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ソワレと灯火  作者: 山吹ミチル
二章
31/43

9 願われた死

 カルヴィンが迷ったのは一瞬だった。


「どこにいる?」


 ギィは体全体を地面から出して、蜥蜴のような指で方角を示した。路地の奥のほうだ。


「一人で行けるか、ギィ。マリオンを近くに行かせたくない」


≪ウン、行ッテ来ル≫


 何のために避けるべき悪魔の近くに行くのか。彼らのやり取りに戸惑ったマリオンだが、以前ギィから聞いたことを思い出した。彼は自分の尻尾を奪った悪魔を探しているのだ。

 スルリと再び地面に潜ったギィを見届けた後、カルヴィンは表通りにマリオンをいざなった。


「マリオン、明るいほうへ行こう」


 しかし、マリオンは何気なくギィが示した方向に目を向けて、見つけてしまった。

 汚れて擦りきれた襤褸布から出た人の足のようなもの。緩い曲線を描いた狭い路地からはその全体像は見えない。


「カルヴィン、あれって……人?」


 マリオンの視線の先を追ったカルヴィンは、何でもないように答えた。


「浮浪者だろう。放っておけばいい」

「でも……悪魔に何かされたのかも」


 見過ごせない。マリオンは無意識にそんな声色を出していた。

 マリオンとて下町で生まれ育った人間だ。浮浪者やそれに似た人たちは見慣れているし、彼らに関わってもいいことなどないと知っている。

 だが、あれがもし悪魔に唆された人なら別だ。アルノーのことがあってから、マリオンは悪魔が弱った人に付け入る存在なのだと知ってしまった。彼のような人が増えるのは、できることならば阻止したい。


「もう、手遅れなのかもしれないけど。でも、悪魔と契約だけはしちゃいけないって、それだけでも言っておきたい」


 カルヴィンたちがアルノーを助けられたのは運がよかったからだと聞いているマリオンは、自分にできる数少ない些細なことを口にした。カルヴィンは無言で眉間に皺を寄せる。


「カルヴィン一人ならギィと一緒に行ったんでしょう? わたしは大丈夫よ。カルヴィンがいるし、悪魔に唆されたりしない」

「……わかった」


 仕方なく折れたというよりは、マリオンの言い分が間違いではないことに納得したという風にカルヴィンは頷いた。

 悪魔は急に人間に襲いかかって来るものではない。やることといえば、魂と引き換えに願いを叶えるという契約を交わすため、人間を唆すことだ。悪魔がどんな存在であるか知ったマリオンが、悪魔の誘いに乗るわけがない。

 それでも近づくだけで不快感や恐怖心を抱いてしまう悪魔から、マリオンを遠ざけたいとカルヴィンは思っていたのだが、大切な友人を失いそうになっていた彼女の気持ちのほうを優先したのだ。

 カルヴィンはマリオンの手を取って、前に出て歩き出した。隣に並ぼうとしたマリオンの腕を後ろに引くことで制する。彼にしては随分と甘い対応なのだが、カルヴィン自身は無自覚だった。

