16 契約書
「マリオン、ギィ!」
切羽詰まったような声が聞こえた。来てほしいと願っていた声に、マリオンは急いで振り返る。そこには点火棒を持って走って来るカルヴィンがいた。
ほっとするマリオンとは裏腹に、カルヴィンは見たこともないほど焦っている。
「マリオン、無事か!?」
とても心配していたことがわかる表情に、マリオンはぎこちなく頷いた。はっきり無事とは言い難いのだが、こんな顔をされて正直に答えることはできない。
安堵の息を吐いたカルヴィンがギィに目を向けた。
「ギィ、落ち着け。どうしたんだ」
≪マリ、弱ッテル。コイツ、虐メタ≫
せっかく隠したことを即座にばらされたマリオンは、真偽を問うような視線を向けてくるカルヴィンに困った顔をする。しかし悪魔を庇う必要もないかと思い直した。
「……うん、酷いこと言われた」
力なく笑うマリオンにカルヴィンは険しい顔をするが、彼らが来てくれたおかげでマリオンは張り詰めていた神経を緩めることができた。もう大丈夫だ。
「マリオン、何を言われたかわからないが、こいつらが言うことに意味なんかない。気にする必要なんかないんだ」
気遣いながらもはっきりと言い切るカルヴィンに、マリオンは抱きついて泣きたくなった。彼の言うことなら本当のことだと思える。
「父さんと母さんは悪魔に魂を喰われたんだって……わたしは生贄にされているんだって言われたの」
カルヴィンの眉間に皺が寄って怖い顔になる。
「生贄なんてそんなことあるわけないけど、でも悪魔に喰われたっていうのは、もしかしたらそんな可能性もあるかもしれないって思ったの。わたしはそれがすごく悪いことのように思っていたから、いつも疑われたらすごく怒っていたけど……でもアルノーだって何も悪いことなんてしていなかったのに、いつの間にか悪魔と契約していた。そのことをちゃんとわかっているはずなのに、矛盾しているね」
本当のことなんてもう確かめられない。しかし自分の思いを口にしながらマリオンは気がついた。アルノーのことはすぐに受け入れられて、両親のことはまだ受け入れられそうにない理由。それはどんな事情があったにせよ、両親が自らマリオンを置いて亡くなったということが納得できないからだ。周囲の大人たちの反応のせいだけではない。二人の意思でマリオンを置いて死ぬことを選んだわけではなく、どうしようもない理由で亡くなってしまったのだと思いたかったからだ。
「マリオン、重要なのはそこじゃない。どんな風に亡くなったかということにばかりこだわるな。どう生きていたかが重要だろ。君にとっては生きていた頃の両親がどんな人たちだったかのほうが大事なんじゃないのか」
マリオンははっとしてカルヴィンを見た。
もう亡くなって十年以上が経つ。記憶があるのはマリオンが幼い頃のものだ。しかしこの大切な記憶が悪魔が言うような偽りのものではないことを、マリオンは確信できるのだ。
だって、父とよく似た面影を持つ祖母が、今でもそっくりな口調で言ってくれるのだから。
――マリオン、私たちの天使。
まるでもう言葉にすることができない両親の代わりのように。
「うん……そうだね」
心の底からその通りだと思った。亡くなった理由にこだわって、大事なことを見失ってはいけない。
「ありがとう、カルヴィン。もう大丈夫」
マリオンは作り笑いではない笑顔をカルヴィンに向けた。厳しい顔をしていたカルヴィンが表情を緩めて、自然な動きでマリオンを抱き寄せると、すぐに離した。
「……ギィ、消滅させるのはまずいんじゃないか」
何事もなかったかのように、カルヴィンがマリオンの肩越しから声をかけた。
今まで止めなかったのは恐らくわざとだろう。猿と蝙蝠のような悪魔は最初の反撃が精一杯だったのか、ほうほとんど抵抗できず苦しそうにもがいている。首だけ振り返ったギィは不服そうだ。
≪……消サナイ≫
消しはしないがその直前まではするという意味が込められていそうな言い方だ。
「そいつじゃなかったのか?」
≪違ウ≫
ギィが探している、尻尾を奪った悪魔のことを話しているのだろう。つまらなそうにギィは否定した。
「なら、どうするか……」
思案するカルヴィンに、恐る恐るという態度でイヴォンヌが声を掛けた。
