14 何のために
──ただあいつの言いなりになって生きて行けばよかったっていうの。
そうイヴォンヌは言った。事実そうなることを強要されたからだ。
それでも悪魔に死を願うなんて、そんなことをしてはいけないとはマリオンには思えなかった。
今よりもっと貧しい場所に住んでいた頃、垣間見たことがある。どうしようもない人間に縛り付けられ、四六時中、体を壊してまでも働かされて、そして限界に達して亡くなってしまった人を。
詳しいことは何もわからなかったが、子供ながらにとてつもない怒りを感じた。自分の欲のためだけに相手を苦しめ抜いて死なせておきながら、その人の遺体に罵声を浴びさせる人間に対して。そしてそんな苦痛しかない状況にいながら逃げなかった人間に対して。そうできない理由があったのかもしれないとわかっていても。
イヴォンヌは逃げたのだ。逃げて自分の夢を叶えるための機会を伺っていた。それでも、母親が追いかけて来たから死を願った。
──あたしがそんなに悪いことしたっていうの。
そんなことはわからない。でもマリオンはやはりイヴォンヌにこのまま死んでほしくはなかった。
「イヴォンヌ……」
マリオンの呟きは、再び低く濁った声に変形した母親の叫びにかき消された。
「悪い娘だよぉ。育ててやった母親の言うことも聞けない。その上その母親を殺すんだからねぇ。才能もない役立たずが母親を殺したんだよ、あーあ」
「イヴォンヌ聞かないで。それはあんたの母さんじゃない!」
とてつもなく説得力のない言葉だった。事実そうであっても、イヴォンヌの母親なら口にしてもおかしくはない言葉だろう。
「あたしがいなくったって主演女優なんてなれやしないさ。何がしたいんだい、あんたは。何のために、悪魔に魂を売ったんだい? なれやしないのにさぁ」
嘲る声はイヴォンヌから生きる意味を奪い取ろうとしているかのようだった。
「あたしは……」
まっすぐに目指すものがあったはずのイヴォンヌは、唇を震わせて何も答えられなかった。どれだけ強い意志を持っていたとしても、ここで悪魔の標的にされたら、その意志を持ち続けることは難しい。イヴォンヌの精神は消耗されている。仲が良かった頃の母親を覚えているからこそ、罪の意識が広がっていくのだ。
せめてこの声が届いてくれたら。そう思ったマリオンの周囲が、急にポウッと明るくなり、色彩がはっきりしていただけの空間に光が生まれた。
灯りだ。いつも夕暮れになると現れる、暗闇から守ってくれるガス灯の灯り。
マリオンは顔を上げた。そこには壁に備え付けられた角灯があり、中で小さな火がゆらゆらと揺れていた。微かに濁ったガラスを通した光はぼやけてふわりとマリオンたちを照らす。
通常は屋外にしか設置されていないガス灯だが、オペラ座のような広い空間では例外で、屋内でも使われている。さっきまで角灯の存在など気づいてもいなかったが、まるで初めからわかっていたかのようにカルヴィンはそこに点火棒を掲げていた。
「マリオン……?」
夢から覚めたような表情でイヴォンヌがマリオンを見ていた。
「イヴォンヌ! わかるんだね」
「何であんたがこんなところに……」
「ここがどこだかわかる? イヴォンヌは悪魔の世界に連れて来られたのよ」
「何を言っているのよ。ここは……」
イヴォンヌが視線を正面に戻して、言葉を途切れさせた。
彼女の母親の姿をしたものは光を嫌ったのか、イヴォンヌから距離を置いて立っていた。しかしその姿形は更に異様になっていて、肌はどす黒く、口が裂けたように広がっている。
「マリー」
呪いが込められたような重い声にマリオンとイヴォンヌはびくりと肩を震わせた。
「またあたしを殺すのかい? 今度は地獄へ落とすのかい? 何のためにだい? 生きていたって主演女優になんかなれやしないのに」
「違う! あんたさえいなければあたしは自由で……。あんたさえいなければ、いつか……」
「主演女優になれるって? ハハ、才能もないのにかい?」
イヴォンヌの表情が歪んだ。隠しようもなく酷く傷ついた顔だった。
