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039 続きの続き

 中学生のとき、美術の先生がいっていた。

 芸術の神様というのは女神なんだ。

 だから女性は美しいと。


気障(きざ)なことをいう先生だな』


 クラスメイトが小声でそう言ったことを覚えている。


 あの言葉がいまでも忘れられないのは、俺がちょうど思春期で、女の子と目が合うとドキドキする感情に、やや戸惑っていたからだろう。


 社長の目をじっと見つめてみた。

 忘れていた甘酸っぱい記憶が蘇ってくる。


 不思議なものだ。

 俺はいい歳した大人なのに。

 好きな人と一緒に居られるだけで心が洗われていく。


「聞かせてください。社長の気持ちを」

「催促されると恥ずかしいな〜」

「どんな条件でものみますから」


 俺たちは互いの手を重ねてみた。

 社長の手のひらは汗でびしょびしょに濡れていて、俺をとても恥ずかしい気分にさせる。


 平熱が高いのか?

 体のつくりが子どもだから?


 社長を観察していると新しい発見があって、()びついていた感性が目覚めていく。


「ちょっとだけ言葉の整理をさせてね。自分の気持ちに嘘はつきたくないから。いま本当の想いを探しているから」

「社長でも心のクールタイムが必要なのですね?」

「もちろん」


 サクランボのような唇がふっと笑う。


「私の手がびしょびしょでしょ? 動揺している証だよ。自分が自分に動揺しちゃっているの。体は嘘をつけないよね。こんな気持ち、はじめてだよ。マサくんのせいなんだから。私の眠っている感情に、よくも火をつけてくれたね」

「社長、いちいち表現が危ないですって。体は嘘をつけないだなんて」

「だって感謝しそうなんだもん。幼女の体になれたことに」

「それじゃまるで……」


 前から疑問に思っていたことがある。


 社長は女性としての自己をどこまで肯定しているのだろうか?

 日々成長していく体を、大人になっていく過程を、どうやって受け入れているのだろうか?


 頭が切れる社長のことだ。

 ちゃんと計画があるのだろう。

 その秘密を知りたい、この手で解き明かしたい、という生理的な欲求がある。


「私のすべてをマサくんにあげる。私の未来も、未来の体もね。そういったら喜んでくれる?」

「それで喜ばない男はいないと思います」

「そうかな? だって大変だよ。私はワガママな性格だから。私を満足させるのは楽じゃないと思うの。私の成長期が終わる頃にはマサくんだって30歳を過ぎているしね。若い女の子の相手が務まるか心配だよ。買い物とか。おしゃべりとか。もっと楽しいこととか」


 社長がチラリと視線を外す。

 肝心の部分を想像にゆだねるなんて。

 こっちは都合のいい解釈をするしかないじゃないか。


「むしろ望むところです。社長がやりたいことを全部やってあげます」

「それは頼もしい提案だね。じゃあ、とことん付き合ってもらおうか。私がもう満足っていうまで、マサくんに奉仕してもらうんだから。手加減はしないよ。これはプライベートだから。労働法なんて通用しないから。男としてのマサくんを使い倒しちゃうから」

「見てみたいです。社長が限界まで満足している姿。そのときの表情。そのときの目つき」

「もしかして想像している?」

「ダメですか?」

「いいよ」


 社長が声のトーンを落とす。

 そっと秘めごとを漏らすみたいに。


 この人は飢えているのだ。

 自分を心から楽しませてくれる刺激に。


 趣味を仕事にしちゃっている人だから、本当のプライベートの時間が存在しないことに、今さらながら気づいたのだろう。


『だって感謝しそうなんだもん。幼女の体になれたことに』


 この言葉にはとても深い意味がある。


 男性のままだったら仕事、仕事、仕事だらけの人生で終わっていただろう。

 幼女の体になったことで別の可能性に気づいた。

 本当の瀬古いのりを探し始めたといえる。


「マサくんの強い気持ちがあれば、私の欲望を満たしてくれるかもね。マサくんがちゃんと私を支えてくれたらね」

「新境地の開拓というやつですか? 社長が憧れていた家庭的な空気?」

「そうそう。オフの時間も充実させないと」


 俺はツヤツヤの黒髪をひと房すくってみた。

 人差し指でいじって堪能してみる。

 クルクルと。

 スパゲッティーで遊ぶみたいに。


 社長はすっかり心を許しており、体の一部が玩具(おもちゃ)になるのを、ニコニコしながら見守っている。


「私がみんなの理想になるの。会社のみんなが目指すべき姿に。そのためには幸せにならないと。マサくんを道具として扱うみたいでごめんね」

「いえ、むしろ喜んでこの体を捧げます」

「いいね、そのセリフ。格好いい」


 社長が俺の耳にそっと語りかけてくる。


「それでこそ私が見込んだ男だよ」


 この世で一番欲しかった褒め言葉がもらえた。

 とんでもない才能だ。

 心を読む天才。


「それで条件は何ですか?」

「あれ? そこが気になっちゃう?」

「社長は取り引きの達人ですから。社長の未来に見合っただけの対価を求めるでしょ」

「う〜ん、さすがマサくんだね。押さえるべきポイントは忘れない。感心感心」

「安くはないと思っています。社長の価値は俺もよく知っていますから」

「それをいったらマサくんも安い男じゃないよ」


 社長の柔らかい手が俺の顔に触れてきた。

 母親のような優しさでぎゅっと抱きしめられる。


「条件は二つあります。その時がくるまでマサくんの一番が私であること」

「もう一つは?」

「その時がくるまで私の一番がマサくんであること。それまでダーティな行為は禁止だから。例えば……マサくんの方から私にキスしてくるとか」


 社長からのキスは合法なのか?

