありますが、社長はどっちがいいですか?」
「ん〜と、チキンかな。カロリーが低そうだし」
「そういうと思っていました」
急ぐ必要はないのでゆっくりと胃袋におさめていく。
ホットコーヒーを飲むとき、社長が、あちち、といって唇を舐めた。
「どうでしたか? 昨夜はよく眠れましたか?」
「とっても寝つきが良かったよ。マサくんのお陰だね」
「俺も熟睡できました。社長のお陰ということにしておきます」
洗面台で一緒に歯磨きをする。
俺は100円の歯ブラシを使っているのだが、社長は高価そうな電動歯ブラシを使っていた。
「マサくんはずっと手みがきなの? 電動にしないの?」
「一回使ったことがあるのですが……どうもくすぐったくて……手の方が落ち着きます」
「ふ〜ん。私は歯磨きのテクニックに自信がないからね。こっちの方がテゥルッテゥルにできるよ」
「ツルツルじゃなくて? テゥルッテゥル?」
「うん。テゥルッテゥル!」
俺も高齢者になったら電動歯ブラシにしようか。
社長のきれいな歯を横目に見つつ口の中をゆすいだ。
「財布、携帯、家の鍵、定期券……はいらないから、電子マネー、ティッシュ、ハンカチ、あと化粧ポーチ」
社長が玄関のところで持ち物チェックをする。
「やりますよね、それ」
「そうそう。学生の時からやるよね……あ、ビルカードを忘れた!」
ビルカードとは会社の鍵のことである。
「急いでください。もう8時43分ですから」
「1分だけ待ってて!」
その言葉通り8時44分に家を出る。
「持ちましょうか?」
エレベーターの中で俺は右手を差し出した。
「えっ? 何のこと?」
社長が一瞬だけポカンとする。
「社長のカバン。近場とはいえ重いじゃないですか。その体には」
そうなのだ。
体感だけでいうと俺のニ倍から三倍くらい。
子どもの腕力しかない社長にとって、通勤カバンは重いはずである。
「悪いよ。そんなの」
「いいですから」
「あっ……」
社長の手からカバンを取り上げた。
いつもならムキになって反抗するのに、今日はしおらしく従っている。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
ちょっと控えめな社長も可愛いな。
そんなことを考えているうちにエレベーターが一階に到着する。
「今日は天気がいいね」
「そうですね」
抜けるような青空が広がっている。
会社へと通じる道に一歩を踏み出したとき、社長がクスリと笑った。
「マサくん、会社まで競争する?」
「その発想はヤバいですって。絶対に後悔しますよ」
「私が本気を出したら勝てる気がするけど……どうかな?」
「あり得ないですね。体格的に俺が断然有利です。それに社長はすぐに足首を挫きますし……」
「よ〜い、ドン!」
「あっ、ちょっと待って!」
社長の体がどんどん加速していく。
ツインテールが遊ぶように跳ねている。
その10秒後。
うにゃあ!
という不吉な悲鳴がひとつこだました。




