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ソワレと灯火  作者: 山吹ミチル
二章
41/43

白と雪の世界 上

 小さな枝のような黒い手が、赤いゼラニウムを掴む。

 彼は香りを味わうようにじっとその可憐な花を見つめていたが、やがて花びらの先が茶色く変色したかと思うと、一輪の花全体から生気が失われていった。萎びて枯れ果てたゼラニウムの花弁がかさりと床に落ちる。

 いつものギィの食事風景を眺めながら、マリオンは疑問に思っていたことを尋ねてみた。


「ねぇ、ギィは白い花が好きじゃないの?」


 腹が満たされて満足そうに目を輝かせていたギィはマリオンを見上げた。


≪……白ハ、好キジャナイ≫


「そうなの。白い花というより、白が好きじゃないっていうこと?」


 ギィはこくりと頷いた。

 悪魔の世界があんなに真っ黒だから、正反対の白が苦手なんだろうかとマリオンは考えたが、ギィは全く違うことを言った。


≪白ハ、雪ト同ジダカラ、好キジャナイ≫


「え、雪? ギィは雪が嫌いなの? 寒いから?」


 寒さが苦手なマリオンは、思わずギィも自分と同じ理由で雪が好きではないのかと考えてしまう。ギィは同意するように頷いた。


「へぇ、悪魔も寒いのは駄目なのね」


≪ギィハ、寒クナイ。デモ、カルハ寒イノ駄目≫


「カルヴィンが寒いの駄目なの? だからギィが寒い雪と同じ白が嫌いということ?」


 繋がりが何だかわからなくなってきたマリオンは首を傾げた。ギィはまたしても頷く。


≪雪ハ、寒クテ冷タイカラ、カル死ニカケタ≫


「えっ、死にかけたの!? 凍死しかけたっていうこと?」


 マリオンは驚いてギィに詰め寄った。今まさにそのような状態になっているわけでもなく、カルヴィンは窓の外の道路でギィを待っているのだが、死にかけたなんて聞いてしまうと心配になってくる。今は夏なのだから、本当にそんな心配は無用なのだが。

 一体どんなことがあって凍死しかけたのかと気になって仕方がない。だがカルヴィンに聞きたくても二階の窓越しにするような会話ではないから、機会を伺って尋ねてみようとマリオンは決めた。

 パリでは毎年多くの凍死者が出るが、そのほとんどは下町に住む者の中でも特に貧困な人たちだ。マリオンは子供の頃に雪の積もった裏道で、生死が定かではない浮浪者を何度か見かけたことがある。幸いにしてそれは毎回大人だった。大人なら自業自得というのが下町での考え方だからだ。祖母からは近づいてはいけないと言われ、祖母以外の親切な大人からは、生きているかもしれないから近づいてはいけないと言われていた。

 今までカルヴィンが会話に出したことがないから、マリオンは彼の生まれや家族のことを全く知らない。カルヴィンの職業が灯し人だから、下町の中ではどちらかというとやや裕福な家で生まれ育ったのだと思っていたが、違うのかもしれない。それとも不慮の事故で死にかけただけなのだろうか。

 今の彼自身のことを知りたかったということと、嫌われたくないという思いから、マリオンはカルヴィンが話そうとしないことを突っ込んで聞くということはしていなかった。でも最近ではもっとたくさんのことを知りたくなってきている。

 マリオンは少しだけ踏み込んで、カルヴィンのことを聞いてみようと決めた。




 意外にもその機会はすぐに訪れた。

 翌日、花を買いに来てくれたカルヴィンに、もう仕事は終わりだから少し散歩をしないかと誘ったところ、あっさりと了承したくれたのだ。気のせいかもしれないが、このところカルヴィンはマリオンの誘いやお願いを断ることがない。女性からの誘いを断ってはいけないと認識しているだけという可能性もあるが、マリオンは距離が縮まったのだと思うことにしてにこにこと隣を歩くカルヴィンを見上げていた。彼はいつものように少し居心地が悪そうな顔をしている。