対象的に醜い姿になった母親はとても嬉しそうに笑う。マリオンはせめて彼女を黙らせたくて睨みつけて口を開こうとした。だが女の後方にカルヴィンが立っているのが目に入る。彼は音もなく点火棒を振り上げていた。
「アハハ……ギャアアア!」
銀を含んだ点火棒が振り下ろされて、耳を劈く叫び声が響いた。黒い煙に変容してぶわりと溶けるように、イヴォンヌの母親だったものはあっけなく消えていった。
「ママ……?」
慄くようにイヴォンヌは唇を震わせた。
「違うわ、あれは悪魔よ」
だから心配ないと、励ますつもりでマリオンははっきり言った。
理解が追い付かないのか、イヴォンヌは茫然とマリオンを見つめている。しかし、おもむろに首を振った。
「いいえ、あれはママよ」
感情を削ぎ落とされたかのように、イヴォンヌは生気のない顔をしていた。
「ママだわ。あたしのことを役立たずと言った。体で稼げばいいんだって言った。だからママよ」
淡々と事実を告げるような言い方にマリオンの胸がずしりと痛んだ。イヴォンヌにとっては女優であることを応援してくれた母親よりも、女優など辞めて体で稼げと言う母親のほうが真実の姿なのだ。マリオンだってそれを否定する気にはなれなかった。
「あたしが殺したから、地獄まで道連れにしようとしてるのよ。あいつはどこまでもあたしを追いかけて食らい尽くそうとする。だから殺したのに……。殺したから、苦しんで死ねって言ってるんだ。罰を受けろって」
イヴォンヌは泣いていた。自分の運命を呪いながら、死を受け入れようとしているかのように見えた。
「イヴォンヌ自身が殺したわけじゃない。それに、そうしてでも叶えたい夢があったんじゃないの?」
数時間前までは確かにあったはずの強い思いを思い出させようとしたマリオンに向かって、イヴォンヌは歪んだ自嘲を見せた。
「いらないって言われたのよ」
「え?」
「オペラ座の監督に。今更一度辞めた女優が戻って来るよりも、新人が舞台に立ったほうが話題性があるって。パトロンたちは若い新人が好きなんだってさ」
マリオンは何も言えなくなった。舞台のことなど何も知らないマリオンが、そんなことないなどと言えるはずもない。
「あたしは本当に何をやってんだろ。何で悪魔なんかがあたしの願いを叶えてくれるって思ったんだろう。何のために母親を殺してまで、こんなことを」
「……ただ、言いなりになって生きていくのが嫌だったからじゃないの」
イヴォンヌはマリオンを見つめた。
「そうだよ。だから殺して……親を殺したあたしは地獄に落ちるんだ」
「違う。あんたは悪魔に騙されたの」
全てを諦めてしまったかのようなイヴォンヌに、マリオンは同情や心配よりも怒りが湧いてきた。これではあの悪魔が言った通り、元の世界に戻ることすらできない。
「だいたいイヴォンヌ、本当に母親を殺して自由になりたかったのなら、どうして自分の手で殺さなかったの」
「……え?」
「できたはずでしょ。いつだって酔っ払っているアル中なのよ、相手は。事故に見せかけて殺すことだって、やろうと思えばできたんじゃないの」
イヴォンヌは呆気に取られたように口を開いたまま固まった。先程の言葉が本当にマリオンの口から出たのかと疑うような視線を向けてくる。
「でも、あんたは悪魔に頼ったわよね。唆されたから? それもあるかもしれないけど、代償があるからこそ願ったんじゃないの。自分の寿命と引き換えで、手を下すのも悪魔だから。だから母親を殺してほしいって言ったんじゃないの。心から母親を憎んでいて、死んで当然だって思っていたなら、自分で殺せばよかったのよ。そのほうが寿命なんて気にせず、夢が叶った後も生きていけるわ」
「何言ってんのよ、あんた……」
イヴォンヌは非難するように嫌悪が滲んだ目を眇めた。
「できないんでしょ。あんたは本当は人を、母親を殺せる人間じゃないんだから」
言い返そうとして開いた口を、イヴォンヌは閉じた。マリオンが何を言いたいのか、遅れて理解したからだ。イヴォンヌが母親殺しなんかではないと、彼女はそう言っている。
「そんなの、そんなのは言い訳だわ。だって、あいつはもう死んだじゃないの。あたしが悪魔にそう願ったから死んだのよ」
