010 チョコレート
オフィスの時計が15時00分を指したとき、俺は腰の凝りをほぐすため、自席でストレッチをしていた。
右から左。
左から右。
また右から左へと。
軟体動物のように体をくねくねと曲げる。
「あの~」
「は、はいっ!」
完全に油断していた俺の肩がビクリと震える。
「お忙しいところすみません!」
申し訳なさそうな顔をした派遣社員の女性が立っていた。
「こちらこそ! 変な動きをしてすみません!」
「いえ……これを」
そういって差し出されたのは小さな紙袋である。
おしゃれなチェック柄であり、ラッピングされた箱の一部がのぞいている。
もしかして俺へのプレゼント?
「先週旅行へいったときのお土産です。チョコレートボックスですので、会社の皆さんで分けてください」
だよな……。
個人的なプレゼントではないと知って、皮肉なことに心拍数が落ち着いてくる。
「ありがとうございます。旅行は楽しかったですか?」
「ええ、とっても。休暇の許可をいただきありがとうございました。お陰で今日からまた頑張れます」
「その言葉、うちの社長に伝えておきます。きっと喜んでくれますよ」
女性からもらったのは八個入りのチョコレートである。
ホワイトチョコ。
ダークチョコ。
トリュフ。
オレンジ。
レーズン。
などなど。
会社のメンバーは八名。
だからチョコレートも八個入り。
こういう気づかいは正直いうとありがたい。
俺はまっさきに社長の席へと向かった。
「いのり社長、いま声をかけても大丈夫ですか?」
「ん? どうしたの? いつでも声をかけてくれてOKだよ」
「派遣さんから旅行のお土産です。『休暇の許可をいただきありがとうございました』だそうです」
「ああ……」
社長が作業していた手をストップさせる。
「休むときは休まないとね。へえ~、チョコレートボックスか。フレーバーが八種類もあるんだね」
「好きな味を取ってください」
「私が一番はじめに選んでいいの?」
「社長が選んだあとじゃないと、他の社員は手をつけにくいですから」
「なるほど、ね」
社長は猫のようにじいっと箱を見つめた。
その指がとまる。
「じゃあ、レーズンをもらおうかな」
「どうぞ」
社長は銀紙に包まれていたチョコを取り出してから舌の上で転がした。
甘くておいしい。
幸せそうな顔にはそう書いてある。
それから他の社員に声をかけていった。
「じゃあ、トリュフをいただきます」
「あっ、取られた。それじゃ、私はオレンジをもらおうかな」
すぐにチョコレートの争奪戦が始まる。
お土産が好評なようで何よりといえるだろう。
最後まで残ったのはダークチョコだった。
予想はしていたけれど甘くないから当然といえば当然か。
俺はカカオ成分72%のチョコを口の中へと放り込んでから渋面をつくった。
「こりゃ、大人の味だよな」
孤独だな。
成人男性という生き物は。
ふとした瞬間に悲しくなる。
一粒だけ残ったダークチョコに己を重ねるという発想が出てくるくらいには。
「ダメだ……集中しないと」
成人男性には一つだけNG行為がある。
俺も幼女になれば良かった……。
それなら皆と一緒で気楽だったのに……。
そう思った瞬間にメンタルをどんどん蝕まれるらしい。
幼女の人生への憧れ。
それを断ち切れない男子が一定数いるのだ。
「俺は男だぞ……俺は男だぞ……」
右手にぎゅっと力を込めて仕事のやる気を取り戻す。
「ん?」
30分くらい経過したとき、社長の様子が何だかおかしいことに気づいた。
パソコンに向かって作業しているのだけれども、体が前後にフラフラと揺れている。
もしかして風邪なのか?
