12 選択したもの
窓から漏れるガス灯の灯りは淡く、暗い室内に影が落ちる。悪魔の耳障りな声が木霊した。
こんなこと、選べるわけがない。
イヴォンヌを追い詰めようとする悪魔の所業に、マリオンは何も言えず彼女を見た。イヴォンヌは泣きそうな顔で唇を震わせながらも、段々とその目に怒りを宿らせる。
「何なのよ、それ……」
悪魔に背を向けながら、イヴォンヌはまるでマリオンを詰るように叫んだ。
「何でよ! あたしがそんなに悪いことしたっていうの! あんな呑んだくれ、いなくなったっていいじゃない。誰も困らないじゃないの! それともあたしはただあいつの言いなりになって生きて行けばよかったっていうの! あんな、呑んで暴れるだけの女のために、言いなりになって体で金を稼いでいればよかったっていうの!」
「イヴォンヌ、違う」
「そうなんでしょう! あんなくだらない人間のためにクソみたいな生き方をしていればよかったってことなんでしょう! じゃなきゃ死ねだなんて、どいつもこいつもあたしを馬鹿にしやがって! 何なのよ、何でなのよ!」
気の強いイヴォンヌの目に涙が浮かんでいた。
理不尽だと叫ぶ彼女に、マリオンはその通りだと思った。ただ、あのまま花売りをしていればそれでよかったのだとは、マリオンには言えない。イヴォンヌはそんな生き方を望んではいないのだ。彼女には大切な夢があった。誰かの横暴によって潰えることなど決して許せないほどに大切な夢が。
「……死にたくない」
細く、助けを求めるようにイヴォンヌは訴えた。
「いやよ。一年なんて、そんなの間に合わないかもしれないじゃないの。いやよ、あたしは……!」
悪魔が翼を広げた。
「イヴォンヌ!」
何を言えば正解だったのか、それは誰にもわからなかった。一年でも生きられるのなら契約を変えるべきだったのか、それとも希望を持つことすら愚かな悪魔の気まぐれに賭けるべきなのか。
考える時間すら与えず、悪魔は舞い降りた。
≪ナラバ、契約ヲ履行スルゾ≫
追い詰められたイヴォンヌを見て、とても楽しそうに目を細めた悪魔は、彼女の額に着地した。
目を見開いたイヴォンヌが膝を折り、力が抜けたように瞼を閉じる。そして悪魔は床に落ちたイヴォンヌの影へと沈んでいった。
「イヴォンヌ!」
マリオンはイヴォンヌを抱え起こして頬を叩いた。しかし彼女は何の反応も示さない。呼吸をしていることだけはわかるが、それだけだ。
「カルヴィン、どうしよう!?」
彼は悔しげに厳しい顔をしていた。
「恐らく、彼女が今いるのは夢の中だ。闇の世界へ行っても、あの悪魔がいるだけだろう」
「殴ったら起きるかな!?」
「できるかもしれないが、ずっと眠らないわけにはいかない」
「でも……」
≪ギィ、行ッテ来ル≫
混乱しながらも、どうにかできないかと考えるマリオンに、いつもの調子でギィが口を開いた。
「……そうだな。どのみちギィはあいつに用があるから、あっちの世界には行かなくてはいけない。その時にどうなるかだが……契約書があるなら多分、できることはもう何もない」
「ねぇ、契約内容を変更することができるなら、変えてってお願いしたら駄目なの? 聞いてくれるわけないだろうけど、でもせめて一年じゃなくて三年にしてほしいとか」
「マリオン、悪魔と交渉をしようとするな。それ自体が君の願いになって、新たな契約が交わされてしまうことだってある」
「あ……」
アルノーの時と同じだ。悪魔は魂を代償としなければ、人の願いなど聞かない。
「俺たちはあちら側へ行ってくる」
そう言ってカルヴィンはマリオンを見た。
