2 彼女たちの憧れ
「ねぇ、聞いた? ロラが花売りを辞めたみたいよ、女優になるんだって言って」
いつもの朝、花畑で新しい種を蒔くために土を整えつつも、おしゃべりに興じている中、ルイーズが声を潜めて呆れたように言った。
「あらまあ」
「そうなの?」
フランソワーズはあまり驚いていなさそうな声を上げ、マリオンは目を丸くしてきょろきょろと周囲を見渡して、ロラの姿がないことを認めた。
ロラはマリオンよりも経験の浅い花売りで、伝手がなければ入り辛いこの花売り組合の中では珍しく地方から出てきた娘だ。
ルイーズは肩を竦めてみせる。
「地方からパリに来た子は駄目ね。すぐに誘惑に負けてしまうんだから。一番よくあるパターンよ。初めて見たオペラに感動してしまってのめり込んだ挙げ句、自分もいつかあの舞台に立つんだって夢見ちゃうやつ。誰かあの子に教えてあげなかったのかしら。そんなことを言い出した娘は今まで五万といて、ほとんどはほんの端役になるのが精一杯で、その末路は舞台を観に来た小金持ちの見栄っ張り男の愛人になることだってね」
「末路はともかく、止めた人はいるんじゃないの?」
「えっ、どうして末路が愛人になるの?」
フランソワーズが困ったように笑い、マリオンが驚いて尋ねる。オペラに詳しくないマリオンは、初めて聞いた話だった。
「だってどれだけの娘がオペラの主演女優を目指していると思っているの。子供の頃から母親にオペラ座付属の養成学校に入れられている子もたくさんいるのよ。そんな中でパリに来て間もない人が稼いだ金をつぎ込んで稽古したところで、どうにもならないわよ。そんなお金すぐになくなってしまうわ。でも諦めきれない人は、愛人を持ちたい男の口車に乗ってしまうわけよ。女優を目指しているだけあって、それなりに美人が多いし、男どももわかってて声をかけているのよね」
「そうね。でも貧乏な家の娘が、豊かな生活を手に入れるには、女優で成功するぐらいしかないのだから、気持ちはわからないでもないわ」
「えっ、もしかしてフランソワーズ、女優になりたいって思ったことあるの?」
ルイーズは興味津々というように身を乗り出してきた。
「まさか。知り合いにお針子が多いから、女優志願者をたくさん見てきたっていうだけよ」
「なぁんだ」
「何よ、それ」
がっかりとしたルイーズに、フランソワーズは困った顔をする。
「あたしねぇ、実はちょっとだけ女優になりたいって思ってた時期があるのよね。ありきたりだけど、初めてオペラを観た後にしばらくね。でもまあ、ああいう現実を知って諦めたんだけど。フランソワーズも仲間かと思っちゃったわよ」
口に手のひらを添えて内緒だというように、ルイーズは打ち明ける。実は一番真面目な性格であるルイーズでもそんな願望を持っていたのかと、マリオンは意外だった。
「女優になりたい人ってそんなに多いのね」
「そうよ。マリオンはオペラを観たときそう思わなかった? 美人なら希望があるじゃない」
「わたしオペラって観たことないわ」
あっさり答えたマリオンに、二人は軽く目を見張りつつも納得した顔になる。
「そういえばそんなこと言っていたわね」
「ええ、一度オペラを観に行くと嵌まってしまうってよく聞くから、観ないようにしているの。それよりわたしはおばあちゃんに楽をさせてあげたいし」
「マリオンらしいわね」
フランソワーズが妹を見るように微笑む。
「あっ、でもオペラ座通りには行ったことがあるわよ。あそこにはコルコンド型のガス灯があるって聞いたから、どれだけ明るいか見てみたくなったの」
コルコンド型のガス灯とは、一つの灯柱に二つ以上の角灯付いているガス灯のことだ。パリの中でも一部の煌びやかな通りにだけ存在している。
ガス灯が好きなマリオンはアルノーと、まだ彼の父親が存命中に、内緒で夕闇のオペラ座通りに行ったことがあった。
「噂通り、昼間みたいに明るかったわ。でも明るすぎてなんだか別世界なのよね。わたしはやっぱり部屋の窓から眺めるガス灯が一番好きだわ」
嬉しそうに話すマリオンに、ルイーズは理解できないという顔をする。
「ガス灯なんて、わざわざ見に行くもの? いくら型が違うからって、そこら辺にあるものじゃないの」
「全然違うわよ。同じガス灯だって、どの通りにあるかで、雰囲気が変わるんだから。いろんなガス灯を見る楽しみがあるの」
力説するマリオンに、フランソワーズは至って穏やかだ。
「マリオンは変なところでこだわりがあるわよねぇ」
