102 遊び心
午後八時のオフィス街。
俺は牛丼チェーンの袋を両手に持ち、駅へ流れていく人波に逆らいながら、会社までの道を急いでいた。
牛丼の並盛りが一つ。
牛丼のミニ盛りが七つ。
生野菜のサラダが八つ。
お代は社長のポケットマネーなのだが、先輩たちが頑張っているのかと思うと、申し訳ない気持ちが半分、ありがたい気持ちが半分になる。
『あまり考えたくないが、最悪、カノープスへ派遣される事態も想定しておけよ』
神宮寺からはそう釘を刺された。
『武者修行みたいなものさ。向こうの方が仕事はキツそうだしな。さすがに一年は長いから、半年に減らしてもらうとか、加賀ちゃんとローテーションしてもらうとか、私からも交渉してみるけれども。……とにかく須田ちゃんがいないと困るから』
あとカノープスの傘下に入るみたいで嫌だし……。
華麗な指さばきでキーボードをタイプする先輩の横顔には、そんな感情がありありと浮かんでいた。
俺は七階のオフィスへと戻り、皆の席へ丼を配っていった。
社長と姫井は会議室にこもっており、一言声をかけてから、給湯エリアに二人分の牛丼を置いておいた。
「牛丼か〜。なぜか社長命令で残業した日は牛丼だよな〜」
神宮寺が割り箸を割りながらいう。
「昔からの習慣なのですか?」
「そうそう。須田ちゃんが入社する前は、全員が当番制で買いにいったな。うちの会社はフェアだからね」
俺は和風ドレッシングをまぶしたサラダを一気にかき込む。
「須田ちゃんって数学は得意?」
「いえ、文系出身なので。神宮寺さんは理系ですよね?」
「得意とか不得意とかないけどね。全国模試とかIQテストのグラフ。きれいな五角形にするのが好きだったよ。今思うと変なこだわりだけれども……」
レーダーチャートのことか。
さぞ面積が大きな五角形だったのだろう。
「小学校の二十五メートルプールがあるじゃん。あれって横幅がマチマチなんだけど、プール一杯分の水があれば、牛丼二百杯をつくるのに必要な水に相当するんだ」
「仮想水……バーチャルウォーターってやつですよね」
「よく知ってるな。さすが須田ちゃんだ」
懐かしい塩素の匂いが鼻の奥に蘇ってきた。
「ここからが本題なんだけれど、プール一杯分の水道代っていくらだと思う? ざっくり三十万円くらいだ。つまり水泳の授業はまあまあリッチな時間ともいえる。学校の先生は教えてくれなかったけどね」
三十万円……。
それを二百杯で割ると……。
「ありえない話なんだけど、牛丼一杯つくるのに必要な水を、すべて日本の水道水でまかなったら、それだけで千五百円くらいするんだよ。突っ込みどころが多いのはわかる。牛肉なんて完全に外国産だからね。米や玉ねぎだって雨水で栽培するし。……でも雨の少ない土地で牛丼一杯を食べたかったら、平気で三千円くらいするんだよ。そんな話を過去にいのりから聞いたな」
俺の手元にある牛丼、その米の一粒一粒までもがとても貴重なものに思えてくる。
「あの日食った牛丼が私の人生で一番おいしかったな。うちの社長にはそういう魅力があるんだ。遊び心とか想像性とか。それがルカにゃんにはない。頭がいいからね。すべて理詰めで解決する。遊ぶ必要も想像する必要もない。何が正解なのか直感でわかるから。元から答えを知っているともいえる」
時々、神宮寺はすべてを見透かしたようなことをいう。
瀬古いのりのことも。
流川マキのことも。
それぞれの個性を対比させることによって、俺が知らない人物像を浮き彫りにさせてくる。
「いのりは不完全だ。もしかしたら社長として不適合かもしれない。でも私はいのりと手を結んだ。好きだから。居心地がいいから。それが大前提なんだけど、それだけじゃない。……気になるし応援したくなる。……別にいのりが完璧じゃなくてもいいんだ。例えば野心が欠けている。これは社長として致命的だ。でもゆり姫という部下がいて、そいつがなかなかの野心家だ。だったら良しとする。ゆり姫だって批判を覚悟であのキャラクターを演じている。それが社長や組織のためになると本人は確信している」
いつのまにか神宮寺の容器は空になっていた。
俺は仕事に取りかかった先輩に追いつくべく食べるスピードを加速させる。
「それにリーダーが困っていると助けてあげたくなるんだよ。いのりはよく困る。ルカにゃんはあまり困らない。不思議な話なんだけれど、滅多に困らないリーダーというのも困り者なんだ。少なくとも私にとってはね。……誰だって社会や組織から必要とされたい。理屈とか理詰めじゃなくて。私がいのりの下で働いている理由を言語化すると、そんな感じになるかな」
「その話、社長や姫井さんにも聞かせてあげたいです」
「あいつら、すぐ調子に乗るからな〜」
神宮寺はよく陰で人を褒めるし、不平不満を訴えるときだってユーモアを取り入れてくる。
そんな人物が大親友でありビジネスパートナーである社長は、経営者として恵まれているなと、俺は牛丼の残りを平らげながら考えた。




