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040 恋人の契約書

 それから一時間弱、他愛のない会話をしながら過ごしていると、社長がふわぁと大きなあくびをした。


 目をゴシゴシする動きに合わせて、黒髪の毛先が揺れている。


「このまま寝たいな〜」

「ダメですよ。お風呂に入らないと」

「だって眠いもん」

「まったく……」


 社長がもう一つあくびをした。

 それが視覚野をつたって俺まで伝染してくる。


「あ、うつった!」

「仕方がないでしょう。生理現象なのですから」

「上司の前なのに気がたるんでいるね〜」

「あなたって人は……」


 俺は悔しかったのでフェイクのあくびをした。

 社長がまんまと釣られてふわぁと大きな一発をもらす。


「この、騙したな!」

「これは釣られる方が悪いですって」

「女の子に恥をかかせるなんて許さない!」


 怒った社長にポコポコと殴られる。

 猫パンチに似ている気がしなくもない。


「なんてね。嘘だよ。マサくんなら許しちゃう」

「ちょっと……」


 こちらがガードを固めていると、社長が甘えるように抱きついてきた。

 俺の心は完全に油断しており、あまりの可愛さに動揺する。


「頭をナデナデしてくれたら解放してあげようかな」

「ヤバいですって……男にそういう提案は」

「マサくんにしかお願いしないよ」

「……」


 上目遣いでじっと見つめられる。

 これは一種の催眠といえるだろう。

 ターゲットの意識とは関係なく手が動きそうになる。


「頭ナデナデは?」

「ですが……」

「これも社長命令だよ」

「うっ……それは卑怯なんじゃ……」


 横やりのようなタイミングで、ブルルルッ、と社長のスマートフォンが振動した。

 ディスプレイには神宮寺の三文字が見える。


「電話ですよね」

「そうだね」


 社長が目配せしてきた。

 俺が小さく頷くとスピーカーモードの通話が始まる。


「……私だ」

『おう、いのり……休んでいるところ悪いな。少し時間をもらえるか?』


 カタカタとキーボードを叩く音が混じっている。

 神宮寺はPCの前に座っているらしい。


「少しなんて水臭いことはいわず、何分でもいいよ」

『よくいうぜ……長電話はあまり好きじゃないくせに』

「相手によるよ。それで用向きは何かな?」

『その口振りだとメールを見ていないな』

「あっ……」


 本当にごめん!

 社長が電話に向かって手を合わせる。


 神宮寺からのメール。

 わざと無視したやつだ。

 社長もまったく同じことを考えていたらしく、俺たちは互いに顔を見合わせてから苦笑した。


『須田ちゃんといい感じにやっていたのか? ほどほどにしておけよ。体が子どもなんだから。あんまりイチャイチャすると、いつか骨を折るぞ』

「大丈夫だよ。彼は優しいから。あすかも仲間に入れてあげようか?」

『おい! それは立派なセクハラだ! 少しは自重しろ!』

「あれ? 心配してくれるなんて優しいね」

『まったく、会社の中だけにしておけ』


 怒られちゃった。

 社長がペロリと舌を出す。


『……まあ、いいや。詳しくはメールで送っているから。今日中に内容を確認して、イエスかノーの返事をくれ』

「わかったよ。休日なのにご苦労さん」

『それじゃ私はこれから帰宅する』

「……」

『…………』

「いつもありがとう。感謝しています」

『よせよ。照れるだろ』

「また明日ね」

『おう』


 通話を終えた社長が、ふう、と息を吐きながら体を寄せてくる。

 お互いの手が絡み合い、恋人つなぎになった。


 ……。

 …………。

 ………………。


「ねえ、マサくん」


 社長がすりすりと体を寄せながらいう。


「なんですか、社長?」


 俺はそのか細い肩をぎゅっと抱きしめた。


 社長の匂いが強くなる。

 ほんのりと熟れかけた果実のような、甘酸っぱくて爽やかな香り。


「愛してるっていってみて?」

「愛していますよ、社長。この世の誰よりも愛しています」

「……初めてだなぁ。ド直球で愛してるっていわれるの。とっても幸せな気分だよ。想像していたよりも100倍くらい幸せ。いまなら恋愛ドラマのヒロインの気持ちがわかるよ」