 ある意味、福音(ふくいん)のような約束といえる。


「別にいいですが……その時というのは?」

「その時はその時だよ。その時がくればわかるから。想像に任せるとかじゃなくて、ピンとくる瞬間があるから」

「具体的な言葉にできないと?」

「そういうこと。理解が早くて助かるよ」

「了解しました。その瞬間を待つことにします」


 これで終わりではない。

 意外なことに社長の念押しが始まった。


「ねえ、マサくん。私以外の誰かを好きにならない?」

「ならないですよ」

「しばらく会えない時間があっても平気?」

「我慢します」

「時には言葉で傷つけちゃうよ?」

「それも我慢します」

「誰かがふたりの仲を裂こうとしたら?」

「そいつを倒してやります」

「もし相手が会社の先輩だったら?」

「話し合いで解決……ですかね」

「もし相手が私たちの親族だったら?」

「それも話し合いで解決です」

「うん! 合格!」


 チュッ、と。

 ご褒美のキスを手の甲にしてもらった。


「ちゃんと契約書に含めるね」

「えっ⁉︎ 契約書を作るのですか⁉︎」

「もちろん! 私とマサくんの契約書だよ〜。さっきの言葉はすべて記憶しているから」


 ゆっくりと心拍数が落ち着いていく。

 いつもの社長が戻ってきた。

 俺が好きになった人だ。


「どうして神さまは性別なんてシステムを用意したんだろうね。一人きりじゃ幸せに限界があるよね。だからこそ燃えちゃうんだけれども」

「女性が美しいのは、芸術の神様が女神だから……」

「ん? 何かの引用かな?」

「美術の先生がそういっていました。その意味がやっとわかった気がします」

「へぇ〜、ロマンチックだね。そういうの嫌いじゃないかも」

「社長なら好きそうな発想ですよね。俺が知っている社長なら」

「マサくん、やるな〜。他の幼女に奪われないか心配しちゃうよ」

「またまた。そういう心にもない嘘をすぐにいうのですから。社長が一番に決まっているじゃないですか」

「どうかな? まったく心配がないわけじゃないよ。どんなトラブルが待っているかわからないから。いつだって油断は禁物。ゴールの先には新しいスタートが待っている。それを忘れた瞬間に破綻しちゃうの。会社だって、男女だって」

「大丈夫ですよ。社長なら」

「私とマサくんなら、ね」


 すぐに訂正される。


「ですね」

「うん、ふたりなら」

「平気に決まっています」


 これが普段の社長だ。

 たっぷりの笑顔。

 まあまあの自信。

 ちょっとだけの意地っ張り。

 みんなが憧れる瀬古いのりの姿だ。


 近くにいるだけで幸せになれる。

 実際に抱きしめながら『好き』を伝えられると、さらに幸せになれるわけであって……。


「社長って本当にワガママですね。いまでも幸せそうなのに、これ以上の幸せを求めるなんて」

「いいの、いいの。それが私の使命みたいなものだから。もっと幸せになって、周りに幸せをばらまくの」

「素敵です。そういう生き方。俺だと絶対に真似できないですから。才能が違うというか、そもそもの発想が違いますから」


 この人は本物の魔法使いみたいだ。

 とても小さな魔法使い。


「マサくんに見せてあげるよ。私の思い描いている世界を」


 サクランボのような唇が俺の左手にそっと降ってくる。


「この地上にも理想郷があるっていうことを」


 指輪をはめるべき薬指。

 社長がそこにクルクルと黒髪を巻きつけてきた。

 俺の体の一部と社長の体の一部がうまい具合にリンクする。


 黒髪の指輪。

 とてもメンヘンチックな発想。


 なにかの儀式みたいだ。

 生贄(いけにえ)に選ばれたのは俺か?

 あるいは瀬古いのりなのか?

 社長は黒髪のリングに満足すると、えへへ、と少女のような照れ笑いを浮かべる。


「好きだよ」

「俺も好きです」

「どのくらい?」

「言葉にできないくらいには……」

「マサくんらしい答えだね。これからは行動で示してくれるもんね」

「まったく、あなたって人は……本当に欲張りでワガママで自由奔放なのですから」


 そんな社長が大好きだ。

 知らない世界を教えてくれる存在だから。

 会社のみんなを幸せへと導いてくれる存在だから。


「マサくんのお陰で今日はとっても楽しかったよ」


 ますます魅力的になっていく。

 明日には一日分だけ成長していて、さらに美しくなる存在だから。

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