お昼を一緒に食べたときは元気一杯だったのに。
「……」
誰もこの異変に気づいていない。
俺は居ても立ってもいられなくなり、そっと席を外した。
「いのり社長、体がダルそうですが、悪いところでもあるのですか? 必要なら俺が飲み物を買ってきますが?」
「う~む、マサくんか……。体がちょっとだけ熱い。あと頭がクラクラする。たぶん顔も赤いな」
「少し休んだ方がよくないですか? 無理はしないでください」
社長の額に触れてみた。
微熱のボーダーラインを超えていそうだ。
「……ちょこ」
「チョコですか?」
「やってしまった。これは完全に自業自得なのだよ」
デスクの上にはチョコレートの銀紙が残っている。
よく見ると注意書きがプリントされていた。
『この製品にはアルコールが含まれています。小さいお子様やお酒の弱い方は注意してください』
風邪じゃない。
社長は酒で酔っているのだ。
「マジですか?」
「たぶん……認めたくないが……」
困惑しているのは俺だけじゃない。
『小さいお子様』
そう認定された社長も戸惑っている。
原因はレーズンに含まれるラム酒であろう。
幼女化する前はそれなりのアルコール耐性があったのに。
あと弱っている社長もなかなか可愛いな。
リンゴみたいに赤くなった目元がちょっと色っぽい。
「そんなに酒が強烈でしたか?」
「普通のラムレーズンだと思うのだが……」
「でも、十分酔っていますよね? この状態で仕事をするのは難しくありませんか?」
「くそ、ひ弱な体が恨めしい。まさかチョコレート一個で戦闘不能になるなんて。無念だ……実に無念なのだ……私はすごく歯がゆいぞ」
「……それは心中をお察し申し上げます」
俺が助けるべきか?
先輩たちの助けを借りるべきか?
判断に迷っていると、社長にがしっと手を握られた。
「休憩エリアまで連れていってくれ。他の社員にはバレないように。これは社長命令だ。マサくんの全身全霊をかけてほしい」
「正々堂々と休んだ方が良くないですか? だって一種の事故じゃないですか? 周りに隠す必要はないと思いますが?」
「ちょっと休んだら回復する。この程度のことで皆を動揺させたくない。いいか? 一軍の指揮官が陣中で泥酔したのだぞ。これは全軍の志気にかかわる一大事なのだ」
先輩や派遣さんに恥ずかしい姿を見られたくないだけなんじゃ……。
そんな俺の予想を肯定するように、
「慎重かつスピーディーに頼む。マサくんの体で私を隠しながら」
社長はただでさえ赤い顔をさらに赤くした。
もし手元に鏡があれば見せてあげたい。
社長はもうちょっと自分の可愛さを自覚すべきだ。
「わかりました。協力します」
『休憩エリア』なるものがこの会社にはある。
小さいテーブルとソファだけを配置した、周りから隔離された空間だ。
利用は自由。
時には仮眠することもある。
この時間帯なら他の誰かが訪れることはないだろう。
「じゃあ、行きますよ」
俺と社長は互いの手を握る。
イチ、ニイ。
イチ、ニイ、と。
なるべく足音を立てないように休憩エリアまで移動した。
「……」
黙々と仕事をこなす社員たち。
いずれの目もパソコン画面に釘づけであり、社長が離席したことにすら気づいていない。
「到着しましたよ」
ソファに体を横たえた社長がふうっと一息つく。
俺はその上から洗濯済みのブランケットをかぶせてあげた。
「あと30分したら呼びにくる感じでいいですか?」
「よろしく頼む。社の皆には『郵便局へ出かけた』と伝えておいてくれ」
「うわべを飾る必要がありますかね? 身内でしょうに? 誰も責めないんじゃ……」
「だって、恥ずかしいじゃない。チョコレートで酔っ払ったなんて。しかも業務時間中だよ。絶対に笑われちゃうよ」
「まあ、そうですね。社長は乙女ですものね。デリカシーがなくてスミマセン」
「ごめん。なんかマサくんに八つ当たりしちゃって」
社長はしょんぼりする。
心なしかツインテールも元気がない。
「いえいえ。ショックなのはわかります」
俺は弱っている社長の頭をポンポンしておいた。
「もう一回やって」
「いいですよ」
少しでも元気になってほしい。
そういう気持ちを込めてポンポンした。
「もう一回」
ポンポン。
ポンポンポンポン。
「落ち込んでいるときに好きな人からポンポンされると嬉しいよね」
「えっ、俺のことですか? 好きな人って?」
「マサくんは私の家族同然だから」
俺の胸がドキッと高鳴った。
弱気になっている社長から家族宣言をされると、つい真に受けそうになる。
「また起こしにきます」
「よろしく頼む」
そんなに頭ポンポンは気持ちいいのだろうか?
俺は自分の手で自分の頭をポンポンしながら席まで戻った。




