表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
37/278

037 初夜(後)

 頬の火照(ほて)りが半端ない。

 心臓が狂ったようにバクバクと暴れている。


「ありがとう……ございます」


 俺はまったく同じセリフを繰り返していた。

 いうなれば時間稼ぎのような独白。

 心が余裕を求めている。


 これは人生のヤバい瞬間というやつだ。


 ズボンのファスナーが全開だった時。

 イベント会場で鼻血が止まらなくなった時。

 牛丼を食べたあとに財布がないことに気づいた時。


 どれもまあまあ恥ずかしい。

 そして一過性だ。


 しかしいまの俺は違う。

 幼女がベロベロに酔っ払い、マウントを取られたのだが、雇用主なので無下(むげ)にもできないという、割とピンチの状況になっている。


 人生の岐路。

 そういっても差し支えはないだろう。


「大好きだよ! 大好きだよ! 大大大好きだよ!」


 理性を失ってしまった社長が『好き!』を連呼してくる。

 すっかり上気した表情はもちろんトロトロだ。

 うるんだ瞳が異性を誘っている。


 視線をそらしたい。

 なのに釘付けになってしまう。

 シャワーのように注いでくる『好き!』のせいで頭のどこかが麻痺している。


「好きなのっ! 好きなのっ! 好きなのっ!」


 俺はかけるべき言葉を見失っていた。

 それは主導権を手放したことの裏返しでもある。


「ねえ、嬉しい? 大好きっていわれて嬉しいの? 私が大好きなマサくんはいま嬉しいですか?」

「そうはいわれましても……」


 心の底まで見透かしている瞳。

 こちらが困惑する様子をただただ楽しんでいる。

 瀬古いのりのほどの人物眼ならば、いまの俺の感情くらい、色つきで見えているはずなのに。


「それは……」

「ん? それは?」


 あざとい追い打ち。

 俺が黙っていると、ピンク色の唇が、くすり、と意味ありげに笑った。


 普段の社長なら何をしてくる?

 やるときは徹底的にやる主義か?


 この人はいい意味で手段を選ばない。

 神宮寺さん、姫井さんあたりが好例だろう。

 もっとお金を積んでくれる会社は他にもあるのに、なぜか社長のところで働いている。


 社長がそのように望んだから。

 神宮寺さん、姫井さんにも望ませたから。

 自由を奪う代わりに充足感を与える、そういう感情のトレードオフを半ば強制的に成立させたのだ。


 社長は俺になにを望む?

 誠意か? 尊敬か?

 あるいは……。


「う~ん、マサくんの反応がないとつまらないなぁ」


 社長の重心がまた移動する。

 前から後ろへと。


 いってみれば大技発動前のモーション。

 あと何パターンの人たらし術を体得しているのか、想像しただけで薄ら寒くなる。


「つまり……まだ私の魅力が足りないのかなぁ?」


 俺は内なる悲鳴をあげる。

 いまでも十分に可愛いですよ、と。

 声にならない声なので、本人に届くはずもなく……。


「だったら……」


 社長の手が青色のリボンに触れた。

 何かの封印を破るように、その結び目を解いていく。

 さっきまでツインテールだった黒髪は、いったん扇のように広がり、さらさらと音を立てて流れてきた。


 女の子でも憧れそうなツヤツヤの髪だ。

 たっぷりと潤いを含んでおり、白い肌とのコントラストが目に眩しい。


 まるで部屋の中に天の川ができたよう。

 そんな陳腐(ちんぷ)な表現をする時点で、すでに脳みそが溶けかけている。


「マサくん、黒髪ロングが好きでしょ?」

「どうしてそれを?」


 しまった。

 これは獲物を()めるための罠。

 ITの世界と違ってここにはキャンセルボタンが存在しない。


「やっぱりそうなんだ。思った通りだね」


 社長の目が嬉しそうに笑う。


 カマをかけて成功するってどういう気分ですか?

 もし心にたっぷりの余裕があるならそう質問しただろうに。


「マサくん、黒髪ロングが好きだもんね。ショートよりロング派だよね。健康的な女性が好きそうだもんね。私も好きだよ、黒髪ロング。……あっ! ふたりの共通点が一個増えたね」

「……ですね」

「もう! もっと嬉しそうな顔をしてよね!」


 社長がそっと体を重ねてくる。


「好きな女の子がさ、自分好みの髪型にしてくれたら、男の子は喜ぶのかな?」

「それは世の中の男子に共通する願望だと思います」

「マサくんがずっと前にいったんだよね。黒髪ロングが好きだって。もう本人は忘れているかもしれないけれど……私はちゃんと覚えているよ」

「それでいまの髪型に?」

「うん……て答えたら感激しちゃう?」

「そりゃ、まあ」

「やったね!」


 感激した社長がぎゅっと抱きついてくる。


「作戦大成功!」


 俺の胸の中できゃっきゃと笑った。

 ただの天使?

 それとも小悪魔?