マリオンだって一緒に行くつもりだった。しかし、もう本当に何もできることなどないような気がする。今度こそ足手まといになるかもしれない。でもそれでも、マリオンは悩んで決意した。
「……わたしも行く」
意外そうにカルヴィンは眉を上げた。
「だって……イヴォンヌ、もしかしたらこのまま死んじゃうかもしれないんでしょ」
「……ああ、そうかもしれない」
何もできることがないということは、つまりそういうことだ。
イヴォンヌは夢を見たあとに、魂を弱らせるために闇の世界に連れて行かれて、悪魔に魂を喰われる。
「だったら行く。わたしは嫌われているけど、でも何ていうか、わたしでも行かないよりは行くほうがまだマシのような気がするから……多分」
諦めきってしまうのは違うように思うが、だからといって甘いことばかり考えているわけにもいかない。
彼女はきっと、自分が一人で惨めに死ぬことは許せないだろうから、行ったほうがいいのだとマリオンには思えた。
カルヴィンは迷ったが、やはり今回も承諾した。
「俺かギィから離れないように」
それだけマリオンに約束させると、ギィに向かって頷いてみせる。
ギィはイヴォンヌの影の上に立つと、カルヴィンに細い枯れ枝のような腕を差し伸べた。カルヴィンが一方の手をマリオンと繋ぎ、もう一方の手をギィへと向ける。
彼らの手が触れ合うと、マリオンの視界は黒くなり地面の感触がなくなる。
闇の世界へと落ちていった。
音が消えて、色が消えて、暗闇が残る。
衝撃などは何もなく、気がつけばそこにいるような感覚で、マリオンは境のない、どこまでも黒い場所にいた。
本能的な不安に襲われかけた時、ふっと灯りが生まれる。何もなかった世界で、人が存在することを証明するようなガス灯の灯り。カルヴィンが点火棒を掲げて灯したのだ。
マリオンは手のひらの感触を思い出して、その先にいるカルヴィンの顔を見上げた。
「……やっぱり」
カルヴィンは軽く衝撃を受けたような表情で、マリオンを見て呟いた。
「カルヴィン?」
「いや、何でもない」
首を振るカルヴィンを不思議に思いながらも、マリオンはギィを探して周囲を見渡した。
オレンジがかった白いものが二つ並んでいるのが見えて、ギィだと思い声を掛けようとしたマリオンは、それがふと不気味なものに感じて口を閉じる。
周囲の色と同化しているせいで見誤ったが、似たような丸い形でも、ギィの円らな可愛らしい瞳とは全く違う。そこにいたのは蝙蝠と猿が融合したような悪魔だった。
≪面白イ奴ラガ、付イテ来タゾ≫
獲物を見つけたと言わんばかりに、悪魔はニタリと嗤った。
神経を逆撫でするような声に、マリオンは怒りが湧いた。
「イヴォンヌをか……!」
言い切る前に素早く口を塞がれて、マリオンは驚く。
カルヴィンが厳しい顔でマリオンの口を手で覆っていた。
「駄目だ、マリオン」
叱るような口調にはっとする。マリオンは今、イヴォンヌを返してと叫ぼうとしていた。悪魔に対して、軽々しく願いを口にしてはいけないのに。まして、アルノーの時のような弱い悪魔ではない。
≪オ前、俺ヲ追イカケテ来テイタ奴ダナ≫
目を細めて話しかけられて、マリオンは体を強張らせた。
≪悪魔ノクセニ、他ノ悪魔ニ干渉スルナド、ドウイウツモリダ?≫
続いた言葉にマリオンは自分が話しかけられているのではないことに気がついた。後ろを振り返ってみれば、マリオンの影の中から頭半分だけを出したギィがいた。
ギィは聞いているのかいないのか、頭をゆらゆら揺らしている。そしてゆっくりとマリオンの影の中へ沈んでいった。
