3 偲ぶ少女
マリーという名の金髪の花売りが誰なのか、結局はわからず仕舞いだったとマリオンが知ったのは、あのアルコール中毒の女性が、二度目に現れた後だった。
その姿をマリオンは見ていない。前回と同じようにエリーゼたちが追い返したからだ。しかし該当する花売りがいなかったせいで、あの中年女性が勘違いをしているか、もしくはやはりマリオンの母親なのではないかという疑惑が生まれた。
マリオンは否定したが、幼い頃に母親を亡くしているせいで、どう言っても、嘘なのではないかという疑いが残ってしまうようだった。それを顔に出してマリオンを見てくる人が何人かいたが、直接口で文句を言う人間も一人いた。
「いい加減にしなさいよ、マリオン!」
イヴォンヌは腰に手を当てて、エリーゼの真似をしているような仕草でマリオンに怒鳴った。
普段から人一倍、後輩には口うるさい彼女だ。しかし、本当はあんたの母親じゃないのかと尋ねることもなく、マリオンが厄介な母親に会いたくないがために嘘を吐いているのだと決めてかかるような言い草には、さすがに呆気にとられてしまう。
「何のことよ、イヴォンヌ」
一応、怒っている理由を聞いてみたマリオンだが、予想通りの答えが返ってくる。
「あのアル中女、あんたの母親なんでしょう! 姉さんたちに迷惑かけてないで、さっさと自分で何とかしなさいよ!」
「イヴォンヌ、他の人にも何度も言ったけど、わたしの母親はもうずっと前に亡くなっているの。それに親戚でもないわ」
彼女の決めつけに腹は立ったが、職場で揉め事を起こしていけないという、祖母からの言い付けを守るために、マリオンは努めて穏やかに説明した。しかしイヴォンヌは全く聞く耳を持たない。
「そんなの、ろくでなしのクズ親だから、死んだっていうことにしているだけでしょう。諦めて引き取りなさいよ」
フンと鼻で嗤うように言う。
マリオンは目を細めた。持っていたジョウロをイヴォンヌの顔に向けて傾ける。
「ちょっと!」
突然、顔に水を掛けられたイヴォンヌが抗議の声を上げながら、茫然とマリオンを見た。これまで何を言われても、穏便にやり過ごそうとしてきたマリオンが、まさかこんなことするとは思っていなかったのだろう。イヴォンヌに食って掛かろうとしていたルイーズやフランソワーズですら驚いている。
「わたしのお母さんはろくでなしじゃないわ」
目に怒りを湛えて、静かにマリオンは言った。普段の彼女とのあまりの違いに、周囲の空気が凍りつく。
「そんっ……!」
言い返そうとしたイヴォンヌだが、無表情でも怒っていることだけはわかるマリオンに怯んで言葉を切る。フランソワーズが二人に近づいた。
「今のはイヴォンヌが言い過ぎよ。亡くなった人を貶めるものじゃないわ」
「あたしはそんなつもりじゃ……!」
「マリオンの母親は亡くなっているの。あの迷惑な人はマリオンとは関係ないわ」
冷静に言い募られて分が悪くなったことを感じたのか、イヴォンヌは気まずそうに視線を逸らした。それでも謝ろうとはしないのが彼女らしい。マリオンだって今回のことについては謝るつもりはなかったが。
イヴォンヌは黙って踵を返したが、その前にマリオンを睨みつけて去って行った。
「マリオン、大丈夫?」
ルイーズが心配そうに尋ねてくる。
「わたしは何もしていないわ。むしろやったほうだもの」
「いいのよ。あいつ、偶にはビシッとやり返さないと、どんどん態度が酷くなるんだから」
むしろよくやったと言いたげなルイーズに、マリオンは小さく苦笑する。手を出したことがいいことだとは思わないが、それでも反省する気はなかった。本当は引っぱたいてやりたかったのを我慢したのだ。
「でも今日は特に酷かったわね。いつもここまでではなかったと思うんだけど」
「そうかしら。機嫌が悪かったんじゃないの。つまりいつものことよ」
早足で去るイヴォンヌの背中を見て話す友人たちの声を聞きながら、マリオンはぼんやりと花壇の花と見つめていた。
もう何年も忘れていた感情が微かに呼び起こされていた。悲しさと悔しさと怒りと、いろいろなものが混ざり合って胸に渦巻く。
最近では祖母と一緒に、穏やかで優しい気持ちでしか父と母を思い出すことはなかったはずなのに。
マリオンはそっと、母親が好きだったアイリスの花を撫でた。
