8 父の友人
マリオンがカルヴィンと共にいつもの花売りの仕事場に戻って来ると、数刻前に会ったばかりの少女が待ち構えていた。
「あっ、マリオン、どこに行っていたの!」
約束があったわけでもないのに、腰に手を当てて怒っている少女にマリオンは首を傾げる。
「アンジェリーヌ? どうしたの」
彼女は親しい姉代わりの人に会ったかのように、マリオンに駆け寄って抱きついてきた。甘えることにとても慣れている少女だ。
「あのね、さっきね、パパにマリオンのことを話したの。そしたら、パパがマリオンのこと知っているって言うのよ。だからパパを連れてきたの」
「え?」
マリオンは驚いて顔を上げた。アンジェリーヌの後ろにスラリとした長身の黒服の男性が立っていることに気づく。
彼はマリオンを見てとても懐かしそうに笑った。
「ああ、やっぱり。マリオンだね。ユーグにそっくりだ。顔立ちも、雰囲気も」
マリオンは目を瞬かせた。
父親の名前が出るということは、本当にマリオンのことを知っているのだろう。しかし、マリオンはこの男性が誰なのかわからなかった。
「わからなくても仕方ないよ。君に会ったことがあるのは、ユーグたちがまだ生きていた頃だから。彼らが亡くなる少し前に私も妻を亡くしていてね、その後に引っ越したんだ。だから、ユーグたちが亡くなっていたこともしばらくは知らなかったよ。当時、力になってやれなくてすまなかったね」
男性は気遣わしげにマリオンを見た。
「そうだったんですね。あなたも大変だったのですから、気にしないでください。お気持ちだけで嬉しいです、ええと」
「ああ、すまない。私はモーリスだ」
「ムッシュー・モーリス。父さんの友達に会えて嬉しいです」
「そんな堅苦しい話し方をしなくてもいいさ。私もユーグの娘に会えて嬉しいよ。アンジェリーヌに感謝しなくてはな」
マリオンの体から手を離したアンジェリーヌが、自慢気に胸を張った。
「わたしがパパにマリオンのことを話したからね」
「そうね、ありがとう、アンジェリーヌ」
「娘も君のことが気に入ったようだ。よかったら、この機会に仲良くしてやってくれないか」
モーリスはアンジェリーヌに対してとても優しい目を向けていた。アンジェリーヌが普段からとても大切にされていることがわかるような表情だ。
「ええ、もちろん」
「君も何か困ったことがあったらいつでも言ってくれ。ユーグには世話になったからね」
父親よりもいくつか歳上に見えるモーリスに、マリオンはきっと世話になったのは父親のほうなのだろうと思いながら微笑んだ。
「ありがとうございます」
「さあ、アンジェリーヌもう行こう。仕事の邪魔をしてはいけないからね」
「ええー。もう行くの?」
頬を膨らませたアンジェリーヌに、マリオンは優しく笑った。
「またいつでも来てよ。わたしもアンジェリーヌと仲良くなりたいわ」
「じぁあ、明日も来てもいい?」
「もちろん」
「アンジェリーヌ、ほどほどにしなさい。……すまない、ちょっと変わった子で、年の近い友達がいないんだ」
「友達ならいるわよ! パパ、変なこと言わないで!」
余計な一言を言った父親に、アンジェリーヌは顔を赤くして怒った。
「そうだな。ああ、悪かった。パパが悪かったよ」
困り顔で謝る父親に対し、娘はふんと顔を逸らして許す気配がない。やはり年の割には子供ぽいアンジェリーヌだが、可愛らしいので憎めない。
「わたしとも友達になってくれるのでしょう、アンジェリーヌ。明日待っているわ」
「ええ、明日また来るからね、マリオン」
途端に機嫌がよくなった彼女は、父親のことも許したらしく、今度は促されるまま父娘で家に帰って行った。
一歩離れた場所で三人の様子を見ていたカルヴィンが近づいてくる。
「……さっきの子か? 悪魔の気配がすると言ったのは」
「そうよ。やっぱりちょっと変わった子みたいね」
「ああ、らしいな」
マリオンはすっかりアンジェリーヌの悪魔に関する発言が、可愛らしい悪ふざけによるものだと信じていた。