「もっと若い娘らしい趣味を持ちなさいよ。あんたったらダンス場にすら行かないんだから」
いつものように少女たちの話題はすぐに移ろいゆく。
ダンス場での出来事から、誰と誰が付き合いだしたという話になったところで、マリオンが先輩の花売りから呼ばれて立ち上がった。
「どうしたんですか、エリーゼ姉さん」
彼女は既に路上での花売りを卒業して、夜会や結婚式や葬式での花を用意するベテランだ。こんなところに来るのは珍しい。
「マリオン、あんたアル中の親しい知り合いいる?」
仕事を頼まれるのかと思っていたマリオンは、いきなりそんなことを聞かれて驚いた。
「親しい人はいませんけど、同じアパルトマンに住んでいる人とか、よく近くを通っている古着屋さんとかなら」
「親戚にはいないのね」
「ええ、パリにいる肉親はおばあちゃんだけです」
「そうよね、あんたの両親は亡くなっているものね」
エリーゼは腰に手を当てて考え込むように目線を落とす。
「どうしたのですか?」
「いえ……あんたのことじゃあないわ。今、入り口でアル中の女が騒いでいるのよ。金髪のマリーを出せって」
「えっ」
マリオンは戸惑って、思わずエリーゼをじっと見た。
「だから、あんたじゃないのはわかったって。金髪のマリーなんて、多分他にもいるわ。ただあたしも全員の名前なんて覚えてないのよ」
ひらひらと手を振るエリーゼに、マリオンはほっと息を吐いた。全く身に覚えがないものの、自分の特徴と一致していれば不安にもなる。
「誰かいたかしら」
フランソワーズが思い出そうと首を捻る。四人ともが数秒考え込んだが、誰も該当する人物に思い当たらなかった。
「まあ、いいわ。面倒だし迷惑だから、追い払うしかないわね。あんたたち、しばらく入り口に来るんじゃないわよ」
背が高く既婚者でもあるエリーゼは、マリオンたちに比べれば貫禄がある。酔っぱらい女性が若くないなら、エリーゼたちに任せるほうがいいだろう。三人は頷いて立ち去るエリーゼを見送った。
「きっと母親よね。誰だかわからないけど気の毒に」
ルイーズが同情を込めた声で言う。
これは、アル中の父親か母親が職場に怒鳴り込んで来て、子供から金を巻き上げようとしているのだという予測が、簡単にできる事態だった。
「マリオン、気にすることないわよ。心当たりがないのでしょう。それにあなたはマリーなんて呼ばれていないじゃない」
入り口のほうを気にするマリオンに、フランソワーズが優しく言い聞かせる。
「そうよね」
マリオンは笑って頷いた。
本当に心当たりなんてないし、マリオンは愛称で呼ばれることがない。愛称を持っている人には誰でも愛称で呼ぶし、持っていない人は誰も愛称では呼ばない。そういうものだ。例外はギィだが、彼だって「マリー」ではなく「マリ」と少し変わった言い方をする。
知らないだけで、ここには金髪のマリーという花売りがいるのだろう。マリオンはそう思った。
ゆらゆらと揺れる小さな火をガラスに閉じ込めて作り出された光が、今日もパリの通りを照らす。
空が宵闇に包まれてゆきながらも、ここには悪魔が入り込めないのだと安心している人々は、光を辿って鼻歌を歌いながら家路に着いていた。
段々と増えていく光は、マリオンが眺める窓のすぐ下にも灯される。
点火棒を下ろした彼が、頭上を見上げてカスケットの鍔をずらした。
「こんばんは、灯し人さん」
マリオンはうっとりと微笑みながら挨拶をした。
「こんばんは、マリオン」
静かな声で応えがある。表情などないに等しいが、そんなカルヴィンらしさがマリオンには嬉しい。昼間よりも二人の間の距離は遠いのに、他に人が見当たらないからなのか、ずっと近づいているような感覚がするのだ。
「やっぱりオペラ座通りにあるガス灯よりも、ここから見えるガス灯が一番綺麗だわ」
「……オペラに行ったのか?」
「いいえ、観たことないわ。今朝、ルイーズやフランソワーズとオペラの話をしていたの。あそこは本当に明るいわよね。角灯が四つも付いているガス灯があってびっくりしたわ」
「五つ付いているものもある」
「えっ、本当に? 五つ目の角灯はどこにあるの?」
「柱の真上、一つだけ高い位置にある」
「まあ、それは見に行かないと!」
顔を輝かせるマリオンに、カルヴィンは目を細める。
「夜にあんな場所へ一人では行くなよ」
「じゃあ、カルヴィンが一緒に行ってくれる?」