「……もう少し前を見た方がいい」


 ぼそりと呟いたカルヴィンに素っ気なさはない。困ってはいるようだが。


「カルヴィンが腕を組んでくれるなら、前を見なくてもいいと思うの」


 腕に手を伸ばすふりをしてマリオンが言うと、カルヴィンの表情が固まった。何かを言おうとして口を開いたようだが、なかなかその言葉が出てこない。


「ふふ、冗談よ。そんなに困らないで」


 一緒に散歩をするくらいなら親しい友人と言えるが、理由もないのに腕を組んで歩くならそれはもう恋人と言える。そうしてほしいのは山々だが、強引にやりすぎても嫌われてしまうかもしれない。マリオンは希望を口にするだけに留めた。

 カルヴィンは文句を言いたそうな、不満そうな何とも言えない顔をしている。


「ごめんなさい、怒った?」

「いや、あんたが謝らなきゃいけないようなことじゃない」


 前を向いたカルヴィンは黙ってマリオンの手のひらを掴んだ。暗い道を歩いている時のように。


「……子供みたいね」

「こうされたくないなら、ちゃんと前を見て歩け」

「ううん、このままがいいわ」


 カルヴィンが振り向く。嬉しそうな顔のマリオンを見てすぐに顔を逸らしてしまったが手を離すことはなかった。向かいから通行人が歩いて来ると手を引いて自分のほうへ寄せてくれる。

 とても幸せな気分に浸れたので、マリオンはしばらくただカルヴィンとの散歩を楽しんだ。しかし、昨日ギィと話したことも気になる。頃合いを見てマリオンは口を開いた。


「ねぇ、昨日ギィに聞いたんだけどね」

「ああ」

「カルヴィンって雪の中で凍死しかけたことあるの?」


 マリオンに顔を向けたカルヴィンは眉間に皺を寄せて少し呆れたような顔をしていた。


「何を話しているんだ、あいつ。そんな子供の頃のことを……。何年も前の話だ」

「じゃあ、本当なのね。カルヴィン、大したことがない昔のことみたいな言い方だけど、カルヴィンが凍死しかけたせいでギィは雪とか白い色が嫌いになったんだからね。絶対にすごく大したことだったと思うわ」


 カルヴィンは驚いてマリオンを見ると、少しばつが悪そうな顔をした。


「……まあ、目の前で本当に死にかけたから、心配をかけたのは悪かったと思っている。会ったばかりの頃だから印象が強かったんだろう。今でもたまに雪が多く積もると、寒いかと聞いてくる。そんなに寒さに弱いわけじゃないんだが」

「ものすごく心配したんだと思うわ。でも、ギィってカルヴィンのこと大好きなのね。自分は平気なのに、カルヴィンが死にかけたから雪が嫌いだなんて」


 自分だってカルヴィンが目の前で凍死しかけたら雪が大嫌いになるだろうが、彼らは二人とも淡々としているので、どれくらい仲がいいのかわかりにくいのだ。


「そうか? マリオンのほうが気に入られていると思うが」

「ふふ、わたしだってギィに好かれているのは知っているわよ。でもカルヴィンは特別だと思うわ。ねぇ、それにしてもカルヴィンとギィって子供の頃から一緒にいるのね。凍死しかけたなんて、何があったの?」


 カルヴィンは少し考えるように空を見上げた。


「……まあ、子供だったからな。馬鹿だったっていうだけだ。ギィが母親に見つかって家から追い出されたんだよ」

「え? ええ……?」


 マリオンは戸惑った声を上げた。それはつまり、まだ子供の頃に凍死しそうなくらい寒い外に放り出されたということだろうか。


「多分、八歳くらいだったかな。まだガキだったせいもあるだろうけど、俺は悪魔が恐いとか気味が悪いという感覚があまりなかったんだ。それでギィを拾って家に連れて帰ったんだよ。一応、隠しておいたほうがいいという認識はあったんだが、母親に見つかってめちゃくちゃ気味悪がられて追い出された」


 カルヴィンはどんな反応をすればいいのかわからずに困っているマリオンを見て、慰めるように言った。


「別にそれはいいんだ。母親も父親も好きじゃなかったからな。むしろ好都合だと思っていた。でもやっぱりガキだったから考えが甘くて、すぐに死にかけたっていうだけだ」

「何でもないことみたいに言わないでよ……。その後、どうやって助かったの?」

「運がよかったんだろうな。変わった奴に拾われた。大学で研究職をしているらしくて、ギィを見て悪魔だとわかると、研究がしたいからって連れて帰ろうとしたんだ。でもギィが俺の側から離れようとしなかったから、俺ごと連れて帰ることにしたらしい。担がれて暖かい家の中に入れられて、女の人に看病されたらちゃんと回復した」


