13 オペラ座の裏口
マリオンは背筋が凍った。そこには人を苦しめることを無上の喜びとする悪魔がいる。自由を手に入れるために母親の命を悪魔に奪わせた娘に、たった数刻の希望だけを与えてから絶望の死へ向かわせるよりも、もっと酷いことをしてやろうと考える悪魔が。
≪契約書アル。ソンナコト、デキナイ≫
思考が暗い方へと引きずられようとしていたマリオンは、一切動揺していないギィの言葉にはっとした。しっかりしなくてはいけないと頭を振る。ここにいると悪いことばかり考えてしまうのだ。
≪デキルゾ。契約の穴をカイ潜ル方法ナド、イクラデモアル≫
≪デモ、最後ニ夢ヲ見サセテ叶エタコトニスルンダロ≫
芸がないと言わんばかりにギィは冷めた言い方をした。目を鋭く吊り上げて睨むことでそれに反応した悪魔は、今度はすぐに平常心を装った。
≪ソレハ、アノ娘次第ダゾ≫
そう答えると、悪魔のお決まりの耳障りな嗤い声を上げる。閉じられた場でもないのに、その声はやけに反響した。
≪叶エテヤルゾォ。本当ニ、アノ娘ガ、主演女優ニナルマデ生キタイノナラ、夢ノ中デハナク、叶エテヤル≫
楽しそうに言うその内容が、言葉通りの意味であるなどとは、ギィもカルヴィンもマリオンにも思えなかった。どんな真意が隠れているのか、考えているうちに悪魔は翼を広げた。
≪ソレホド強イ願イヲ持ツナラ、キット、コノ世界カラ出ラレルダロウナ≫
「待って!」
飛び立とうとしているのだと気づいたマリオンが制止しようとするが、悪魔はマリオンの声など聞いていなかった。
≪ココカラ出ラレタナラ、アノ娘ノ願イハ叶ウゾ! 叶エテヤルトモ! 頑張レ、ト伝エテオケ! ゲギャギャギャ!≫
さも面白い言葉のように悪魔は頑張れという言葉を口にして笑った。笑いながら宙に舞い、あっという間に周囲の光景と同化して消えたのか隠れたのかもわからなくなる。
「どこに……」
≪イナクナッタ。デモ近クニイル≫
ギィがよくわからない説明をするが、この世界のことをほとんど理解していないマリオンが追求しても意味はないだろう。つまり姿は消しているのだと解釈し、マリオンはすぐに気持ちを切り替えた。今はあの悪魔がどこにいるかということよりも大事なことがある。
「ねぇ、ここから出られたらイヴォンヌの願いを叶えてやるって、それってすぐに魂を奪ったりしないってこと?」
悪魔が譲歩してくれたなどとは思わないが、それでもついマリオンはそう確認してしまった。
「期待しないほうがいい。あいつは彼女の願いが叶うとしか言っていないし、どんな叶えかたをするかはわからない。そもそもここから出ることができないように仕向けているかもしれない」
カルヴィンが考え込むように言った。
「出られないようにって、そんなことができるの?」
「魂が弱りすぎていたらな」
「じゃあ、その前に助ければいいの? アルノーの時みたいに」
「……そんなに簡単じゃないぞ」
眉間に皺を寄せて難しい顔をするカルヴィンを見れば、不可能に近いのだろうということは察せられた。
「でも、わたしは死んでほしくないよ」
「……ああ、できることはする」
カルヴィンは目元を少し弛ませて頷いた。そして何かに気がついたように首を回す。
「え?」
つられてそちらを見たマリオンは茫然とした。
いつからそこにあったのか、巨大な建造物がそびえ建っている。アパルトマンほど無機質でいて生活感のあるものではなく、大教会ほど装飾に凝っているわけでもない。赤錆色の窓の少ない重厚な建築物はマリオンにとって馴染みのないものではあったが、つい先程見たばかりのものでもある。
「オペラ座……?」
しかしその建物は輪郭がどこかぼんやりとしていた。ここが闇の世界なのだとしても、アルノーの時はもっとはっきりと見えていたはずなのに。
「彼女が夢から覚めようとしているんじゃないか」
「え……それっていいの?」
「よくも悪くもないな。目覚めないことには何もできないし、とりあえず止められるようなことじゃない。中へ入ろう」
カルヴィンはマリオンの手を引いて歩き出した。ぼんやりとしているのに入り口がどこにあるのかははっきりわかる。しかし、カルヴィンはその入り口を通り過ぎた。
「え? 入らないの?」
「彼女の意識を探さなくちゃいけない。それなら客がいる場所じゃなくて、役者がいる場所に行ったほうがいいだろ」
「あ、そうか。裏口ね」