「幸せそうな社長の表情をこんなにも至近距離で観察できるなんて、俺は果報者だなって思います」

「もう! 口がうまいんだから! ますます惚れちゃうじゃない!」

「いやいや、誰かさんの足元にも及びませんから……」


 社長が接吻をひとつ、俺の肌に残していく。

 本日で何回目かわからないキスの跡だ。


 ……。

 …………。

 ………………。


「もう九時過ぎだね」

「そろそろお風呂に入りますか?」

「そうしよっか。お風呂当番とか決めた方がいいのかな?」

「社長の方が忙しいですから。特に理由がない限り俺がやります」

「いいの? 甘えちゃうよ?」

「お気遣いなく」


 俺は抱きしめていた社長の体を解放してあげた。


「少々お待ちください、お姫さま」

「うわぁ! お姫さま待遇だ! もう一回やってみて!」

「いや……そのように催促されると恥ずかしいのですが……」

「これも社長命令だよ〜。女の子は誰だってお姫さま扱いに憧れるんだよ〜。ねえねえ、やってみてよ〜」

「……仕方がないお姫さまですね」


 俺はコホンとひとつ咳払いをする。


「これからお姫さまのご入浴の準備をして参ります。お湯が沸くまで少々お待ちください。お姫さまの高貴で繊細な肌に優しいよう、温度は微温(ぬる)めに設定いたします」

「うむ、そなたの日頃の働きには感謝なのじゃ! あとで褒美を取らせるぞ、セバスよ」


 セバス?

 執事という立場なのか?

 まあ、『名門のお姫さま』×『忠実な執事』という設定も悪くはない。


「ではまた後ほど……」


 俺は浴槽をきれいに洗ってから給湯ボタンを押した。

 ポコポコという音が三秒くらい続いて、勢いよくお湯が噴き出してくる。


 ここで全裸の社長がくつろぐのか。

 もし磨き残しがあったら失礼だよな。

 そう考えて普段の三倍くらい念入りに洗ったような気がする。


 お姫さま。

 いのり姫。

 けっこう我がままそうだけれど、そこがまた可愛らしい。


 社長のドレス姿……。

 ちょっと見たいかも……。


 ……。

 …………。

 ………………。


 社長のご褒美というのは耳掃除であった。

 もちろんラブラブの膝枕つきである。


 社長のきれいな脚、まあまあ温かい。

 うっかり油断すると寝落ちしそうなくらいには。


「マサくん、耳掃除をさぼっていたね。けっこう溜まっているよ」


 社長が綿棒を小刻みに動かしながらいう。


「うぅ……いわないでくださいよ。かなり恥ずかしいですから。どうも耳掃除が苦手で……」


 社長の手が動くたびにゾクゾクする快感が耳の奥を襲ってきた。


「可愛いなぁ。そういうリアクション。私の母性本能がくすぐられちゃう。もっと面倒を見たくなっちゃうな」

「勘弁してください。俺は成人男性なのですから」


 まるで新婚さんみたいなシチュエーションといえるだろう。

 あと社長の耳掃除スキルが高すぎる。

 

「よし! 綺麗になったよ!」


 ちゃらりん♪

 社長が手を止めたタイミングで給湯完了のメロディが鳴った。


「お湯がたまりましたね」

「マサくんが先に入っちゃう?」

「社長が先に入ってください。レディファーストですから」

「なんだか申し訳ないね〜。至れり尽くせりの対応をしてもらって。ではではお先にいただきま〜す」


 ひとりになった俺は幼コレをしながら時間を潰した。

 ふっふふっふふ〜ん♪ という鼻歌が浴室から響いてくる。


 社長が入ったお湯に?

 続いて俺が入浴するのか?

 つまり社長の出汁がお湯の中に……いやいや、こういう妄想はやめよう!


「社長の耳掃除……気持ちよかったな」


 俺はポツリと漏らした。


 ……。

 …………。

 ………………。


「お待たせ〜」


 風呂上がりの社長が子猫みたいに甘えてきた。

 肌がほんのりと赤く染まっており、全身からボディソープの匂いがする。


「マサくんはちょっと長風呂してくれないかな」

「長風呂? 何分くらいでしょうか?」

「ん〜と、50分でお願いします」

「別にいいですが……」


 サプライズでもあるのだろうか?


