4 不可解な死
マリオンは呆然とカルヴィンを見た。
彼は険しい顔でマリオンの返事を待っている。その表情の中に、マリオンは咎めるような気配を感じ取ってしまった。
既視感に襲われる。またなのかと。ぎゅっと両手を握った。
「誰かに……何かを聞いたの?」
「え?」
カルヴィンが驚いた声を出したが、マリオンは気にせず続けた。
「どうしてそんなことを聞くの。誰かに何か言われたの?」
「誰か、とは?」
それこそなぜそんなことを聞かれたのかわからなかったカルヴィンは、俯くマリオンに尋ね返したのだが、自然と詰問のような口調になってしまう。
それがマリオンには肯定のように聞こえた。
「関係ないから」
「マリオン?」
「関係ないから。お父さんもお母さんも、悪魔なんかとは、何の関係もないから!」
顔を上げて叫んだマリオンに、カルヴィンは目を丸くした。さっきまで普段と変わらないように見えた彼女は傷つき、悔しさを滲ませた顔でカルヴィンを睨むように見ている。
「マリオン、何のことだ」
カルヴィンはなるべく優しく尋ねた。自分の淡泊な言い方が、誤解を招いていると察したからだ。
「俺は君の両親のことを知らないし、何も聞いていない」
噛んで含めるようのな口調に、マリオンはハッとした。そして自分の失態に戸惑うように視線を揺らめかせる。
「……ごめんなさい」
気づかぬうちに今朝の出来事を引きずっていたマリオンは、羞恥に見舞われて俯いた。好きな人をこんなことで責めるなんてどうかしている。
「ごめんなさい。今日はもう帰るわ」
どうがんばっても挽回できる心理状態ではなかった。マリオンは逃げるように去ろうとしたが、カルヴィンに手首を捕まれる。
「……一人で帰らないほうがいい」
マリオンは困ったように首を振った。まだ昼過ぎだ。女が一人で歩くのに危険な時間帯などではない。しかしカルヴィンは優しいながらも有無を言わさぬ様子でマリオンを引っ張る。結局のところカルヴィンに弱いマリオンは、黙ってそれに従うことになった。
カルヴィンはマリオンをベンチに座らせると、待っているように言ってどこかへ行ってしまった。帰って気持ちを落ち着けたいのに、マリオンはただ道行く人をぼうっと眺めている。
「はい」
すぐに戻ってきたカルヴィンはマリオンに瓶を差し出した。レモンが蓋のように乗っかっている、甘草水の瓶だ。屋台で買ってきたのだろう。
「ありがとう」
おずおずと受け取ったマリオンは、カルヴィンが自分の分をレモンを絞って飲むのを見てから、同じようにして飲んだ。酸味が喉を通って、少し頭がすっきりしたような気がする。
カルヴィンは何も言わなかった。なぜあんなことを聞いたのかも、なぜマリオンが怒ったのかとも言わない。だから純粋にマリオンを心配して、傍にいてくれているように感じる。
「ごめんなさい。急に怒ったりして」
「いや」
つくづくカルヴィンは気が長い人だと思う。下町には短気な人が溢れ返っているというのに。
「さっきは……」
言いかけてカルヴィンは言葉を飲み込むように眉間を寄せた。
「たた、ギィが、君に妙に懐いているから、何か理由があるんじゃないかと思ったんだ。だからあんなことを聞いた。君を貶めるような意図があったわけじゃない」
「そうなんだ」
マリオンは拍子抜けして肩の力を抜いた。同時にやはりあんな怒りかたをしたことが申し訳なくなってくる。
隣に座るカルヴィンはもう無表情に前を見ていた。気を悪くするどころか、真っ先にマリオンの心配をしてくれた人。カルヴィンは大丈夫だ。そう思った。
「あのね」
瓶を両手で握りしめて、マリオンは口を開いた。
「わたし、七歳の時に両親が亡くなったの」
カルヴィンがこちらを向いた。黙っているが、ちゃんと話を聞こうとしてくれている気配を感じる。
「急に、亡くなったの。病気もしてなかったし、怪我もなかった。お父さんは時計屋でお母さんはお針子だったから、危険な仕事でもなかった。事故でもなくて、ただ部屋の中で二人同時に、急に亡くなっちゃったの。眠ってるみたいに、原因なんてわからないまま、眠っているみたいに二人同時に亡くなっていたの」
マリオンは強張ったカルヴィンの顔を見つめて、泣きそうになりながら笑った。
「悪魔に魂を喰べられたみたいでしょ?」
肯定は返ってこなかった。カルヴィンはなぜか辛そうにマリオンを見ている。
「でも違うのよ。お父さんもお母さんもすごく優しいの。お父さんは明るくて誰からも好かれてて、お母さんは口下手で引っ込み思案だけどわたしやお父さんのことをいつも考えてくれていて、二人とも、悪魔に願いを叶えて貰おうなんて考える人たちじゃないの」
マリオンの膝にポタポタと雫が落ちる。何年経っても、この話をする時はどうしても泣いてしまう。
