7 変化する日
相変わらずマリオンとエヴリーヌの日々の生活は苦しくて、もうすぐ命の危機すら感じられるほどの寒波がやってくる。
真っ当な仕事を見つけられることもなく、道を歩けば冷たい視線にも晒されている。それでも何もかもが変わらないわけではなかった。
あれからエヴリーヌは更に明るく振る舞うようになった。マリオンを暗い気持ちにさせないように、落ち込ませないように、よく笑ってよく喋る。
そうなるとマリオンも泣いてばかりいられない。もう平気だとは決して言えなかったし、辛いことも数多くあったが、徐々に平気なふりくらいはできるようになった。
二人で笑いながら通りを歩いていると、人の視線も気にならなくていい。気にしなければ、周囲の大人の誰も彼もが恐いとは思わなくなった。
「わたし洗濯好きだよ。今日みたいに寒い日はすごく好き。洗濯場はあったかいもん。ずっといたくなっちゃう」
汚れた衣服を抱えながら、マリオンはエヴリーヌに話しかける。彼女はうんうんと嬉しそうにそれを聞いていた。
エヴリーヌは以前よりも話すようになったが、それはおしゃべりになったわけではなく、マリオンを喋らせるための行為なのではないかと思えた。その証拠に、マリオンが他愛のないことを話すたびに、嬉しそうに聞いている。だからマリオンもつまらないことだろうとついエヴリーヌに話す癖がついてきた。
「でも夏になったらすごく暑そうだね。洗濯場の隣に引っ越せたら冬もあったかくてよさそうって思ってたけど、やっぱりいいかなぁ」
「そうねぇ。まずは屋根裏から出たいわねぇ」
「うんっ。おばあちゃん、わたしちゃんと勉強しているからね。いつかいい仕事が見つかったら、もっと低いところに引っ越そうね」
「まぁ、頼もしいわね」
エヴリーヌが本当に嬉しそうに笑うから、マリオンも作り笑いではない笑顔を返せる。祖母の前でだけは、両親が亡くなる前の元気さを取り戻しつつあった。
洗濯場に入ると蒸気機関が吐き出す熱気にむわっと包まれる。外気で冷えた体には心地よくてほっと息を吐いた。
石鹸を買ってお湯を汲むと汚れた衣服をその中に入れる。洗濯屋に頼めるほどの家計の余裕がない者や、洗濯が得意な者はここで家族の衣服の洗濯をするのだ。もちろんマリオンたちは前者に当たる。
まだ一人で洗濯ができるほどの体力も技術もないマリオンは、エヴリーヌにやり方を教えてもらっている最中だ。洗濯だけでもマリオン一人でできるようになれば、エヴリーヌの負担は軽くなる。マリオンは熱心にやり方を教わっていた。
そんな二人を周りの女たちがちらちらと視線をよこしてくるが気にしない。マリオンは衣服を揉みこんでいるうちに楽しくなって洗濯のうたを歌い出した。ここでは誰かがこの歌を歌い出すと、気分が乗った者が一緒に歌い出して合唱になる。しかしマリオンの歌につられる人は今までいなかった。だから今日も歌ってくれるのはエヴリーヌだけだろうと思っていた。
この場にいる中ではマリオンは一番に幼く、歌声もわかりやすい。にもかかわらず、しばらくするとエヴリーヌではない女性の歌声が加わってマリオンは驚いた。辺りを見回すとすぐ近くにいる恰幅のいい女性が歌っている。この距離なら尚更、マリオンが歌い始めたのだとわかるはずなのに。
戸惑いながらも歌い続けていると、更に歌声が増えてきた。どういうことなのかわからずエヴリーヌに目を向けてみると、彼女はただにっこりと笑っている。それを見て安心したマリオンはやはり気にせず歌い続けることにした。
口を動かしながら作業をし、濯ぎ洗いまで終えた衣服を一枚手に取ると、端をエヴリーヌに渡して反対側の端を持つ。二人でくるくると捩じれば水が落ちて床に流れていった。
「そんなんじゃあ、ちゃんと絞れていないだろう」
急に話しかけられて、マリオンは驚いて振り返った。そこには先程の恰幅のいい女性が立っている。
「そんな細っこい腕で無理するんじゃないよ。ほら、貸してごらん。手伝ってやるから」
彼女はマリオンやエヴリーヌが返事をする前に、手のひらをマリオンに重ねて力を入れた。衣服から水がぼたぼたと零れる。