「ねえ……そいつ殺してくれるんじゃないの? これ、どういう状況なのよ?」
ギィや猿と蝙蝠の悪魔を警戒しているのだろう、彼らから隠れるようにマリオンの背後で一人蹲っている。
「殺しはしない。そんなことをすればギィがもっと大物の悪魔に消されるかもしれない。そこまで危険を犯すつもりはない」
「え、じゃあ……あたしはどうなるの?」
「ここから出られたら、主演女優になるまで生きるという願いを叶えてやるとは言っていたが……」
そんなことがあるわけないと確信しているように、カルヴィンは目を眇めて悪魔を見る。
≪誰ニ言ッタッケナァ。ソノ、母殺シノ娘デナイコトハ確カダナァ。ゲギャギャ!≫
「……まあ、名指しはしていなかったな」
予想通りの展開に、カルヴィンは溜め息を吐く。
「あんた、さっき主演女優になる夢を見なかったか?」
「え? あ……」
ここに来る前の会話を思い出したのだろう、イヴォンヌの顔色が悪くなった。
「み、見てない」
≪嘘ヲ吐ケェ。気持チ良サソウニ、舞台ノ真ン中デ、歓声ヲ浴ビテイタダロウ?≫
揶揄するように悪魔が言う。イヴォンヌはますます顔を青くさせていた。
「でも! あんなのは夢じゃないの。あたしは……!」
「それ以上余計なことは言うな」
カルヴィンが強く遮った。悪魔のことをよく知らないイヴォンヌが、迂闊なことを言って状況が悪化することを危惧したのだろう。
「ギィ、契約書を確認してくれ」
頷いたギィが契約書を出すように悪魔に命令すると、抵抗することもなくむしろ喜々として、悪魔はどこからともなく分厚い羊皮紙のようなものを出現させた。
≪確カメテミロ! コレハ正式ナ契約ダ! 小娘ノ願イハ母親ヲ殺スコト! 俺ハ願イ通リ、コノ娘ノ母親ヲ殺シテヤッタ! 魂ヲ渡ス時期ハ、小娘ガ主演女優ニナッタ後! コノ娘ハ先程、確カニ夢ノ中デ、ギャアア!≫
≪ウルサイ≫
騒ぐ悪魔をギィが手に力を込めることで黙らせた。可愛らしく淡々をしているギィが不気味な悪魔を押さえつけているのはどこか異様は光景だ。
「ギィって……強いんだね」
「いや、元々ここまで強くなかったはずだ。今は怒っているからだと思う」
「そうなんだ」
そのことも気にはなったが、今は契約書のほうが気になる。マリオンは悪魔の文字で書かれている契約書を読んでいるギィを見ながら尋ねた。
「ねぇ、あれって破けないよね?」
≪コレハ、破ケル。デモ、破クト、契約者ノ人間ハ死ヌッテ書イテアル≫
マリオンはイヴォンヌを見た。彼女はぶんぶんと首を振っている。知らなかったのだろう、読めもしない契約書に署名する迂闊さを再び怒りたくなる。
「ちょっと待て」
何かに気づいたようにカルヴィンが口を開いた。契約書をじっと見つめる姿に、彼も悪魔の文字を読めるのだろうかと思ったが違った。
「その署名、イヴォンヌと書いていないか?」
「え……? あ!」
それはそうだろうと思いながら契約書を見たマリオンも、知っているイヴォンヌのフルネームが記載されているのを見て、気がついた。
「あんた、本名はマリーと呼ばれる名前じゃないのか」
≪ハ……?≫
悪魔が間抜けな声を出した。全く予想していないことを言われたという反応だ。
≪オ前、人間ノ文字、読メナイクセニ、署名サセタノカ、馬ー鹿≫
ギィが楽しそうにからかうと、悪魔は目を吊り上げて怒気を顕わにした。
≪人間ナド、下等ナ生物ノ文字ヲ、悪魔ガ知ル必要ナドナイ! オ前、正式ナ名前ヲ署名シロト言ッタダロウガァ! ソンナコトノ意味モワカラナノカ、コノ愚図ガァ!≫
憤怒の表情で悪魔はイヴォンヌを罵った。わざとイヴォンヌが本名を書かなかったとは思わないようだ。今までの彼女の態度からしてその通りではあるのだろうが。
「だって……もうマリアンヌという名前は捨てたんだもの。あいつに見つからないようにって、ずっと使っていなかったから、だから今はイヴォンヌが本名だと思って……」
状況がよくわかっていないイヴォンヌは、悪魔の剣幕に怯えて言い訳をする。
「まあ、悪魔にとってはどちらが本名かなんて悩むようなことではないからな」
「これって契約無効ってこと?」
イヴォンヌは死なずにすむのか、そんな期待を込めてマリオンが尋ねると、カルヴィンは首を振った。