詭弁だと言いながら、イヴォンヌの瞳は揺れていた。その声があまりにも途方に暮れたように弱々しく、優しさに飢えた子供のようでマリオンは驚いた。
いつでも彼女は気が強く、横柄な自信家だった。花売りだった時も、端役女優だった頃も。そのイヴォンヌが、頼りない小さな少女のようだった。
ふと気がついた。本当はもうずっと前から、イヴォンヌは心の底では誰かに助けを求めていたのではないかと。そしてその言葉を聞いたのが、あの悪魔だったのだ。
「イヴォンヌ、帰ろう」
もう、イヴォンヌが本当に死を望んでいるのなら、マリオンは止める気はなかった。しかし、あの悪魔のせいでそんなことを考えているのなら、引き摺ってでも元の世界に帰らせる。
「あんたは確かに悪いことをしたんだろうけど、このまま何もなかったかのように生きていくなんてしちゃいけないんだろうけど、それでもここで悪魔の思惑通りに魂を喰われることが、あんたが受けるべき罰なわけがない。どうすればいいかなんて、ここから出たら考えたらいいから、だからあんな奴に魂を差し出したりしないでよ」
「わかったような口を聞かないで!」
イヴォンヌは両耳を手で塞いで叫んだ。辛くてもう何も聞きたくないと駄々をこねる子供のように。しかし、そんなことで容赦するつもりのないマリオンはイヴォンヌの肩を掴んで耳元で話す。
「イヴォンヌはあの悪魔にさえ会わなければ、もっと違う方法で自由に生きられたかもしれないのよ。なのに馬鹿みたいに悪魔に騙されて、本当の願いも叶えてもらえないまま魂を喰われようとしているの。……ねぇ、これって本当に馬鹿みたいじゃない?」
「……は?」
口調が本当に馬鹿にするものになったからか、イヴォンヌは耳からは手を離した。
「だってイヴォンヌは悪魔の思惑通りに死のうとしているのよ。だいたい何で悪魔が本気であなたの願いを叶えてくれるだなんて思ったのよ。わたしのこと世間知らずだって言ってたけど、イヴォンヌのほうが世間知らずで能天気じゃないかしら。あんなにあっさり騙されるなんて」
イヴォンヌは羞恥からか頬を赤らめて睨んできた。周囲に光が増えて、先程と比べて随分と明るくなったことに、彼女は気づいていない。
「……あたしは、馬鹿じゃないわよ!」
「でも騙されてるじゃないの。あ、ちなみにわたしはこの後すぐに元の世界に帰るわよ。悪魔に願いを叶えてもらおうなんて馬鹿なこと、していないもの。あんたはそうしたければ、ここで馬鹿で惨めな死に方をすればいいけど」
「っ! あんた何なの!? いい子ぶりっこしていたくせに、やっぱりめちゃくちゃ性格悪いじゃないの! 殺せばいいとか、能天気な馬鹿とか、何なの!」
「あんたほどじゃないと思うけど。でも、わたしは性格は悪いけど馬鹿じゃないのよ。ここからだってすぐに出られるもの。あんたはここで野垂れ死ぬのがお似合いかもね」
イヴォンヌはギリッとマリオンを睨みつけた。先程とは打って変わって、子供が見たら逃げ出しそうな形相だ。
「ふざけないでよ。あたしだって、こんなところからは今すぐ出てってやるわ」
口先だけではない、絶対にそうしてやるという決意が見えて、マリオンはちょっと感心した。やはりイヴォンヌは単純でものすごく負けず嫌いだ。こんな時でもそれが発揮されるのだから、その性格は魂の奥底にも染み付いているらしい。普段から敵対心を持っている大嫌いなマリオンに貶されたのだから、余計に怒りに燃えているのだろう。
マリオンは駄目押しをするために、わざとにっこり笑って小首を傾げた。
「イヴォンヌには無理じゃない?」
息を呑んで目を見開いたイヴォンヌが大声で怒鳴り返す。そうなるだろうとマリオンは予想していた。しかし実際には、イヴォンヌは急に自身の左腕を掴んで苦悶の表情を浮かべた。
「え?」
あっという間の出来事だった。
イヴォンヌの足元の床が抜けたかのように、彼女はどこかへ落とされようとしていた。真っ黒な沼にはまったみたいに、既に下半身は見えていない。
「イヴォンヌ!」
とっさにマリオンは手を伸ばして、彼女の腕を掴んでいた。
ずるりと足場がなくなる感覚がした。この感覚には覚えがある。この闇の世界に来る時と同じものだ。
視界の端で、驚愕するカルヴィンが見えた。