 すぐに助かったことがわかってマリオンはほっと息を吐いた。


「よかった。親切な人がいたのね」

「親切……というのとは少し違うと思うぞ。本当にただギィを研究対象として欲しかっただけだ。でも、相手が子供だろうと他人を尊重する人だとは思う。いや、こう言うとすごくいい奴みたいだが、そういうことじゃなくて、すごく変わった人だ」

「何それ。どういう人なの」


 マリオンは笑いながら尋ねた。実際にどういう人であれ、カルヴィンを凍死から救ってくれた人という事実だけで、マリオンにはとてつもなくいい人ではある。


「あの人は独身だし子供の看病……というより人の看病をしたことがなかったから、アパルトマンの管理人の婦人に俺の看病をさせて、その間にギィを手懐けようとしたらしいんだが、ギィは一向に姿を現さなかったらしい。それで回復した俺に呼ばせたら、距離を取りながらも現れたものだから、俺をまず手懐けることにしたらしい。俺が家を追い出されたと知って、ここで生活をしろと言い出した。それでてっきり小間使いにでもさせられるのだと思っていたら、あの人は子供を引き取るからには自分が父親にならなければいけないという認識があったらしい。今日から君は私の子供で、私は君の養父だと言われた時はさすがに驚いたよ」

「じゃあ、その人がカルヴィンのお父さんなのね!」


 マリオンはまた笑いながら声を弾ませた。


「そうなるな。親切だとかいい人というよりは、常識がずれているんだ。研究に没頭すると家に帰らなくて、その子供の存在も忘れてるしな。一度腹が空きすぎて、管理人のところへどんな仕事でもするから食べ物を分けてくれとお願いしに行ったことがある。その後、管理人の婦人がエミール……俺の養父を怒鳴りつけたらしくて、管理人が俺の食事の世話をしてくれるようになった。エミールはちゃっかり自分の食事も用意してもらっていたよ。他にも俺たちのことを色々気にかけてくれて、ものすごく世話になっているくせに結婚はしないんだから、やっぱり常識がずれているな」


 呆れながら言うカルヴィンの表情は親しみが込められていて、ちゃんと信頼関係が築かれていることが窺えた。こんなによく喋るカルヴィンは珍しい。


「カルヴィンはその人のことが好きなの?」

「……何でそんなことを聞くんだ?」

「そうだったらいいなって思ったから」


 カルヴィンはマリオンの意図が理解できないというような顔をしながらも、首を傾げて考えるように言った。


「尊敬はしている。いい意味でも悪い意味でも、人を平等に扱う人だから。人にあまり興味がなくて、自分以外の人間のことは皆、不可解な生き物と思っていていそうなところは、一緒にいて安心できたよ」

「そう」


 そんな人が安心できるような環境に、カルヴィンはいたのだろうか。それでも、すぐにそんな人と出会えてよかったと、穏やかな気持ちになれた。

 辻馬車が通り過ぎて、土埃が舞う。

 向かいから長いバケットを抱えて走っていた少年が、焦った顔をしてバケットから土埃を払った。


「ギィはまだそのエミールさんのことを警戒しているのかしら」

「しているな。俺が一緒にいる時は、気まぐれに研究に付き合う程度には慣れたみたいだが。でも未だに警戒しているのは、あの人のせいでもあるぞ。ギィじゃなくても好奇心丸出しのあの目で見られたら、誰だって逃げたくなる」

「一度会ってみたいわ」

「ああ……。伝えておくよ。ギィが懐いている娘がいるって言ったら、すぐに会いたがると思う」

「まあ、質問攻めにされそう」

「ああ、覚悟しておいたほうがいい」


 微かに笑いながらカルヴィンが言った。マリオンも笑うと、二人はしばらく黙って歩いていた。

 お喋りなマリオンだが、たまには静かに横顔を見つめていたい時がある。カルヴィンに気づかれないようにそっと視線を送っていると、彼が何かを思い出そうとするかのように遠くを見つめていることに気づいた。

 どこか悲しそうな、傷ついているようなその表情に、マリオンは何もわからないのに胸がざわついた。どうしたんだなどと、気軽に聞けないくらい、カルヴィンは何かに打ちひしがれているように見えた。

 どうすればいいかわからないマリオンに、カルヴィンはぼそりと呟いた。


「兄がいたんだ」


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