259 八月と文学幼女と黒ストッキング
姫井が夜道で失禁する。
そんな心の傷を残していった夏合宿は、一年でもっとも楽しい行事の一つとして記憶に刻まれた。
『もうお嫁にいけません!』
なんて本人は吠えていたけれども、太陽と月があらんかぎり、神宮寺が隣にいてくれるわけから平気だろう。
三日ぶりにワトソンと会った。
人恋しそうに社長に甘えていた。
(もう帰ってこないかと思ったにゃ)
ホテルでブラッシングサービスをつけてもらったので、体がピカピカと輝いている。
社長は夏合宿で疲れていたけれども、ワトソンの気がすむまで玩具で遊んであげていた。
……。
…………。
カレンダーが八月になる。
新聞の見出しをチェックする。
『台風10号、沖縄へ接近』
『四国エリアの水不足は解消せず』
『北海道で猛暑日 帯広で38度を記録』
ほぼ例年通りだ。
今日も日本列島は平和といえる。
「さてと……」
土曜日の朝八時。
幼コレの作業のため、俺がオフィスにやってくると、玄関のセキュリティロックが外れていた。
先客がいる。
たぶんシイナだな。
以前なら神宮寺が泊まっている可能性があったけれども、近ごろは姫井の世話があるから、この時間は家でゆっくり過ごしているはず。
「この足音……須田くんね」
「よくわかりましたね」
「体重が全然違うから」
シイナは休憩エリアのソファで寝転がっていた。
今日はメガネをかけておらず、熱心に『オズの魔法使い』を読んでいる
アメリカのファンタジー作家、ライマン・フランク・ボーム著。
映画化もされた大ベストセラー本である。
どんなストーリーだったか?
主人公はドロシーという女の子。
愛犬のトトと一緒に知らない世界へ飛ばされて、故郷の『カンザス』へ帰る方法を模索する。
旅の仲間になるキャラクターが何名かいる。
かかし。
欲しいものは『知恵』。
ブリキのきこり。
欲しいものは『心』。
臆病なライオン。
欲しいものは『勇気』。
エメラルドの都で暮らしているオズの魔法使いなら、自分たちの願いを叶えてくれると期待したドロシーたちは、いくつかの冒険を乗り越えてエメラルドの都へたどり着いたのだが、後日になって、オズの魔法使いなんて存在せず、その正体はただの詐欺師だったことを知り……というストーリーだったか。
大人になったから理解できる。
俺たち現代人は、かかし、きこり、ライオンに似ている部分がある、と。
「オズの魔法使い、面白いですか?」
「とても面白いわ。一年に一回くらい読み返したくなる程度には」
この本が世界的な名著といわれる理由は何だろうか?
シイナなら30分かけて解説してくれそうだ。
「この本の著者はね、44歳になるまでたくさん挑戦して、たくさん失敗したの。児童文学に手を出したのだって、生活のために仕方なくという理由よ。作品と作者は切り離して考えるべき、という意見があるけれども、私は反対ね。スーパーで売られている野菜だって、生産者の顔を気にする時代でしょう。本だって生産者の顔が気になるわ。そんな読者が少なくともここに一人いる」
シイナにいわせると、もしこの世に魔法というものが存在するなら、それは『オズの魔法使い』の出版によって、著者が人生ゲームの大逆転に成功したことだという。
俺は空いているソファに腰かけた。
机の上には天然水のペットボトルと他の児童文学が置かれている。
ルーシー・モード・モンゴメリ著。
『赤毛のアン』
ジョナサン・スウィフト著。
『ガリバー旅行記』
どちらも10年以上前に読んだ本なので、『空飛ぶ島ラピュータ』が日本の東にある島国バルニバービの都だったことくらいしか覚えていない。
架空の設定とはいえ、日本という単語の出現に興奮したものである。
「幼女になったから児童文学を?」
「そうね。血とか暴力は少し苦手になったかもね。姫井ゆりと出会ってから、性描写も苦手になったわ」
シイナが寝たまま脚をクロスさせる。
黒ストッキングを履いており、社長にはない色気が放たれている。
シイナは職場のみんなと上手くやっている。
雲雀さんが恋愛ゲームにたとえていたけれども、もう中盤に突入して、一番楽しい時間ではないだろうか。
「ねえ、須田くん」
「何です?」
「……変な質問になっちゃうのだけれども……」
「大丈夫です。シイナさんが質問してくるときは、いつも変な質問と決まっていますから」
「もうっ! 私は上司なのよ! 少しくらい敬意を払いなさい!」
頬っぺたを膨らませて怒っている。
以前のような刺々しさは消えており、シイナ独特の愛嬌みたいなやつがある。
「雲雀さんのことですよね?」
「うん……『シイナさんは性格が可愛くない』『でもそこが可愛いと感じる』……雲雀さんはそういってくれるのだけれども、どう考えても矛盾しているわよね。須田くんならこのカラクリを上手に言語化できるかしら」
うわぁ……最強にメンドクサイ……。
シイナほどの知能と読書歴があれば、そんなロジック、一瞬で解答できるのに。
恋の罠にはまった人間は盲目になってしまうようだ。
「赤毛のアンと一緒ですよ」
「アンと?」
「はい……アンは自分の赤毛が大っ嫌いです。当時のカナダでは、赤い髪は不器量なものとして扱われていました」
「そうね。アンだって親友ダイアナの黒髪に憧れていたわね」
でも赤毛はアンのチャームポイントになる。
読者だって赤い髪の女の子だから好きになる。
「作中のアンは赤毛のままです。赤い髪が不器量だというカルチャーも、変えようがありません」
「つまり私の性格の悪さは死ぬまで治らないと?」
「まあまあ……」
今日のシイナは猛獣みたいにグイグイくるな。
小さなライオンか。
「性格の悪さというのは、色みたいなもので、誰が見ても一緒なのですけれども、感じ方は人の数だけあるというか……つまり雲雀さんは『性格が可愛くない』から好きなのではなく、『可愛くない性格と上手に折り合いをつけて生きている』から好きなのだと思います。だから『シイナさんは性格が可愛くない』という前提がなければ、今ほどは好きにならなかったということです」
「ああ……なるほど……さすが私が認めた人間ね」
「……どうも」
上機嫌になってくれて何よりだ。
……。
…………。
午後の3時頃。
俺がいったん家に戻り、社長を寝かしつけてからオフィスへ戻ってくると、入り口にケーキの箱が置かれてあった。
『シイナさん 今日もお仕事ご苦労さまです』
雲雀さんの筆跡で書かれたメモが添えられている。
出社しているのはシイナ、加賀美、雪森、俺の四名。
ケーキも四個入っていた。
メモには裏面があった。
『今月の夏祭り、シイナさんがいのり社長を誘ってみてください』
夏祭りか。
そんな季節だな。
「シイナさん、これ、雲雀さんからのプレゼントです」
シイナはメモに視線を落とすと、かあっ! と顔を赤らめていた。
「私から誘ったりしたら、いのりさん、警戒して断ってこないかしら?」
「大丈夫です。愛犬のごとく尻尾を振って誘いにのってきますから」
夏祭りといえば浴衣か。
去年は忙しくてどこにも行けなかったから、社長がバンザイをしながら喜びそう。
「飲み物を淹れますが……シイナさんは紅茶でいいですか?」
「ええ……とってもいいわ……」
ダメだ。
すでに緊張している。




