15 悪魔との繋がり
何が起きたのかわからなかった。ただ、表の世界からこの闇の世界に来る時の感覚とよく似たものを感じていた。
だからこそ、カルヴィンが灯した光があるはずの視界が黒一色になったいたことにマリオンは驚いた。さっきまでいた場所も闇の世界のはずなのに。
「うぅ……」
呻き声が聞こえて首を巡らせると、左腕を押さえて蹲るイヴォンヌがいた。
「イヴォンヌ、どうしたの!?」
「腕が……痛い」
絞り出すように言うイヴォンヌに、相当な痛みなのだと思ったマリオンは状態を見るために彼女の手をはずさせて袖を捲りあげた。
「これ……」
そこにあったのは文字のような形の痣だった。
似たものを見たことがある。アルノーの首元に書かれていた悪魔の署名だ。これは恐らくあの猿と蝙蝠のような悪魔がイヴォンヌに付けたものだろう。
しかしマリオンは悪魔の文字など読めないし、読めたとしてもあの時とは状況が違うから意味はないだろう。問題なのは、この署名がある箇所をイヴォンヌが痛がっていることであり、その理由がわかりそうなカルヴィンもギィも、ここにはいないということだ。
繋いでいた手を離してしまったのは、カルヴィンがガス灯を点火するためだったが、周囲が明るくなっていったせいで油断していたのかもしれない。近くにはいたが、彼の手が届くほどの距離ではなかった。ここにいるのはマリオンとイヴォンヌだけ。
いや、違う。今の状況を考えて、マリオンは最悪な気持ちになった。
≪ヤッパリナァ≫
甲高い、耳障りな声がした。オレンジがかった白く丸い目が不気味なほど目立つ。
≪ヤッパリオ前、契約者ジャナイカァ≫
酷く楽しそうな声だ。いたぶるための新しい玩具を見つけたと言わんばかりの。高い場所からマリオンたちを見下ろした猿と蝙蝠のような悪魔は、ゲギャギャと嗤った。
≪オ前、母殺シノ娘ヲ非難シテオイテ、オ前モ悪魔ト契約シテイルノダロウ?≫
「え?」
自分に向けられた言葉だとすぐには気づかなかったマリオンは、何を言われているのかわからないという意味を込めて聞き返した。
≪俺ハ、ソノ契約者ノ娘ダケヲ、ココヘ連レテ来タンダゾ。デモ、オ前ガ勝手ニ付イテ来タ。タダノ人間ナラ、ソウハナラナイ。コノ世界ハ、人間ガ簡単ニ移動ナドデキナインダゾ。悪魔ト繋ガリガアル人間デナケレバナァ。ツマリ、オ前ハ契約者ダロウ。隠シテイテモ、ワカルゾォ≫
また悪魔が人を絶望させるために適当なことを言っている。そう思ったマリオンは慎重に口を開いた。
「何を言っているのよ。わたしはギィと友達なだけで、悪魔と契約したことなんてないわ。それよりもあなた、イヴォンヌに何をしたの」
≪悪魔ト友達ダトォ!≫
可笑しそうに悪魔はギャアギャアと嗤った。
≪ヤハリ、出来損ナイノ悪魔ダナァ、アレハ!≫
楽しそうな悪魔の相手をするのが馬鹿らしくなり、マリオンはイヴォンヌの様子を見た。幸い、痛みは引いてきているようで全身から力を抜いている。
≪オ前モ愚カダナァ。悪魔ノ繋ガリハ、ソンナモノデハナイゾォ。オ前ハ、アノ出来損ナイノ悪魔ト友達ダカラ、母殺シノ娘ニ引キ摺ラレテ、ココニ来タワケデハナイゾォ≫
マリオンは無視をしようとした。自分一人では何もできないが、この悪魔の近くにはいるべきではないと思い、イヴォンヌを支えて立たせようとする。しかし、耳障りでやけに反響する声は嫌でも耳に入ってきた。
≪悪魔ト繋ガリガアルトイウノハナァ、悪魔ト契約ヲシテイルトイウコトダゾォ。アノ出来損ナイト、契約シテイルノハ男ノホウダロウ。ソレナノニ、ナゼ、オ前ハコノ世界ニ来レタンダァ? 別ノ悪魔ノ、契約者ダカラダヨナァ≫
嘘を吐いて不安を煽っているだけだ。身に覚えが全くないマリオンはそう確信していた。疑いの目を向けてくるイヴォンヌを睨みつける。
「違うわよ。なんでそんなに簡単に悪魔の言うことを信じるのよ、あんたは」