この世界に来る前に見た時と同じ場所に、裏口はあった。
「ねぇ、カルヴィン」
扉が開かれる前に、マリオンは斜め前にある背中に呼びかけた。
わざわざ聞く必要のないことだ。聞かなくたってわかる。しかし、マリオンは覚悟を決めるために口にした。
「イヴォンヌはもう、主演女優になる夢を見てしまったから、目覚めようとしているのかな」
「……そうだな」
マリオンは繋いでいないほうの手を握りしめた。もう、それが希望とは真逆に位置することであっても、イヴォンヌをこの世界から連れ出さなくてはいけないのだ。
正面入り口に比べるとかなり小さなその扉を、カルヴィンはそっと開けた。途端に人々のざわめきが聞こえてきて、マリオンははっとする。
「え……誰かいるの?」
「いや、実際にはいない。アルノーの時と同じ、記憶を見ているだけだ」
カルヴィンは躊躇いなく建物の中へと入っていった。
天井の高い薄暗い通路を抜けると、舞台の道具なのだろうか木箱や大きな布が散乱した場所へ出る。そこには裏方担当らしい人々が何かを運んだり休憩したり、思い思いの行動を取っているように見えた。ただし、彼らは一様に顔立ちがぼやけていて、絵画の中の背景に溶け込む小さな人物画のようだった。イヴォンヌの意識が作りだしたものだからだろうか。話し声も聞こえるが、意味のある言葉はほとんど聞き取れない。
更に奥へと進むと、今度は役者らしき人々が多くなる。だが主役や助演役者などはいないらしく、質素な服を着た男性や同じような格好をしたまだ幼さの残る少女たち、そして彼女たちの母親らしき人々が劇の練習をしているようだった。
「イヴォンヌ、いるかしら」
マリオンは小さな声で呟いた。周囲の人々に自分たちの姿が見えているわけもないのだが、なんとなく隠れなくてはいけない気分になる。
「あれじゃないか」
カルヴィンが指差した方角。そこにはやけにはっきりとした輪郭の少女と、中年の女性がいた。
「イヴォンヌだわ!」
現在よりも五歳ほど若く見えるが、彼女だと確信したマリオンは駆け寄った。イヴォンヌは他の少女たちと同じように華やかだが地味な色合いの服を着ていた。その他大勢という名前が名前が貼り付けられていそうな衣装だった。
「ママ、聞いて! またあたしだけ褒めてもらったの。君はちゃんとできてるよって。やっぱりあの中じゃあ、誰が見たって、あたしが一番演技が上手だし、それに一番美人よねぇ!」
頬を赤くさせた少女が、得意げに目の前の女性に自慢する。すると女性は大きく頷いた。
「その通りだよ、マリー。あんたが一番、主演女優の座に近いところにいることは間違いがないよ。さすがはあたしの娘だ。あんたはきっと大女優になって、大金持ちになるだろうさ!」
撫でるような声で肯定と賛辞をもらったイヴォンヌは、口をむずむずと動かしながらとても嬉しそうに胸を張った。
「そうよ、ママにだって贅沢させてあげるから」
「ああ、なんていい娘なんだろう。本当ならあたしがそうなるはずだったのにねぇ、悔しいよ全く。あたしはパリに来るのが遅すぎたんだ。あんなたいして大きくもない町の劇場で女優なんかやっている場合じゃなかったんだよ。さっさとパリに来ていればよかったんだ。そうすれば絶対に主演女優になれたのに。あの劇場でもあたしに貢ぐ男はたくさんいたんだからさ。辞められたら困るだなんて言葉を聞いてやったばっかりにねぇ、ああ腹立たしい。もっと早くパリに来ていれば全てがうまくいったはずなのに、馬鹿なことをしちまったよ」
途中から愚痴ばかりになった女性を、イヴォンヌは不満げに見て口を尖らせている。自分が喋りたいのに、口を挟む隙がなくて怒っているようだった。
「あれが、イヴォンヌの母さん……? あの、裏路地で亡くなっていた人?」
マリオンは全く確信が持てなかった。
恐ろしい表情で亡くなっていた姿しか知らないマリオンには、目の前の少し派手な中年女性と路地裏の薄汚れた服を着た遺体が結びつかない。それにイヴォンヌだって、ママと呼んで親しげに会話をしている。別人なのだろうかと考えたが、カルヴィンはそれを否定した。
「同じ人間だろうな」
「わかるの?」
「ああ、あの女が生きていた時に、一度見たことがある。道端で酔っ払って絡んできたんだ。金髪で花売りのマリーを知らないかと聞いてきた。あんたじゃないと思ったから知らないと答えたが、あの女だったよ」
