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ソワレと灯火  作者: 山吹ミチル
二章
40/43

18 霧の中

 灯柱に吊された、五つの角灯を見上げる。

 遠い空から降ってくる暗闇を押し返すように。照らされていない路地などないであろうこのオペラ座通りでは、夜を恐れる人はいないように見える。悪魔の存在など彼らは忘れているだろう。しかしきっとこの場所を離れればあの灯火の光に縋って、また闇を恐れながら道を歩くのだ。

 この輝く夜を美しいとマリオンは思った。

 普段は一つずつしか見ないガラス越しの灯りが密集して、大きな安心感を与えてくれる。いくつものガス灯に照らされて、何年も前から建っている壁にシミがこびり付いた建造物も、派手な看板を掲げている賑やかな店も芸術品のようだった。

 もうしばらくは来ることがないであろうこの光景を、マリオンは目に焼き付けていた。


「マリオン」


 手を繋いで歩いていたカルヴィンに呼ばれて、マリオンは隣にいる彼を見上げる。


「すまない。はぐれてしまって」

「どうしてカルヴィンが謝るの。わたしが油断しちゃったからだわ。離れないようにって言われていたのに」

「いや、一緒に行くことを了承した俺が気をつけていなくてはいけなかった」


 悔やむような表情をするカルヴィンに、マリオンは不謹慎にも少し嬉しくなってしまった。大切にされているような気がするからだ。ただ彼の性格にようるものかもしれないが。


「ありがとう、カルヴィン」


 何に対する礼かわからなかったのか、カルヴィンはマリオンをじっと見た。


「あの子を助けてくれて。すごく気位が高い子だから、あのまま惨めに死んでしまうことだけは嫌だったと思うの」

「……助けたうちに入らないだろう」

「ううん。助けてくれたわ」

「助けたというなら、あんたが助けたんだと思うが」

「ふふ、わたしこそ何もしていないと思うけど。でも余計なことをしたわけじゃなかったのならよかったわ」


 マリオンが笑いかけると、カルヴィンは真剣な顔になった。


「マリオン、君は多分、あの闇の世界に行きやすい体質になっているのだと思う」

「え?」


 意味がわからなくてマリオンは首を傾げた。


「普通の人間は悪魔に連れて行かれなければ、簡単にあの世界に行くことはできない。でも君は既に二度行っている。もしかしたら意図せずに入り口があればあの世界に行ってしまうことがあるかもしれない。だから今まで以上に悪魔には警戒してくれ」

「そうなの……。ええ、わかったわ。気をつける」


 マリオンはこういうことが起こるのに、カルヴィンが今回も同行を許してくれたことに少し違和感を覚えたが、イヴォンヌのためだったのだろうと納得した。

 カルヴィンに言われたことはきちんと守るつもりでマリオンは頷いていた。でもこのところ悪魔に関わることが続いていたのはただの偶然で、自分の周りでこのようなことが起こることは今後ないだろうとマリオンは思っていた。少なくとも、もし起こるのならそれはカルヴィンを通じてだろうと。

 それは半分合っていて、半分は間違っていた。





 翌朝、マリオンはいつもの時間にアパルトマンを出た。

 ガス灯が消灯されたばかりの薄暗い早朝だ。市場で売るための野菜が積まれた荷台のような馬車がのんびりと通り過ぎる。郊外の村に住んでいる農民たちだろう。彼らの朝はとても早い。

 今日は霧が濃かった。

 昨晩は帰って来るのが遅かったのでまだ眠いが、朝に目が覚めて、いつものパリの朝の風景を目にすると、昨日のことは夢だったように思えてくる。花畑に行けば、イヴォンヌがマリオンに嫌味を言ってルイーズを怒らせて、それをフランソワーズが宥めるような日常が訪れそうな、そんな朝だ。