「いや、通名が本名に成り変わるということも人間にとっては現実にある。彼女が本当にマリアンヌという名前を捨てていたなら、この契約書は有効だ。だが悪魔との契約には公証人が介入しているわけではないから、第三者に判定してもらうことはできない。判断するのはこの契約書そのものなんだ。悪魔っていうのは契約には縛られる存在だから、結ぶ前に悪魔に有利になるような契約を結ぶことができたとしても、契約後に悪魔が有利になるような判定が下ることはない。だからイヴォンヌというのが彼女の偽名なのか本名なのか、契約書がどういう判断をするのかは誰にもわからないな」
「えっと……その契約書に尋ねたら偽名なのかどうか答えてくれるなんてことはないわよね。実際にそういう場面にならなければ、わからないってこと?」
「いや、たとえ契約が不完全なものだったとしても、悪魔が彼女の魂を喰うという行為そのものはできるかもしれない。契約書は契約が履行されない時のためのもので、契約が完全なものであるという証明でしかないからな。重要なのはこの悪魔と彼女の間で交わされた契約が無効なものであると証明することだ」
「……何だかわからなくなってきたわ。どうすればいいの?」
するとカルヴィンは考え込むように黙ってしまった。希望が見えたと思ったが、そんなに簡単な状況ではないらしい。
「そうだわ。アルノーの時みたいに、この悪魔の名前を言って、悪魔と契約したのはマリアンヌじゃないって言ったら悪魔の印が消えないかな」
「いや……あれはそもそも力の弱い悪魔がかなりあやふやな契約をしていたからできたことだ。試してみるのもいいと思うが、期待はしないほうがいい」
「試すだけ試してみようよ。ギィ、その悪魔の名前、教えてちょうだい」
≪クヌェガロ≫
マリオンはアルノーの契約が解消された時と同じようなことを言って、イヴォンヌに復唱するように促した。
「……あたしはマリアンヌ。クヌェガロと契約したイヴォンヌじゃない。これでいいの?」
意味がわからないながらもイヴォンヌは素直に口にする。マリオンはイヴォンヌの袖を捲り、署名を確認した。
「……残ってる」
「ああ、だかこの世界にいるにしては薄い。今すぐに魂を喰われない程度には、彼女が自我を保てている状態だ」
「これってやっぱりイヴォンヌの本名はイヴォンヌだと判断されているってこと?」
「いや、この方法でアルノーの時にうまくいったのは、あれが契約と呼べるかどうかも怪しいようなしょぼい契約で、契約が交わされたという証拠がアルノーの体に刻まれた署名しかなかったからだろう。この場合強力なのはやはり契約書で、この方法では契約書が偽名だったという証明にはならないだろうな」
静寂が広がった。マリオンは懸命に頭を捻るが、他に方法など思いつかない。自分が窮地に立たされていることは理解していても、状況がわかっていないイヴォンヌもきょろきょろを首を動かしながら無言だ。
マリオンはふと悪魔まで口を閉ざしていることを疑問に思った。
この悪魔なら悩むマリオンたちを馬鹿にして煽るくらいのことはしそうなのに。偽名かもしれないことを気づかなかったのが、そんなに堪えたのだろうか。
悪魔に目を向けてみたが、しゃべれない状態にされているわけでもない。
≪カル、切ッテ≫
「ああ、そうだな」
おもむろにギィがそう言うと、カルヴィンが頷いて彼らに近づいた。
≪何ヲ……ギ、ギャアアァァ! ヤメロ! ヤメロ、切ルナァ!≫
カルヴィンは躊躇うことなくクヌェガロの尻尾に点火棒の銀の部分を何度も突き立てた。
「え? 何、何?」
あまりの声にイヴォンヌが耳を塞いで怯える。二度目のことなので、彼らが何をやっているかわかっているマリオンは、宥めるようにイヴォンヌの肩を叩いた。苦しそうな声が響いているが、あの悪魔に同情する気は起きない。
≪捨テテ来ル。帰ロ≫
「ああ、そうだな」
尻尾は切れたようだ。黒くてよく見えないが、何かを掴んだギィが地面に沈んでいった。
「あの悪魔は?」
「逃げたよ。少しの間だけだろうが、今は何もできないはずだ。今のうちにここから出よう」
マリオンとイヴォンヌは顔を見合わせた。