白と雪の世界 中
雑踏に紛れてしまいそうな声だった。
しかしそれは紛れもなくマリオンに届けるために発した言葉だった。
「お兄さん?」
「ああ、四つ年上だった。父親も母親も嫌いだったが、兄のことは好きだった。優しくて頼りがいがあって、だからこそ不幸な人だった」
それを聞いただけでマリオンはカルヴィンの兄がどんな生活を送っていたのか、なんとなく察してしまった。
「父親は飲んだくれのブリキ職人で、母親は癇癪持ちの怠け者の籠売りだった。二人とも真面目に働いてはいなくて、家はいつも貧しかった。あの家で唯一真面目に働いていたのは、煙突掃除人をしていた兄のジョスランだけだ」
煙突掃除人。かつてのアルノーと同じ、少年たちの過酷な仕事。
「長い間やっていていい仕事じゃない。煤が肺や目の中に入って溜まっていって、そのせいで命を落とす奴もいるし、それでなくても煙突内での落下でいつ大怪我を負うかわからない仕事だ。ジョスランは段々と視力が落ちていっていた。だから俺はあいつの負担を減らすために、俺も一緒に働くと言っていた。俺と同じ年くらいの煙突掃除人を見たことがあったからできると思ったんだ。でもジョスランはお前はまだチビだから無理だと笑っていた。いくらできると言い張っても無駄だった。母親にも、こいつは雇ってもらえない、自分が働くから大丈夫だと説得していた。俺が反抗的で働くことに向いていないと思っていたからだろうが、そんな時の母親は嬉しそうな顔をしていたよ。いつも機嫌が悪くて意味のわからないことで俺たちを怒鳴り散らすくせに、そんな時とジョスランが給料を持って帰ってくる時は機嫌がよくて、猫なで声でジョスランを褒めそやした。お前は頼りになる、優しくて立派な息子だって言って持ち上げた。ジョスランも給料を母親に渡す時は胸を張って嬉しそうにしていた。あいつは自分がお金を稼げる人間だっていうことを誇りに思っていたんだと思う。母親に偉いと言われてとても嬉しそうだった。俺はそんな二人を見るのがとてつもなく嫌だった。別に俺が役立たずだと言われていたからでも、ジョスランが働くことを許してくれなかったからでもない」
「……うん」
カルヴィンはきっと子供の頃から冷静だったのだろう。兄が両親に利用されていることに気づいていたのだ。頼りがいがあって優しい兄を。
「だんだんジョスランが咳をすることが多くなってきたんだ。風邪のような咳じゃない。乾いたような、喉が切れて潰れてしまうんじゃないかって、不安を煽るような咳だった。これ以上煙突掃除人を続けることはまずいと俺でもわかった。だから俺が代わりに働くから、もう煙突掃除人は辞めたほうがいいといつもより強く言った。それでもジョスランは頷かなかった。死んじゃうかもしれないと言ったら怯えたような顔をしたくせに、絶対に辞めようとしなかった。両親に訴えてみたが、あれぐらい大丈夫だと全く取り合おうとしなかったよ。無駄なことはわかっていたけどな。あいつらはジョスランが咳をすれば、舌打ちをして機嫌が悪くなるようなやつらだ」
抑えきれない憎しみが声に込められていた。昔のことと、割り切っている過去を話しているようでいて、カルヴィンにとっては今も続く苦しみなのかもしれない。マリオンは不安な面持ちでカルヴィンを見上げた。そのカルヴィンの兄は今、どうしているのだろう。
「俺はジョスランがもうすぐ死んでしまうという強迫観念に囚われていた。何とかしなくちゃいけないと必死で考えていた」
ふと言葉を切ってカルヴィンはマリオンを見下ろした。この先を話してもいいのかと逡巡しているようだったから、目の奥に微かな不安を宿すカルヴィンが次に言う言葉をただ待っていた。心の中でだけ大丈夫だからと呟いて。
「……俺には本当にわからなかったんだ。過酷な労働をさせられて、そのせいで病気になって死にかけているのに、そんなことをさせている奴らのためにまだ働き続けて、ますます死に向かっていっているのが。そんな惨めな生き方をして、あんな奴らのために生きて死んでいこうとしているジョスランが許せなかったんだ」
「それは……そうだわ。大切なお兄さんなんだから」
マリオンはその時のカルヴィンの気持ちを想った。ボロボロになって死んでしまうかもしれない兄を、彼は必死で止めていたのだろう。
「カルヴィンは、怒っているんだね」
「ああ……そうだな。母親にも父親にもジョスランにも腹が立っていた」
そしてきっと自分にも。何の役にも立てない幼い頃に、大切な人が辛い思いをしているのを見ていることしかできない時の苦しさは、状況が違えどマリオンにもわかる。