「そりゃあ、アルノーみたいに騙されることもあるんだろうけど、でもお父さんは頭がよかったし、何より二人ともいつも幸せそうにしていたもの。悪魔に唆されるような人たちなんかじゃなかった」
「マリオン……」
焦ったような途方に暮れたような声が聞こえたが、感情が高ぶっていたマリオンは話を続ける。
「でも、皆疑ったわ。二人同時にあんな風に亡くなるなんて、悪魔に魂を喰われたとしか考えられないって。そんな奴らだと思わなかったって言って、お父さんとお母さんを軽蔑するようになった。ついこの間まで、優しくしてくれていた近所の人たちが冷たい目でわたしを見るようになって、こそこそとお父さんたちの悪口を言うようになったの」
大好きだった両親を亡くしただけでも幼かったマリオンには耐えがたいことだったのに、周囲の大人たちの対応は、傷口を抉るようなものだった。ただ亡くなりかたが奇妙だったというだけで、なぜここまで皆が手のひらを反すのかがわからなくて苦しかった。
下町では常に誰かが誰かの噂話をしている。悪い噂が広まれば、それを挽回するのは困難なのだと、子供の頃は知らなかったのだ。いや、知っていたとしても理不尽さに泣いていただろう。
父も母も信頼される人間で、彼らの子供だったからこそ、マリオンは優しくしてもらえていた。それが亡くなった後に、あんな理由で蔑まれるなんて。
「それは……辛い、な」
言葉を探してそれだけが残ったかのように、カルヴィンは躊躇いながら呟いた。マリオンを傷つけたくないという意思が見えて、また泣きたくなる。
やっぱりカルヴィンはマリオンの両親を疑ったりしない。ほんの少しの嫌悪も向けたりしない。それがどれだけ貴重なことであるか、あの頃の辛さを忘れられないマリオンにはよくわかる。あの頃、マリオンに優しかった人は祖母のエヴリーヌただ一人だった。
「辛かったよ。悪夢を見ているみたいだった。毎晩、朝に目が覚めたら、パパとママが家にいますようにって願いながら眠ってた。でもそんなこと起こるわけなくて、悪夢なんじゃないかって考える余裕なんかないくらいに生きていくだけで精一杯になっていった」
マリオンの父親は堅実で、下町の中では稼ぎも悪くなかったから、そこそこのお金は残してくれていた。しかしまだ若かったから、マリオンが安心して暮らせる程の額であるはずがない。おまけにエヴリーヌは彼らの母親ということで、強制的に花売り協会から除名させられた。まともな仕事がほとんどない中で、いつかお金がなくなって飢え死にしないために、狭いアパルトメントの屋根裏部屋に引っ越して、硬いパンとスープばかりの生活になった。貧しさも当然ながら、心と体を疲弊させていく。
「おばあちゃんは体が丈夫じゃないの。でもわたしを守るために無理してて、凄く大変だったはずだわ。それでもわたしの前ではいつも優しく笑ってくれてた。わたし少しでもおばあちゃんの助けになりたくて、朝の水汲みをこっそりやったの。おばあちゃんは腰が弱かったから。でも部屋が八階だったから思ったより時間がかかってしまって、桶を持って部屋に戻った時に、おばあちゃんが真っ青な顔でわたしのこと見て、泣きながら抱きしめるのよ。それで『ごめんね』なんて言うの。どうして謝るのって聞いたら『何でもない。マリオンは優しい子ね』って言われたわ。おばあちゃんのほうがずっと優しいのに」
頭の上に柔らかい感触がした。
触ってみると帽子を被せられている。どうしてだろうと考えて、ここがまだ昼間の人通りが多い場所であることを思い出す。泣いているマリオンを隠そうとしてくれたのだ。カルヴィンはいつの間にか、体温を感じられるくらい近くに座っていた。
言葉ではない優しさはまるで守ってくれているかのようだった。好きなだけ泣けばいいと言ってもらっているかのようだ。こんなの好きなだけ甘えたくなる。
「カルヴィン……止めてくれないと、わたしずっとしゃべっちゃうよ」
「しゃべったらいい。聞いている」
いつものように淡々と告げる。
マリオンは動揺した。両親が亡くなってからは、心から誰かに甘えたことなんてなかった。あの頃の辛さを誰かに話したこともない。受け止めてくれそうな人はエヴリーヌしかいなかったし、エヴリーヌには心配をかけたくなかった。
マリオンは俯いたまま、カルヴィンの服の袖を小さく握った。しかし、手でそっと掴んで外される。これは駄目なのかと悲しくなっていると、カルヴィンはマリオンのその手を、包むようにしっかりと握ってくれた。手のひらに込められた力は、強すぎないのに強い。
胸が熱くなって、また涙が零れた。
もう駄目だ。溢れ出てくるものに身を任せるように、マリオンは口を開いた。