両親が亡くなった時、マリオンはまだ七歳だった。
突然、彼らはもういないのだと告げられたのだと思う。マリオンはその頃の記憶が曖昧で、両親の遺体を見たような気もするし、見ていないような気もする。脳裏に焼き付いているのは、両親の棺を乗せたくたびれた馬が牽く霊柩車と、その後に続く暗い表情をして黒を纏った人々の葬列だった。言い知れない恐怖でさえ、マリオンにはその理由がわかっていなかった。
ただその日から、鮮やかに彩られていた世界が、灰色に染まったことだけは確かなことだった。本当の怒りや恨み、悔しさをマリオンはこの時に知った。
優しかった父と母が亡くなってから、親切だったはずの周囲の大人たちは手のひらを返したように、マリオンと祖母のエヴリーヌを忌避するようになった。
時には憎しみや軽蔑の目を向けられることさえあって、マリオンは悲しくて辛くて父と母の温もりを求めて彷徨った。探せばいると思っていたわけではない。それでも探してしまうマリオンを、エヴリーヌが悲しげに見つめて胸に抱き寄せるから、いつも声を殺して泣いていた。
何年もかけて、笑顔でいられる日常を手に入れた。
それでもあの頃の感情はなくなったわけではなく、胸の底のほうにゆっくりと沈んでいっただけだ。今日のようにきっかけさえあれば沈殿していたものが舞い上がってくることは珍しくない。あんな風に行動で表すことはほとんどなかったが。
「花売りさん!」
物思いにふけっていたマリオンは、間近で呼ばれてハッと顔を上げた。十歳ぐらいの女の子が、マリオンを覗き込むように見ている。
「あ、ごめんなさい。お花を買いに来てくれたの?」
もう昼を過ぎているのに、籠の中の花束はいつもより多く残っている。マリオンが慌てて笑顔で応えると、栗色の髪の少女は頷いた。
「そうよ。今からパパと一緒にママのお墓参りに行くの。ねえ、スミレの花はある?」
「うん、あるわよ。これはどう?」
マリオンはスミレが混ざった花束を少女の前に差し出した。彼女は吟味するつもりなのか、その花束と籠の中にあるものを見比べる。
「こっちがいいわ。これちょうだい」
「え? でもこれはスミレが入ってないよ」
「じゃあ、この花と交換して」
無邪気に要求する少女は、自分の希望が通るものと信じて疑っていない様子だった。金持ちの子供ではないようだが、下町ではこれだけで大切にされている子供なのだとわかるような言い方だ。
特に断る理由もなかったマリオンは快く承諾した。彼女のお願いが可愛かったからというのもあるが、やはり子供でも客であることに変わりはないからだ。常連になってもらえそうな機会は逃すべきではない。
「わかったわ。ちょっと待っててね」
マリオンは少女が選んだ花束の紐を解くと、別の花束からスミレを抜き出し、差し替えてからまた花束を整えた。見栄えがよくなったことを確認すると、紐で結び直してどうぞと少女に渡す。
「すごい! さすが花売りさん!」
あっという間に綺麗な花束を作り直したマリオンに、少女は尊敬の眼差しを向けた。大したことではないが、子供に素直に褒められればやはり嬉しくなる。
「あなたのママが気に入ってくれればいいけど」
マリオンがそう言うと、少女は不思議そうに瞬きしてから綻ぶように笑った。
「絶対に気に入るわ。ママは花が好きだもの。特に紫の花が。えっと、パパがそう言っていたの」
「じゃあ、絶対に喜ぶわね。可愛い娘が自分の好きな花を選んで持ってきてくれるんだもの」
少女は花束に顔を埋めて照れ臭そうな顔をした。
「ねえ、わたしはアンジェリーヌよ。花売りさんは?」
「マリオンよ」
「マリオン、また来るわ。だからまた紫の花、用意していてね」
「うーん、なるべくそうするわ」
こればかりは確約できないのでそんな言い方をすると、アンジェリーヌは少し不満そうに口を尖らせた。
「咲いてない花は用意できないもの」
「……じゃあいいわ。でもなるべくだからね」
「ええ、がんばるわ」
マリオンが深く頷くと、アンジェリーヌは納得したように笑った。
「また来るからね。マリオンはわたしの『お気に入り』になったから」
「まあ、光栄です」
「素敵な花束を作るところもだけど、他の人と違うところもいいわ。マリオンみたいな、こんな不思議な悪魔の気配がする人になんて会ったことないもの」
