037 初夜(後)
頬の火照りが半端ない。
心臓が狂ったようにバクバクと暴れている。
「ありがとう……ございます」
俺はまったく同じセリフを繰り返していた。
いうなれば時間稼ぎのような独白。
心が余裕を求めている。
これは人生のヤバい瞬間というやつだ。
ズボンのファスナーが全開だった時。
イベント会場で鼻血が止まらなくなった時。
牛丼を食べたあとに財布がないことに気づいた時。
どれもまあまあ恥ずかしい。
そして一過性だ。
しかしいまの俺は違う。
幼女がベロベロに酔っ払い、マウントを取られたのだが、雇用主なので無下にもできないという、割とピンチの状況になっている。
人生の岐路。
そういっても差し支えはないだろう。
「大好きだよ! 大好きだよ! 大大大好きだよ!」
理性を失ってしまった社長が『好き!』を連呼してくる。
すっかり上気した表情はもちろんトロトロだ。
うるんだ瞳が異性を誘っている。
視線をそらしたい。
なのに釘付けになってしまう。
シャワーのように注いでくる『好き!』のせいで頭のどこかが麻痺している。
「好きなのっ! 好きなのっ! 好きなのっ!」
俺はかけるべき言葉を見失っていた。
それは主導権を手放したことの裏返しでもある。
「ねえ、嬉しい? 大好きっていわれて嬉しいの? 私が大好きなマサくんはいま嬉しいですか?」
「そうはいわれましても……」
心の底まで見透かしている瞳。
こちらが困惑する様子をただただ楽しんでいる。
瀬古いのりのほどの人物眼ならば、いまの俺の感情くらい、色つきで見えているはずなのに。
「それは……」
「ん? それは?」
あざとい追い打ち。
俺が黙っていると、ピンク色の唇が、くすり、と意味ありげに笑った。
普段の社長なら何をしてくる?
やるときは徹底的にやる主義か?
この人はいい意味で手段を選ばない。
神宮寺さん、姫井さんあたりが好例だろう。
もっとお金を積んでくれる会社は他にもあるのに、なぜか社長のところで働いている。
社長がそのように望んだから。
神宮寺さん、姫井さんにも望ませたから。
自由を奪う代わりに充足感を与える、そういう感情のトレードオフを半ば強制的に成立させたのだ。
社長は俺になにを望む?
誠意か? 尊敬か?
あるいは……。
「う~ん、マサくんの反応がないとつまらないなぁ」
社長の重心がまた移動する。
前から後ろへと。
いってみれば大技発動前のモーション。
あと何パターンの人たらし術を体得しているのか、想像しただけで薄ら寒くなる。
「つまり……まだ私の魅力が足りないのかなぁ?」
俺は内なる悲鳴をあげる。
いまでも十分に可愛いですよ、と。
声にならない声なので、本人に届くはずもなく……。
「だったら……」
社長の手が青色のリボンに触れた。
何かの封印を破るように、その結び目を解いていく。
さっきまでツインテールだった黒髪は、いったん扇のように広がり、さらさらと音を立てて流れてきた。
女の子でも憧れそうなツヤツヤの髪だ。
たっぷりと潤いを含んでおり、白い肌とのコントラストが目に眩しい。
まるで部屋の中に天の川ができたよう。
そんな陳腐な表現をする時点で、すでに脳みそが溶けかけている。
「マサくん、黒髪ロングが好きでしょ?」
「どうしてそれを?」
しまった。
これは獲物を嵌めるための罠。
ITの世界と違ってここにはキャンセルボタンが存在しない。
「やっぱりそうなんだ。思った通りだね」
社長の目が嬉しそうに笑う。
カマをかけて成功するってどういう気分ですか?
もし心にたっぷりの余裕があるならそう質問しただろうに。
「マサくん、黒髪ロングが好きだもんね。ショートよりロング派だよね。健康的な女性が好きそうだもんね。私も好きだよ、黒髪ロング。……あっ! ふたりの共通点が一個増えたね」
「……ですね」
「もう! もっと嬉しそうな顔をしてよね!」
社長がそっと体を重ねてくる。
「好きな女の子がさ、自分好みの髪型にしてくれたら、男の子は喜ぶのかな?」
「それは世の中の男子に共通する願望だと思います」
「マサくんがずっと前にいったんだよね。黒髪ロングが好きだって。もう本人は忘れているかもしれないけれど……私はちゃんと覚えているよ」
「それでいまの髪型に?」
「うん……て答えたら感激しちゃう?」
「そりゃ、まあ」
「やったね!」
感激した社長がぎゅっと抱きついてくる。
「作戦大成功!」
俺の胸の中できゃっきゃと笑った。
ただの天使?
それとも小悪魔?