 でもきっとイヴォンヌはもう二度と花畑には来ないだろう。

 マリオンは花売り仲間にその理由を話すつもりはなかった。ただ辞めたとだけ伝えることもできるが、仲が悪いマリオンがそんなことを知っているのはおかしいし、マリオンはイヴォンヌから花売りを辞めるとは聞いていない。勝手に判断して伝えるべきではない。何も言わずに仕事を辞めたり、しばらく来なくなったりというのは、花売りでなくともよくあることだ。人に言えない事情など、下町ではたくさん転がっている。

 何があったのだろうかとしばらく話題に上った後は、自然に忘れられていくだろう。忘れられないマリオンは、ただイヴォンヌの夢が叶うように願っていく。それだけだ。

 マリオンは両腕を上げて伸びをした。今日も仕事をがんばろう。

 新鮮な空気を吸って歩き出そうとしたその時、急に人影が近づいてきてマリオンは驚いた。

 霧のせいですぐに気づかなかったのだろう。知り合いなのだと思ったマリオンは挨拶をするために顔を上げて、予想外の人物がいたことに更に驚いた。


「……モーリスさん?」


 てっきり近所の人か、この通りで仕事をしている知り合いだと思っていた。しかし彼はつい昨日、たまたま十年以上振りに再会した父の友人で、それまでこの辺りで見かけたことはなかったはずだった。それなのにこんな早朝にどうしたのだろうか。


「おはよう、マリオン」

「おはようございます」


 モーリスは微笑みながら挨拶をした。とても穏やかに笑う人だ。


「どうしたんですか、こんなところで。お仕事ですか? あ、そういえば何のお仕事されているの?」


 職業を尋ねるのは自然なこととはいえ、仕事前だというのに、ついマリオンは余計なおしゃべりまでしてしまう。


「仕事は薬剤師だよ。ここには仕事で来たわけではないんだ」

「まあ、立派な方なのね」

「……そうかな?」


 モーリスは穏やかな表情で首を傾げた。


「ええ。お仕事でないなら散歩かしら。パリって夜中じゃなきゃあどんな時間帯でも散歩をしている人がいるものね。モーリスさんは早朝の散歩が趣味なの?」


 他の街では知らないが、パリには散歩を趣味にしている人がかなり多い。だからきっとそうなのだろうとマリオンは思ったのだ。

 だがモーリスは答えずに、じっとマリオンを見つめた。微笑んでいるはずなのにどこか無表情で、観察されているようにも感じて、マリオンは戸惑う。


「モーリスさん……?」

「やっぱり、君は何も覚えていないんだね」

「え?」

「私のことだよ」

「ああ、覚えていますよ」


 マリオンは少し得意げに昨日別れた後に、彼のことを思い出したのだと告げた。父親と二人で話していたところに割って入って、父親に困った顔をされたことを。


「あれってモーリスさんですよね。あ、でもさすがにこんなちょっとしたことは覚えていませんか」

「……他には?」


 止めていた息を吐き出すようにモーリスが尋ねた。


「他にも会ったことがありますか? ごめんなさい、後は覚えていないの。お世話になったのかしら」

「いいや、そうじゃない。ただ確認しておきたかったんだ」


 なぜそんなことをと疑問を持ったものの、あまり長話をしている余裕もなかった。


「そうなんですね。モーリスさん、また今度お話しましょう。もう仕事に行かなければいけないの」

「マリオン」


 彼は聞こえていなかったかのように名前を呼んだ。


「やっぱり、娘とはもう会わないでほしい」


 マリオンは驚いて言葉が出てこなかった。急にそんなことを言い出した理由が全くわからない。彼の様子はどこかおかしかった。


「……どうしてですか?」

「そうするのが一番いいんだ」

「どうして? 会わないでと言われても、わたしはいつもあの場所で花売りをしているし、場所を変えることなんてできないから、アンジェリーヌが花を買いに来たなら会わないわけにはいかないわ。それにアンジェリーヌと仲良くしてほしいと行ったのはモーリスさんでしょう?」

