8 待ち人
常連である宿屋のおかみさんに手を振って見送っていたマリオンは、背後から名前を呼ばれて振り返った。
くすんだ黒服を着た顔見知りの青年が、遠慮がちに微笑みながら立っている。マリオンは笑顔を返して挨拶をした。
「こんにちは、ムッシュー・クレマン」
彼は紳士と言える身分ではないが、マリオンはいつも敬称で呼んでいる。黒服を着ている人にはそうしなくてはいけないと思っているからだ。彼自身はしがない中学教師だと宣っているが。
「あっ、ごめんなさい。今日の花束はさっき売り切れてしまったんです」
いつものように花を買いに来てくれたのだと思ったマリオンは困り顔で謝った。
「ああ、いや、いいんだ。近くまで来たものだからなんとなく寄ってみただけで。今日は別に花はなくてもいいんだ」
「よかった。じゃあ、また入り用の時は来てくださいね」
売り子らしく愛想よくご贔屓にと言うマリオンに、彼はもちろんと請け負う。
「ところでこの前、ここで君の知り合いの煙突掃除の少年が怪我をしたんだってね。大事なかったのかい?」
「大丈夫です。ここでじゃなくて仕事中に怪我をしたんだけど、すぐに治ったようですから。そんなに騒ぎになったのかしら?」
「いや、そんなことはないよ。ただその時、たまたまこの近くに来ていたんだ。君が煙突掃除の少年を運んでほしいと頼んで回っているって耳にしたから、心配していたんだ。私はちょっと協力できなかったからね。でも命に別状がなくて本当によかったよ」
人のよさそうな顔で安堵の息を吐くクレマンに、マリオンは曖昧な笑みを見せた。
「しかしそれにしても彼らの扱いはいつまで経っても改善しないね。私は常々、あの子たちの待遇をよくするべきだと話しているし、学校でもお金に困っているとしても煙突掃除人には、なってはいけないと言っているんだが、一向によくならない」
マリオンは首を傾げて疑問を表したが、口には出さなかった。
彼はよく煙突掃除の少年の境遇を気にかけているが、この下町で、子供の仕事として煙突掃除が取り分けて厳しいものだというわけではない。
大きな蒸気機関を導入した繊維工業が年々増えていて、そこでは女子供が過重労働で多く雇われているのだ。この工場では機械で怪我をすることだってままある。
ただ煙突掃除人は全身煤だらけなので、街を歩いているだけで一目でそれとわかってしまう。そのせいで迫害の対象にもなってしまうのだ。
だからクレマンが煙突掃除人を特に気にしているのはまだ理解できなくもないが、生徒たちにその仕事をするなと言い聞かせるのはよくわらない。
彼が教えている中学は、金持ちの婦人の慈善事業で成り立っているような学校ではなく、小金持ちの家の子供が将来良い職に就くために通う寄宿学校だ。そんな学校に入っている子供は、いくらお金に困っていても、煙突掃除人にはならないだろう。
マリオンには理解しにくいことを、彼はよく口にする。
「あんな仕事は無くなってしまえばいいのにね。本当に心からそう思うよ。街で彼らを見かける度に、胃が痛くなってしまうんだ。何もできない自分も情けなくなるよ」
「そうですね……」
「もういっそ悪魔に願いをかければいいんじゃないかって思いもするんだ。人間がいくら努力してもできないことだって、悪魔なら叶えられるかもしれないとは思わないかい?」
目を見開いてマリオンは呆然とした。
「悪魔に……ですか?」
また悪魔だ。
なぜこの一日や二日でこうも何度も耳にしてしまうのか。
「そうだよ。私は常々おかしいと思っていたんだ。悪魔は魂を引き換えにするのだとしても、願いを叶えてくれる存在のはずだろう? 悪い願いばかり叶えているように思われているが、悪魔に唆された人間が強い意思を持って真っ当な願いを口にすれば、良い願いだって叶えてくれるはずじゃないか」
悪魔が良い願いなんて叶えてくれるのだろうか。
そんな疑問を持ったが、マリオンは一番に気になることを尋ねた。
「でも、魂を取られて……死んでしまうんですよ?」
「命と引き換えに一事を成すのも悪くないと思わないかい? 街中の不幸な子供たちを救うには、それくらいの覚悟がないとね」
にこやかに言うクレマンはふざけてはいないものの、冗談を口にしているようにしか思えない。それにしては質が悪いが。
彼と話していると、マリオンはいつも感覚のズレというものを感じてしまう。
「それは素晴らしいですね、ムッシュー」
どう答えたらいいのかわからなくなったマリオンは、思わず物売りの常套句が口から出ていた。
それからいくつか言葉を交わし、クレマンと別れるとマリオンはふうっと息を吐き出した。
何だか誰かとつまらないお喋りをしたくなった。
暇そうな人がいないだろうかと辺りを見回すと、古本屋の壁に寄りかかって通りを眺めている人物をがいる。
夕日色の髪の彼は、人待ち顔で煙草を吸うでもなく、ポケットに手を突っ込んでいた。
マリオンの気分は急浮上した。
「カルヴィン!」
