5 変わった世界
学校に行くのが憂鬱だった。いじめられるからではない。親から関わってはいけないと言い付けられている子供たちの中には、残酷なものに興味を持ち始める年頃の子供もいて、どうやって悪魔を呼び出したんだとしつこく聞いてくるからだ。
ある意味では、彼らのこんな反応のほうがマリオンの心を傷つけた。両親は悪魔なんか呼び出していないと言っても、隠すなと言って怒り出す。それでも授業中は静かにしていなければ体罰を課せられることもあるのでなんとかやり過ごすことはできた。
問題は教師で、いつマリオンにもう学校に来なくてもいいと言い出すかわからず、常にいい子でいなくてはいけなかった。誰にも何も言われないために、マリオンは授業が終わればすぐに学校を飛び出す。
道を歩いているだけでも、以前は挨拶をしてくれていた顔見知りの人たちは、顔を隠すか、嫌悪を滲ませて舌打ちをした。逃げ出したい気持ちと、両親の名誉のために堂々としていたい気持ちがせめぎ合って、マリオンは中途半端に顔を歪ませてただ歩いていた。
「おう、悪魔に置き去りにされたガキじゃあねぇか」
ふいに声を掛けられて、マリオンはビクリと肩を震わせた。
恐る恐る顔を上げてみれば、やはり土色の顔に濁った目をした男がマリオンを見ている。呂律が回っていないせいで酔っ払いであることはすぐにわかり、心臓が大きく跳ねた。
以前住んでいた場所に比べると、この辺りは治安が悪く、酔っ払いも多い。見覚えのない男だったから、余計にマリオンは恐くなった。
「なんだってそんな貧乏くせぇ格好してやがんだ? 父ちゃんも母ちゃんもそろって悪魔にお願い聞いてもらったんだろ? いい暮らししてんだろうが。俺にちょっくら分けてくれよ」
へらへらと笑いながら男が近づいてくる。
いい暮らしをしたいというだけの理由で、父と母が悪魔にお願いを聞いてもらうはずがないし、そもそも両親の死と悪魔に関係なんかない。そう言い返したいのに、できなかった。
酔っ払いには近づいてはいけない。怒らせるなんてもっての他。下町の子供は親にそう言い聞かせられている。彼らは簡単に暴力を振るうからだ。
「昨日、仕事をしたばかりだってぇのに、もう金がねぇんだよ。誰かが俺のポケットからくすねたに違いねぇよ。なぁ嬢ちゃん。可哀想な俺に恵んでくれるだろ? どうせ悪魔からもらった金じゃねぇか」
マリオンは何も言えずに固まっていた。すると男の声が一段低くなる。
「おい、黙ってねぇで、さっさとよこせ」
殴られる。
恐怖からそう思わずにはいられなかったマリオンは、咄嗟に走り出していた。
後ろから男の怒鳴り声が聞こえてくるが、立ち止まれるわけがない。早く、早く逃げなければと、手足を懸命に動かした。男が追いかけて来ているのかどうか、確認する余裕すらない。
しばらく走って、へとへとになった頃に、ようやくマリオンは後ろを確認した。
ごく普通の、見慣れた昼下がりの下町の光景が広がっているだけだ。ほっと大きな息を吐く。
男はきっと追いかけてすら来ていなかったのだろう。酔っ払っていたのだから。でも自分の二倍以上もある男に凄まれて、そんなことを考える余裕がなかった。まだ心臓がうるさく鳴っている。
以前ならば、あんな場面に遭遇しても、きっと周囲の大人の誰かが助けてくれると思っていた。でも今はマリオンを助けてくれる他人などいない。そのことを実感すると震えそうになる。
しかし、マリオンはその感情を表に出してはいけないと思っていた。エヴリーヌに心配をかけることだけはしたくなかったからだ。
マリオンは暴れる心をなだめながら、ゆっくりと歩いた。
アパルトマンに着くと、エヴリーヌと管理人のキュヴィエ夫人が門の前で話しているのを見つけた。
「そりゃあもう、本当に大変なんだからね、エヴリーヌさん。あたしが皆を説得しているんだよ、あの一家を追い出してくれって抗議する、このアパルトマン中の住人の説得をね。骨が折れるなんてもんじゃないよ。あたしにだってやらなくちゃいけない仕事が山ほどあるってのに、たまったもんじゃないよ」
キュヴィエ夫人の大きな声が聞こえてきて、マリオンは身を竦ませる。
追い出せとまで言われているのかと、また悲しい気持ちに襲われた。関わらないようにされていることは気づいていたが、そこまでとは思っていなかったのだ。
もうどこにいても、マリオンとエヴリーヌは居なければいいのにと思われているのだろうか。
気分が沈んでいくマリオンとは裏腹に、明るい声が響いた。
「ええ、本当に感謝しているわ、キュヴィエ夫人。あなたは本当に優しい人よ。わたし、あなたよりもいい管理人になんて会ったことないぐらいだわ。今は大変なことばかりだけど、あなたみたいな人がいてくれるから、何とかやっていけるの」