マリオンがそう言ったのは、特に何も考えずに、するりと言葉が出てしまっただけで、好機だと思って食いついたわけではない。だから期待などせずに返事を待っていたのだが、カルヴィンはあまり悩まずに了承した。
「仕事が休みの日になら」
マリオンは口をぽかんと開けながらカルヴィンを見て、撤回も後に続く言葉もないことがわかると、満面の笑みを浮かべた。両手で口を抑えて、嬉しくて歓声を上げてしまいそうになるのを堪える。もう街は静寂を迎えつつあるのだ。
「本当に? 約束してくれる?」
カルヴィンはマリオンの喜びぶりに困った顔をしながらも、しっかりと頷いた。
彼にそんなつもりはないのかもしれないが、それはデートではないだろうか。マリオンは確認してみたいのに、そうじゃない、デートのつもりなら止めると言われることが怖くて聞くに聞けない。
懊悩していたマリオンは、スカートが引っ張られていることに気づいて下を向いた。
体の半分を床から生やしたギィがいた。小さな枯れ枝のような手でマリオンのスカートの裾を掴んでいる。
「ギィ! こんばんは」
相変わらず悪魔とは思えない可愛らしい姿に、マリオンは膝を曲げて微笑みながら挨拶した。
≪……コンバンハ、マリ≫
首を傾げながら、ギィは真似をするように挨拶を返す。
「ちょっと待っててね。今日はラベンダーを用意しているのよ」
マリオンはベッドサイドの花瓶に差していた一輪のラベンダーを手に取ると、ギィに差し出した。
「はい、どうぞ」
ギィのオレンジがかった白く丸い瞳が微かに大きくなる。顔のパーツが目しかない人形よりも無表情なギィだが、段々と彼の感情が読み取れるようになってきた。彼は大食漢ではないが、食事が好きなようだ。
手を伸ばしてギィがラベンダーを掴むと、ラベンダーはみるみる枯れていき、魂のない脱け殻となる。
≪オイシカッタ、マリ≫
「そう、よかった」
このやり取りはカルヴィンの仕事が休みの日以外では、毎日続くようになった習慣だ。初めのうちはもっとギィに花を渡していたマリオンだが、カルヴィンがギィに花売りから花をタダで貰うなと叱ったのでこうなったのだった。
一輪だけでもとお願いしたのはマリオンだ。そもそもカルヴィンがマリオンから買った花をギィに渡して、それを喰べているのでたいした違いはないのかもしれないが、なんとなくギィに直接渡したいと思ってしまうのだ。マリオンはギィが食事をするところを見るのが好きなのかもしれない。人の魂を喰らわない、優しい悪魔なのだと実感できるから。
≪マリ、嬉シイ?≫
ギィはマリオンをじっと見ながら尋ねてきた。どうやら機嫌がいいことを察知したらしい。
「えっ、そ、そうね。嬉しいことがあったわ」
カルヴィンとデートに行けるかもしれないからとは言えなくて、どう誤魔化そうか悩んだが、ギィは理由について聞くことはなかった。
≪ギィモ、嬉シイ≫
「えっ、ギィも嬉しいことがあったの?」
≪違ウ、マリ、嬉シイカラ、ギィ、嬉シイ≫
マリオンは目を丸くした。あまりにも可愛らしいことを言うので、思わず軽く抱きしめてしまう。
「ギィのそういうところ、大好きよ」
≪ダイスキ?≫
初めて聞く言葉のような反応が返ってきた。ギィはこちらの言っていることはほとんど理解するのだが、たまに意思の疎通ができなくなる時がある。それが悪魔だからなのか、ずっと身近にいた人間が無愛想なカルヴィンだからなのかはわからないが。
≪カル、呼ンデル≫
「あっ、そうね。じゃあ、また明日ね、ギィ」
ギィはズブズブと沼に沈んでいくかのように、体を床から影の世界へと移動していく。
マリオンが窓に身を寄せて下を見下ろすと、すぐにギィが今度はカルヴィンの足元に現れた。二人は何かを話しているようだが、マリオンのところまでは聞こえてこない。
カルヴィンがマリオンを見上げる。ガス灯に照らされた表情に、陰りがあるように見えて、マリオンは開こうとしていた口の動きを止めた。
「じゃあ……また」
「あ、ええ、お疲れ様」
素っ気なさはいつものことで、だからこそ気のせいかもしれず、ただ手を振ることしかできなかった。
カルヴィンは手を上げるだけに留めて、背を向けて歩き出してしまう。その姿を見送りながら、マリオンは嬉しさが徐々に萎んでいくのを感じていた。
最近気になる彼のあんな態度や、何かを言いたそうにしている理由など、マリオンには一つしか思い当たるものがなかった。
窓枠にもたれ掛かり、小さなため息を吐く。
そろそろ振られるかもしれない、と思いながら。