どうしたのだろうと思いつつ、蝙蝠と猿の悪魔のほうを窺うと、突然、蜥蜴のような形の巨大な手が、悪魔に向かって掴みかかるように襲いかかった。
≪ゲギャッッ!≫
驚いた悪魔が奇声を上げて翼を広げて巨大な手をなぎ払う。しかし、背後からもう一つの手が伸びて、悪魔は鷲掴みにされた。
≪貴様ァ! ドウイウツモリダァ!≫
捕らえられた悪魔が耳障りな声で怒鳴り、逃れようと暴れる。怒りからなのか、オレンジがかっていた目がうっすらと赤くなっていた。
猿のように歯を剥き出しにして睨み付けている先に何があるのか気になってマリオンが目を向けると、地面からギィがするりと出てきた。彼の細い腕の先に、蝙蝠と猿のような悪魔を捕らえた巨大な手がある。
ギィはいつもと変わらぬ様子で首を傾げた。
≪ウルサイ≫
更に強い力でギィが握り締めたらしく、悪魔が悲鳴を上げた。心臓がひりつくような声に、耳を塞ぐ。しかし、悪魔もやられっぱなしではなかった。
唸りながらメリメリと翼が巨大化して刃のように鋭くなり、ギィの指を切り裂いた。ギィは相対する悪魔から手を離して元の大きさに戻す。
「ギィ!」
指を切られたのだと思い、マリオンは慌ててギィに駆け寄った。だがギィ自身は少し不服そうに自分の指を見ていたものの平然としている。
「大丈夫だ。すぐに元に戻る」
カルヴィンが悪魔からマリオンを隠すように立って言った。
≪俺ヲ消スツモリカ。オ前、悪魔ノ不文律ヲ侵スノカ≫
悪魔は他の悪魔に干渉しない。この暗黙の了解を無視したギィの行動に、不意打ちを突かれた悪魔は怒りながらも努めて冷静な口調になろうとしているようだった。
≪大丈夫。尻尾取ルダケ。消サナイ≫
≪フザケルナ! 何ガ目的ダ!≫
≪オ前ガ、俺ノ尻尾ヲ盗ッテイナイカ確カメル≫
淡々と説明するギィに、猿と蝙蝠のような悪魔は口を歪めて馬鹿にするように首を傾げた。
≪悪魔ガ悪魔ノ尻尾ヲ盗ルワケガナイ≫
≪アル。盗ラレタ。取リ戻ス≫
≪ホォウ≫
面白がるようにニタニタしながら悪魔はギィをじっと見た。ゾッとするような禍々しい表情だが、ギィは無表情に見返すだけだ。
≪オ前、随分ト出来損ナイノ悪魔ダナ≫
哀れむふりをした悪魔に、ギィは何を言っているのかわからないという風に首を傾げた。
≪尻尾ヲ盗ラレテイルノニ、人間トマトモナ契約モ、シテイナイノダロウ。スグニ消滅シテシマウノダロウナア≫
≪シナイ。俺、弱クナイ≫
全く揺さぶられることなくギィは否定する。
≪消滅スルゾォ。オ前ハ、悪魔トシテ欠陥ガアル≫
ゲタゲタと悪魔は面白いからというよりも、相手を不快にさせたいだけだという意図が透けて見えるような笑い方をした。
≪出来損ナイハ、オ前。トッテモ詰マラナイ方法デ、願イヲ叶エテ魂ヲ喰ウ。低級デ下等ナ悪魔≫
呆れたようにギィが言うと、悪魔はぴたりと笑いを止めた。
≪ア゛ァ゛!?≫
プライドの高い悪魔は挑発することには慣れていても、挑発されることに耐性はないらしい。今にも呪い殺そうとするかのような怒りに歪んだ顔をギィに向けた。
≪アンナニ手軽ナ方法デ魂ヲ喰オウトスルノハ、雑魚悪魔ノ手口。オ前、出来損ナイノ雑魚悪魔ダロ≫
ギィはあまりにも堂々と悪魔を侮辱した。聞いているマリオンが狼狽してしまう。あの悪魔はアルノーの時のように、本当に力が弱いわけではないはずなのに。
悪魔の目の色に赤味が増す。襲いかかって来るのではないかと恐くなったマリオンはカルヴィンの袖を掴んだ。しかし、悪魔はふと表情を弛めると、今度は楽しげに嗤った。
≪ソウダナ。モット苦シメテカラ喰ウ方ガ、ヤハリイイナ≫




