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ソワレと灯火  作者: 山吹ミチル
一章
5/43

5 悪魔の影

「それで話って何?」


 まだ明るいセーネ広場のベンチに片足を立てて行儀悪く座ったアルノーは、カルヴィンに質問した。


「いや……」


 彼はなぜか口ごもり、ちらりとマリオンに目を向ける。するとアルノーの顔が険しくなる。


「何だよ。マリオンが聞いちゃ都合が悪いのか?」


 警戒心を隠さずに問い詰める。

 苦労しているせいでアルノーは大人をほとんど信用していないのだ。いくら恩人であっても、一度会ったきりの相手ではまだすべてを信頼することができないのだろう。

 それを感じ取ったカルヴィンは素早く首を振った。


「いや、聞いてくれていい。ただちょっと変な話なんだよ」

「え? やらしい話?」


 言い辛そうにするカルヴィンに、アルノーは真面目なのか軽口なのかわからない口調で聞いた。


「ちげぇよ」


 呆れ顔で否定するとカルヴィンは諦めたように話を切り出す。マリオンは大人しく聞いておくことにした。


「アルノー、お前この間、煙突から落ちて怪我をしたって言ってたよな?」

「ああ、ちょっと下手打っちまったんだよ。俺今まで一度だって落ちたことないのに」


 悔しそうに言うアルノーに、マリオンはずくりと胸が傷んだが、それを顔に出さないように押し隠す。

 煙突掃除人が煙突から落ちて怪我をするのは珍しいことではない。しかしそれはその時の怪我が大事になることはない、という意味ではないのだ。


「じゃあ、その時に何か変なものを見なかったか?」

「変なもの? ねずみとかクモとかか? そんなもんで今更驚いたりしねぇよ」

「じゃあ悪魔は?」


 とても自然に付け足された名称に、アルノーとマリオンは目を丸くした。


「はあ? 悪魔?」

「かもしれない何かを見なかったか?」


 思わずアルノーとマリオンは顔を見合わせた。


「悪魔ってカルヴィン、そんなもの信じてんのか?」

「えっ、アルノーは信じてないの?」


 当然のようにその存在を否定するアルノーに、マリオンは逆にびっくりしてしまった。


「当たり前だろ。いるわけねぇじゃん、そんなもの。マリオンは見たことあんのかよ」

「えっと……ない、けど」

「いいか、あんなのは臆病者が生み出した幻想なんだよ。暗闇を怖がっているやつが、そこに何かいるような気がして、それを悪魔だの何だの言ってるだけなんだ。シャルムの灯火とか言って街中にガス灯を設置してんのも、ただの迷信だ。悪魔だろうが幽霊だろうが、そんなものはこの世に存在しないんだよ」

「ええ!? でも見たって言ってる人はたくさんいるよ?」


 あまりにアルノーが自信を持って言い切るので、思わずマリオンは反論した。

 マリオン自身が見たことがないのだとしても、悪魔というのは日常的な会話の中にも出てくる存在なのだ。それを信じない人がいるのは知っていたが、面と向かって悪魔の存在を否定されたのは、マリオンにとっては初めてであった。

 アルノーが悪魔否定派だとは知らなかった。


「誰が見たっていうんだよ」

「仕事仲間とか、アパルトマンの管理人のおばさんとか」


 わざとらしくアルノーはため息を吐いた。ちょっとムッとする。


「あんまり人の言うことを鵜呑みにするなよ、マリオン。そんなのは作り話か、見た気になっているだけなんだよ」

「えぇー」


 マリオンが不満を漏らすと、そこに二人とは別の声が微かに聞こえてきた。

 そちらに目を向けたマリオンはぴたっと固まってしまう。

 カルヴィンがおかしそうに笑っていたのだ。

 初めて笑っている顔を見た。何だろう。可愛い。

 心臓をドキドキさせながら、マリオンは凝視していた。

 そんな彼女の様子にはまったく気づかず、カルヴィンはアルノーに話しかける。


「別にいないと思っていてもいいんだが、それっぽいものを煙突の中で見なかったか?」

「それっぽいもの?」

「ああ、とにかく変わったものだよ」


 するとアルノーは何か考え込むように難しい顔をした。


「あるんだな?」

「……悪魔じゃねぇよ」

「わかってる。どんなものだったか教えてくれ」


 不服そうな表情をしながらも、やはりカルヴィンが恩人だからか、アルノーにしては素直に話し始める。


「何だったのかは、本当にわからない。大きな影だった」

「影って煙突の中なのに?」


 不可解な言葉に思わずマリオンが口を挟んだ。


「そうなんだよ。真っ暗の中にいるのに、影が動いたようにしか見えなかったんだよ。あれがもっと小さいものだったら、ねずみだと思って気にしない。でもすごく大きかったんだ、俺よりも。それがあんな狭い場所で、すぐ近くで蠢いているんだぜ。びっくりしてロープから手を離しちまったんだよ」


 マリオンはその様子を頭の中で描いてしまい、背筋を震わせた。


「何それ、怖い……」

「どんな形だったかわかるか?」

「……いや、わからなかった。でも何でこんなことを聞いてくるんだよ。原因はわかんねーけど、たいした理由じゃねぇよ、多分」


 顔をしかめてアルノーはまた不信そうにカルヴィンを見た。


「似たような話を聞いたんだよ。煙突の中で悪魔を見たって」


 アルノーはますます嫌そうな顔をした。


「だから悪魔じゃねぇって」

「話した奴が悪魔と言っただけで、俺がそう確信しているわけじゃない。でも悪魔を見たせいで煙突から落ちたっていう話を最近続けて聞いたんだよ。だからもしかしてお前もそうじゃないのかと思ったんだ。聞いてないか? そんな話を」