エヴリーヌは大袈裟な身振りをしながら、キュヴィエ夫人の手を握り、熱のこもった優しい目で見つめる。夫人は眉を寄せながら憮然として言った。
「そりゃあよかったわよ。でもあたしが言いたいのは、そんなことじゃなくってね」
「ええ、もちろんわかっているわ。今度そんなことを言う人がいたら、わたしに言ってちょうだい。わたしが直接、その人と話をするから。あなたを煩わせるようなことはしないわ。任せてちょうだい。あなたほどじゃないけど、人を説得するのは得意なのよ。心配しないで。上手くやってみせるから」
「……ああ、そうかい!」
キュヴィエ夫人は怒ったように顔を背けると、エヴリーヌから自分の手を取り戻してアパルトマンの中に入っていった。その背中からは不満が溢れ出している。
「あら、マリオン、お帰りなさい」
夫人がいなくなったことで気づいたのだろう、エヴリーヌがマリオンに笑顔を向けた。
「……ただいま、おばあちゃん」
どんな顔をすればいいのか困っているマリオンの様子に目敏く気づいたエヴリーヌが眉を上げる。アパルトマンの階段を上がりながら、彼女は小声で言った。
「気にすることなんかないわ、マリオン。あの人は誰にでもああいうことを言っているのよ。ここの住人に訳アリの人が多いからって、自分のおかげでここに住めているんだって思わせて、こっそりお金をせびろうっていうのよ。ああいう人っていうのはそこいらにいるんだから、騙されちゃあ駄目よ」
「そうなの?」
はっきりと理解できたわけではないが、マリオンはどうやらキュヴィエ夫人がエヴリーヌを騙してお金を取ろうとしていたのだということはわかった。
「そうよ。マリオンもそろそろどんな人が嘘を吐くかわかるようにならなくちゃね。あなたはまだ知らないだろうけど、世の中には悪い人が結構いるのよ」
知っているよ。
そう言おうとしてマリオンは口を噤んだ。両親が亡くなる前までは、マリオンの周囲にはいい人のほうが圧倒的に多かった。でも今はもう、逆になってしまっている。
「でもマリオンは人を騙すような人間になっちゃいけないわよ」
「ならないわ。パパとママの子供だもの」
迷うことなくそう答えたマリオンに、エヴリーヌは嬉しそうに笑った。
「そうよ。そしてわたしの孫でもあるわ」
「うん! おばあちゃんの孫だから、悪い人にはならない」
エヴリーヌはふふっと楽しげな声を上げる。マリオンもつられて笑った。
数分前までは、心の中に暗雲が立ち込めていて、今にも雨が降り出しそうだったのに、もうそんなものはどこかへ吹き飛んでいってしまっている。マリオンにとっては辛いことでも、エヴリーヌはいつも気にせずに鬱々としたものを払いのける強さを持っていた。
彼女が悲しそうな顔をする時は、マリオンが両親を求めて泣く時と、年齢に不相応は苦労をしなくていけない時だけだ。だからこそマリオンは祖母の助けになりたいと思っている。
朝の水汲みだってマリオンがやると主張しているのに、二日に一度は先回りして終わらせられているのだ。体が弱いのに、あんなことしていては倒れてしまう。もっと低い階に引っ越せればいいのに。
「ねえ、おばあちゃん。わたし学校の成績とてもいいのよ」
部屋につくなり、マリオンが言った。
「あらまあ、さすがユーグの子だわ」
「だからね、もう学校は行かなくてもいいと思うの」
続いたマリオンの言葉に、意図を察したエヴリーヌが険しい顔をした。
「……マリオン、学校は行かなくちゃいけないわ。そんなに小さなうちから働こうだなんて思わないで」
「でももう、必要ないんだもの。それにもっと小さい子だって、工場で働いてるよ」
「いいえ、必要よ。まだ少しの読み書きしかできていないはずだわ。大人の中には自分の名前すら書けない人だって多いけど、今はもう、勉強よりも仕事さえできていればそれでいいというわけじゃないの。あなたのパパだって頭が良くて勉強ができたからこそ、時計屋になれたんだから。あなたはユーグやオレリアのように立派な大人になるのよ。そうすればきっといつか、自分を諦めなくてよかったと思える日が来るから」
マリオンの肩に両手を置いて、真剣な表情で言い募るエヴリーヌの剣幕にたじろきながら、マリオンは首を振った。
意味はよくわからなかったが、そんな大仰なことを考えていたわけではない。マリオンはただ、エヴリーヌが心配なだけだ。
「でも、おばあちゃんが……」
「わたしは元気だし、まだまだ働けるわよ。これくらい、何でもないわ」
「……ウソだよ」
マリオンは俯いて、小さく抗議した。
「そんなの、ウソだよ。おばあちゃん、辛そうに腰をさすってるとこ見たもん。寒いのがダメなのも知ってるもん。ウソつかないでよ……。おばあちゃんまで、急にいなくなったら……イヤだよ」
涙声になってしまったマリオンの前で、エヴリーヌが膝をついた。
