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ソワレと灯火  作者: 山吹ミチル
二章
33/43

11 オペラ座通り

 角灯(ランタン)が二つあるガス灯が表通りに現れると、酒場や宿屋の看板が多くなり人通りも増える。下町に住む労働者と金持ち(ブルジョワ)たちが入り乱れ、普段は裏通りに佇む娼婦たちが堂々と表通りで男たちに秋波を送っていた。

 小さな劇場をいくつか通り過ぎた頃には、一つの灯柱に四つの角灯を持つガス灯がいくつか見えるようになる。灯りのもとを辿るように歩く必要のない明るい道だった。マリオンは数年ぶりに目にする光景を、以前と同じように圧倒されながら眺めていた。

 太陽の光の下とは比べるべくもないが、それでも人々が昼間のようなと形容したくなるのも頷ける程の明るさだ。五つ目の角灯が一番高い場所に鎮座するガス灯を見上げながら、別世界の空気に不安を感じてマリオンはカルヴィンと繋がれた手に力を入れた。

 活気ではなく、喧騒と熱気と全ての価値を金で替えてしまえるような背徳感がここにはある。昼間はかろうじて健全さも残っているオペラ座通りは、夜になれば欲望の枷をいくつか外すための街となる。

 若い娘が一人で歩いていては娼婦と間違えられてしまうから、カルヴィンはいつも以上にマリオンに身を寄せて歩いていた。

 大きなオペラ座ホールの近くまで来ると、自分を呼ぶ枯れ葉が擦れるような声が聞こえてカルヴィンは建物の間に入った。


「ギィ、どこにいるかわかったか?」


 影から姿を現したギィが指を差した。


≪アソコ≫


 その先にあるのは間違えようがないくらいに大きな建物、パリで一二を争う大きさのオペラ座ホールだった。


「悪魔はいたか?」


≪イナカッタ≫


「そうか」


 予想していたのか、カルヴィンは軽く頷く。


「これって公演が終わるまで待たなきゃいけないのかな」

「いや、彼女は戻るとは言っていたが、戻った初日に出演できるということはないだろ。誰かに話をつけることができればいいほうじゃないか。まあ、観客席で劇を観ているかもしれないが」