 襤褸布がやはり人らしいとわかる距離まで来た時、地面から黒いものが垂直に飛び出してた。


「きゃっ!」


 用心していたものの、目の前での予想外の出来事にマリオンは小さな悲鳴を上げてしまう。だが、カルヴィンは慣れているのか呆れた声で呟いた。


「ギィ……」


≪逃ゲラレタ≫


「そうか。今度からマリオンの前では急に地面から飛び出して来るのはやめてくれ。驚いているだろ」


 小さな丸い目でマリオンを見たギィはコクリと頷いた。


≪ワカッタ≫


 驚きすぎてマリオンは大丈夫だと言う余裕がない。そしてできれば今後はやめてほしかった。


「悪魔がいなくなったのならよかった。さっさと忠告して帰ろう」

「そ、そうね」


 もう手遅れかもしれないが、まだ間に合うのかもしれない。無駄ではないことを祈りながらマリオンは早く終わらそうとするカルヴィンの後に付いていった。

 するとカルヴィンがピタリと足を止めた。

 どうしたのかと顔を覗かせるマリオンと、それを止めようと振り返るカルヴィンが同時に動いて、かろうじてカルヴィンが間に合わなかった。

 マリオンが見たのは、目を極限まで見開いてこの世のあらゆる恐怖を見させられたような顔で固まり、足を投げ出し壁に背を凭れさせている人間の姿だった。

 おぞましいとさえ言える。こんな死にかたをする人がいるのだろうか。しかし、この人が生きているとは到底思えなかった。


「マリオン、見るな」


 カルヴィンが自分の体でマリオンの視線を遮った。それでも頭の中にはまだ残っていて、あまりの光景にマリオンは言葉がすぐに出てこない。


「……どうして、こんな」


 服装で女性なのだとわかりはするが、顔だけではそれすらも判別できない程に酷い形相だった。どんな目に遭えば、こんな状態で亡くなることになるのか。

 カルヴィンが躊躇いながらも答えた。


「悪魔に殺されたんだ」

「え?」

「魂を喰われたわけじゃない。ただ殺されたんだ。誰かがそう願ったことによって」

「そんな……」


 人の死を願う。自分の魂と引き換えに。

 そんな願望を抱える人だっていることは理解できるが、実際にそれを実行した人がいて、目の前に突き付けられるのは衝撃的だった。


「ここにいても厄介なことになるだけだ。早く離れよう」


 カルヴィンがマリオンの手を取ろうとする。その時、路地の奥から軽やかな声が響いてきた。


「マリオン」


 あまりにも場違いな声だった。マリオンは自分が呼ばれたということよりも、異常な状態の遺体があるこの場所で、嬉しさを隠しきれていないその声の主に驚いていた。

 振り返る。そこには今朝会ったばかりの人物がいた。


「イヴォンヌ……」


 花売りの少女が、上がりそうになる口角を抑えるような表情で立っていた。


「殺しちゃったのね、マリオン」

「え?」

「やっぱり、あんたの母親だったんじゃないの。ろくでなしの厄介者だったから殺しちゃったんでしょう」

「何を言って……」

「だってそいつ、あんたのこと探していたアル中女じゃないの。母親なんでしょう。邪魔だったから殺したのよね」

「違う!」


 断言するイヴォンヌに驚いて、マリオンは思わず叫んだ。彼女の話す内容についていけず茫然と見つめる。


「やっぱり、この女がマリーという花売りを探していた女か」


 硬い声でマリオンにだけ聞こえるようにカルヴィンが呟いた。そうして今度はイヴォンヌに向かって冷静に言う。


「マリオンじゃない。この女は俺たちが来た時にはもう死んでいた」


 笑いそうになっていた顔を不快げに歪ませて、イヴォンヌはふんと鼻を鳴らした。


「そんなの、あんたが庇っているだけでしょう。ほんとに媚びを売るのが上手いんだから」

「なぜそんなことが言い切れる」

「マリオンはね、そういう奴なのよ、こいつが殺したに決まっているわ!」


 そうでなくてはいけないとでも言いたげだった。イヴォンヌはマリオンを敵対視しているところがある。そのことはマリオンも知っていた。しかし、ここまで露骨で強引だったことはない。

 彼女は明らかに気持ちが高ぶっていて平静ではなかった。違和感しかないその態度に、マリオンは逆に少しずつ冷静になっていく。

 なぜイヴォンヌが急に現れて、遺体があることを驚きもせずに受け止めているのか。人相すら変わっていそうな死に顔を見て、花売りを探していたアル中女だとわかるのか。強引にマリオンを犯人だと決めつけながら、彼女は喜びを隠しきれていない。

 金髪の美しい娘。

 先程のカルヴィンとの会話を思い出す。


「イヴォンヌ……あんたがマリーなの?」


 そうマリオンが口にすると、火が消えるようにふっとイヴォンヌから表情がなくなった。

 応えはない。だが、充分だった。

 イヴォンヌがマリーなのだ。ここで死んでいる女の娘。


「……本当に嫌な奴」


 甲高かった声が一転して低く平坦なのものになる。


「あんたがマリーなのよ。あたしにろくでなしで屑の母親なんていない。もういなくなったの。あれはあんたの母親よ。あんたが邪魔になったから殺した母親なの」

「イヴォンヌ」

「ねえ、あんたって本当に嫌な奴だわ。いつもいい子のふりして、面倒な仕事でも進んでやって、おばあちゃんのおかげで姉さんたちに可愛いがられている癖に、更に取り入ろうとして他の奴らを追い落として。そのおばあちゃんのことが大好きなのよね。優しくて才能がある自慢のおばあちゃんに大切に大切にされている、お嬢ちゃん。本当に反吐が出そうだわ」