ムッとしたイヴォンヌは顔を逸らした。少し気まずそうな顔をしていたから、マリオンの言い分を信じたのだろう。
だが悪魔の言葉は止まらず、より悪質になっていく。
≪ソウカ! 契約者ダケデハナイナァ、悪魔ト繋ガリヲ持テルノハ! オ前、生贄ダナ!≫
「え?」
あまりに不穏な言葉に、マリオンは悪魔のほうを見た。嫌らしく口角を上げて、獲物を狩るような目をしていた。
≪誰ニ、差シ出サレタンダァ。親カ、兄弟カ、友人カァ? 可哀想ニナァ。オ前モ、モウスグ魂ヲ喰ワレルノカァ≫
「何を……」
言い返そうとしたマリオンは、すぐに口を閉じた。相手にしてはいけない。生贄だとか、もうすぐ喰われるだとか、強烈なことを言われているからどうしても気にはなるが、それこそが悪魔の思惑なのだろう。
そんなことよりも、今はどうすればカルヴィンたちの元へ戻れるのか、そのことを考えなければいけない。
≪誰ニ、生贄ニサレタンダァ。ヤハリ、親カァ? ソレガ一番、多イカラナァ≫
マリオンの頭にカッと血が上った。まともに取り合ってはいけない。そんな冷静な考えは頭の隅に追いやられていた。両親を侮辱されることだけは許せない。
「わたしの父さんと母さんは、悪魔と契約なんかしないわ」
正面から睨み付けたマリオンに、悪魔は嬉しそうに翼を揺らした。
≪ドウダロウナァ。人間ハ、スグニ嘘ヲ吐クゾォ≫
「あんたに言われたくない! それに父さんも母さんもずっと前に亡くなったのよ。わたしを生贄なんかにしているわけがない! そんなことするわけもない! 二人とも素晴らしい人たちだったんだから、侮辱しないで!」
≪ホゥ、ドンナ、死ニ方ヲシタンダァ?≫
マリオンは言葉に詰まった。
外傷もなく眠るように亡くなったと言えば、悪魔に魂を喰われたんだと決めつけられるに決まっている。しかし病気だとか事故だとか嘘を言えば、こんな最低な存在に両親が負けたみたいで嫌だった。
言い返せないマリオンの表情に、こんな時には察しのいい悪魔が大声で嗤う。
≪ヤハリ、親カァ。酷イ親ダナァ。娘ヲ生贄ニ差シ出スナンテ、ナンテ酷インダァ≫
「父さんと母さんはそんなことしない! わたしのことすごく大事にしてくれたんだから! 馬鹿にしないで!」
「ちょっと、マリオン……」
激高するマリオンに不安を覚えたイヴォンヌが呼びかけるが、マリオンの耳には届いていなかった。
≪本当カァ? 人間ハ、スグニ自分ノ記憶ヲ改竄スルカラナァ。ロクデナシノ親ダッタコトヲ、覚エテイタクナカッタンダロウ? 辛カッタンダロウ? ダカラ、親ガ自分ヲ大事ニシテクレタ記憶ヲ作リ出シテシマッタンダヨナァ。辛カッタンダヨナァ!≫
「いい加減にしてよ! あんたなんか父さんと母さんのこと何にも知らないくせに、でたらめばっかり言わないで!」
≪オ前コソ、親ノ何ヲ知ッテイルンダ?≫
心底不思議そうに、悪魔は真横に首を傾げる。
その時、マリオンはなぜか体がすっと冷えたような気がした。
≪子供ニ隠シ事ヲスル親ガドレダケイル? 醜イ本性ヲ隠シテイル人間ガドレダケイル? 子供ヲ騙スコトナド簡単ダゾォ。ヨク、思イ出シテミロ。オ前ノ両親ハ、ドンナ死ニ様ダッタンダ?ァ≫
心臓が早鐘を打つ。
それはマリオンが考えないようにしていたことだった。
両親が酷い人間だったかもしれないなんて、そんなことは疑ってはいない。でも、アルノーとイヴォンヌが悪魔と契約してしまった経緯を思えば、倫理観のない人たちや意思の弱い人ばかりが悪魔に唆されるわけではないことは理解できた。
両親がいくら幸せそうに暮らしているように見えても、悪魔と契約する可能性が微塵もなかったとは言い切れないのではないか。子供だったマリオンには見せないようにして、本当は不幸なことがあったのではないか。本当は悪魔に付け入られるようなことがあって、悪魔が契約を履行したと判断したから、彼らは亡くなったのではないか。