「イヴォンヌは観ていないと思うわ。なんとなくだけど」


≪アノ子、怒ッテタ≫


 不思議そうにギィが言った。


≪髭ノ人間ニ、ズット怒ッテタ。サッキ、マタ明日来ルカラッテ出テ行コウトシテタ≫


「所属を断られたのか? ともかく、追ったほうがいいな。あのホールの裏口へ行こう」


 急がなければ見失ってしまう。カルヴィンとマリオンは目立たない程度の早足で裏口へと向かった。


「カルヴィン、あそこ!」


 きょろきょろと辺りを見回していたマリオンが、肩を怒らせて一人で歩く金髪の少女を見つけて声を上げる。顔をはっきり確認はできなかったが、服装からしてイヴォンヌだ。


「助かった、マリオン。気づかれないように後を追おう」

「声を掛けないの?」

「こんな所で話す内容じゃないし、逃げられたら困る。彼女にも、悪魔にも」


 イヴォンヌはしばらく歩いた後、酒場の隣にある宿屋へと入っていった。家に帰るつもりはないらしい。きっと明日になればまたオペラ座へ赴くのだろうとマリオンは思った。

 仕方なくマリオンたちも宿を一室取る。そうしなければ宿屋の店主が階上には決して上げてくれないのだ。

 しかし、その僅かな時間差で事が起きてしまった。

 マリオンたちが階段を上がっていると、他に誰もいないからか、ギィが影から全身を出して、そして言ったのだ。


≪悪魔、イル≫


「えっ!」

「どこだ?」


≪……ココ?≫


 自信がないのか、ギィは首を傾げながら扉を指して言った。マリオンが急いでドンドンとその扉を叩く。


「イヴォンヌ、いる!?」


 返事はない。マリオンは扉に耳をそば立てた。ヒステリックな女性の声が聞こえて、イヴォンヌが中にいることを確信する。


「イヴォンヌ、ねぇ、開けて!」


 ドアノブを回しても、やはり開かない。


「ギィ、中から開けてくれ」


 悪魔に何かされたらと焦って動揺するマリオンとは裏腹に、カルヴィンは冷静にギィに頼んだ。

 ギィがするりと影の中に入って、すぐにカチャリと扉が中から開く。


「イヴォンヌ!」


 もう既に悪魔によって眠らされているのではないか。アルノーのことを思い出してマリオンは恐ろしくなったが、果たしてイヴォンヌは起きてまだそこに立っていた。


「なんであんたがいるのよ……」


 憎々しげな目でイヴォンヌはマリオンを睨み付けた。しかし、その様子はどこか怯えているようだった。理由はすぐにわかる。

 明かりのない部屋の奥、宙に浮くように小さな悪魔がいた。

 ギィと大きさは変わらないが、アルノーを唆した悪魔とは明らかに格が違う。蝙蝠と猿が融合して二本の角と槍のような尻尾を生やした姿だった。丸い目はオレンジがかった白だが、他は全身が黒い。輪郭はギィのようにはっきりしていたが、この悪魔は姿も纏う空気も恐ろしく不気味だった。


「もう、どっか行きなさいよ! あんたには関係ないでしょう!」


 虚勢を張っているのかイヴォンヌの言葉はきついものだが、声が震えている。


「……イヴォンヌ、その悪魔が本当にあんたの願いを叶えてくれると思っているの?」


 傍に寄るだけで不安や恐怖を煽る存在。それが悪魔だ。イヴォンヌだってそれを実感しているはずなのに、自分の望みを正確に叶えてくれると信じているのかと、マリオンは不思議になる。


「う、うるさい! あんたは黙ってなさいよ!」


≪勿論、叶エテヤルゾ、母殺シノ娘≫


 甲高い耳障りな声が響いた。

 その悪魔は嗤っているのか、歯を剥き出しにしてイヴォンヌを見ていた。


≪ソノ為ニ、オ前ハ、己ノ母親ヲ殺シタノダロウ≫


 わざとらしい幼子をあやすような口調で、蝙蝠と猿が融合した悪魔はイヴォンヌの心に突き刺さるような残酷な言葉を選んだ。


「……ええ、そうよ。あたしはオペラ座に戻って主演女優になるのよ。その為にあたしの邪魔をするあの女を殺してもらったの。だって、あの女が悪いのよ。あたしをあんな安い値段で、男に売ろうとするからよ!」

「イヴォンヌ、そうじゃなくて」

「うるさい! あんたに何がわかるのよ!」


 もう後戻りできない。悪魔に暗にそう脅されたイヴォンヌは、声を荒げて主張する。


「四万フランよ、たったの四万フラン! フロリーヌは五万フランだったのに、あたしをたったの四万フランであの太った親父に売ろうとしたの!」

「え?」


 何を言われたのかわからなかったマリオンは、話の矛先が変わっていることを指摘するのも忘れて戸惑った。するとイヴォンヌは口を歪めてマリオンを馬鹿にしたように笑いながら、髪をかき上げ艶めいた表情を作る。


「なあに? あんた知らないの? 端役女優の給料なんかじゃ生活できないもの。皆、誰かの愛人なのよ。母親にオペラ座付属学校に入れられた奴は、その相手も母親が見つけてくるっていうだけよ。皆がやっているし高級娼婦(クルティザンヌ)をしている主演女優だっているんだから、そんなことはどうってことないわ。あたしが許せないのはね、あいつが女優などもうやめろと言ったことよ。体だけ売っていればいいと言いやがったの、あの女!」


