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ソワレと灯火  作者: 山吹ミチル
二章
28/43

6 小さな手の価値

 それを見つけたのは偶然だった。

 学校からの帰り道、古着を台車に積み重ねた行商人が、道の端で煙草をくゆらせながら一服していた。

 その台車の中の、焦げ茶色の布にマリオンは釘付けになった。


「あの……これはいくら?」

「んぁ? ああ、これは古かぁねぇが、端が裂けてるから、まあ三フランと五十スーくらいだな」

「そう……」


 マリオンはそれだけ聞いて、すぐにその場を離れた。商人はお金を持っていない人間が商品に近づくことを酷く嫌うので、じっくり眺めていては怒られてしまう。

 しかしマリオンはあのストールがとても気になった。

 生地は荒すぎず薄すぎず、古いものでもないらしい。裂けていると言われたが、エヴリーヌなら簡単に直せるのではないか。

 売っているのが行商人なら、明日はどこに行くのかわからない。そうなると、あのストールが掘り出し物に思えてきて、マリオンはどうしてもあれが欲しくなった。

 そうだ、お金を貯めていいものを買おうとするよりも、これからどんどん寒くなっていくのだから、早めに買ったほうがいいのではないか。そのほうがエヴリーヌは風邪を引かなくてすむはずだ。

 考えれば考えるほど、今すぐにあのストールを買うべきだと思えてきた。

 しかし、エヴリーヌがあの造花を店に持って行くと言ったのは明後日だ。なんとか今日中に持って行ってもらうようにお願いしたいが、彼女がいつ帰って来るのかも、今日に限って聞いていなかった。

 しばらく考えたのち、マリオンは自分で帽子屋へ造花を納品しに行こうという考えに至った。

 エヴリーヌは店主に話があるから、マリオンに行かなくてもいいと言っていただけだ。それなら行ってはいけないわけではないだろう。そうして賃金を貰って、先にマリオンが使ってもいいと言われた分でストールを買っても、やはり問題はないはずだ。

 マリオンはストールを渡した時のエヴリーヌの笑顔を想像してくすぐったい気持ちになり、迷いがなくなった。

 家に帰り、造花を籠に入れて帽子屋へ向かう。話に聞いていた安物の帽子店は、それでも同じく安物の服屋に比べれば僅かばかりの品があった。

 裏口へ回り扉を叩いたマリオンは、その場でじっと待つ。少しすると扉が開いて、三十をいくらか過ぎたくらいの、いかにも女店主といった風情の威圧感のある女性が出てきた。


「こ、こんにちは。あの、造花の仕事を貰ったエヴリーヌの孫です。出来上がったから、持ってきました」


 籠を掲げると、店主は眉尻をつり上げた。


「随分、のんびりだったね」

「ごめんなさい……」


 不満を顕に言われて、マリオンは肩を竦めた。予定ではもっと後でもいいということだったはずなのに。


「あーあ、こりゃ駄目だね。形が悪すぎる。これじゃあ売り物になるかねぇ」


 木綿の造花を一つつまみ上げて、彼女は鼻に皺を寄せながら悩むようにため息を吐いた。マリオンは驚いて顔を上げる。


「えっ、でも、おばあちゃんは大丈夫だって、大人が作るのと変わらないって言ってたよ」

「なんだ、あんたが作ったのかい?」


 鋭く言葉を放たれ、マリオンは動揺した。


「あの……」

「そういうことかい。ああ、やっぱり駄目だねぇ。これじゃあ花に見えるかどうか」

「ごめんなさい、作り直します」


 恥ずかしくなったマリオンは、彼女の手にある造花を取り返そうとした。そんなはずはないと言う勇気はなかった。自分でもエヴリーヌが作ったものと何度も見比べたし、エヴリーヌは仕事に対して真面目な人だ。売り物にならないものを問題ないと言うとは思えなかったが、専門職の人間が駄目だと言うのなら、そうなのかもしれないと思えてきてしまう。

 だが、店主はマリオンの手を退けた。


「それじゃあ間に合わないね。本来なら売り物になんかならないが、時間がないからこんなのでも使わなくちゃいけないんだよ。でも、そうだねぇ。これなら全部でせいぜい三フランというところだね」


