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ソワレと灯火  作者: 山吹ミチル
一章
7/43

7 街灯の明かり

 何度も窓の外の景色を確認していたマリオンは、滞りがちだった手の動きを完全に止めてしまった。

 ギシギシと軋む古い木の椅子から立ち上り、普段よりも進みの遅い、作りかけのレースのリボンを座面に置く。そして窓から身を乗り出すと、我に返って隠れるように隅へ寄った。

 遠くにいくつか見えるだけだった美しい街灯が、数えられないくらいに増えて、マリオンの部屋の近くまで来ていた。

 空を見上げれば薄ぼんやりとした闇に包まれている。


 黄昏(ソワレ)。あらゆる魔法シャルムの力が強くなると言われる、昼中と夜中の狭間の時刻。

 この時に灯し人は悪魔から人間を守るための火を灯す。

 まじないの火、その力をより強くするために、灯し人は普段とは別人にならなくてはいけないのだ。悪魔を遠ざけるほどの力を持つ灯し人という存在に。今よりもずっと昔、夜の闇がもっと深かった頃は、灯し人とはそういう特別な存在だった。

 現在はガス会社の人間にすぎないが。


 マリオンは彼が点火棒を携えて、通りの向こうからやって来るのが視界に入ると息を潜めた。

 真面目に仕事をしている彼は、早足でピンと姿勢を正して歩いている。そしてガス灯があるマリオンの部屋の真下で立ち止まった。

 点火棒が動くとマリオンは息を潜めて耳をすます。

 ポッという微かな音が響いた。

 ただガス灯が灯るというそれだけの光景を、目の前で見られたことが嬉しくて、マリオンは口の端を上げてカーテンの陰から姿を現した。


「こんばんは、灯し人さん」


 仕事を終えた彼に声を掛ける。

 予想していたのか、今日の彼は動じずにゆっくりと顔を上げた。表情は相変わらずカスケットで見えない。


「……こんばんは、お嬢さん(マドモアゼル)


 マリオンは花開くように笑った。


「ねぇ、今日は月が見えるわね。まんまるの」


 すると彼はこのパリの街自慢の、背が高く洒脱な建築物たちを優雅に見下ろしている白銀の月に視線を向けた。

 まだ夜と呼ぶには早いぐらいの明るさなのに、はっきりとした輪郭を持つ月が見えるのは珍しい。


「そうだな」


 外を歩いていた彼はとっくにその存在に気づいていただろうが、律儀な反応をする。


「ねぇ、月が明るい日は悪魔はあまり姿を現さないのよね。それって不思議だわ。悪魔って美しいものが好きなはずでしょう。月もガス灯もこんなに綺麗なのに、どうして苦手なのかしら」


 答えがほしかったわけではなく、マリオンは疑問を聞いてほしかっただけなのだが、彼はさらりと言った。


「悪魔の棲む世界はほとんどが暗闇に覆われているからだろう」

「そうなの?」


 マリオンは驚いて彼の顔を覗き込もうとする。しかし辛うじて鼻が見えるだけだった。


「さすが灯し人さんだわ。よく知ってるのね」

「……別に灯し人は特別なものなんかじゃない。ただそういう知識だけは教え込まされるってだけだ。役に立ったことはないが」

「そうなのね。でも確かに昔とは違うのだとしても、灯し人さんが悪魔のこと何にも知らないんじゃあ、ちょっとがっかりしちゃうかも」

「……そうか」


 短く相槌を打つ彼はマリオンとの会話を面倒がっているようには見えなかった。しかし、たとえもう仕事が終わったのだとしても、この場所で長話に付き合わせるのは気が引ける。

 マリオンはかなり名残惜しくはあったが、放っておくと喋りだしてしまう口を意識して閉じた。

 僅かな沈黙が落ちる。自分からこの時間を終わらせることは躊躇していると、別れの挨拶の代わりか、彼がカスケットを上げる仕草をした。

 そしてさっさと背を向けて歩き出してしまう。きっとマリオンが喋らなくなったから頃合を見て切り上げただけなのだろう。それでもマリオンは素っ気なくされたように感じてしまって、慌てて声を掛けた。


「お仕事お疲れ様!」


 彼が振り返ることはなかった。でも前を見たまま手をひらひらと振ってくれた。単純なマリオンはそれだけで嬉しくて胸がいっぱいになる。

 膝を落として窓枠に両腕を乗せると、顔を凭れかけさせて彼の後ろ姿を眺める。

 ガス灯の光が作った影が伸びていた。

 彼が角を曲がると少しの間その影だけが、路地に取り残される。その姿まで見送っていたマリオンは、影が不自然に形を変えたのを見て、目を瞬かせた。

 影の色が濃くなってカスケットの部分から何かが生えたかのようだった。

 不思議に思い、野良猫にでもじゃれつかれたのだろうかとあれこれ考える。それにしては耳が細すぎて角のようだった。

 しかしいつまでもぼんやりしているわけにもいかないことを思い出したマリオンは、急いで祖母の手伝いをするべく部屋を出た。





「ねぇ、最近悪魔がたくさん出没しているっていう噂知ってる?」


 翌日、いつものように花畑で作業をしていたマリオンに、ルイーズが声を潜めてそんなことを尋ねてきた。


「え? そんな噂があるの?」


 マリオンが困惑した声を出すと、隣にいたフランソワーズも首を傾げた。


「わたしも知らないわよ」

「やっぱり知らないわよねぇ。あたしも疑ったけど、でもまるっきりのガセだとは思えないのよ。だって知りあいの警察官が教えてくれたんだもの」

「なんで警察官だったらガセじゃないのよ」


 フランソワーズはますますわからないという顔をするが、マリオンは顔を強ばらせて恐る恐る聞いた。


「悪魔に魂を取られたみたいに亡くなった人がいるってこと?」

「そう、それよ!」


 ルイーズはマリオンが正解を出したことに驚いて、潜めていたはずの声を大きくしてしまい、慌てて口を手で押さえた。

 こんな話を大声でしていたら、周りから嫌な顔をされるだろう。


「病気だったわけでもない、怪我をしていたわけでもない人たちが、眠ったまま急に亡くなっているんですって。しかもその人たちの中には、亡くなる前にいきなり金回りがよくなった人がいるらしいのよ」