 99%まで洗脳されている頭では判別できない。


「ねえねえ、好きな女の子が自分好みに成長するのってどういう気分かな?」

「それって俺と社長のことですか?」

「そうだよ!」


 即答。

 これが酒の魔力なのか。

 いや、瀬古いのりの本領発揮というべきか。


「……言葉にするのは難しいです」

「だったら私が気持ちを代弁してあげようか?」

「そんなことが可能なのですか? というかメチャクチャ恥ずかしいんですが……」

「わかるよ。だってマサくんの心が語りかけてくるんだもん」


 社長が心臓を重ねてくる。

 俺のそれがある位置にぴったりと。

 さっきからバクバクが止まらない恥知らずの心臓。


「マサくんの気持ちを端的に表現するとね……」


 言ってほしくないのに……。

 答えを知りたいという矛盾した世界が広がっている。


「ふたりで一個になりたいってことだよね」


 いまにも消え入りそうな声。

 とてもこそばゆい気持ちになる。

 ふたりだけの空間なのに、わざと声のボリュームを落とすのは、こちらの意識を聴覚に縛るためだろう。


「私に何をしてほしいの?」

「……」

「怒らないからいってごらんよ」

「……」


 わかる。

 神宮寺の気持ち。

『いのりが一番のセクハラ加害者』といいつつ、その表情はどこか嬉しそうだった。


 好きな人からセクハラされると幸せになる。

 それは認めたくない事実だろう。


 問題は他にもある。

 社長が酔っ払っていること。

 少々のことで関係にヒビが入るとは思わないが、いまの状況はあくまで事故なので、それを利用したくない。


 利用したくないのが男の矜持(きょうじ)なのだが、据え膳食わぬは男のナントカともいうし……。


「マサくんは素直になれないよね。だって優しい性格だから。相手のペースに合わせちゃうよね」

「まあ……」


 まさに図星。

 こちらの反応に満足した社長がうっとりと目を細める。


「私はね、どっちかというと主導権を握る方が好きかな。ワガママな性格だから。マサくんとは相性ピッタリだよね」

「ですかね」


 耳が幸せな気分になってきた。

 これ以上はさすがにヤバい。

 なのに社長の声をもっと聞きたい。


 頭のなかで冷静と情熱が綱引きをしている。

 その勝負には限界があって……。


 ブルルルッ。

 社長のスマートフォンが振動した。

 後から振り返ると、それが引き返す最後のチャンスだったと思う。


「メール、ですよね?」


 俺はいう。


「そうだね」


 社長がはっきりとした声でいう。


「いまは無視してくれませんか?」

「私を占有したいってことかな?」

「そうです」

「う~ん、どうしようかな~」


 まさかの()らし。

 この手のテクニックは人類の最高峰だろう。


「いまでも社長のことは好きですが、ここでメールを無視してくれたら、もっと好きになれるような気がします」

「へえ~、マサくんでもそういう歯の浮くようなセリフを言えちゃうんだ。感心感心」

「社長がお手本ですから。俺も少しは成長しますよ」

「なるほど~。私の性格を少しはコピーするのか。それも成長だよね」

「部下の成長はその場で褒めろでしたっけ? 社長の口癖は?」

「あれあれ~。それをこの場所で使っちゃう?」


 社長は素直になってくれている。

 だったら俺も少しは素直になるのが礼儀じゃないか?


 せめて1%でもいい。

 この気持ちを伝えられたら本当の自分に近づける気がする。


「いま褒めてくれてもいいですよ」

「……」


 社長がはじめて沈黙した。

 沈黙させることに成功したのだ。


「……わかったよ。たっぷりと褒めてあげるね」


 社長がぎゅっと抱きついてくる。

 無理をすると壊れそうな体つきなのに、その腕力を段階的に強くしていく。


 これは新しいハグの形だ。

 じわり、じわりとふたりの距離がなくなっていく。

 俺は気持ちよさのあまり、呼吸することを忘れそうになる。


「もう一回やるね」


 社長がいったん力を抜いた。

 そして俺の体を縛ってくる。


 シルクのような黒髪が首筋に落ちてきた。

 その部分を、ひやり、と舐められたような冷気が走る。

 あっ、と変な声をあげそうになり、ギリギリのところで我慢した。


「マサくんの体ってけっこう(たくま)しいね」

「まあ、男ですから」


 女性に抱きしめられると気持ちいい。

 ものすごく当たり前の真実を教えてもらった。


「腕が疲れてきちゃった……次が最後かな」


 社長が俺のために頑張ってくれている。


 まっ赤になった耳朶(じだ)も。

 すっかり乱れた呼吸も。

 布越しに伝わってくる体温も。

 いまは俺だけのために存在してくれている。


 タブーであることは理解しているつもりだ。

 瀬古いのりという女性と対等な立場になりたい。

 大学の後輩として、会社の部下として、とても罪であるような気がする。


 雲の上の存在だから。

 ますます欲しくなってしまう。

 胸が火傷(やけど)しそうなほどのジレンマ。


「もう一回だけ」


 三回目のハグ。

 お互いの熱が混じりあい、ひとつに溶けあったかのような錯覚がする。


「はぁ……はぁ……夜は長いんだから……もっと楽しまないとね」


 息も切れ切れにいう社長の顔つき。

 俺のすべてを欲しているような気がして、かつてないほど魅力的に映った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