「ほら、たくさん出てきた。さあ、そっちも全部やっちまうよ。あんたもちゃんと持って」
驚いたまま何も言えないマリオンを気にすることなく、彼女は次々と絞るのを手伝い、ほとんど役に立たなくなったマリオンにも同じようにやらせた。
「ありがとう、アンナ。とても助かったわ」
にこにこと穏やかに笑いながらエヴリーヌが礼を言う。マリオンはますます驚いてアンナと呼ばれた女性を正面から見た。知っている顔だった。かつて母と交流があった人だ。彼女は気まずそうに顔を逸らす。
「いいよ、これくらい」
彼女は自分の荷物があるところに戻ろうとしたが立ち止まって小さな声で言った。
「悪かったよ。オレリアはいい奴だった。ユーグも」
突然、父と母の名前が出てきて、マリオンは息を飲む。アンナはそれだけ言うと自分の荷物を片付けて帰って行った。
うまく状況を飲み込めないマリオンにエヴリーヌが声を掛ける。
「わたしたちも帰りましょう、マリオン」
洗濯場を出ると冷たい風に吹かれてぶるっと身を震わせる。マリオンは無言で歩いていた。いつもならこんな時、エヴリーヌが何かを話すのだか、なぜか彼女もしゃべろうとしない。マリオンは耐えきれなくなってポツリと呟いた。
「さっきの人……」
「なあに?」
「ママの友達だった?」
「そうね。確か子供の頃、近所に住んでいた人だって、オレリアが言っていたわ。アンナが怪我をしてしまった時に、オレリアが彼女の子供を預かっていた時期があったの」
マリオンはまた黙った。
覚えている。アンナは両親が亡くなった時、はっきりと軽蔑の目をマリオンとエヴリーヌに向けていた。そんな人たちだったとは思わなかったと言って、周囲の大人たちと同じように、両親が悪魔と契約して死んだのだと信じて疑っていないことがありありとわかった。母に助けられた過去だってあったのに。
「今更……謝ったって……」
もう半年以上が過ぎている。今更、オレリアとユーグがいい人だったとわかるなんて遅すぎる。ずっとマリオンたちが心ない噂のせいで辛い目に遭ってきたことを知っていて無視してきたのに、今更、そんな事実はなかったかのように優しくしようとするなんて。
「そんなの、ずるい」
マリオンの目に涙が溜まった。エヴリーヌの手をぎゅっと握る。
「マリオン」
優しい声に呼ばれて見上げると、エヴリーヌは微笑んでいた。
「よかったわね」
心からそう思っていることがわかる声だった。マリオンはぼろぼろと涙を溢す。
悔しかった。あんなに優しい両親のことを疑ったくせに、本当に困っている時に助けてくれなかったくせに、そのことを何でもないことのように振る舞って、今更優しくするなんて。
そう思うのに、この涙は悔しいからでも悲しいからでもなかった。胸が熱い。
エヴリーヌが察したように、マリオンは嬉しかったのだ。アンナのことを酷いと思っていても、両親が亡くなってからはじめて他人に優しくされたことが、涙が出てしまうくらいに嬉しかった。
「よかったわねぇ」
泣いているマリオンに気づきながら、エヴリーヌは微笑んで繰り返した。
こんなことくらいで馬鹿みたいだと思いながら、マリオンは安堵と嬉しさに震えていた。この日から少しづつ日常が変わっていった。
「それからはなぜか徐々に優しくしてくれる人が増えてきたの。両親のことを知ってる人たちは特に、やっぱり悪魔と契約しただなんておかしいんじゃないかって言うようになって、あんなにしっかり者でしかも幸せそうに暮らしていたんだから、そんなはずないよって」
マリオンは甘草水の瓶を握りながら、感情的にならないように訥々と語った。それでも当時のことを思い出せば、どうしても泣きたくなる。
「お父さんもお母さんも優しい人だったし、いつも幸せそうだったから、誰かがおかしいって言い出したら、やっぱりってなったのかも。噂なんてそんなものだし」
マリオンは顔を歪めて笑った。
段々と自分が何を言うべきなのかわからなくなっている。ただ辛かったことをずっとしゃべっているだけなんて、カルヴィンだって困るだろうに。
「しばらくしておばあちゃんが花売り協会に戻れることになって、そこでの評判もよくて屋根裏部屋から引っ越せるようになったの。ただ、体が弱いのにずっと無理をしていたから、今はあまり出歩けなくなってしまって」
