4 訪ねてきた青年
アルノーが怪我をした日の翌日、彼の口からもう痛みはないと報告された。顔色が元に戻っていたことでマリオンはそれを信じた。
それから心配事のなくなったマリオンの心の中を、占拠するものができていた。
だからこそ、すぐにわかったのだ。
たくさんの道行く人の中でも。
マリオンとアルノーが初めてカルヴィンと出会ったのは、マリオンの昼の仕事場の近くだった。
だからもしまだカルヴィンがアルノーを探していたとしたら、彼がその場所に来るのは、至極当然のことである。のだが、マリオンは雑踏の中であの夕日のような赤髪を見つけた時、舞い上がってなんて運がいいのだと思ってしまった。
アルノーから話を聞いた翌日に会えるなんて。
嬉しくて頬が緩む。
「カルヴィン!」
喜色を滲ませた声で呼ぶと、驚いた横顔がこちらを向いた。
やっぱり彼だ。確信していたものの、マリオンは更に笑みを深めた。
「こんにちは。えっと、わたしのこと覚えてる?」
「ああ……」
籠を持ったまま駆け寄って声をかけると、カルヴィンは少し戸惑ったように身を引いた。
彼にこんな反応をさせているのが、自分だという自覚はもちろんマリオンにはあった。まったく親しいわけではない人間に満面の笑顔で声をかけられれば、誰だって戸惑うだろう。
しかし嬉しさが隠しきれないのだから仕方がない。マリオンは開き直ることにした。
「この前は本当にありがとう。アルノーもあれから怪我が悪化しなかったの。もう治ったって言っているわ。本当はちょっとだけやせ我慢しているんでしょうけど、でももう心配はいらないと思うの」
「……そうか」
カルヴィンは鋭い目付きをやわらげて、安心したようにポツリと呟いた。
やっぱり優しいなとマリオンは思った。これを言うとカルヴィンは不機嫌になるのだろうが、ろくに彼のことを知らないのだとしても、マリオンは彼が間違いなく優しい人なのだと感じる。
「それでね、カルヴィンらしき人がアルノーを探しているって聞いたの」
「ああ……」
やけに納得した顔をしてカルヴィンは頷いた。
「ちょっと聞きたいことがあったんだ。あんたはアルノーがどこにいるか知ってるよな」
「もちろん知ってるわ。よかったらアルノーの家まで案内するわよ」
「いや、場所を教えてくれりゃあいい」
あっさり断られてマリオンは気落ちしたが、それを表情には出さずに食い下がる。
「でもあの辺りは入り組んでいて分かりづらいのよ。それにもしアルノーが家にいなかったら、おばさんに追い返されちゃうかもしれないでしょう? わたしと一緒に行ったほうが確実に会えるわよ?」
カルヴィンが迷うように顎に手を置いたので、マリオンは追い討ちをかける。
「わたしの家の近くだもの。ついでだわ」
「……なら、頼む」
マリオンはぱっと顔を輝かせて大きく頷いた。
「ええ、お安いご用だわ」
またしても嬉しそうな笑顔になるマリオンに、カルヴィンは今度も困惑しているが気にしない。跳び上がりそうなくらい、ますますマリオンは舞い上がっていた。これで少しの間、一緒にいられる。
「じゃあ、行きましょう。もうアルノーも仕事を終えているかもしれないわ。暖かくなってきたから、仕事が少なくなってきているんですって」
時刻は午後三時。下町の物売りは基本的に早朝から働いて夕方前に仕事を終えるので、早めに仕事を切り上げる日はこれくらいの時間になる。
「あんたはまだ仕事が残っているんじゃないのか?」
籠の中に花束が一つ入っているのを、カルヴィンが目敏く見つけた。
「これは家の食卓に飾る用の花束なの。だから仕事はちょうど終わったところよ」
本当は家の食卓にいつも飾っている花はまだ枯れてはいないのだが、持ち帰るのが二日か三日早まっただけなので問題ない。マリオンはカルヴィンと話しができる機会を、みすみす逃したくはなかった。
「こっちよ、行きましょう」
マリオンがカルヴィンを先導して歩くと、いつものように知り合いが次々に声をかけてきた。
「マリオン、仕事終わったのか? 気をつけて帰れよ」
