17 代償
喧噪が遠くから聞こえる。
陽気な笑い声や喧嘩をしているかのような怒鳴り合う声、客引きの高い声。聞き慣れたそれらに引っ張られるようにマリオンの意識が浮上した。
薄暗い部屋の中で漏れるのは窓の外のガス灯の光。その光はいつも自分の部屋で感じているものよりも明るい。
マリオンはここがどこだかすぐには思い出せなかった。とても深い眠りから目覚めた気分だった。だが、暗くてもこの部屋にベッドや窓があるということはわかる。そしてそれらが薄暗いせいではっきりとは見えないということが、闇の世界ではなく元の場所に戻ってきたのだという実感になった。
ここは宿屋だ。オペラ座通りの。
床に寝そべっていたマリオンは体を起こした。同時に隣で立ち上がっていたカルヴィンが手を伸ばしてくれたので、捕まって立ち上がる。
「大丈夫か?」
「うん、平気よ」
感情がこもっていないようでいてよく聞けば気遣わしげな気配がある。マリオンにとってはカルヴィンやギィの隣よりも安全だと思える場所はないから、安心させるようにしっかり頷く。
イヴォンヌはどこだろうかと辺りを見回すと、彼女は床に座り込んだまま呆然としていた。まるで寝ている間に遠く離れた見知らぬ場所に連れて来られたかのような反応だ。
「イヴォンヌ、ここどこだかわかる? というより全部覚えてる?」
マリオンは覚えているかどうかよりも、あれが現実に起きたことであると理解しているかと聞いたほうがよかったかもしれないと思った。この世界に戻ったことで、イヴォンヌはあれらが夢であったと判断してもおかしくはないだろう。それだけ現実味のない世界にいたのだから。
「ここ……」
「宿屋よ。イヴォンヌ、ここで悪魔に眠らされたでしょう」
イヴォンヌは目を見開いてマリオンを見た。やっぱり夢だと思っていたのかもしれない。彼女はしばらく言葉も出ないようだったが、あることに気づくと、ヒッと悲鳴を上げて後退った。視線の先にはギィがいる。
「それ……」
「ギィよ。助けてもらったでしょう」
怖がるイヴォンヌにマリオンは非難の眼差しを向ける。
「悪魔じゃないの?」
「さあ、どうかしら」
肯定すれば面倒なことになるかもしれないと思ったマリオンは誤魔化した。あまりにも杜撰な誤魔化し方だったが、イヴォンヌは今は余計なことを考える余裕がないのか、それ以上追求することはなかった。
「あの悪魔……どうなったの?」
「今は少し弱っているから、追いかけては来られないだろう。だがあの悪魔は弱くない。一時的なものだ。いつかあんたのもとにもう一度来る。それが明日なのか、一年以上後なのか、俺たちにはわからない」
イヴォンヌは縋るような目をした。口を開きかけた彼女を遮ってカルヴィンが言う。
「もう一度追い払うことはできない。今回はギィの目的もあったから、ギリギリで悪魔の暗黙のルールから外れなかった。だからこそついでにあんたからあの悪魔を一時的に追い払えただけだ」
「でも……! やろうと思えばできるんじゃないの!? それじゃあ、あたし……!」
「自分でしたことの始末は自分でつけろ」
カルヴィンは怒っていたわけではなかった。しかし彼の言葉はイヴォンヌの胸に突き刺さったようだった。肩を落として項垂れる。
「あれ……やっぱり本当にあったことなの?」
「そうだよ。イヴォンヌは本当ならもうあの悪魔に魂を喰われていたかもしれないの。カルヴィンとギィが助けてくれたのよ」
「でも! もしかしたら明日またあの悪魔が来るかもしれないんでしょう!」
泣きそうな声で言うイヴォンヌの目の前に、カルヴィンが紙を突きつけた。悪魔の契約書だ。イヴォンヌは驚いて口を閉じる。
「危険な賭けだが、あんたが助かるかもしれない可能性はある」
「え……?」
「この契約書を破けばいい」
「え……」
意味がわからない。そんな顔をしてイヴォンヌはカルヴィンを見上げた。理解が追いついていないイヴォンヌに代わって、マリオンが尋ねる。
「その契約書を破いたら、契約者の人間が死ぬことになるんじゃないの?」
「そうだ。この契約書が、契約を交わした人間であると判断した人間は死ぬことになる」
普段から冷静に話をするカルヴィンが、更に感情をなくした声でイヴォンヌに向かって言った。