「そう、そんなにいろんな人に聞いていたのね」
マリオンは再び母娘を見た。母親は愚痴をやめて、イヴォンヌに笑顔を向けている。
「お前はあたしの娘なんだ。必ず主演女優になるよ。お前の演技観たさに大勢の人間がチケットを買い求めて、新聞の記事欄にはお前の美貌と演技を称える言葉がずらりと並ぶだろうね」
「ええ、あたしは絶対にパリ一の女優になるわよ!」
イヴォンヌの表情は輝いていた。自信に満ち溢れ、未来への期待に溢れていた。口にした夢が、必ず叶うのだと信じて疑っていないことがよくわかる。
これが彼女たちの実際の姿なら、なぜ数年後にあんなにもこんがらがっていたのだろう。イヴォンヌはあんなに嬉しそうに、母親とお喋りをしているのに。
「ああ、こんなにも可愛がってやったのに」
突然、イヴォンヌの母親の声が低く不穏なものになった。
「ママ……?」
戸惑った声を出すイヴォンヌの目の前で、健康的な肌色をしていたはずの母親の腕が土気色に染まり、突然髪を乱暴にかきむしり出した。
「ああ、酷い娘だ。酷い酷い。この娘に殺されたんだ。娘に殺されちまったんだよ。あんなに可愛がってやったのにさぁ。あたしは娘に殺された!」
「きゃあっ!」
まさに悪魔が乗り移ったかのように、イヴォンヌの母親は人間のものとは思えない声で怨嗟を吐き出した。
この頃の彼女が、将来娘のせいで死ぬことになると知っているはずがないのだ。マリオンも驚きと意味のわからなさで立ち尽くしてしまった。
気がつくと母親の服は路地裏で見たものへと変わっており、まっすぐだった背中も力が抜けたように曲がっている。
「マリー、どうして殺したんだい? あんなに大事にしてやったのに!」
不気味な黒い息を吐き出しながら、イヴォンヌの母親は一歩娘に近づく。よく見れば眼球がなく幽霊のように空洞になっていた。
「違う!」
後ずさりながらイヴォンヌが大声で叫んだ。
「違う、あたしじゃない! 殺したのは悪魔よ!」
「いいや、あんただ。あんたが殺したんだよ、マリー! ああ、苦しくて苦しくて仕方がなかった!」
「違う! 違う、あんたが悪いのよ!」
イヴォンヌは全力で走ったかのように息を切らせて汗をかいき、目は血走っていた。
「あんたがあんなはした金であたしを売って、女優なんてもう辞めろって言うからよ! そんなことより金持ちの男に媚を売って金を出させろって! もう少しだったのに。もう少しでいい役がもらえるはずだったのに。勝手に辞めさせやがって! 金ならあいつから貰っていたはずだろうが! それなのにあんたはもっと贅沢するために、それだけのために勝手に辞めさせたんだ。あんたの、あんたのせいだ!」
まだ幼さのある少女がいなくなり、現在のイヴォンヌがそこに立っていた。
恐れの混じった泣き出しそうな顔で母親を責めて、自分のせいではないと叫ぶ彼女は、母親からのなじり声を耳から追い出そうとしているかのようだった。
「イヴォンヌ、落ち着いて! あれはあなたの母さんじゃないから!」
悪魔が見せている幻像のようなもの。そうに違いないと思ったマリオンはイヴォンヌに向かって宥めるように言った。これは過去の出来事ではない。それなら声が届くかもしれないと期待した。
しかし、イヴォンヌは母親の残骸から僅かも目を離さなかった。
「ハハハ、何言ってるんだい! 金を稼げるようになったんだ。女優になんてならなくったっていいだろうが。だいたいあんたは才能がないよ! 主演女優なんてなれるわけがないだろうが!」
急に声音が元に戻った母親は、褒め称えたはずの娘を馬鹿にしてせせら笑った。
「せっかく養成学校にまで通わせてやったのに、あんたはちっとも脚本家にも監督にも気に入られないんだからね、役に立たない娘だよ! 何のためにあたしがあくせく働いていたと思っているんだい。あんたはね、あたしに贅沢をさせる義務があるんだよ。あれだけあたしに苦労をかけたんだから当然だろう? 女優で稼げないなら、体で稼いで来るしかないだろうが。さっさとあの成金どもに媚を売ってきなよ。早くあたしに楽をさせな。もう女優なんかどうでもいいさ。才能なんかないんだからさ」
いやにはっきりと響く台詞は、恐らくこの母親が過去にイヴォンヌに実際に言った言葉なのだ。青白い顔で驚愕と屈辱と怒りに固まる姿を見てマリオンは思った。
きっとこの時に、イヴォンヌの中の何かが壊れたのだ。