「ごめんなさい、マリオン。不安にさせちゃったのね」
マリオンは更に俯いた。不安に決まっている。エヴリーヌがいなくなれば、マリオンにはもう、誰もいなくなる。たった一人だ。
「そうね、それじゃあ今度、内職を少し貰えるって聞いたから、それをマリオンにお願いしようかしら」
マリオンは驚いてエヴリーヌを見た。そして本気で言っていることがわかると、目を輝かせて頷く。
「うん、わたしがんばる!」
「ありがとう。でも学校には通わなくちゃいけないわよ」
「え」
「そうすれば、マリオンが大人になった時に、もっとわたしの助けになってくれるはずだもの。たくさん勉強して、将来たくさんお金を稼げる人になってちょうだい」
「……うーん、わかった」
そういうことなら仕方がない。マリオンはよく亭主の給料が安すぎるとぶつぶつ文句を言いながら、せわしく働き回っている近所の女たちを思い浮かべて納得した。
「でもね、マリオン。あの学校が嫌だったなら、別のところに行ってもいいのよ。勉強はしなくちゃいけないけど、我慢はしなくたっていいんだから」
エヴリーヌは優しくマリオンの頬を撫でた。マリオンが学校で辛い思いをしていることは知っている、という口振りだった。一度もそんなことを口にしてはいなかったのに。
マリオンは少しだけ考えて、自然に首を振っていた。
「大丈夫だよ、おばあちゃん」
「……そう。嫌になったらいつでも言うのよ」
「うん」
まだ大丈夫だと思っていた。
エヴリーヌのように、強くて優しくて芯のある人間になれば、こんなことは平気になっていくのだと、そう信じていられたから。
大切にされていた日々が、自分を価値のない存在なのではないかと疑わずにいられたから。
マリオンは学校から帰宅すると、すぐさま仕事に取り掛かるようになった。エヴリーヌが帽子屋から貰ってきた、布製の造花を作る仕事だ。
花売りだったエヴリーヌの影響で、マリオンも花が好きだし、手先も器用だった。おかげで七歳とは思えないくらいの、売り物に相応しい出来栄えの造花を、半月もすれば作れるようになった。
あまりに熱心に作って夕食の手伝いを忘れてしまうほどだったが、楽しそうに仕事をするマリオンを見て、エヴリーヌが悲しげな顔をすることはなくなった。
造花を作ることは楽しかったが、重要なのはそんなことではなかった。自分のしていることがお金になる。そのことがマリオンを堪らなく嬉しい気持ちにさせた。
エヴリーヌの助けになれる。それにお金があればもう少しおいしいご飯が食べられるし、これからの生活を不安に思うこともなくなるはずだ。エヴリーヌはきっととても喜んでくれるだろうし、マリオンをすごいと褒めてくれるだろう。そんなことを考えているとマリオンは浮かれて、誰に酷い態度を取られても、いつもより平気でいられた。
エヴリーヌは給料の半分はマリオンの好きなように使おうと言ってくれた。彼女はきっとマリオンが美味しいものを食べたいと言うと予想しているのだろうが、マリオンは別の使い道を決めている。エヴリーヌのストールを買うのだ。
以前持っていたものは、彼女が質屋で換金してしまったからもうない。でも体が温かくなれば、きっとエヴリーヌの調子も少しはよくなるはずだ。すぐには買えなくても、貯めていけばいい。
だから、マリオンはもっと仕事ができるようになりたかった。もっと上手に作れるようになれば、更にお金が稼げるに違いない。
「もう、こんなに綺麗に作れるようになったのね」
エヴリーヌがマリオンの作った造花を手に取って、しみじみと呟いた。マリオンは抑えきれない嬉しさを笑顔に変えて尋ねる。
「すごい?」
「ええ、とても凄いわ。さすがはオレリアの子ね。マリオンは器用だわ」
流行の服屋で針子をしていたマリオンの母親の名を出して、エヴリーヌは微笑んだ。
「もう少ししたらお店に持っていきましょう。これならじゅ……いえ、八フランくらいになるかもしれないわ」
「……それくらいなの? こんなに作ったのに」
練習期間を除いても十日は作り続けていたのに。もっと貰えると思っていたマリオンはがっかりした。
「仕方がないわ。内職だし初めての仕事だもの。信頼されるようになったら、もっと貰えるようになるわよ」
「わかった。がんばる!」
マリオンはやっぱりもっと上達しなくてはいけないのだと意気込んで頷いた。
「じゃあ、明後日にでもお店に持って行って来るわね」
「それくらい、自分でできるよ?」
お使いなら子供の仕事だ。マリオンがやると言うと、エヴリーヌは首を振った。
「いえ、店主に話もあるから、わたしが持っていくわ」
「ふーん、わかった」
マリオンはわかっていなかった。この何気ない会話の中で、エヴリーヌがどんな思いを抱えていたのかを。世間から爪弾きにされた者たちが、真っ当な仕事を得ることがどれだけ困難かを。