036 初夜(中)
神宮寺を見送り、自販機のジュースを買ったあと、エレベーターで七階まで戻った。
これから社長とふたりきり。
そう思うと嬉しいような、恥ずかしいような。
気もそぞろな状態のまま玄関のドアを開けてみた。
「おかえり~」
「ただいま」
社長がニコニコしながら汚れた食器を片付けている。
俺がつかった食器を?
社長の手で?
この状況を飲み込んだとき、俺の血圧がぐいっと上がった。
会社の上司、かつ大学の先輩ともあろう人物に雑用をさせてしまったのだ。
「汚れた食器は俺が洗います」
「いやいや、私が洗うよ。これは力仕事じゃないしね」
「ですが……」
食器を取り上げようとして気づいた。
分担をまったく考えていない。
間借りさせてもらっている身なので、俺が100%こなすのが筋だろう。
この瞬間もそれが当然だと思っている。
しかしあの社長のことだ。
50:50がフェアだと思っているに違いない。
「皿洗い、社長がやるのは禁止です!」
「どうしたんだい? もし先輩後輩ということを意識しているのなら、それは要らぬ気づかいだと思うよ」
「いいえ。食器用洗剤は手肌に優しくないですから! 幼女肌には刺激が強すぎます! だから社長がもう少し成長するまで禁止です!」
「そんな過保護な……」
社長の手から、ひょい、と食器を奪った。
お子さま扱いされた社長がちょっとだけ不本意そうな顔をする。
「肌荒れになっても構わないのですか?」
「そういうつもりじゃないけれども」
「だったら俺に任せてください」
「……はい、お願いします」
幼女であることを武器にして丸め込んだ。
やや強引なテクニックではあるけれども、男であることが俺の強みだし、理屈としては間違っていない。
手持ち無沙汰になった社長がテーブルに戻る。
その目が何かを見つけた。
「あれ? あすかのやつ、ノンアルコールチューハイをけっこう残していったな。捨てるのは勿体ないから飲んじゃおう」
飲みかけのジュースであった。
「無理はしないでくださいよ。胃袋が小さいのですから」
「平気だって」
俺は新品のスポンジを取り出し、油汚れをきれいにしていく。
炊飯器の内釜はとくに汚れており、お湯で何回もそそぐ必要があった。
「家で誰かに『おかえり』をいうの、考えてみると久しぶりだな~」
社長が機嫌よさそうにいう。
「ですね。俺も実家でしか『ただいま』はいいません」
ふきんで水気をぬぐいながら答える。
「家庭的な空気だよね。こういうの、憧れるな」
「なるほど。ですが家庭的というのはどういう意味なのですかね?」
「具体的に、ということ?」
「そうです」
「う~ん」
すぐに思いつくのは、家庭的な女性、家庭的な男性、という言葉だ。
家事をちゃんとこなしてくれるイメージがある。
「家庭を大切にする、というのが辞書的な意味だけれども、一緒に住んでいる人の時間を大切にする、という説明の方がしっくりくるかもね」
「家事とか育児もそれに含まれるという認識で合っていますか?」
「うん、家がきれいで静かだと居心地がいいでしょ」
そういう解釈もあるのか。
俺もまあまあ家庭的かもしれないと思いつつ、料理で出たゴミを片付けていく。
「ゴミが溜まったので一階まで捨ててきます」
「は~い」
俺は可燃物の袋をぶら下げて七階から一階を往復した。
戻ってきてから、ふう、とひと息つく。
そして青ざめた。
「社長、その缶……」
「ふえ? どうしたの?」
社長が右手に持っている缶。
これは神宮寺が残していったノンアルコールチューハイではない。
俺が飲み残していたチューハイだ。
迂闊だった。
こうなる事態を想定して飲み切っておけば……。
「もしかして飲んじゃいました……よね」
「……飲んだような、飲んでいないような」
「いやいや、この中身は普通のチューハイですよ!」
「そんな馬鹿な。私がそんなヘマをするわけがないじゃないか!?」
社長の目元はさっと朱を差したように染まっている。
心なしか声も甘くなっており、俺の鼓膜をビンビンと刺激してきた。
「あれ?」
社長が缶のラベルを眺める。
そこには『アルコール度数5.0%』の文字。
ごしごしと目をこすりだす。
まだ寝ぼける時間には早いのだが……。
「いや、あり得ない……」
缶を逆さにしてぶんぶん振り出した。
ぽつり、と。
たった一滴だけ缶の中身がこぼれ落ちる。
酔っ払った子猫みたいだ。
うまく現状を飲み込めていない証拠といえる。
「えっ……えっ……ちょっと……うそぉ!」
次はワンピースの上からお腹をポンポンと連打し始めた。
アルコールが逆流してくると考えているのか。
だとしたらおめでたい。
「マサくん……がっつり飲んじゃった」
「ですよね」
「……」
俺は買ってきたばかりのミネラルウォーターを開封した。
「せめて体内のアルコールを薄めましょうよ。少しは楽になると思います」
「すまない」
俺がペットボトルを差し出すと、社長は一気に三分の一を飲み干した。
その手つきがちょっと怪しい。
首筋だって赤くなっている。
「吐気や頭痛はしないのですか?」
「うむ、それは平気かな」
「ソファで寝ます?」
「そうだね」
足元がおぼつかない社長をソファのところまで誘導してあげる。
どん!