「え?」
言われたことの意味がすぐには理解できなくて、マリオンは首を傾げた。
「じゃあね、マリオン!」
アンジェリーヌはそんなマリオンの様子には気づかず、手を振って歩き出した。呼び止めて意味を尋ねるべきか、それとも子供の言葉遊びだと聞き流すべきか迷っているうちに、知り合いに声を掛けられたマリオンは彼女から意識を逸らすことになった。
しかし、しばらく経って考えてみれば、やはりかなりおかしなこと言われたのだと思えてくる。
悪魔を見ただとか、悪魔に狙われているぞなどと言い出す子供はどこにでもいるが、人に向かって悪魔の気配がするだなんて言う子供がいるだろうか。変わった子なのかもしれないが、それを言われたのがマリオンだというところが引っ掛かる。マリオンには心当たりがあるからだ。もちろんギィのことである。
だが、たとえほぼ毎夕ギィと会っているのだとしても、それでマリオンからギィの気配なんかするだろうか。本物の悪魔のギィでさえ、アルノーが悪魔と契約していたことがすぐにはわからなかったのに。もし本当にアンジェリーヌがギィの気配を感じ取っていたのだとしたら、彼女自身が悪魔なのかという話になる。しかし、日中の日陰もない通りを堂々と歩いていたことからして、それはないだろう。光に強いギィでさえ、そんなことはできないのだから。
とにかく気になって仕方がなくなってしまったマリオンは、今日も花を買いに来てくれたカルヴィンに、花束を渡した後に小声で話しかけてみた。
「ねぇ、カルヴィン、少し時間ある? ちょっと話ができないかな。さっきお客さんに変なことを言われてしまったの。それで、聞きたいことがあって」
アンジェリーヌには深い意味など全くなかったのかもしれないが、誰かの意見は聞いておきたかったのだ。カルヴィンは僅かに眉を上げてわかったと頷いた。
あまり人には聞かれたくないことだと察したのだろう、カルヴィンはいつかのように散歩をしようと誘った。
笑顔で見送るアンナにマリオンは困った笑顔で応えて歩き出した。
まだ明るい時間帯の並木道は人通りが多く、売り子の声や馬車が走る車輪や蹄の音で騒がしい。この通りが本当に散歩に適しているのは日曜日くらいだが、この騒がしさが都合がいいこともある。
「ねぇ、どう思う?」
説明を終えるたマリオンがカルヴィンを見上げた。ただちょっと変わったことがあったという話し方をしただけなのだが、カルヴィンは酷く険しい顔をして、何かを考え込むように押し黙っている。
「……あの子、もしかして、本当にギィの気配がわかったの? 十歳くらいの女の子だったけど、悪魔と会ったことがあるのかな」
「マリオンはギィのことだと思ったのか?」
「え? 違うの? だってこの前の悪魔、えっと何ていったっけ、モル何とかっていう悪魔よりもギィのほうがたくさん会っているし、昨日だって会っていたから。って、もしかして本当にあの子、悪魔の気配がわかるの?」
マリオンが会ったことがあるのはアルノーと契約した悪魔とギィだけである。カルヴィンはわざわざギィのほうだと思ったのかと確認したから、てっきりアンジェリーヌが事実を言ったのかと思ったが、カルヴィンは首を振る。
「それはないと思う。俺にだって悪魔の気配なんてわからないし、そんなことがわかる人間がいるという話も聞いたことがない。偶然、子供が遊び心で言った相手がマリオンだったという可能性のほうが高いんじゃないか」
「そうなの」
じゃあさっきの質問はなんだったのかと思っていると、カルヴィンが辛そうにマリオンを見ていた。
最近よく見るあの顔だ。しかし、今日は特にその苦悩が深い。
「カルヴィン? どうしたの?」
マリオンは不安に駆られた。カルヴィンのこの顔を見た時はいつも振られてしまうのかと不安だった。でも違う。そんな不安は的外れだったのではないかという思いが湧いて、もっと別の不安が芽を出した。それが何に対するものなのかはわからない。
「マリオン、正直に答えてほしいことがある」
「え? うん……」
カルヴィンは立ち止まって、正面からマリオンを見据えた。
「君は、ギィやモルデティヨスに会うよりももっと前に、悪魔と深い繋がりを持ったことはないか?」