 マリオンは言葉を失った。いくらなんでもその賃金が低すぎるということはわかる。そしておかしさから気がついた。彼女が嘘を吐いているのだということを。

 この数ヶ月で何度も見てきた、嘘つきで卑怯な大人たちと彼女は同じ顔していた。


「待って! すぐに作り直すから!」

「間に合わないって言ってるだろ」


 店主は不機嫌に目を吊り上げた。


「何なんだい、せっかく困っているだろうからって仕事をくれてやったっていうのに、遅いわ、不出来だわ、そのうえ文句まで垂れるなんて、やっぱり碌な人間じゃあないね!」

「そんな……だって……」


 あまりにも理不尽な言い草に、マリオンはスカートを掴んで震えた。


「こっちが親切にしてやりゃあ、何なんだい。言っておくけどねぇ、本当はあんたたちみたいな奴らに仕事を任したい人間なんていやしないんだよ。それなのに仕事を与えてやったあたしに文句を言うなんてどうかしてるよ、ああもう信じられない! そんなにこの金額じゃあ不満だって言うんなら、引き取らなくたっていいんだよ。他に買い手なんていないだろうけどね! ほら、どうするんだい。三フランを受け取るか、一シリングにもならないそれを持って帰るか。こんな不出来なものに三フランも出してやるって言うあたしに感謝してほしいよ!」


 彼女は手に持っていた造花を投げつけてきた。汚いものを見るような目が、マリオンを見下ろしている。

 うまく呼吸ができなくて、苦しくなった。

 何も考えられないまま、マリオンは口を動かしていた。


「引き取って……ください」


 店主は鼻息を吐き出すと、造花の入った籠をマリオンからひったくり、店の中へと入って行った。すぐに戻ってきた彼女は、空になった籠を返し、その中に一フラン硬貨を三枚投げ入れた。

 そのうちの一枚が跳ねて、地面に転がる。

 彼女は言葉もなく、マリオンの目の前で扉を大きな音を立てて閉じた。

 茫然としながらも、ここから離れなくてはいけないという意識が働いて、マリオンは地面に落ちた硬貨を拾って籠に入れる。

 三フラン。

 これが十日間、懸命に働いたマリオンの価値だった。

 あり得ない金額なのか、それともこんな賃金で働かされている子供が他にもいるのか、マリオンにはわからなかった。だがこれが、真っ当な金額ではないことと、マリオンを守るために体を衰弱させているエヴリーヌの助けになるような金額ではないことだけは確かだった。

 マリオンはずっと頑張ればいいのだと思っていた。そうすれば、父と母はもういなくとも、以前のように笑って暮らせるのだと。

 朝、目が覚めた時に見る、痩細って疲労が色濃く残ったエヴリーヌの横顔が、それでもマリオンが起きたことを知ると優しく微笑む、そんなエヴリーヌを支えていけるようになっていくのだと信じてた。

 でも違ったのだ。マリオンにそんな力などない。お金もまともに稼げない。肩代わりできる辛い家事もほとんどない。

 ぼんやりと歩きながら、マリオンはいつもより道行く人たちの視線を強く感じた。もう、そんなもの気にすることなんかないと、自分に言い聞かせることはできなくなっていた。

 蔑む視線が恐かった。厄介な子供がいるとでも言いたげな顔に、その通りなのだと思う。

 優しく抱き締めてくれた、父と母の温もりが思い出せない。マリオンは生まれて初めて、消えてしまいたいと思った。




 気がつけばアパルトマンの近くまで来ていた。

 マリオンの足が止まる。家に帰っていいのかがわからなかった。

 ただじっとしていると、遠くにエヴリーヌの姿を見つけた。彼女は寒そうに腕をさすりながら、辺りを見回している。

 胸が締め付けられるように痛くなった。ストールは結局買えない。籠の中にあるのは何度見ても三フランだけで、これはきっと、マリオンが言い付けを破って勝手に帽子屋へ行ったせいでもあるのだ。