背後からのものすごい圧力に押されて、俺の体がソファに転がった。
「うわ! ちょっと!」
社長だった。
幼女らしからぬ腕力で俺を突き飛ばしてきたのだ。
「マサくん! マサくん!」
それだけじゃない。
発情した牝猫のように絡んでくる。
しかも相手は会社の上司なので、こっちは従うより他にない。
「どうしたのですか、社長」
「体の奥が熱いよう~。じんじんするよう~」
「それってもう酔いが回ったんじゃ……て、動き回ると悪化しますよ!」
「だって体が変なんだもん。気分がポカポカしてきた。じっとしていたくないの!」
あっという間にマウントを取られた。
そう、俺は半分の体重もないであろう幼女に組み敷かれている。
「もう酔いが回ったのですか?」
「ううん、酔っていないよ。素面だよ」
「いや、絶対に泥酔していますよね! どうして嘘をつくのですか!」
「私は嘘なんてつかないから! 嘘じゃないから!」
小動物のような社長の目。
天然の人たらしの目をしている。
この人から親切にされると、男だろうが、女だろうが、敵だろうがコロリとやられる。
それから何分経っただろうか。
3分か。
5分か。
10分か。
俺が動けないでいると、沈黙を破ったのは社長であった。
「ねえ、マサくんはさ……」
社長の匂いが強くなった。
柑橘類のような、やや甘ったるい香水の匂い。
「私のことがさ……」
背中にはソファの感触がある。
力ずくで社長を投げ飛ばさない限り、どこにも逃げ場所はない。
「好きなの……かな?」
社長が頬を紅潮させながらいう。
その指がピンク色の唇をなでた。
「それとも嫌い?」
その指先を俺の唇にそっと押し当ててくる。
やばい、可愛すぎる。
興奮のあまり思考回路がショートしそうなほどに。
「……」
俺の選択は沈黙。
好きか。
嫌いか。
どっちを選んでも社長の暴走が加速する未来しかない。
「私はねえ……」
社長の重心が移動してきた。
後ろから前へと。
お尻を突き出したような格好になり、ぐっと顔を寄せてくる。
どうしてこうなった。
30分くらい前とのギャップが、俺の脳をますます混乱させる。
「マサくんのことがねえ……」
聞いてはいけない。
直視してはいけない。
そう念じれば念じるほど五感が社長に支配されていく。
「好きだよ……というのは嘘でね……」
俺はほっとした。
仕事は仕事。
異性は異性。
そういう分別をしていると錯覚したから。
しかし安心したのは下策中の下策だったといえよう。
相手は天然の人たらしなのだ。
まるで呼吸でもするように……。
周りの人間をコロコロと惚れさせていく。
大学時代から付き合いのある俺ならば、神宮寺の次くらいに、世界で二番目くらいに、そのことを理解しているはずだった。
「マサくんのことが大好きだから。好きってレベルじゃないの。分かってくれるかな、この気持ち」
社長がはあはあと息を荒げる。
その目に浮かんでいるのはハートマーク。
いや、俺がそのように都合のいい解釈をしているだけか。
大好きだから?
好きってレベルじゃない?
それって最強クラスに好きってことなのか?
「マサくんがどう思おうが変わらないんだ。私の気持ちはね。愛情ってそういうものだから。これは混じりっ気のない愛だから。純白の愛。だって仕方がないよね。好きになっちゃったものは。理屈じゃないから。この気持ちに嘘はつけないよね」
俺はせめてもの抵抗に出る。
いうなれば窮鼠が猫をかむような一撃。
「社長は仕事が好きじゃないですか? 会社のことも。社員のことも。そっちの優先順位はどうなのです?」
「あれ~、そういう単語を引き合いに出しちゃう」
「……」
俺はごくりと生唾を飲んだ。
ほろ酔い状態にあるにもかかわらず、社長の顔にはたっぷりの余裕が浮いている。
これが正気だといわんばかりに。
これが瀬古いのりの本心だといわんばかりに。
ドロドロの欲望とか、夢見がちな乙女の恋心とか、それらの一切合切をさらけ出している。
「確かに会社のみんなのことは好きだよ。愛している。一人ひとりをね」
社長の指が何かを探す。
俺の心臓の位置だった。
服の上でくるくると指先を滑らせて、宝物を見つけた少女のようににっこりと笑う。
やばい……。
そろそろ呑まれそう。
「でもね、マサくんに対する好きは毛色が違うんだよ」
「それって……」
ふわり、と。
ツインテールの先端が俺の頬にやさしく触れた。
「……男として好きってことだよ」
理想の幼女から告白されてしまった。
わかっている。
これは酒の魔法による失言。
どこまでが本音で、どこまでが甘言なのか、本人すら区別がついていないだろう。
信じる方がどうかしている。
それでも願う。
社長には俺を好きであってほしい。
社長の一番が俺であってほしい、と。
とても浅ましい感情だ。
小学校のクラスに仲のいい親友がいて、そいつの一番が俺であってほしいと望むような、その順位を確かめたくなるような、人間らしい気持ち。
「ありがとう……ございます」
どろり、と。
骨の髄までたらし込まれる音がした。