99%まで洗脳されている頭では判別できない。
「ねえねえ、好きな女の子が自分好みに成長するのってどういう気分かな?」
「それって俺と社長のことですか?」
「そうだよ!」
即答。
これが酒の魔力なのか。
いや、瀬古いのりの本領発揮というべきか。
「……言葉にするのは難しいです」
「だったら私が気持ちを代弁してあげようか?」
「そんなことが可能なのですか? というかメチャクチャ恥ずかしいんですが……」
「わかるよ。だってマサくんの心が語りかけてくるんだもん」
社長が心臓を重ねてくる。
俺のそれがある位置にぴったりと。
さっきからバクバクが止まらない恥知らずの心臓。
「マサくんの気持ちを端的に表現するとね……」
言ってほしくないのに……。
答えを知りたいという矛盾した世界が広がっている。
「ふたりで一個になりたいってことだよね」
いまにも消え入りそうな声。
とてもこそばゆい気持ちになる。
ふたりだけの空間なのに、わざと声のボリュームを落とすのは、こちらの意識を聴覚に縛るためだろう。
「私に何をしてほしいの?」
「……」
「怒らないからいってごらんよ」
「……」
わかる。
神宮寺の気持ち。
『いのりが一番のセクハラ加害者』といいつつ、その表情はどこか嬉しそうだった。
好きな人からセクハラされると幸せになる。
それは認めたくない事実だろう。
問題は他にもある。
社長が酔っ払っていること。
少々のことで関係にヒビが入るとは思わないが、いまの状況はあくまで事故なので、それを利用したくない。
利用したくないのが男の矜持なのだが、据え膳食わぬは男のナントカともいうし……。
「マサくんは素直になれないよね。だって優しい性格だから。相手のペースに合わせちゃうよね」
「まあ……」
まさに図星。
こちらの反応に満足した社長がうっとりと目を細める。
「私はね、どっちかというと主導権を握る方が好きかな。ワガママな性格だから。マサくんとは相性ピッタリだよね」
「ですかね」
耳が幸せな気分になってきた。
これ以上はさすがにヤバい。
なのに社長の声をもっと聞きたい。
頭のなかで冷静と情熱が綱引きをしている。
その勝負には限界があって……。
ブルルルッ。
社長のスマートフォンが振動した。
後から振り返ると、それが引き返す最後のチャンスだったと思う。
「メール、ですよね?」
俺はいう。
「そうだね」
社長がはっきりとした声でいう。
「いまは無視してくれませんか?」
「私を占有したいってことかな?」
「そうです」
「う~ん、どうしようかな~」
まさかの焦らし。
この手のテクニックは人類の最高峰だろう。
「いまでも社長のことは好きですが、ここでメールを無視してくれたら、もっと好きになれるような気がします」
「へえ~、マサくんでもそういう歯の浮くようなセリフを言えちゃうんだ。感心感心」
「社長がお手本ですから。俺も少しは成長しますよ」
「なるほど~。私の性格を少しはコピーするのか。それも成長だよね」
「部下の成長はその場で褒めろでしたっけ? 社長の口癖は?」
「あれあれ~。それをこの場所で使っちゃう?」
社長は素直になってくれている。
だったら俺も少しは素直になるのが礼儀じゃないか?
せめて1%でもいい。
この気持ちを伝えられたら本当の自分に近づける気がする。
「いま褒めてくれてもいいですよ」
「……」
社長がはじめて沈黙した。
沈黙させることに成功したのだ。
「……わかったよ。たっぷりと褒めてあげるね」
社長がぎゅっと抱きついてくる。
無理をすると壊れそうな体つきなのに、その腕力を段階的に強くしていく。
これは新しいハグの形だ。
じわり、じわりとふたりの距離がなくなっていく。
俺は気持ちよさのあまり、呼吸することを忘れそうになる。
「もう一回やるね」
社長がいったん力を抜いた。
そして俺の体を縛ってくる。
シルクのような黒髪が首筋に落ちてきた。
その部分を、ひやり、と舐められたような冷気が走る。
あっ、と変な声をあげそうになり、ギリギリのところで我慢した。
「マサくんの体ってけっこう逞しいね」
「まあ、男ですから」
女性に抱きしめられると気持ちいい。
ものすごく当たり前の真実を教えてもらった。
「腕が疲れてきちゃった……次が最後かな」
社長が俺のために頑張ってくれている。
まっ赤になった耳朶も。
すっかり乱れた呼吸も。
布越しに伝わってくる体温も。
いまは俺だけのために存在してくれている。
タブーであることは理解しているつもりだ。
瀬古いのりという女性と対等な立場になりたい。
大学の後輩として、会社の部下として、とても罪であるような気がする。
雲の上の存在だから。
ますます欲しくなってしまう。
胸が火傷しそうなほどのジレンマ。
「もう一回だけ」
三回目のハグ。
お互いの熱が混じりあい、ひとつに溶けあったかのような錯覚がする。
「はぁ……はぁ……夜は長いんだから……もっと楽しまないとね」
息も切れ切れにいう社長の顔つき。
俺のすべてを欲しているような気がして、かつてないほど魅力的に映った。