「つまりその時点で、この契約書がイヴォンヌという名前があんたの偽名だと判断しているのか、本名だと判断しているのかわかるんだ。逆に言うと、そこまでしないとわからない。この契約書を破けば、その瞬間にあんたは死ぬかもしれない。でもマリアンヌがあんたの本名だと契約書が判断していたのなら、あんたは悪魔と契約などしていないという証明になる。破れた契約書を突きつけて、魂を喰われるいわれなどないと言ってやればいい。悪魔は手出しできなくなる」
イヴォンヌの顔色がみるみる青くなった。
「本名だったらすぐに死ぬってことじゃないの?!」
「そうだ。だからあんたの好きにすればいい。何もせずに悪魔がもう一度やって来るのを待っていてもいいし、賭けに出て契約書を破くこともできる。それはあんたの自由だ」
「何それ、ねえ、つまりどういうこと?」
混乱したイヴォンヌが頭を抱える。
「明日にでも魂を奪いに来るかもしれない悪魔をただ待っているか、その前に契約書を破いて生きるか死ぬかの賭けに出るか、ということだ」
再度カルヴィンに説明されたイヴォンヌは、ようやく理解したらしい。あまりにも非情なこと告げられたかのように呆然とした。
イヴォンヌの心情を考えれば、そう思うのも無理はないことだろう。しかしマリオンはカルヴィンにそんな顔を向けないでと言いたくなった。絶望的な状況でも諦めずにイヴォンヌが助かる方法を探そうとしてくれたのだ。その結果がこれであり、もうこれ以上はどうしようもないに違いない。
「どうなるかわからないの?」
「そうだ」
端的に肯定するカルヴィンを見上げてイヴォンヌは自嘲した。
「これが代償ってこと? 母親を殺したことの」
今度はカルヴィンは答えなかった。
「そうよね。それだけのことをしたっていうことだわ。あたしがこれから主演女優になる夢を叶えるには、死ぬ覚悟を決めてからこの契約書を破いて、イヴォンヌじゃないっていうことを証明しろってことでしょ」
イヴォンヌは読めない契約書をじっと見つめた。どこか遠くを見つめるような表情は彼女が後悔をしているのか、自分の人生を恨んでいるのか、あるいはもっと別のことを考えているのか、想像することもできなかった。
「……マリアンヌだと証明されたらどうなるの?」
やがてぽつりと呟いたイヴォンヌが何を聞いているのか、マリオンはすぐにはわからなかった。彼女はもう一度同じことを繰り返した。
「あたしがマリアンヌだと証明されたらどうなるの?」
「悪魔と契約したのはあんたじゃないんだから、魂を喰われることはなくなる」
先程と同じような説明をしたカルヴィンに向かって、イヴォンヌは少し苛立ったように首を傾げる。
「だからどうなるのよ」
「どうもならない。寿命で死ぬか、もしくは悪魔とは全く関係ない理由で死ぬかだ。それまで主演女優を目指すなり、好きに生きればいい」
「え……?」
イヴォンヌはぽかんと幼子のように口を開いた。ただ純粋に驚いていた。
「何も起きない……ってこと?」
「そうだ」
「そうだ、って。何、言ってるの……。だってあたしが悪魔にあいつを殺してって言って……だからあいつは死んだのよ!」
「それを願ったのがあんたじゃないことになるなら、代償を払う必要はなくなる」
イヴォンヌは息を飲んだ。カルヴィンが聞いたこともない奇妙な言葉で話し出したかのように顔を歪ませる。
「あたしは……母親を殺してもらって……」
「罪を犯せば、代償が必要になる。それは人間の理屈だ。悪魔には通用しない」
カルヴィンは眉間に皺を寄せて、厳しい口調で言った。
「現にあんたは本当の願いをねじ曲げて叶えたことにされて、対価なんてもらっていないのに代償を払わされそうになっただろう。普通の悪魔というのはそういうものだ。人間の価値観など関係ない存在なんだよ。だからこそ、もし人間が悪魔をやり込められたなら、願いを叶えてもらいながら代償を払わない、ということだって起こりえる」
「そん、な」
強いショックを受けたようにイヴォンヌは自分の体をかき抱いた。彼女は邪魔な母親がいなくなって、寿命が尽きるまで生き続けられるかもしれない可能性があることを、喜びはしなかった。