 胸の奥にくすぶっていた感情を吐き出すかのように、イヴォンヌは嫌悪で顔を歪ませる。


「世間のことをなんにもわかっていないあんたに、その女をあげるわ。もう死んでしまったんだし、いいでしょう。ろくでもない母親に付きまとわれて、遂に殺してしまったんだって疑わられながら生きていけばいいわ」

「イヴォンヌ。あなた、まさか悪魔と契約して、母親を殺してもらったの?」


 楽しそうに声を出してイヴォンヌは笑った。


「あはは、あんたの口から悪魔っていう言葉が出て来るとは思わなかったわ。そう、あたしは悪魔と正当な契約を交わしたの。だからこれは罪じゃないわ」


 あっさりと肯定されてマリオンは動揺した。

 イヴォンヌは直接手を下していないものの、彼女が願ったことによって母親が亡くなったのだ。何を引き換えにしたのか、彼女にだってわかっているだろう。

 だからなのか、あるいは母親が死んでいる姿を実際に目の当たりにしたからなのか、イヴォンヌはずっと感情が高ぶっている。正気になることを恐れるかのように。


「イヴォンヌ、自分の魂と引き換えなのよ?」


 するとイヴォンヌは馬鹿にしたように嗤った。


「わかっているわよ、そんなこと。でもいいの。だってすぐには死んだりしないもの。そういう契約なんだから。あいつと一緒に死んでどうするのよ。あたしはちゃんと夢を果たすまでは生きていられるの」

「どういうこと?」

「だからそういう契約を交わしたのよ。馬鹿ねぇ、あんたは。あたしは別に夢さえ叶えられたなら、若くして死んでもいいの。だからあたしの夢が叶ったら魂を喰べていいっていう、そういう契約にしたっていうわけ」


 そんな都合にいいことが可能なのだろうか。

 マリオンが問いかけるようにカルヴィンを見た。彼の顔は予想した通りとても厳しい。イヴォンヌの夢が何かはわからないが、悪魔が人間の都合に付き合って待っていてくれるだなんて思えなかった。イヴォンヌは悪魔がなぜそう呼ばれているのか知らないのだ。


「ああ、やっとオペラ座に戻れるわ。あたしをただのくだらない娼婦にして、金だけ奪おうとする女はもういないのよ!」


 清々したと歓喜の声を上げるイヴォンヌに、マリオンは胸が締め付けられた。今の言葉だけでイヴォンヌが悪魔に唆された理由がわかる。

 でも、彼女の願いはきっと叶えられない。


「命の期限をいつまでにしたんだ?」


 カルヴィンが静かな声で尋ねた。喜びに水を差されたイヴォンヌが胡乱な目を向ける。


「何なの、あんた」

「具体的な契約内容だ。いつ魂を渡すのか、日時をはっきり指定していたわけではないんだろう。悪魔の常套手段だ」


 馬鹿にされたと思ったのか、イヴォンヌは睨みながら答えた。


「だから、あたしの夢が叶ったらよ。日時を指定するだなんて、間抜けなことはしないわ。あたしが主演女優(プリマ・ドンナ)になったら魂をあげると言ったの。正当な取り引きよ。だってこの女が邪魔さえしなければ、あたしは絶対になれたんだから」

「悪魔はそんなに甘くない」


 遮るようにカルヴィンは断じた。


「人間の契約書と同じだ。日時をはっきり指定していない契約は効力が薄い。わざとそういう契約を交わすように悪魔に誘導されたんだ。あんたが一回でも寝たら、主演女優になった夢を見させて、そうして契約期限に達したことにしてしまう。悪魔の常套手段だ」


 

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