 エヴリーヌに何て言えばいいのかわからなくて動けない。逃げ出したいような、駆け寄りたいような気分だった。するとエヴリーヌが、マリオンを見つけた。彼女はほっとしたように肩の力を抜いて笑った。

 心の底からの安心感と罪悪感が、同時にマリオンを襲う。涙が溢れていた。


「マリオン、どこへ行っていたの?」


 エヴリーヌが駆け寄って尋ねる。答えないマリオンが泣いていることに気づいて、彼女は驚いて両手を伸ばした。


「マリオン、どうしたの? 何かあったの?」


 頬を包まれて、酷く心配そうな目で見下ろされているというのに、マリオンは理由など答えられなかった。涙だけがどんどん流れていく。


「……ごめんなさい」


 何に対してかはわからない。しかし、そうしなくてはいけない理由はたくさんある気がして、マリオンは謝った。

 エヴリーヌが目を見開く。


「ごめんなさい……。ごめんなさい」


 胸のうちを絞り出すような震える声に、エヴリーヌの顔が強張り、彼女はマリオンを強く抱きしめた。

 冷えていた体に微かな温もりが伝わる。


「マリオン」


 芯のある強い声が呼んだ。


「あなたは何も悪くない。何も、悪くないのよ」


 ただ一つの真実を告げるように、エヴリーヌは一言一言をはっきりと言った。そこに僅かな嘘も含まれているようには聞こえないのに、そう言ってもらって嬉しいはずなのに、マリオンは素直に頷けなかった。


「だって……だってっ」


 目が熱くなって余計に涙が溢れて、マリオンは瞼をぎゅっと閉じる。


「何も悪くないの。負けないで、マリオン。薄っぺらな悪意なんかに押し潰されないで。あんなものには何の意味もないの。あなたのことが何よりも大切な人間はここにいるわ。わたしが付いているから。だから、悪意にばかり目を向けたりしないで。あんなものにわたしの可愛いマリオンを泣かせる権利なんてないのよ」

「……うぅ」


 マリオンはもう、どうすればいいのかわからなくなってしまった。

 だから、泣いた。小さな胸に止めておくには大きすぎる感情が吹き荒れて、声を上げて吐き出すしかなかった。


「ぅうあぁぁーー!」


 憚ることのない少女の泣き声が、往来に響き渡る。

 その大声に怒る人間は誰もいなかった。何事かと目を向け、しばらくして気まずそうに顔を逸らし帰路につく。貧しさから、不幸というものの存在に鈍くなった人々は、それを直視しないことと誰かに押し付けることで自分の身を守っていた。

 しかしマリオンは不幸だから泣いていたわけではない。理由など説明できないが、それだけは確かだった。ずっと泣いているマリオンの体を抱きしめて、優しく髪を撫でてくれる手があった。

 もうすぐ夕暮れになる。パリに住む全ての住民を守る光が、この通りにも訪れて震える影を照らした。

 思うままに泣いたマリオンがようやく少し落ち着きを取り戻して顔を上げた時には、薄暗く砂埃の舞う淀んだ風景が様変わりしていた。どんなに貧困が浸み込んだ場所にいても、マリオンはこの時間のこの灯りがある景色が好きだった。

 エヴリーヌからそっと体を離す。彼女はマリオン自身よりも、涙の理由をちゃんとわかっているかのように微笑んでいた。実際エヴリーヌにはわかっていたのだろう。マリオンが再び顔を上げることを。

 涙の跡を手のひらで拭いながら、エヴリーヌは穏やかに言った。


「さあ、もう泣かないで。マリオン、わたしたちの天使」


 その時、遠ざかっていた記憶がマリオンの耳に蘇った。弾むような声。幸せの象徴だったもの。


 ――マリオン、僕たちの天使。


 止まりかけていた涙が、再び溢れてくる。


「あら……」


 エヴリーヌが困ったように笑った。


「ほら、マリオン。お腹が空いたでしょう。お家に帰りましょう」


 かつての家ではない、長い階段の上にある底冷えのする一室だけれど。それでもエヴリーヌがそう言うのなら、マリオンにとっても家だった。

 差し出された手を取り、泣き顔を隠さず上げて、マリオンはエヴリーヌと共にアパルトマンへと帰っていった。



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