呼び掛けと同時に、カルヴィンが身構えるようにこちらを向いた。暴走馬車が来たと言われたかのような反応だ。
しかしそれぐらいではマリオンの気持ちに水を差すことはできなかった。昨日とは違い、彼はほぼ確実にマリオンに会いに来てくれているはずだからだ。理由が何であれ。
駆け寄ったマリオンは、カルヴィンが後退しようとする目前で立ち止まった。
「来てくれたの、ありがとう! あ、わたしに会いたくて来たんじゃないのはわかっているから、心配しなくても大丈夫よ。でもわざわざ来てくれてありがとう。用があるのよね。わたし、あなたに協力できることがあるなら、何だってするから、何でも言ってちょうだい」
「他人に何でもするとか言うなよ……」
いろいろと言いたいことはあったが、カルヴィンは男なのでまずそこに反応してしまう。
協力を惜しまないぐらいの意味合いで言っていたマリオンは、自分の失言に気づいて狼狽えた。
「いえっ、あの、誰にでも言っているわけじゃないわ、カルヴィンだけよ。本当よ」
呆れられたと勘違いしたマリオンは、軽い女だと思われたくなくて検討違いな弁明をする。
必至な表情で訴えるように言われたほうは堪らない。おまけにマリオンはアルノーが言っていたように、可愛らしい顔立ちの少女なのだ。そんな少女が、何でもする、カルヴィンだけ、と言っている。
カルヴィンは今日、ここに来るまでに、絶対に冷静な態度を貫こうと心に決めていたはずなのだが、呆気なく崩されてしまった。
「そういうことじゃない!」
鋭い目の下が、赤く染まっていた。
「えっ、あっ、ごめんなさい!」
マリオンの頬もつられて赤くなる。好意をまったく隠さないマリオンだが、恥じらいはあるのだ。下町に住んでいれば女性から男性に、そんな言葉でいかがわしいお誘いをすることがあるというぐらいの知識はある。
だが若い男女が人通りのある場所で、少しばかり大声を出していれば、やはり注目を浴びてしまうものだ。
カルヴィンは古本屋の店主が興味津々といった顔で、扉の隙間からこちらを窺っているのを見て、しまったと思った。
素早くマリオンの腕を掴んで、ボソリと呟く。
「移動するぞ」
「えっ、あの」
マリオンは大股で歩く彼に引きずられそうになりながら後を付いていった。
忙しなく人が行き交う通りを進みながら、カルヴィンはどうするべきかと悩んでいた。
マリオンと話がしたいが、この辺りでゆっくり話ができそうな場所は、酒場か公園ぐらいしかない。しかしまだ日中とはいえ、彼女を酒場に連れて行くのは気が引けるし、公園へ行こうと言うのはデートに誘っているかのようだ。
とはいえ、選択肢はこの二つしかない。カルヴィンはそろりとマリオンに視線を向けた。
「きゃあ!」
マリオンがカルヴィンの足に足を引っ掛けてつんのめった。カルヴィンが急に立ち止まったからだ。
倒れそうになるマリオンの肩をカルヴィンが支える。細身のマリオンは難なく姿勢を正された。
「……すまない」
「え? いいえ、大丈夫よ。支えてくれてありがとう」
カルヴィンは気まずげに目を逸らした。
急に立ち止まったことも悪いと思っているが、そのことについて謝ったわけではなかった。早足のカルヴィンに引っ張られていたマリオンが、息を切らしながら小走りで付いて来ていたことに対してだ。
気が利かないどころではない。育ちが良いわけではなくとも、表向きは女性には優しく、というが世間一般の常識だ。こんなことをすれば、相手の女性は普通は憤慨するものだ。
カルヴィンはマリオンを見た。彼女はカルヴィンが正面から見る時はだいたいそうであるように、少し嬉しそうな顔をしていた。
「……公園へ行って話をする」
覚悟を決めてしまったカルヴィンは、そう口にした。
しかしマリオンはあっさりと頷く。
「わかったわ」
予想していたような反応は一切なかった。たとえば、デートみたいだとはしゃぐような。
何でそんな可能性を考えてしまったのか。カルヴィンは自分が馬鹿馬鹿しくなった。
こっそりため息を吐きつつ、気を取り直して腕を差し出した。掴めという、ごく普通の意思表示をしただけなのに、マリオンは不思議そうに腕とカルヴィンの顔を交互に見る。
「……あんたの歩調に合わせる」
今更なので言葉にするのは格好が悪かった。
しかしマリオンは軽く目を見張った後、カルヴィンが固まってしまうくらいに、目を輝かせてとても嬉しそうに笑った。
「ありがとう」
照れたようにはにかんで、カルヴィンの肘をそっと掴む。
カルヴィンはその場にうずくまりたくなった。
「何なんだ、あんた……」
「え?」
彼女の思考がまるでわからなかった。そこは喜ぶところじゃないだろうに。
カルヴィンの呟きが聞こえなかったらしいマリオンは、どうしたのかと言いたげな顔をしている。
「……何でもない」
とにかくこれ以上はみっともないところを見せたくはなかった。
カルヴィンは元々悪い目付きをもっと悪くして、散歩を楽しむ人々のいる公園へ向かった。