10 ないに等しい可能性
無感情に事実のみを告げるかのようにカルヴィンは言った。その内容にマリオンは信じられない思いでイヴォンヌを見る。
夢が叶ったという夢を見させることで、契約の履行とする。それならばイヴォンヌは、母親よりも数時間しか長く生きていられないことになる。命の期限はもうすぐそこだ。
「何言ってるのよ、あんた」
イヴォンヌはカルヴィンを嘲笑した。
「そんなわけないでしょ。あたしはちゃんとした契約を交わしたのよ!」
そんな馬鹿なことがあるはずがない。イヴォンヌの声はそう主張していたが、瞳が揺れていた。感情を込めないカルヴィンの冷静な口調は、でまかせを口にしていると一笑に付すことが容易ではない。彼女の持つ根拠はそれだけ脆弱なものだった。
「悪魔が人間に苦しみを与えずに、願う通りの望みを叶えてくれるのなら、悪魔だなんて呼ばれていない」
ゆっくりとイヴォンヌの脳裏に浸透させようとするかのようにカルヴィンは言った。冷徹なようで、しかしマリオンはそこに抑え込んだ怒りを感じた。
カルヴィンは怒っているのだ。軽率に悪魔と契約したイヴォンヌにも、悪魔にも。
「うるさい!」
何かを振り払うように頭を振ってイヴォンヌは叫んだ。
「そんな、そんな馬鹿なことあるわけないでしょう! あたしはいずれ主演女優になる女なのよ! そうなることが決まっているの!」
カルヴィンはもう何も言わなかった。ただじっと睨んでくるイヴォンヌを見つめ返している。何を言ったところで、事実は変わらないのだと、そう主張しているようでもあった。
「いい加減なでまかせばかり言うんじゃないわよ! あたしはもうオペラ座に戻るんだから、もう二度とあたしに関わるんじゃないわ!」
「イヴォンヌ!」
息を切らせて叫んだイヴォンヌは、マリオンたちの間を走ってすり抜けた。逃げるように去っていく彼女を追うべきか迷ったが、この状況でマリオンができることなどない。それでも自分が何をすればいいのかわからなくなって立ち尽くすマリオンを、カルヴィンが手首を掴んで引っ張った。
「とにかくここから離れよう」
野次馬が集まることを気にして、カルヴィンはほとんど走るようにして路地を出た。
薄暗い通路から表通りまで出ると、夕闇の中、すでにガス灯が辺りを照らしていて、マリオンはほっとした。
叫び声が響いていた路地から出てきたマリオンたちをじろじろと見てくる人たちもいたが、カルヴィンは気にせず歩き出した。
「ねぇ、カルヴィン」
「ああ」
マリオンの言いたいことがわかるのだろう、カルヴィンは頷いた。
「イヴォンヌは……助けられないの?」
「無理だろうな」
はっきりと誤魔化さず口にするのはカルヴィンの優しさだ。アルノーの時はちゃんと助けられるかもしれないと言ったのだから、本当に無理なのだろう。
「彼女が契約した悪魔はギィが追って逃げられた悪魔だろう。いくら元々薄暗い路地裏とはいえ、まだ夕方に現れるような悪魔だ。それなりに強い悪魔のはずだ。強い悪魔ほど契約に誤魔化しはしない。本名で契約しているだろうな。契約に綻びがなければ俺やギィではどうしようもないんだ。日時をはっきり指定していないくらいでは契約破棄はできない」
「……そう」
マリオンは唇を噛み締めた。なんて馬鹿なことをしたんだと、怒りにも似た気持ちがイヴォンヌに向かう。
「助けたいのか? あのタイミングからしても、彼女はあの女が君の母親だと周囲に思い込ませようとしていたんじゃないか。上手くいっていたとは思えないが、君は殺人の容疑をかけられようとしていたはずだろ」
「わたし、イヴォンヌに酷いことした覚えなんかないわよ。会話だってほとんどしないもの」
質問の内容よりも、そこまでの恨みを買うようなことを彼女にしたのだと思われているのではないかと、そのことが気になってマリオンは弁明した。
「ああ、言い分が逆恨みだった」
疑ってもいなさそうな口調に、マリオンはほっとする。
「……正直言って、わたしもイヴォンヌが嫌いだわ。だってあの娘、姉さんたちにはいい顔するくせに、後輩にはすごく偉そうで横暴なんだもの。……でも、できれば、死んでほしくなんかない」
マリオンはイヴォンヌのことをよく知らない。彼女がマリオンを嫌うのは彼女なりの理由があるのだろうが、だからといって、歩み寄って仲良くなりたいとも思わない。それでも助けられる術があるのなら、助けたかったのだ。彼女の願ったことそのものが罪なのだとしても、死ななくてはいけないほどのことをしたとは思えないから。
「そうか」
カルヴィンは考え込むように目線を上げた。
灯りを辿りながら行き交う人々は、ほとんどが仕事を終えて帰路につくのだろう。それとも酒場へ向かうのか、いくつものガス灯が大通りを照す絢爛なオペラ座へと向かうのか。
「恐らく無理なんだ」
珍しく迷いのある声でカルヴィンが言った。
「あのやり口は悪魔の常套手段で、あいつらも慣れている分、契約に綻びなんてものはないはずなんだ。ただ……絶対に無理だということを確認したわけじゃない」
マリオンが見上げると、カルヴィンはあまり言いたくはないが言わないわけにはいかないという顔をしていた。