「煙突掃除人が悪魔のせいで怪我をしたって言ってんのか? それってでっち上げの言い訳じゃねぇの。それかやっぱり思い込みだよ。ちょっと変なことがあるとすぐ悪魔だ悪魔だって騒ぐ奴いるだろ。それだよ。俺は仕事仲間とはあんましゃべらねぇから、その話は知らねぇ。……ああ、でも、クソジジイがこの前、あいつら怪我ばっかりしやがってって怒ってんのは見たな」

「クソジジイ?」

「親父。元締め」


 アルノーは本人が聞いていたら殴られそうなことを平然と口にする。元締めを畏れて一切逆らわない少年が多いなか、アルノーは反抗的な態度を隠しきれていないばかりか、口が立つせいで言い負かすことさえある少年だった。


「その元締めの名前は?」

「ベルモンだよ」


 それを聞いたカルヴィンの眉が微かにピクリと動いたのをマリオンは見た。


「でもこれがどうしたっていうんだ? カルヴィンって悪魔とかそういう変な話を集めたがる奴? それとも悪魔払い師ってやつ?」

「違う。あんな胡散臭い連中と一緒にするな。ただ知りあいに何て言うか……悪魔のことを調べてるやつがいて、そいつに頼まれただけだ」

「そいつも十分胡散臭くないか?っていうか暇な奴だな」

「……まあ、否定はしない」


 カルヴィンは微妙な顔をして肯定した。


「ともかく煙突掃除人の間でそういう事故が続いているのは事実ってことだ。同じことがまた起きないとも限らない。十分気をつけておいたほうがいい」


 続けて言われた言葉にマリオンはあっとアルノーを見た。


「そうよね。悪魔とかはともかく、そんな事故が続いているなら気を付けて、アルノー」

「いつだって気を付けてるっつうの。ただの偶然じゃねぇのか? 事故そのものが珍しくもねぇんだし。だいたい悪魔って夜に出てくるんだろ」


 アルノーは悪魔を信じていないせいか、自分でも奇妙な影を見たというのに、カルヴィンとマリオンの言うことに真面目に取り合おうとしなかった。


「暗闇にいるだけで、夜にしか出てこないわけじゃないぞ。それに悪魔のせいで事故が起きているのじゃなくても、煙突掃除人の間で事故が続いていることだけは紛れもない事実なんだから、それだけで気を付ける理由としては十分だろ」

「そうだよ、アルノー。もうあんな怪我しないでよ。あの時は本当に怖かったんだから。大変なことになっちゃったんじゃないかって」


 不安げにマリオンが見つめると、アルノーは決まりが悪そうに顔を逸らした。


「……わかったよ」

「本当に?」


 疑いの眼差しを向けるマリオンに、不貞腐れたアルノーが声を荒らげた。


「わかったって! カルヴィン、話ってそれだけなのか?」

「ああ」

「じゃあ、もういいだろ。ほら、マリオン、暗くなる前に帰れよ」

「えっ、ちょっと待ってよ。アルノー、絶対わかってないでしょう」


 急に追い払われるように背中を押されたマリオンは、アルノーがこの話を真剣に捉えて用心してくれるとは思えなくて慌てた。


「わかったってぇの。マリオンこそ気を付けろよ。近所とはいえ、夜に女一人で出歩くもんじゃねぇんだから、さっさと帰れって」

「それはそうだけど……」


 付き合わせておいて随分な扱いだ。いつもなら家が近いこともあって気軽に送ってくれるのに、今日は頼んでも送ってくれなさそうな空気を出している。

 きっとカルヴィンと二人で話がしたいのだろうが、背中を押されながらも納得できずにいれば、名前を呼ばれた。

 振り返ればカルヴィンがこちらを見ている。


「あんたいつもあそこにいるのか?」

「あそこ?」

「花を売るのに」

「あっ、うん、そう! ほとんど毎日あそこにいるわ」


 コクコクと何度も頷いてから、マリオンはここで別れるなら他にも何か言わなくてはいけないと焦った。


「そう、だから、えっと……お花が必要になったら寄ってちょうだい」


 カルヴィンはじっとマリオンを見ながら応えた。


「ああ、必要になったら寄る」


 そこにマリオンが期待するものとは別の含みを感じていたが、寄ると言ってくれたことに気分は急上昇した。

 パッと顔を輝かせて、頬をピンク色に染めたマリオンに、カルヴィンは驚いてビクッとする。


「絶対よ。お花が必要になったら寄ってね」

「え、いや…………あ、ああ」


 状況がどんなものであるにしろ、一応は約束を取り付けられたマリオンは幸せを噛み締めるような笑顔を見せた。

 一方のカルヴィンは未知の物体に遭遇したかのような顔で、じりっと半歩下がる。

 なんであんたがビビってるんだよ、とアルノーは思ったが、立派な青年であるはずの彼のために口はつぐんでおく。


「じゃあ、今日は帰るわね。アルノー、絶対にもう怪我したらダメだからね」


 念を押すことは忘れずに、マリオンは手を振りながら帰っていった。

 そして物言いたげな視線が、カルヴィンへと突き刺さった。

 



 

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