そこでマリオンは口を閉ざした。
もうしゃべりすぎてしまっている。これ以上はいい加減にやめておくべきだろう。
マリオンは顔を上げて、帽子の下からそっとカルヴィンを伺った。
彼の表情はやはりいつもとあまり変わらなかった。それでも眉を寄せてどこか苦しそうにも見える。
「両親だけではないだろう」
少し怒っているようにも聞こえる声でカルヴィンが言った。
「君とおばあさんがずっと前を向いて生きていたから、周囲の人間も変わっていったんじゃないのか」
カルヴィンらしい優しさが込められた言葉に、マリオンは自然と笑っていた。
「そうだといいかなぁ」
我慢していたのにまた泣きそうになる。
「わたしあの頃、ずっと大人たちが恐くて言いたいことが言えなかった。お父さんもお母さんも、悪魔と契約なんかして願いを叶えて貰おうとするような人じゃないって、絶対にそんなことしていないって、ずっと言いたかったのに言えなかった。だから自分が大人になってちゃんと言えるようになったから、過敏に反応してしまうんだと思う。あんな言い方して、ごめんなさい」
「別にいいって言っただろ」
「……うん、ありがとう、カルヴィン」
マリオンは帽子で隠れないようにしっかり顔を上げて笑った。
ずっと包んでくれていた手に、痛いくらいの力が込められる。改めてその感触に意識が向いた。優しいカルヴィンにしては、遠慮のない強さに胸が疼く。
「カルヴィン」
「何だ」
手のひらとは裏腹に、甘さすら感じられるくらいの低く穏やかな声が応えてくれる。マリオンは恥ずかしくなって俯いた。
「……わたし、やっぱりあなたのこと好きだわ」
心の空洞を埋められて、それでも足りずに溢れ出てしまった気持ちを思わず口に出していた。会えただけでよかったと思えるくらいには好きになっている。
しかし、沈黙が流れるだけで全く反応がない。
迷惑だったのだろうかと悲しくなりながら目を向けた。するとカルヴィンはわかりにくいながらも驚いているのだろうと思われる表情で固まっていた。
「カルヴィン?」
首を傾げる。以前にもマリオンは気持ちを告げたことはある。それに普段からあからさまに好意を態度であらわしてもいた。
だから驚く要素などないはずなのに、カルヴィンは名前を呼ばれるとはっとして、勢いよく顔を逸らした。
「え?」
「いや…………そうか」
絞り出したような声だった。
マリオンは何だか嫌な予感がした。カルヴィンはゆっくりと顔を正面に戻してそこで止まり、マリオンのほうを見ようとはしなかった。
感情を少ししか表情に出さないカルヴィンが、疑いようもなく苦悩している。口を僅かに開いて、言いたいことを押し込めるようにまた閉じた。
彼は何かを耐えている。
「あの、カルヴィン」
「マリオン」
困らせたいわけではないと言おうとした。しかし、はっきりとした声に遮られる。
「俺は君に対してどういう気持ちを持っているのか、自分でもよくわからない」
「……うん」
マリオンはほっとした。期待する言葉じゃなくても、好きじゃないと言われるよりずっといい。
「でも、もし君に何か困ったことがあったなら、俺は絶対に助ける。これだけは本当だ。だからその時は絶対に教えてほしい」
正面を向いたままのカルヴィンは真剣な顔をしている。
狡いなと思った。好きだとは言わないくせに、もっと好きにさせることを言う。
「もう十分助けてもらっているのに」
「そうだとしても関係ない。教えてくれ。俺がそうしたい」
「……カルヴィン、女たらしみたい」
「は!?」
カルヴィンは口を開いて唖然とした。自覚がないなんてやっぱり狡いとマリオンは思う。
「もう、絶対に好きにならせてやる」
「何だ?」
不貞腐れて呟いた言葉は幸いにして届かなかった。マリオンは被らされていた帽子を取ってカルヴィンの頭に戻すと晴れやかに笑った。
「絶対に言うわ。でもわたしだってカルヴィンが困っていたら助けるからね」
さっきまで辛い記憶を思い出して泣いていた少女の笑顔を、カルヴィンは胸の苦しさを抱えながら見つめていた。