眠ったように。二人で。魂を喰われて。
ずっとそのことを否定してきたのは、周囲の大人たちが悪魔と契約することを悪行のように言っていたからだ。父も母も非難されていいような人たちではなかったから、そんなことはしていないんだと否定し続けていた。
しかしマリオンはもうわかっている。どんな人だろうと関係ないのだ。魂を差し出すほどの願いを持っていなかったアルノーでさえ、契約してしまったのだから。
それでも両親が悪魔に魂を喰われたのかもしれないと考えるのは抵抗があった。自分が知らない、両親が隠していた真実があるのかもしれないと思いたくなかった。だから首を振る。
「……違うわ」
≪デハ、ナゼ、オ前ハ悪魔ト繋ガリガアルンダ? 生贄ダカラダロウ? オ前ノ親ハ、自分ラダケデハナク、大人ニナッタ娘ノ魂ヲモ、悪魔ニ差シ出シタノダ!≫
「違う!」
マリオンはイヴォンヌから手を離して両耳を塞いで目を閉じた。これ以上は聞いてはいけないと思った。反論するごとに悪魔は最悪の可能性を提示してくる。僅かでも否定しきれないことに気がついてしまうと、カルヴィンもギィもいない暗闇の中では、悪魔に立ち向かうことが恐かった。
二人の娘が自分から目を離した隙に、悪魔は音もなく飛んだ。ゆっくりと降りていくのはイヴォンヌの背後。
≪オ前ト、逆ダナァ。親ニ殺サレソウナ娘ト、親ヲ殺シタ娘≫
小さな囁きはイヴォンヌの耳にだけ入り込んだ。目を見開いたイヴォンヌが振り返り、予想以上に近くいあった悪魔の顔にひっと悲鳴を上げる。
≪コノ娘ハ可哀想ダナァ。親ノ願イノセイデ、殺サレル≫
「……マリオンは……違うって言っているわ」
≪本当ニソウ思ウノカァ。コノ姿ヲ見テモ?≫
悪魔につられて視線を戻したイヴォンヌは、耳と目を塞いで、悪魔の発する言葉を拒絶するマリオンを見た。それは真実を指摘された人間が、必死でそのことを認めまいとしている姿にも見える。
言い返せないイヴォンヌに満足した悪魔は、マリオンの正面に移動した。
≪可哀想ニナァ。オ前ハ何モ悪クナイゾォ。何モ悪クナイノニ、殺サレルンダナァ≫
マリオンは応えない。しかし、同情しながらも楽しさを隠し切れていない悪魔は、反応を引き出すために彼女に手を伸ばした。黒く細い腕が両腕を掴む。
びくりを体を震わせたマリオンは思わず目を開いた。暗闇の中で目立つ悪魔の不気味な目がすぐ側にあることと、悪魔に腕を掴まれていることに驚いて振りほどこうとするが、全く歯が立たない。悪魔は再び何かを囁こうとした。
その時、マリオンの目の前を疾風のように通り過ぎるものがあった。
オレンジがかった白く冷たい目が消え、腕の感触がなくなる。そして心臓を縮み上がらせるような不快な叫び声が響いた。
彼らの体の色のせいで、初めは何が起きているかわからなかった。だがあの猿と蝙蝠のような悪魔を地面に押さえつけている者がいることに気がつく。ギィのように見えたがマリオンは確証が持てなかった。マリオンにとってギィは可愛いという印象が強かったしいつも淡々としている。しかしあの後ろ姿はとてつもなく怒っているように感じた。
≪ヤメロォ!≫
悲鳴を上げながら悪魔はもがいていた。その声と抵抗する動きで相当苦しいのだということがわかる。大きな蜥蜴のような手は押さえつけるというよりも、握り潰そうとしていた。
しかし一方的にやられることはなかった。逃れられない悪魔は翼を大きく鋭いものにし、ナイフのように切りつけた。
「ギィ!」
攻撃をまともに受けても彼は手を緩めず、むしろ更に力を込めている。
「ギィ、危ないから!」
ほとんどギィだと確信したマリオンは傷つけられている姿を見ていられずに叫ぶ。それでもギィは悪魔を離さなかった。
読みにくくてすみません。
本当にすみません。