「ある日、ジョスランが給料を貰ってくる日のはずなのに、母親の機嫌が悪かった。独り言なのか俺に向かって言っているのかわからなかったが、お金のことでぶつぶつと文句を言っていた。そのうちにジョスランのことまで罵り始めたんだ。前回の給料はいつもより低かった。あいつは最近怠けているんじゃないかって。いつも自分のことを棚に上げて文句ばかり言う母親だったから、言ったことに驚いたりはしなかったが、その時は無性に腹が立った。体調が悪いわけでもないのにいつも怠けている奴が、辛い思いをしながら懸命に働いている奴に何を言っているんだって。でも母親を罵ってやろうとして、その前に気づいたんだ。もうすぐジョスランが帰って来るはずの時間だって」
気持ちを落ち着けようとするかのようにカルヴィンは息を吐いた。
「最近咳が多いのも、仕事を怠けたくてわざとやっているに違いないって母親が言い出した。……だから俺は同調したんだ。そうだきっとわざとやっているって」
言葉を切ってからカルヴィンは反応を覗うようにマリオンを見た。心配そうな顔と目が合うと、微かに苦笑する。
「そうしたら、母親は調子に乗ってどんどん酷いこと言い出した。はした金しか稼げないくせに偉そうな顔をしておいて、結局これかと。あんな仕事で怠けるなんて、あいつはもうだめだ、役に立たないかもしれないと言った。子供はどうがんばってもせいぜい大人の半分の給料くらいしか稼げないし、母親の仕事に比べたらよっぽど過酷なことをしているのにな」
「……お兄さんは家族のために働いていたのに」
「そうだ、体を壊しても必死で働いていたジョスランの思いなんて、あいつにとってはどうでもいいものだったんだ。いつも通りの金が稼げなくなっただけで役立たずだと言えるような母親だ。ジョスランが聞いたら、どれだけ傷つくか知れない」
カルヴィンはわかっていた。母親の言葉が兄を酷く傷つけることも、兄がもうすぐ帰ってくるはずだということも。
「ジョスランは多分、自分がいなければ父親も母親も俺もちゃんと生活ができないと思っていたんだ。実際その通りなんだが、母親はそんな自覚なんかなく、あっさりとジョスランがやってきたことを全て否定した。俺は母親のそんな言葉を聞いて、ジョスランが家族を捨てればいいと思ったんだ」
「わざと言ったんだね。これ以上、犠牲になってほしくなくて」
「そうだ、ジョスランがあの会話を聞いたかどうかはわからない。でも俺はなんとなくジョスランが近くにいるような気がしていたし、その日からジョスランは家に帰って来なかったから、聞いていたんだろうな。煙突掃除人の親方も普通に給料を受け取って帰ったと言っていたから、他に理由があったとは考えられない」
後悔しているような声だった。だからマリオンは慰めるように言う。
「わたしもカルヴィンのお兄さんは家から逃げたほうがよかったと思うわよ。そんな状態だったなら、本当にいつ亡くなってもおかしくなかったんじゃないかしら」
しかし言葉の選び方を間違えてしまったのだろう。カルヴィンは苦痛に耐えるような顔をした。
「……だからだ」
「え?」
「きっと肺がやられていた。いつ死んでしまってもおかしくなかったんだ。遅すぎたんだ」
「何かあったの?」
「いや」
カルヴィンは小さく首を振った。
「ジョスランを最後に見たのは帰って来なくなった日の朝で、その後どうしているのかはわからない。でもあの後、すぐに亡くなっていたとしてもおかしくはないだろう。あんな咳をしていたんだから。だからもし、あの後すぐに亡くなっていたとしたら、俺は死んでいくジョスランにただ絶望を与えただけなんだ」
マリオンはようやくカルヴィンが何を後悔しているのか理解した。小さなカルヴィンが兄を助けようと必死に考えて取った行動が、兄を深く傷つけただけかもしれないことを悔やんでいるのだ。
「手遅れになる前に、もっと早く行動していればよかったんだ。子供の頃だったから、実際のところジョスランの症状がどれくらい酷かったのかは曖昧な部分もある。命に関わるほどではなくて、今も生きて普通に生活をしているかもしれないと思うこともある。でもやっぱりあの後にすぐに亡くなっていたとしてもおかしくないはないと思う。家族のために命を削って働いて、そのことを当の家族に否定されてから死んだのなら、俺はジョスランに対して父親や母親よりもっと酷いことをしたことになる」
感情が覗えない平坦な声が、却って長い間、カルヴィンがこのことについて苦悶していたのだと思わせた。
「……悪いのはそんな状態になってもお兄さんを働かせていた親でしょう」
こんな言葉は慰めにもならない。わかっていてもマリオンは言わずにはいられなかった。