「あの時は、君がすぐに私のことに気がつくと思っていたからだよ」

「モーリスさんのことに? それが関係あるんですか?」

「ああ、とても重要なことだ」


 モーリスはちゃんと会話をしてくれているようで、マリオンが聞きたいことを話してはくれない。わざとはぐらかしているのか、彼がそういう性格なのか、マリオンにはわからなかった。

 もうアンジェリーヌと会わないとあっさり約束することもできない。時間がないこともあってどうすればいいかと困惑していると、モーリスは悲しそうに目を細めた。

 マリオンは考えていたことを一時いっとき忘れてしまった。こんな表情をする人を初めて見た。あらゆる感情を飲み込んで、そうすることで凪いでいるような、そんな表情だった。


「マリオン、思い出してはいけないよ」

「え……」


 暗示にかけようとするかのように、モーリスは強く言った。

 そしてそれだけ言うと彼はマリオンの横を通り過ぎていく。

 戸惑いが勝って何も反応できなかったマリオンが振り返った時には、もうモーリスの姿はなかった。霧の中に消えてしまったように。

 マリオンは花畑に向かっている最中に思い至る。

 昨日、モーリスに会った時に、マリオンは自宅の場所など教えていない。元々知っていたわけもないのだから、あの短い間に突き止めたのだ。怪しい人物でなければ、マリオンの家の場所を知っている人に聞けば教えてくれるだろうが、それにしてもこの短い時間で調べ上げたのだ。

 そうまでして彼は娘とマリオンを引き離したかったのだろうか。一体、そこにどんな理由があるというのだろう。

 考えているうちにふと、気がついた。

 もしかして、彼は両親の死の真相を知っているのではないかと。




 帰宅して玄関の扉を閉めると、家の奥からガタンという音がした。

 ああ怒っているなと思いながら、モーリスは帽子を脱ぐ。

 案の定、頬を膨らませたアンジェリーヌが小走りでやって来た。


「もう、パパどこに行っていたの。起きたらいないなんて、酷い!」

「すまない。早くに目が覚めてしまったものだから、散歩に行っていたんだ」

「どうして連れて行ってくれなかったの!」

「アンジェリーヌは寝起きはいつも機嫌が悪いじゃないか。起こさないほうがいいと思ったんだよ」


 モーリスは娘の怒る姿も可愛らしいとばかりに微笑んだ。

 起こされても散歩なんか行かないと怒る自分が想像できたのか、アンジェリーヌは少しの間黙ったが、すぐにまた文句を言う。


「じゃあ、散歩なんか行かないでよ。それか、わたしが起きるまでに帰って来ないと駄目よ」

「そうだね。悪かったよ、アンジェリーヌ」


 モーリスが愛しげに頬を撫でると、アンジェリーヌはぷいとそっぽを向いて顎を逸らす。


「しょうがないんだから、パパは。許してあげるわ」

「ありがとう」


 アンジェリーヌはすぐに機嫌が悪くなるが、それが長続きすることはほとんどない。モーリスはいつも思う。この子はどうしてこんなにも可愛らしいのだろうかと。

 そしていつもすぐに結論が出てくるのだ。自分と最愛の妻の子供なのだから、当たり前だと。命をかけて守ると妻と約束をした、何よりも大切な子。


「ねえ、パパ。今日もお仕事はお休み?」


 甘えるように腕に抱きつきながらアンジェリーヌが尋ねた。


「……そうだね。そろそろ見つけないといけないからね」


「ええ、彼が困っているものね。絶対に見つけてあげなくちゃいけないわ。彼はわたしの恩人なんだもの。大悪魔だけどね」


 正義感に駆られたようにアンジェリーヌは決意を口にした。そんな娘にモーリスは穏やかに凪いだような表情を向ける。


「ああ、早く取り戻さないとね。……彼の尻尾を」

「そうよ、盗んだ奴から取り返さないと!」


 アンジェリーヌは笑顔で拳を突き上げた。


二章終了しました。ありがとうございます。

三章が始まる前に閑話のようなカルヴィンとギィのお話を書く予定です。

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