103 眠れない夜
その後……。
「お先に失礼します」
「お疲れ様っす」
「お疲れ様〜」
夜の十時を回ったところで、パソコンを畳んだ先輩たちがチラホラと帰り始めた。
ここから先は深夜残業……成人男性の俺だってキツいし、作業の能率が落ちてくる時間帯となる。
「須田ちゃんってさ、深夜になると残業代が上がるの?」
「上がっている……ような気がします」
「いいな〜。残業代〜」
神宮寺はウェーブした茶髪をかき上げながらいう。
「神宮寺さんとか姫井さんって管理職という扱いですよね? だから残業代が出ないんですよね?」
「理屈としてはそうだな。そういう意味だとうちの組織って、八人中三人が経営者か管理職だから、平社員の割合が62.5%だな。数字にするとアンバランスだよな」
「今はそうですが……そのうち平社員の割合が増えますってば……」
「気づいたら全員が管理職になっているかもよ」
神宮寺はケッケッケと笑いながら、少しも笑えない冗談を返してきた。
下っ端の俺が管理職になったところで、管理する対象がないのだが……。
「でも仕事の終着点って何なんだろうな〜。全員がジジババになるまで働いて税金を納めることなのかな〜」
「それ以外の道だと早期退職……アーリーリタイアですよね」
「そうそう。でも期待するほど楽しくはないらしい」
かつて社長がいっていたな。
会社を清算して、南の島で暮らす、みたいなことを。
一見すると極楽浄土なのだが、あまり刺激がなさそうだし、社長の性格からして、一ヶ月くらいで飽きるような気がする。
「まあ、いいや。いずれ最後の出勤日が来るから、それまで腐らず前向きに生きよう。……ていうか、今日は上司たちが寝落ちしそうだな。ありゃ、放っておくと三分くらいで寝るだろ」
姫井はさっきから何回もあくびを噛み殺している。
昨晩はあまり眠れなかったようだし、イライラしている様子が俺の位置からでもわかった。
社長だってそろそろ限界らしく、あまり指が動いていない。
本人も不調を自覚しているらしく、しきりに瞼をこすっては、む〜う〜、と動物のように唸っている。
「あいつら、風邪引かねえかな。睡魔がキツそうだしな」
ひとり神宮寺だけは絶好調らしく、仕事のギアを上げて、ガリガリと手を動かしてから、
「よし! 一丁あがり!」
と威勢よくキーボードを叩いた。
「残りは家でやろっかな〜。ゆり姫は私が連れて帰るから、いのりは須田ちゃんが連れて帰りなよ」
俺がもうひと頑張りしようと考えたとき、思いがけない提案をされる。
「神宮寺さんは帰るのですか?」
「須田ちゃんだって疲れただろ?」
「まあ……それは……」
無理をしても良いことはないぜ。
トコトコと席を外した神宮寺の背中にはそういうメッセージが込められていたと思う。
「おい、ゆり姫」
はっと我に返った姫井のおでこを、神宮寺の指がツンツンする。
「もう眠いから。今日は帰ろうぜ」
「まだやるべきことが残っています。それにこのくらいの眠気は平気です」
そういう姫井の声にはたっぷりと疲労が滲んでいる。
「違うよ」
神宮寺は勝手に姫井のスクリーンの電源をオフにした。
「私が眠いんだよ。だから帰るぞ」
「理解できません。なぜ神宮寺さんが眠いからといって、僕まで仕事を切り上げる必要があるのでしょうか……」
「だって帰る方向が同じだろ。一人で帰ったら電車の中で寝落ちして、降りるべき駅で寝過ごすかもしれないじゃん」
「とんでもない理由ですね。神宮寺さんらしい。まあ、いいでしょう」
姫井はクスクスとお姫さまのように笑ってから、
「ファイルの保存だけさせてください」
といってスクリーンの電源をオンに戻した。
神宮寺は眠くないくせに……。
姫井のために嘘をつくなんて……。
相手のプライドを傷つけない、むしろ花を持たせてあげる、そんな神宮寺は心のイケメンだと思う。
次は俺の番だ。
「社長、社長」
ブース席に忍び寄って、小声で呼びかけてみる。
「ふえ? マサくん?」
「もうすぐ十一時ですし、そろそろ帰りませんか?」
「う〜ん……でも……どうしよっかな……」
ツインテールの毛先をいじくりながら、かなり迷っている様子だ。
「まだ月曜日ですから。無理はしないでおきましょうよ。ちゃんと休んだ方がいいです」
「それもそうだね」
もっともな正論で丸め込んでおいた。
「俺が最終退室の準備をしておきます」
プリンターの電源を落とす。
窓の錠をチェックしておく。
会社の代表電話を夜間モードに切り替える。
最後にすべての照明を消してから、オフィスの玄関を閉めておいた。
「社長、須田くん、お疲れ様でした」
「また明日な〜」
駅の方面へと去っていく姫井と神宮寺を見送ったとき、社長が特大のあくびをもらす。
「ね……ねむい……」
「俺が背負いましょうか?」
「いや、自力で歩くよ。さすがに……」
社長が転んで傷つかないよう手を引きながら、家までの道をとぼとぼと歩いていった。
……。
…………。
俺が入眠しかけたとき、コンコンと扉を小さくノックする音がした。
「マサくん、もう寝ちゃった?」
「いや、起きていますよ」
少しだけ開いたドアの隙間から、クリーム色のパジャマに身を包んだ社長が、不安そうな顔をのぞかせている。
「なんか眠れないよ〜」
甘えるような声で不眠を訴えてきた。
その胸にはテディベアのぬいぐるみを抱きしめており、普段よりも幼気な印象を受ける。
「退社時はかなり眠そうにしていましたけれど……」
「そうなんだけど! いざベッドに入ると眠れないの!」
俺はやれやれと首を振った。
きっと仕事で頭を使いすぎたから、脳みそがオーバーヒートして、思考がぐるぐるしているのだろう。
しかし困ったな。
俺にできることは限られている。
「一緒に寝ますか?」
黒髪ロングが嬉しそうにコクコクと揺れた。
「では社長の部屋へ移動します」
一緒に寝るといっても一枚の布団で寝るわけではない。
そんなに密着したら逆にこっちが眠れなくなるだろう。
俺は布団ごと社長の部屋へと移動し、床の空いたスペースに敷かせてもらった。
気分だけはお泊まりという感じである。
「距離が近いといいね。心が落ち着くね」
「俺もです。社長の部屋はいい匂いがしますから」
「そうかな? ちょっと恥ずかしいな……」
「この世で一番好きな香りの一つです」
「やだ〜。照れちゃうよ」
無言の時間が三分くらい訪れる。
「そういえば社長……」
呼びかけても返事がない。
まさかと思った俺が顔をのぞき込んでみると、か細い寝息が聞こえてきた。
「もう寝てる」
とても愛くるしい寝顔が暗闇の中でもわかる。
自分の部屋に帰るべきか迷ったが、物音で起こすとやぶ蛇なので、けっきょく社長の隣で夜を明かすことにした。




