001 夜明け前
およそ一年前。
……。
…………。
はじまりは一本の電話だった。
その夜はアルコールで意識があやふやだったことを覚えている。
「……うぅ、こんな時間に……」
枕元に転がっているスマートフォンに手を伸ばす。
いまの時刻は4時12分。
そしてディスプレーには『社長』の二文字。
俺の感情を逆なでするように、バイブレーターは忙しく振動する。
まだ新聞配達も始まっていない時間じゃないか。
せめて六時……いや五時くらいまで寝かせてくれたらいいのに。
「……はい、須田です」
蚊の泣くような声でいう。
喉だってガラガラだし、気絶しそうなほど眠いのだ。
「あ、マサくん」
「……」
俺はごくりと生唾を飲んだ。
女の子の声がしたからだ。
深夜。
年下の女性。
その二点だけでもまあまあ理解できないのに、電話口からは『マサくん』という可愛らしい呼び声がする。
「寝ているところゴメンね」
「……」
「あれ、聞こえてる?」
「……」
知らない声の持ち主が『もしも~し』と呼びかけてくる。
俺はもう一度ディスプレイを見た。
やはり社長の番号だ。
なんだか変なやつがいる。
どういうわけか社長の電話から掛けている。
もう少し好意的な解釈があっても良さそうだが、それがアルコールに侵された頭の限界だった。
「すみませ~ん、間違いだと思います」
「あっ!」
一方的に終了のボタンを押した。
これで万事よし。
俺は布団のなかに潜り込む。
すると十秒後にスマートフォンが振動した。
ようやく寝られると思ったら、次はSNSのメッセージらしい。
『お~い、マサくん。起きているよね?』
俺はやれやれと首を振ってから、返信のメッセージを打ち込んでいく。
『何でしょうか?』
『良かった。起きていたか』
『緊急のトラブルでしょうか?』
『う~ん、トラブルといったらトラブルなんだけれど……。何と説明すればいいのやら……』
ぞくり、と背中に悪寒のようなものが走った。
どうやら社長の身辺で何かが起こったらしい。
そして抜き差しならない状況に追い込まれたようだ。
もしかして財布を失くして家に帰れないのか?
あるいは病院に運ばれたのか?
たしか昨夜はかなり酔っていたはず。
部下に連絡するくらいの余裕はあるから、大怪我はしていないと信じたいのだが……。
そういや飲み代の一万ウン千円を払ってくれたのは社長だっけ?
純粋にすごく部下想いの人だと思う。
というか同じ社会人として尊敬する。
『ちょっとテレビを観られるかな? どこのチャンネルでもいいけれども』
次のメッセージが送られてくる。
『テレビですね? 了解です』
埃をかぶったリモコンのボタンを押した。
液晶の画面が鮮明になったとき、寝落ちしそうな俺の視界に、緊急速報、という文字が飛び込んでくる。
「なんじゃこりゃ~!」
俺の眠気は一瞬にして吹き飛んだ。
世界の各地でパンデミックが発生したらしい。
すでに確認されている被害は数億人、それがハイペースで増加中だという。
混乱しているのは政府機関だけじゃない。
ユニセフ。
平和維持活動(PKO)。
世界保健機関(WHO)。
世界銀行。
その症状は……。
インフルエンザでも、ペストでも、コレラでもなくて……。
『こちらはアメリカ合衆国のxxxx州にある刑務所です。いま現地時刻は夕方の六時です。男性の受刑者のみを収容している施設なのですが、女の子たちで埋め尽くされています』
柵。
鉄条網。
高いフェンス。
その中にいる幼女、幼女、幼女たち。
映画のワンシーン……といわれても衝撃である。
これが現実といわれたら、もっと理解できないわけであって……。
『信じられません! あそこは本来ならば看守たちが詰めている部屋なのですが、そこにも女の子と思しき姿が見えます。いったい何が起こったのでしょうか? 大統領が外遊先のヨーロッパから緊急帰国したという情報が入りました。これからホワイトハウスでは……』
女性リポーターが熱の入った実況をしている。
俺はショックのあまりリモコンを落とした。
世界のいたるところで成人男性の幼女化が起こっている。
そして日本も無縁ではない。
社長が伝えたかったのはこのニュースか?
念のため……そう思ってチャンネルを切り替えてみたが、どこの局も混乱の様子を伝えるのが精一杯のようだ。
『落ち着いてください! 慌てないでください! 幼女化したとしてもあなたは生きています! 繰り返します! 軽率な行動は必ず慎んで……』
別のチャンネルに変えてみる。
『連邦政府からの声明文が発表されました。これは人民の命を狙ったテロ行為ではありません。諸外国によって意図された無差別攻撃でもありません。被害状況の確認のため、これから災害対策チームでは……』
思考を整理するためテレビを消してみた。
社長は俺のことを心配してくれたのだ。
いや、俺だけじゃない。
他の従業員にも片っ端から電話をかけているだろう。
社長としての使命感。
部下想いのあの人なら自分の心配よりも仲間の心配をするだろう。
それなのに……。
俺は睡魔に負けてしまって……。
パンパンと頬を叩いてから、スマートフォンを手に取った。
迷うことなく社長の連絡先をタップする。
「俺です。須田です!」
「ああ、マサくん。よかった。その声ってことは、まだ男の肉体のままなんだね?」
「ええ、俺は変わりありませ……」
いま何といった?
その声といったよな。
「この声は社長なのですか?」
「う~ん、頭が痛くて寝付けなかったから、トイレに行ったんだけどね。服はぶかぶかだし、下半身にアレはないし、色々と状況を飲み込めていないんだよ」
「そんな……」
俺は動揺のあまり返すべき言葉を失ってしまう。
「これから日本もパニックになると思う。回線だってパンクするし、インターネットも使えなくなるかもしれない。インフラが復旧するまで自宅待機だ。危険だから無暗に外出しない方がいいだろう」
幼い女の子の声。
それなのに受け取った指示はとても的確。
「……わかりました」
「とにかくテレビの情報には注目してくれ。いまのところ死者が出たというニュースはない。もし生きていたら会社で会おう」
ぷつん。
断線するような音とともに社長との会話は終了する。
社長の声……。
ちょっと可愛かった……。
一瞬でもそう考えてしまった俺をポカポカと痛めつける。
「違うだろ……だって会社は……他の先輩は……」
どうしちまったんだよ、この世界は。
俺は年甲斐もなくベランダの窓を殴打した。
…………。
……。
それから一年近い歳月が流れる。