「じゃあね、マリオン。お疲れさん」
「また明日、セオドアさん。アンナさん、今度あの話の続き教えてね」
笑顔で手を振っているマリオンに、カルヴィンは少し距離を開けて付いてくる。寂しく感じたものの、マリオンは知り合いがほとんどいなくなるまでは我慢した。そしてパサージュを抜ければ早速振り返って口を開く。
「さっきのセオドアさんね、アルノーを家まで送ってもらう人を探してた時に、一番に名乗り出てくれたの。でももうお年でしょう? アルノーを抱えて家まで運ぶのはさすがに辛いだろうし、皆が慌てて止めたんだけど聞いてくれなくて大変だったの。それでもう一人、人足のジャメルさんが一緒に来てくれることになったんだけど、でも結局セオドアさんがほとんど一人で運んでくれたのよ。すごいでしょう?」
カルヴィンは不思議そうな顔で聞いている。
「……知り合いが多いんだな」
「だって毎日あそこで花を売っているもの。あっ、でもわたしがおしゃべりだから皆が話し掛けてくれるっていうのはあるかも」
そこであることに気がついたマリオンはハッとする。
「カルヴィンはよくしゃべる人は嫌い? わたし大人しくしていたほうがいいかしら」
不安そうに尋ねると、カルヴィンは表情を変えずに素っ気なく答えた。
「いや、別に」
「よかった」
ほっと息を吐いて笑うと、カルヴィンはまた戸惑ったような顔になった。きっとマリオンがいちいち喜びすぎていると思っているのだろう。
しかしマリオンはついでとばかりに、緊張と僅かの期待を込めた目を向けた。
「じゃあ、カルヴィンはどんな人が好きなの? どんな女の人がタイプ?」
「………………は?」
口を開いて唖然とする姿はちょっと間抜けで、唐突だったにしても、マリオンの言葉がまったく理解できなかったらしかった。
「いや……そんなこと聞いてどうするんだ?」
まさに不可解という表情で聞かれたマリオンは少し考えた。
「そうね……。確かに聞いたからってそのタイプになれるわけじゃないわよね。でも外見はともかく内面は内容によっては努力すれば変えられなくはないと思うの。だから詳しく教え……」
「いや、何言ってるんだ?」
被せるように言うカルヴィンには焦りが見え始めている。
「カルヴィンの好きなタイプを知って、それに近づいたら、ちょっとは好きになってくれるん……」
「いや、待て」
二回も遮られたマリオンは少し悲しくなった。
「何なんだ、あんた。からかってんのか?」
眉間に皺を寄せて怒ったように言われたマリオンはさっと顔色をなくす。
笑ってはいても彼女は彼女なりにかなり必死ではあったのだ。そのせいで相手が受ける印象まで考え至らなかったわけだが、それをからかっていると思われては辛すぎる。
「からかって、なんか……」
俯いて沈んでいく気持ちと同じように、声も震えて暗く沈むように小さくなった。
明るい空気から一転して、泣きそうになったマリオンに、カルヴィンのほうも態度を一変させた。
「ちょっ、待て! 待て、悪かった! 泣くな! 言い過ぎた、悪かった!」
あまりの慌てようにびっくりしてマリオンは顔を上げる。カルヴィンは数日前にマリオンが傷ついた後と同じように狼狽していた。
自分から怒ったのにここまで慌てるなんて。
もしかして女の涙に滅法弱いというやつなのだろうか。
マリオンは逆に冷静になってしまって、そんなことを考える。
「泣いてないわ……」
じっと顔を見ながら言うと、カルヴィンはばつが悪そうに目を逸らした。
「……悪かった」
「ううん、カルヴィンは悪くないわ。わたしが浮かれすぎたのよ。こんなにすぐに会えると思わなかったから」
カルヴィンは何かを言いかけてやめると、考え込んでからポツリと呟いた。
「あのことは気にするなって言っただろ」
「うん、でもそれもあるけど……会いたかったから」
それがどんな種類のものであろうと、普段から好意を隠すことをしないマリオンは素直な気持ちを告げた。