遠ざかっていく二人の背中をもう一度見て、寂しさと共に懐かしさが胸に込み上げてくる。
マリオンの父親も、マリオンを甘やかす人だった。叱られることもあったが、いつだってマリオンのことが可愛くて仕方がないのだと、マリオン自身もちゃんと理解していた。パパと呼んで駆け寄れば、必ず両手を広げて抱き止めてくれた人だ。
「あ……」
ふいにマリオンは思い出した。
「どうしたんだ?」
「さっきのモーリスさん。わたし会ったことある。思い出したの」
マリオンの記憶の中で一度だけ、父が駆け寄るマリオンを抱き止めてくれなかったことがあった。その時、父の傍には誰かがいて、それがあのモーリスだったはずだ。あまりにも父の態度が珍しかったので覚えている。
「確か、わたしは家の近くで遊んでいて、道端で誰かと話し込んでいる父さんを見つけたから、いつもみたいにパパって呼んで抱きつこうとしたの。そしたらいつもは笑顔で両手を広げてくれるはずの父さんがすごくびっくりして焦っていたような気がする。何だか後ろめたそうなっていうのかな、そんな感じだった」
「その話し込んでいた誰かっていうのがさっきの人か」
「うん。わたし父さんの様子がおかしいことにすぐには気づかなくて、抱きついてからあれって思ったの。そしたら父さんがすごく困った顔でわたしを見てて、父さんはお友達と話をしているから、後で迎えに行くから遊んでなさいって言われたわ。大事な話の邪魔をしちゃったんだと思って、一緒に話していた人にごめんなさいって謝ったの。あれが多分モーリスさんだったわ。モーリスさんは怒ってなくて……あれ? うん……怒って、なかったわ」
記憶の中に何か引っ掛かるものがある。でもそれが何なのかわからなくて、マリオンはすぐに探るのをやめてしまった。
「本当に父親の知り合いならよかったよ」
カルヴィンはそこから疑っていたらしく、表情は変わらないものの安堵しているように見えた。
「そんな嘘吐くような人じゃないと思うけど。すごくちゃんとした感じだったよ」
「わからないだろ。君は警戒心が薄いんだ」
「そんなことないと思うけど」
全くそうは見られないが、マリオンはそれなりに苦労もしているのだ。警戒心はちゃんとある。しかし、カルヴィンは同意できないらしい。
「会って間もない人間を信頼しすぎているだろ」
「それってカルヴィンのこと? カルヴィンは仕方がないよ。特別なんだから」
笑いながらマリオンが言うと、カルヴィンは俯いて片手で顔を覆った。呆れているのか、照れているのか。気になってマリオンが顔を覗き込もうとすると、今度は斜め上に逸らされてしまった。
どうやったら意識してくれるのだろうか。
マリオンがカルヴィンをじっと見つめながら考えていると、静かになったことを訝しんだのだろう、カルヴィンが視線を戻し、凝視されていることに気づくと、警戒したように後退った。
そんな反応しなくたっていいのに。
しゅんと肩を落としたマリオンに、カルヴィンは今度は慌てた。どう声を掛ければいいのかわからず、近づいてそっと手を伸ばそうとする。
「マリオン!」
しかし、突然響いた呼び声に、二人は驚いて振り返った。
「マリオン、あんた帰ったんじゃなかったのかい? こんなとこで何してんのさ!」
「アンナさん?」
何をしているも何も、ここはマリオンのお決まりの仕事場だ。花が売れ終わる前にカルヴィンと話をしに行ったので、既に夕刻だが、仕事をするために戻ってきただけだ。首を傾げるマリオンの腕をアンナが掴んだ。
「早く帰りな! あの女、まだうろついているかもしれないよ!」
「え? あの女?」
戸惑うマリオンに、アンナは苦虫を噛み潰したような顔をした。
「飲んだくれのやな女だよ。酔っぱらいなんざ珍しくもないけどね、この辺りにマリーっていう金髪の花売りがいるだろう出せって怒鳴りちらしたんだよ。びっくりして、あんたその娘の何なんだって聞いたら、母親だって言うからさ」
「違うよ!」