「それが耐えられないなら、自分で警察に出頭してみるのもいいんじゃないか。この辺りの警官なら、禄に捜査なんてせずに刑務所に送ってくれるかもしれない」
皮肉ではなく、カルヴィンはただ提案をしているのだということはマリオンにもわかった。罪悪感に押し潰されて、まともに生きていけなくなる人間だっているだろうから。
イヴォンヌはどうすればいいのかわからない顔をしていた。当たり前だ。こんなこと、すぐに決められるわけがない。
「じっくり考えてみればいい。ただし、どうするか決めかねていると悪魔が魂を喰いにやって来るかもしれないことは覚えておいてくれ。もう夜も深いから、俺たちは帰る」
「え……」
一人残されることがわかったからか、イヴォンヌは戸惑った声を出した。
「もう何もできることはない。後はあんた次第だ」
唇を引き結んだイヴォンヌが、マリオンには泣き出しそうにも見えた。
ここで別れるのは後ろ髪を引かれるが、もう大分遅い時間だから帰らないわけにはいかない。そしてきっとこれが最後なのだ。マリオンが今後イヴォンヌに会うことはないだろう。
今朝までの、花畑で仕事をしていたイヴォンヌの姿をマリオンは思い出していた。
すぐに泣く女を馬鹿にするするところがあった。後輩をこき使って自分は楽をして、先輩の姉さんたちには気に入られようといい格好をしていた。そして祖母のおかげで目を掛けらているマリオンを酷く嫌っていた。
好きになれる要素はほとんどなかった。
マリオンは床に座り込んだままのイヴォンヌの前に立った。屈み込んで訝しげな目をじっと見る。
「わたし、あんたのこと嫌いだったわ」
唐突に告げたマリオンに、イヴォンヌは想像していた言葉と違っていたからか、驚いた顔してからどんどん嫌そうに顔を歪ませていった。何かを言い返そうとしていたが、その前にマリオンが口を開く。
「でも今は嫌いじゃないかもしれない」
「……はあ?」
何を言っているんだこいつはという顔に、マリオンはちょっと笑った。
「あのねえ、あたしはあんたのこと大っ嫌いなのよ」
「そうでしょうね」
自分の母親をマリオンの母親ということにして、マリオンに母殺しの冤罪をかけようとしていたくらいなのだから、大嫌いに決まっている。うまくいけばマリオンは捕まってから死罪になっていたかもしれないのだ。
だがイヴォンヌがそこまで深く考えていたとは思えないし、やり方が下手くそすぎてどうにもなっていない。でもこれはあの時の仕返しなのだと思うことにした。
「ねえ、さっきも言ったけど、わたし性格が悪いのよ」
「……そうね」
「だから言うわ。あんたの夢が叶うことを願ってる」
イヴォンヌは目を見開いて言葉を失った。
そんな彼女の表情を見て、本当に性格が悪いなぁと、マリオンは心の中で呟いた。何の咎もなく生きられるかもしれないことにショックを受けていた彼女だ。もしそうなっても幸せな人生とはならないだろう。それにその選択をするには、死の恐怖に抗わなければいけない。それはとてつもなく困難なことだと、容易く想像がついた。
死んでほしいわけではない。でも花売りであることを拒絶して悪魔に魂を売ったイヴォンヌだ。ただ、いつ来るかわからない悪魔に怯えながら僅かな間、無為に生きるという選択をしてほしくなかっただけ。
夢を叶えるには契約書を破る以外の可能性はほぼない状態だが、そうしろと言いたいわけでもなかった。それは多分伝わっていないだろうが、それでいい。イヴォンヌはマリオンがそうしろと言ったからといってそれを素直に実行するような性格でもない。嫌な奴だが、彼女には彼女なりの信念がある。
「……嫌味なの? 劇場に必要ないって言われたのよ」
「劇場は一つじゃないじゃない。あんた、結構諦め早いのね」
イヴォンヌはマリオンを睨み付けた。
「じゃあね。わたしもう帰るわ」
「さっさと帰りなさいよ。何なの、あんた」
マリオンは立ち上がった。もう挨拶は済んだという意味を込めてカルヴィンに笑いかける。あっさりしたものだが、カルヴィンは特に何も言わずに頷いた。
部屋の扉を開く。階下で騒ぐ人々の声が大きくなった。夜が更けるにつれてオペラ座通りの喧噪は静まるどころか更に増している。
マリオンは去り際にまだ睨んでいるイヴォンヌに向かって手を振った。