困りきっているカルヴィンはそれをどう解釈すべきか悩んでいるようでもある。
「何なんだ、あんた」
ため息と共に言われてしまったが、そこになじる響きがまったくなく、途方に暮れているかのようだったので、ちょっと笑ってしまった。
「マリオンよ」
穏やかな声でマリオンは言った。
「まだちゃんと自己紹介してなかったわ。わたしマリオンっていうの」
「……覚えてるよ」
カルヴィンの返答にマリオンは驚いて目を見開いた。
「覚えてくれてたの?」
せっかく落ち着きを取り戻したというのに、マリオンはまたすぐに興奮してしまった。
だってカルヴィンは知ってる、ではなく、覚えていると言ったのだ。
さっきから何度もマリオンは知り合いに呼ばれていたのだから、もう知ってると言われるならわかる。しかし覚えていると言うなら、数日前に聞いていた名前を覚えていたのだと言われたように聞こえてしまう。
言葉の綾かもしれないが、カルヴィンがしまったという顔をしたせいで、マリオンは調子に乗った。
「嬉しい。ねぇ、じゃあ、名前で呼んでくれる? あんたよりもマリオンのほうがいいわ。みんなマリオンって呼ぶもの、いいでしょう?」
ぐいっと距離を詰めてきたマリオンに、カルヴィンは大いに慌てた。
「ちょっ、待て!」
必要以上に勢いよく後ずさってしまったせいだろう。
鈍い、ゴツッという音がした。
後頭部を押さえてカルヴィンが踞る。
「~~っ!」
「大丈夫!?」
焦って心配するマリオンに、カルヴィンは言葉も出せないようだった。
建物の壁から掲げられていた食堂の看板に思い切り頭をぶつけたのだ。通りかかった人がうわぁと痛そうな顔をするくらい派手な音をさせて。
「だい、じょうぶ、だ」
ちっともそうは見えないが、見栄があるのかカルヴィンは歯を食いしばって答えた。俯いているので表情はわからないが、耳が少し赤くなっている。
「ごめんなさい。わたしが驚かせたから」
さっきから何度もやらかしているマリオンは顔色が悪くなってきた。声に悲壮感が漂っていたからだろう、カルヴィンが顔を上げて平然とした表情を作る。
「別にどうってことない」
「……うん、ごめんなさい」
いくら何でもそれを真に受けるわけにはいかないマリオンは項垂れる。するとカルヴィンが手を頭から離して立ち上がった。
「マリオン」
「え?」
「案内してくれるんじゃないのか?」
まるでさっさとしろと言わんばかりの口調だったが、この場面ではそんな意味ではないのだとわかる。ちゃんと名前を呼んでくれたのだから。
やっぱり優しい。
カルヴィンのほうは照れ隠しもありかなり気まずかったので目を逸らしていて知るよしもないが、この時のマリオンはより一層、熱の籠った眼差しを向けていた。
「ちゃんとするわ。もう余計なこと言わない」
「……ああ」
そうして再び歩き出そうとした時、前方から少年の声がした。
「マリオン? 何やってんだ?」
「アルノー!」
煤だらけの仕事帰りらしきアルノーが不思議そうな顔をして立っている。
「カルヴィンじゃねーか。じゃあ、連れてきてくれたのか」
マリオンの背後に赤毛の青年を見つけたアルノーは明るく笑う。カルヴィンはあからさまにホッと安堵した。
「ちょっと聞きたいことがあったんだ。今から時間とれるか?」
「ああ、でも一旦家に帰らなきゃいけないし、うちだとゆっくり話なんかできねーし……マリオン、カルヴィンとセーネ広場で待っててくれねーか?」
「ええ、大丈夫よ」
これでお別れとならなかったせいだろう。嬉しそうなマリオンに、カルヴィンは複雑そうな顔をしている。それを見たアルノーは理由がわからず首を傾げた。
「じゃあすぐに行くから待っててくれ」
そしてアルノーが急いで家へ戻って、体の汚れを落としてからセーネ広場にやって来ると、じっとカルヴィンを見つめているマリオンと、そんなマリオンから目を逸らしながらも、たまに視線を向けてしまい、目が合ってまた慌てて目を逸らし、なぜか顔をしかめようとしているカルヴィン、という大変わかりやすい構図が出来上がっていた。