「そうだな。悪いのはあいつらだし、あの頃の俺に他に何ができたんだって思うこともある。でもそんなことは関係ないんだ。もしジョスランが苦しいまま死んだのだとしたら、そんなことはただの言い訳でしかない。俺がジョスランを苦しめたんだ」
なんて理不尽なんだろう。マリオンは涙が出そうになった。
きっとカルヴィンが母親とそんな会話をしていなくても、ジョスランは働き続けて病気で亡くなっていたのではないか。そしてカルヴィンは見ていることしかできなかった自分を責めていたに違いない。
まだ八歳だったカルヴィンが兄を助けるために上手く立ち回れなかったことをずっと後悔している。でも多分、元凶である両親はそんなことは今では忘れてしまっているような気がした。
「あんたがそんな顔をするようなことじゃない」
カルヴィンが困ったような顔でマリオンを見下ろしていた。
とても辛いことを話しているのに、自分ではなくマリオンのことを気にかけてくれる。優しい人だ。でもマリオンはそれを口にはしなかった。初めて会った時にカルヴィンが言っていたのだ。簡単に人に優しいと言う人間が嫌いだと。その意味を考えた。
「生死がわからないから、ジョスランのことはずっと探している。かなり消極的にだがな。知ってしまうことが恐ろしいんだ。知らなければどこかで俺たちのことなんか忘れて生きているんじゃないかって希望を持っていられる。卑怯だよな」
「……そんなの卑怯って言わないよ」
歯を食いしばるように応えたマリオンに、カルヴィンは苦笑した。
「だからあんたが泣くようなことじゃない」
「……出てくるから仕方ないの」
「そうか」
こんな涙に意味なんてない。慰めすら必要とせずにただ自分を責めているカルヴィンの心を、どうすれば少しでも軽くすることができるのだろうか。あなたのせいじゃないだとか、きっとお兄さんは生きているだとか、そういった言葉を求めていないことだけはわかるのに。
「そんなに強く握らなくても、置いていったりしないぞ」
優しい声が降りてきた。
繋いだ手を力一杯握っているマリオンに、カルヴィンは大丈夫だというような顔をしている。その顔がマリオンと目が合うと、少し困ったように眉を下げた。
「どうしたんだ」
「……どうしたって?」
「何か言いたそうな顔をしている」
マリオンは胸に渦巻くこの気持ちをどう言葉にすればいいのかわからなかった。自分を責めて苦しまないでほしい。カルヴィンが楽になるのなら、お兄さんのことですら、もう忘れてしまえばいいのにとすら思う。
ぎゅっと握っている手を見つめる。何の役にも立てないことが悲しくて、また力を込めてしまった。
「あなたを好きという気持ちだけで、あなたの辛さが少しでも軽くなればいいのに」
カルヴィンに向かってというよりも、まとまらない言葉の一つが口から溢れ出ていた。
目の前の体がびくりと震えた。視線を上げるとカルヴィンが目を見開いて動揺している。いつもの羞恥による動揺とは違っていた。まるで初めてマリオンの気持ちを知ったかのような反応だ。
「……カルヴィン?」
「あ……ああ。いや、すまない。ちょっとそこを曲がろう」
泣いているマリオンが通行人に見られていることに気づいたらしいカルヴィンが、人の目から隠すためだろう、店と店の間にある人がやっとすれ違える程の狭い路地にマリオンを連れて行った。
誰もいない路地でカルヴィンはマリオンの頬の涙を袖で拭った。
「あれは俺の自業自得なんだ。だからあんたが俺のために泣く必要なんかない」
「必要とかじゃなくて……。わたしが泣いても意味がないのはわかっているけど」
涙を止めようと努力するマリオンにカルヴィンは焦ったように首を振る。
「そうじゃない」
真剣な目でカルヴィンはマリオンを見つめた。やがて目を瞑ったかと思えば、さっきとはまるで違う表情をしていた。静かに何かを内に秘めたかのような。
カルヴィンの手が伸びて、マリオンの髪を撫でる。簡単に女性の髪を触るような人ではないと思っていたからマリオンは少し驚いた。しかしそれだけではなかった。カルヴィンは壁に背を向けているマリオンに身を寄せて、瞼にキスをした。
「え……」
「泣きたいなら泣いたらいい。でも、悲しませるつもりじゃなかった」
カルヴィンは抱き寄せたマリオンの耳元で呟いた。
泣いたことではなく、泣かせたことを気にしているのだとわかる声だった。とても大切にされているかのような仕草に、マリオンはそんな場合でもないのに嬉しさと羞恥で赤くなる。
「……じゃあ、もう少し泣いているわ」
ただなんとなく、無理に泣き止むよりはその方がいい気がして、マリオンはカルヴィン腕の中で力を抜いた。
それから、マリオンが泣き続けている間ずっと、カルヴィンは優しく髪を撫でてくれていた。