マリオンは驚いて大きな声で否定した。花売り協会の花畑に来ていた女性に違いない。こんな所にまで来るなんてぞっとする。
「わかっているよ。誰か他の娘と間違えているんだろ。そんな娘はいないって言っておいたけど、まともに話を聞いていたかどうか怪しいよ。また戻ってくるかもしれないから、早くお帰り」
「う、うん。そうする」
「あんた、送って行ってやりなよ」
アンナがカルヴィンに向かって言うと、カルヴィンは「ああ」と頷いた。
「待って、カルヴィンはもう仕事の時間でしょ」
「今日は休みだから問題ない」
本当だろうかと疑ったが、灯し人の仕事というのは無断で休んだりしたら厳罰ものだ。本当にたまたま休みなのだろう。マリオンはカルヴィンの言葉に甘えることにした。
「でも、どうしよう。その人、明日もまた来るんじゃないかな」
ぼんやりと薄暗くなりつつある通りを歩きながら、マリオンは頭を悩ませた。
「一度ちゃんと会ったほうがいいのかも。別人だってわかったら納得してくれるだろうし」
「マリオン、アル中の人間とまともに話ができると思うな。あいつらには関わらないのが一番だ」
「でも、あそこがわたしの仕事場なのよ。あそこで仕事ができなくなるのは困るの。今から他の稼ぎ場所を見つけるなんて無理だもの」
花売りにも縄張りがある。花が売れそうな道端はすでに他の花売りたちの持ち場になっているだろうし、それを侵せば協会から厳重に注意されるだろう。これは死活問題だ。
カルヴィンも生活が苦しくなることを我慢してまで行くなとは言えないようで、渋面を作りながら妥協案を出した。
「人が少なくなる時間帯には仕事を切り上げるようにしてくれ」
「うん。わかったわ」
元々マリオンは優秀な花売りで、夕方前に仕事が終わることが多い。そんなことなら難なく守れるので、必ず遅くまで仕事はしないと約束した。
「でも、誰なんだろうね。その金髪のマリーっていう娘。わたしがいる花売り協会にはいないはずなんだけど」
「……さあな」
マリオンは今日の一つ目のガス灯が灯りそうな、太陽が隠れつつある空のを眺めながら、裏通りの花売りだろうかと考えた。
花売りには二つの種類の花売りがいる。昼間の表通りで花を売る花売りと、主に夜の裏通りで花を売っている裏通りの花売りだ。彼女たちは別の花も売っていて、それは別段珍しいことではない。パリに娼婦はたくさんいる。むしろそういったことをはっきりと断っている、マリオンたちが所属する花売り協会が特別なのだ。
「アル中の母親から逃げてきたのかしら。だとしたら、見つからなければいいけど」
ろくでなしの親から搾取され続ける子供も下町では珍しくない。そういった親からは物理的に逃げるしかないのだ。そうして逃げて、執念深い親に見つかって、また捕まってしまうことも珍しくはない。
「マリーじゃないのかもな」
「え?」
「その花売りの娘だ。親から逃げ出したのなら、名前を変えていてもおかしくはない」
「あ……それは、そうかも」
名前を偽ることはやろうと思えばそれほど難しくはない。身を潜めたいのなら、それは有効な手段だ。
「それなら見つからないかしら。早く母親が諦めてくれるといいけど」
ため息を吐くマリオンを見ながら、カルヴィンはそれよりも母親のアル中が進行してくたばるほうが先だろうと思った。
ろくでなしに同情する気のないカルヴィンとしては早くそうなってほしい。そのほうがマリオンが安全だからだ。
明日からどうすればマリオンを危険から遠ざけられるだろうかと考えていると、聞きなれた枯れ葉が擦れるような声がした。
≪カル≫
「ギィ?」
後ろを見れば、影の中から頭半分だけを出したギィがいた。
彼は自分が人から見つかってはいけないことを一応は理解している。それなのにまだ人通りがある往来に出てきたのだ。カルヴィンは急いで驚くマリオンを連れて、細い裏路地へ入っていった。
「どうしたんだ、ギィ」
ギィを隠すように物影に身を寄せてから尋ねると、彼は影から頭を全部出して淡々と言った。
≪悪魔、イル≫