「彼女の命が助かる可能性はないに等しい。だが、今はそれが確定しているというわけでもない。俺とギィはこの後、彼女のところへ行く。夜になれば逃がした悪魔がきっと彼女の元へ現れるからな。ギィが探している悪魔なのか、確認しないといけない。……そのついでに、彼女が本当に助けられないのかくらいは確認する」
それはきっと希望ではない。カルヴィンの表情がそう言っている。イヴォンヌの死がまだ決定的になったわけではないという事実があるだけなのだ。
それでも、もしイヴォンヌが助かる道があるのなら助けてあげてほしいと──そう言う代わりに、マリオンは別の言葉を口にした。
「わたしも一緒に行っていい?」
カルヴィンの眉間に皺が寄る。
「邪魔なら、行かない」
自分にも何かできることがあるのではないかと思ったわけではない。イヴォンヌはきっと助からないのに、カルヴィンとギィだけがそこに行かなくてはいけないということが、マリオンには苦しかったのだ。だからカルヴィンが邪魔だと言うなら、すぐに引き下がるつもりだった。
「邪魔ではないが……」
カルヴィンは言いかけた言葉を押し止めた。普段の彼の態度からして、危ないからとかそういった理由でマリオンを止めるつもりだったはずだ。
しかし、カルヴィンの灰色の瞳がじっとマリオンを見つめる。そこに彼にしかわからない苦悩があるような気がした。
「……一緒に来てくれ、マリオン」
「いいの? 邪魔じゃない?」
「彼女がマリオンの知り合いなら、その方がいい」
「仲悪いけど」
「それでもだ」
マリオンはほっとした。自分から言い出したことだが、足手まといにはなりたくなかったのだ。
「まだ時間はある。先にマリオンの家に行って遅くなることを伝えておいたほうがいいだろう。その後に俺の家にも寄って、点火棒を持って来る必要がある」
「わかったわ」
マリオンはエヴリーヌが男性と二人での夜の外出を許してくれるかどうか不安だったが、彼女が祖母に何でも話していたことが功を奏した。
以前、カルヴィンがオペラ座のガス灯を一緒に見に行ってくれると言った時も、その日の夕食の席で既に話していたので、それが今日になったと言えば、反対はされなかった。もちろんエヴリーヌはマリオンの恋心を知っているし、マリオンからカルヴィンがいかに信頼できる人間かもずっと聞かされている。
むしろあっさりと許したことを、カルヴィンのほうが驚いていた。
「いいんですか?」
マリオンの家の玄関前で、初めてエヴリーヌと顔を合わせたカルヴィンは、マリオンとよく似た雰囲気を持ちながらも落ち着いて見える彼女が、男と二人でなんて危ないからと止めないことが不思議だった。ろくでもない男を信用して破滅した娘の話など、この街ではよく聞くだろうに。
「あなたのことはアルノーからも聞いているし、マリオンが話していた印象そのものだもの。心配していないわ。だけど、あまり遅くはならないでね」
にこにこと話すエヴリーヌを見て、この祖母と孫娘は人に騙されたことがないのだろうかと不安になった。しかし、下町の中でも貧しい部類に入る地区で幼い孫を守りながらも暮らしていたことがあるのだ。見た目よりも強かなのかもしれないと思い直す。
「わかりました。必ず送り届けます」
「ええ、よろしくね」
エヴリーヌは手を振って見送りながら、マリオンに楽しそうに意味ありげな視線を送った。デートがんばってというところだろう。
それどころではないのだが、マリオンは微笑みながら頷いた。
次にカルヴィンが住んでいるアパルトマンへと向かう。マリオンのアパルトマンからそれほど離れていない、独身者が多く住んでいるような小さな建物だった。カルヴィンは玄関から入ってすぐのところでマリオンを待たせて、素早く着替えて点火棒を持って現れた。
「制服を着たの?」
「ああ、私服でこれを持っていたら目立つからな」
制服とはいっても、カスケットと上着だけなのだが、それだけでも点火棒をもっていればやはり仕事中の灯し人としか見えない。すでに夕暮れから夜に移り変わる時刻だが、これなら景色に溶け込むだろう。
「今からオペラ座通りへ行くのよね。イヴォンヌがどこにいるかわかるの?」
主演女優を目指していたくらいなのだから、イヴォンヌはオペラ座通りにあるオペラ座へ向かっただろう。しかし、あの通りだけでもかなりの数のオペラ座があるので、そのどこかなど彼女と仲がよくないマリオンにはわかりっこない。
「ギィが彼女を追いかけて行ったから問題ない」
「あ、だからギィの姿が見えないのね」
人目を避けて出てこないだけかと思っていたが、知らないうちに追いかけていたらしい。機転が利くというよりも、彼らはこういったことに慣れているのだろう。
カルヴィンはイヴォンヌを助けられる可能性はないに等しいと言った。
それは、カルヴィンが何度も似たようなことを経験して、その結果として導き出された答えなのだということに気がついた。
やはりイヴォンヌを助けたい。行こう、と促すカルヴィンの固い表情を見ながら、マリオンは思った。
優しいカルヴィンとギィのためにも。