「むふふふ……」


 ニコニコと含み笑いする社長を残して俺は風呂場へ向かった。


 社長のキスの跡。

 洗い流すのはもったいない。

 お湯が肌に触れてくるたびに楽しかった時間が蘇ってくる。


 シャンプーで髪を洗うつもりが、思いっきりボディソープの中身を出してしまった。

 まったく、頭がどうかしている。


「うぅ……このお湯の中に社長の出汁が……」


 あなたは何て罪な幼女なのでしょう。

 俺はお湯の中で泡をぶくぶくさせた。


 ……。

 …………。

 ………………。


 俺が風呂から出てくると、テーブルに二枚の紙が置かれていた。

 とても達筆な字でまったく同じことが記載されている。


 婚前契約書。

 ドラマの世界と思っていた設定である。


「片方が私ので、もう片方がマサくんのね」


 クリーム色のパジャマに身を包んだ社長がいう。

 俺は対応の早さに驚きつつ、契約書の内容に目を通していった。


『瀬古いのり(以下「甲」という)と須田正臣(以下「乙」という)は、……愛と誠意を尽くし、……生涯の伴侶として助け合うことを約束し、……本契約を締結する。なお、この契約において、甲乙は互いの存在を尊重し……


第一条……

第二条……

第三条……』


 やっぱり社長は本気なんだな。

 遊びでも若気の至りでもなくて、真剣に俺をパートナーとして考えている。


「決心はついた?」

「はい」


 この契約書は印刷したものではない。

 社長がちゃんと一字一句まで手書きしている。


 どんな気持ちで筆を握っていたのだろう。

 幸せになることだけを考えているのか?

 将来のことは楽観視しているのか?

 不安はないのだろうか?

 怯えとか迷いは?


「それじゃ署名しようか」


 社長、俺の順番でサインしてから印鑑を押した。

 インクがちゃんと乾いたことを確認し、もう一度だけ目を通してみる。


 社長のきれいな筆跡を指でなぞってみた。

 心優しい性格をそのまま形にしたような、丸みのある文字をしている。


 この紙一枚がお互いの未来を縛るのか。

 重さは七グラムくらいだろうが、手にはずっしりと重圧を感じる。


「社長、俺……」

「ん? どうしたの?」

「絶対に社長のことを幸せにしますから」

「ありがとう。そういってくれるのは世界中でマサくんだけだよ」


 そういう社長の瞳には薄っすらと涙の膜が張っていた。


 ……。

 …………。

 ………………。


 社長がふわぁと大きなあくびをした。

 目をゴシゴシする動きに合わせて、黒髪の毛先が揺れている。


「マサくんは夜型? まだ夜更かしする?」

「いえ、社長が寝るのなら俺も寝ますよ」

「じゃあさ、部屋の壁際に布団を敷いてよ」

「構いませんが……何か意図でも?」

「お互いの距離が近くなる」

「なるほど」


 指示された位置に布団を敷いてから、部屋の電気を消してみた。


 遠くからトラックのクラクション音が聞こえる。

 おそらく首都高速の辺りだろう。

 都会の優しい雑音(ノイズ)


 寝返りをうったとき、社長がコンコンと壁をノックしてきた。


「どうしました?」

「おお、ちゃんと声が聞こえる」

「ひとつ屋根の下ですから。ここの壁は薄そうですね」


 俺も壁をコンコンとノックしてみる。

 隣の部屋からクスクスと笑う声が聞こえた。


「近くに誰かがいるって不思議だな〜」

「まあ、一人暮らしが長いとそうなりますね」

「なんかワクワクしてきた。明日はちゃんと起きられるかな?」

「二人暮らしで寝坊はないでしょう。どちらかが目を覚ましますよ」


 壁紙にピタッと手を当ててみる。

 もしかしたら社長も同じアクションをしているかもしれない。


「明日のアラームは何時にセットしたの?」

「いちおう六時に設定しましたよ」

「じゃあ私も六時にしよ」

「無理はしないでください。俺は大人なので平気ですが、幼女の早起きは辛くないですか?」

「まあね……でもマサくんの寝顔を見てみたいかな。私が起こしてあげるよ」

「無茶なことを……絶対に後悔しますよ」

「いいや、この勝負は私がもらう」

「まったく」


 俺はアラームをいったん解除した。

 迷ってから6時5分に設定する。


「明日の朝食はどうしますか?」

「近くに喫茶店があるでしょ。あそこのモーニングをテイクアウトして家で食べよう」

「いいですね。俺がひとっ走りしてきますよ」

「ありがとう。助かるよ」


 しばらくの沈黙が降ってくる。

 ほぼ同時のタイミングでそれを破った。


「おやすみ」

「おやすみ」


 興奮のあまり一睡もできないかもしれない。

 そんな心配は杞憂(きゆう)だった。


 どっと昼間の疲れが出てくる。

 デスクワークに慣れた体にはハードな一日だったといえよう。


 ゆっくりと睡眠の中に落ちていく。

 起きたまま夢を見ているような不思議な感覚に包まれた。

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