 一度冷静になったかと思えたイヴォンヌだが、すぐにまた激高して大声を出す。


「自分が贅沢をするために、そんなこと言いやがったのよ。あいつが傍にいたら、あたしの人生は台無しだわ。あたしはあいつを養うための都合のいい人形じゃないのよ、そんな生き方まっぴらだわ。だから、仕方なく、本当に仕方なくあそこから逃げたの。もちろん、すぐに戻ってくるつもりでね」


 イヴォンヌは自分が正しいのだと主張するように胸を張る。


「すぐにくたばるかと思ってたけど意外としぶといんだから、嫌になるわ。しかも、あたしが花売りをしていることまで嗅ぎ付けて来やがって」

「……だから、悪魔の誘いに乗ったの?」

「そうよ。害しかない死に損ないの寿命がちょっと早まっただけなんだから何の問題もないわよ、そうでしょう」


 イヴォンヌが心の底では怯えているようにマリオンには感じられた。仕方がなかったのだと、たいしたことではないのだと、イヴォンヌはずっとそう主張している。彼女は悪魔が投げた母殺しの言葉に絡め取られそうになっているように見えた。


「そのことはもういい。問題なのはあんただ。その悪魔はあんたの本当の願いを叶える気なんかない。あんた、下手したらあと数時間で魂を喰われるぞ」


 カルヴィンがマリオンの前に出て言った。イヴォンヌは胡散臭そうにカルヴィンを睨む。


「さっきから何なの、あんた。何であんたにそんなことがわかるのよ。あたしはちゃんと契約をしたって言ってんでしょ」

「契約書にサインしたのか」

「そう、そうよ! ちゃんと契約書にサインしたわ!あの悪魔だってちゃんとサインしたんだから! だから、あたしはちゃんと主演女優になれるの!」

「馬鹿か、あんた。悪魔の文字で書かれていただろうが。読めない契約書にサインなんかするな。常識だろうが」


 カルヴィンは苦々しげに顔を歪めた。その表情を見て、相当にまずいことをしたと感じ取ったイヴォンヌの顔色が悪くなる。


「……そんな常識知らないわよ。でも内容はあの女を殺してくれて、あたしの魂は主演女優になるまで喰わないようにするっていう、そういう内容だって、あの悪魔が」

「なんで信じるのよ、そんなこと!」


 あまりのことにマリオンは怒鳴った。下町の労働者にはほとんど縁のない代物だが、契約書が絶対的な効力を持っていることをマリオンは知っていた。しかし、イヴォンヌのようにそんなことを知らない人間も多いのだ。

 きっともう望みは絶たれた。せっかくカルヴィンが助かる道がないか探してくれると言ったのに、イヴォンヌ自身が読めもしない契約書にサインをしたのなら、抜け道など存在しないだろう。


「だって……あいつはあたしの気持ちわかるって……だからあの女を殺してやるって……」


 イヴォンヌが震える手で顔を覆った。彼女は決して背後を振り返ろうとしなかった。悪魔がどんな表情をしているのか、確認しようとはしない。


≪嘘デハナイゾ。俺ハ、オ前ガ主演女優ニナルマデ、待ッテイテヤル、母殺シノ娘≫


 ケタケタと嗤いながら悪魔が言う。イヴォンヌの心を削る一言をわざわざ付け加えて。

 敢えてそうしているのだ。彼女を絶望させるために。信用してはならなかった相手なのだと、徐々にわからせるために。

 そして、悪魔は更に囁いた。


≪疑ウノナラ、契約ヲ変更シテヤルゾ≫


 愉快そうな様子を隠しもしない。


≪一年後ニシテヤロウ。魂ヲ喰ウ時期ヲ。日付ト時刻マデ、キッチリ契約書ニ記シテヤルゾ≫


 イヴォンヌの顔が恐怖におののいた。

 今のままなら、数時間後に死ぬかもしれない。しかし、契約を変更するなら、少なくとも一年は生きていられるかもしれない。そしてやはり今のままなら、夢が叶うまで生きられるかもしれないという希望を、捨てきれないのが人間なのだ。


≪サア、ドウスル?≫


 悪魔は嗤った。



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