「それって悪魔に願いを叶えてもらったっていうこと?」

「じゃないのかっていう話よ」

「えぇ……」


 怖くなって肩を震わせたマリオンとは対称的に、おっとりしてはいても現実的なフランソワーズは疑うように眉根を寄せた。


「そんなことが本当にあったならもっと噂が広がっているんじゃないの?」

「そう、そうなのよ。問題は場所なのよね。何でもその変な亡くなりかたをした人たちってマレ地区に住んでたらしいのよ」

「ああ……」


 フランソワーズは納得の声を上げた。

 マレ地区とは下町の中でも特に治安が悪いと言われている一帯だ。

 犯罪が横行していて、マリオンたちのように比較的治安の良い地区の下町に住む娘なら、決して立ち入ってはいけないと言われるような場所なのだ。


「でも……こう言っては何だけど、マレ地区に住んでいたなら、亡くなった原因は悪魔じゃないんじゃないの? あそこは人が急に亡くなってもおかしくはないもの」


 言いにくそうにフランソワーズが告げると、ルイーズも難しい顔をした。


「それよマレ地区の人たちなら原因は悪魔じゃないだろって、亡くなりかたが似ていても違う理由があるんだろって、皆が思っちゃうでしょ? でもそれを教えてくれた警官は、絶対におかしいって言うのよ。あんな魂だけを取られたみたいに死んでるのはおかしいんだって。だからあたし考えちゃったのよ。どっちなんだろうって」


 ルイーズはそこで一端言葉を切って、マリオンとフランソワーズを交互に見た。これからとんでもないことを言うぞと、勿体ぶるような仕草だ。


「これが悪魔とは関係ないただの噂なのか、それともマレ地区では本当はもっとたくさんの悪魔が出没していて、あの場所だからこそ、今まで気づかれていなかったのか」


 ルイーズ自身の顔に恐怖が出ていたからだろう。自分たちが住む街にそんな場所があることを想像してしまい、マリオンとフランソワーズは顔を引きつらせた。


「やだ、ルイーズ。変なこと言わないでよ」

「変じゃないわよ。あたし本気でそう思ってしまって、怖くて仕方なくなっちゃったんだもの」

「で、でも、やっぱりただの噂だと思うわ。だって悪魔はマレ地区にしか行けないわけじゃないでしょう? それなのに同じ場所にばかり集まるなんておかしいわよ」


 必至で否定できる理由を考えてマリオンが言うと、ルイーズは目を細めた。


「おかしくないわよ、マリオン。悪魔だってマレ地区なら、自分たちの所業がバレにくくて仕事がしやすいって気付いたのかもしれないでしょう。それに悪魔に唆されそうな人が多そうだし」

「もう、ルイーズ。そういうことにしてよ」


 無理にでもそう思おうとしていたマリオンは、最もな反論をされて怒る。


「それにあそこはガス灯も少ないものね……」

「おまけに不審死があったって、警察は録な捜査もしない場所よ」

「フランソワーズまで! もう、そんなこと考えるのやめようよ。この時代に悪魔がたくさん出没するなんてことあるわけないよ」


 マリオンは必至で否定した。

 今は産業革命と言われている時代だ。ガス灯のおかげで夜も飛躍的に明るくなっている。街灯が蝋燭を用いたランテルヌ灯しかなかった頃よりも、灯油を用いたレヴェルベール灯だった頃よりもずっと明るくなったのだ。悪魔だってたまには現れるかもしれないが、夜が暗闇に支配されていた暗黒時代とは違う。


「まあ……そうよね」


 フランソワーズが気まずそうに同意した。マリオンをとても怖がらせてしまったと反省したのだ。

 悪魔がたくさんいることにしたいわけではないルイーズも、マリオンの意見に乗っかることにしたらしく頷いた。


「そうね。あたしが悪いように考えすぎちゃっただけよね」

「そうそう。ただまあ……マレ地区には絶対に近づかないようにしたほうがいいわね」


 神妙な顔でフランソワーズが言うと、マリオンとルイーズは揃って賛成した。もともと行ったこともないが、これからは近くに行くのもやめるべきかもしれない。

 そこに住む人には悪いが、ただの憶測であるし若い娘でしかないマリオンたちが、あんな場所でできることなど何もなかった。

 マレ地区にはこれまで以上に警戒する。そう結論を出したマリオンたちは、この話を打ち切った。そしてすぐに違う話題に移って、何事もなかったかのように仕事を続ける。

 しかしマリオンの頭はこの内容を簡単に忘れることができなかった。

 マリオンは取り立てて怖がりというわけではない。

 それでも話を聞いただけで恐ろしくなったのは、昨日アルノーの怪我の原因が、悪魔の仕業かもしれないという話を聞いたばかりのせいだった。

 立て続けにこんな話を耳にしたのは、何か理由があるのか。

 マリオンはとてつもなく嫌な予感がしていた。

 

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