1 表通りの日常
お待たせしました、二章です。
舞台設定をより雰囲気を出すために19世紀パリ風異世界から、パラレル19世紀パリに変更しました。
地名ぐらいしか変更箇所はないので一章を読んでくださっている方は、ここから読んでいただいて問題ありません。
馬車の車輪や蹄の音、通りを歩く売り子の掛け声、まだ幼い子供たちのはしゃぎ声。そんな日常の騒音にひびを入れるように、大きな怒鳴り声がパリのある表通りに響いた。
道行く人々が驚いて声の元へ目を向けると、その発生源がやはり日常の一部でしかないと知り、彼らは興味を失うか、あるいは呆れたようにため息を吐いて、止めていた手足を再び動かした。
怒鳴り声がもう一度上がっても、今度は誰も反応しない。
探せばどこにでもいるからだ。白昼の酔っぱらいなど。
ここにはいないであろう誰かを呼び、罵っているのは酒瓶を持った赤ら顔の中年の女性だ。大男でないなら、暴れてもたいしたことはない。放っておけばいい。それが周囲の人々の共通認識であった。
パリには下町であろうと上流階級であろうと、アルコール中毒者が大勢いる。
見慣れたものを素通りしていく人たちの中、男性に手を引かれた十歳ほどの少女が、酔っぱらいの女性をじっと見つめた。
「パパ、あの人の後ろ、悪魔がいるわ」
愛らしい声で猫を見つけたかのように何気なく言われた言葉は、すれ違った人間にも聞こえていたが、子供の言うこととして聞き流される。だが彼女の父親は違った。
「本当かい?」
「うん。木箱の中に隠れているのよ。あの中真っ暗だろうけど、お昼に出て来るなんて、きっと強い悪魔だわ」
酔っ払いの女性は日陰の中の、壁に寄せてある木箱にもたれかかって座り込んでいた。
「それなら彼が探している悪魔かもしれないな。ちょっと近づいてみよう」
「うん」
彼らは傍から見れば迷惑な酔っ払いに向かって歩いているようで、子供を連れた男が何をしているのだという視線を向けられる。しかし彼らが何かをする前に、酔っ払いの女性が顔を上げて男を口汚く罵った。
「あっ」
少女が残念そうな声を上げた。
「あーあ、行っちゃった」
木箱をがっかりと見つめる彼女に、父親は頭を撫でて慰めの言葉を掛ける。
「仕方がない。きっとまたこっちにやって来るよ」
「うん」
無邪気に頷く娘の手を優しく引きながら、父親は険しい表情を帽子の下に隠した。
「マリオン、二束くれ。一番長持ちするやつな!」
元気な声に呼ばれて、マリオンは振り返る。そこには友人である年下の少年が立っていた。彼が花を買いに来るなんて珍しいことだ。
「アルノー、今日は女将さんじゃないのね」
マリオンはちゃっかりとした性格のアルノーの要求を聞き流し、いつも宿の女将が買うような花を籠の中から見繕う。
「ああ、今日は宿泊客が多いから、料理の手伝いだってさ」
機嫌よく答えるアルノーが何を考えているのかわかって、マリオンは微笑んだ。
「じゃあ、稼ぎ時ってわけね」
「そう、がっぽり儲けてやるよ」
宿屋の女将に気に入られるようになったアルノーは、今は宿の使い走りの少年として働いている。宿屋では信用問題が大事なので、客の荷物をくすねるような人間など雇うわけにはいかず、当然雇用側の基準は厳しくなるのだが、一度試しに雇われてから、アルノーは見事に女将と店主の信用を勝ち取っていた。
おまけにアルノーに合う仕事であったらしく、女将たちに言いつけられる仕事の他に、宿泊客の用向きを聞いて駄賃をもらえるので、いつも張り切って走り回っているのだ。働いた分だけ金を貰えるってすごいなと、そんな当たり前のことを、つい最近彼は呟いていた。
以前よりも明るくなったように見えるアルノーだが、やはり煙突掃除人として働いていた時に、怪我をした仲間のことは気になるようで、たまに様子を見に行っているらしい。
いくらアルノーのせいではないのだと言っても、そう簡単に割り切れないことも理解できる。しかしマリオンはそれでもアルノーではなく悪魔のせいなのだという姿勢を崩さなかった。早く彼らが立ち直ってくれればいいと切実に思っている。
「はい。レースが付いていないものでいいのよね。十スーよ。一番長持ちするやつじゃないけど、女将さんはいつももうすぐ満開になるものを選ぶのよ。お客さんの目を楽しませるために飾るんだから」
「へぇ。花なんか見て何が楽しいんだかわかんねぇけどな」
「そんなこと言ってると可愛い女の子に見向きもされなくなるわよ」
「別にいいよ、そんなん」
アルノーは十スーを渡しながら、まだ年頃になっていない少年特有の余裕と興味のなさで、肩を竦めながら言った。
「後悔しても知らないから。花の力は偉大なのよ。この前だってね」
「へーへー、わかったよ。あのさ、俺は今日はマリオンのおしゃべりに付き合っている暇なんかねぇの。じゃあな」
「あっ、アルノー! 花は乱暴に扱っちゃ駄目よ!」
花束を持った手を振って走り去ろうとするアルノーに、マリオンは怒って注意する。聞いていたのかはわからないが、彼は腕を振ることなく駆けていった。
「元気ねえ」
アルノーの無尽蔵のように思える体力に感心してしまう。これから半ば無理やり客から用事を聞き出して、それをこなすために走り回るのだろう。
「すっかり小綺麗になったね、あの坊やも」
「アンナさん」
青果店の店主の妻であるアンナが、大きな鍋を抱えながらマリオンに声をかけた。昼食時間の間だけ店頭で販売する揚げじゃがいもの用意をするのだろう。
「あの煤は体にこびりついてるんじゃないかと思ったけどね。まあ、ちゃんと役に立ってるならそれでいいんだろうさ」
嫌味なのか激励なのかわからないことを言う。彼女は以前マリオンに、アルノーを構うのはもうやめろと言ったことを気にしているようだった。彼が煙突掃除人であったにも関わらず雇った宿の女将を複雑そうに見ていた。
「アンナさん、ありがとう。アルノーは働き者だから大丈夫よ」
本心はわからないが、マリオンは彼女がアルノーを心配しているのだと思っているように振る舞った。
「そうかい」
アンナは彼女らしくなく気のない返事をする。それでも否定はしないのだから、確実にアルノーの印象はよくなっているようで安心した。
マリオンはいつものように、道行く人に向かって歌うように呼び込みをする。
どこかの屋根でトンカチを振るう音がした。細い煙突は煙を吐き出すことがなくなり、洗濯場や遠くの工場の蒸気機関が上げる黒い煙だけが、空に流れていた。天気のいい日は花も売れやすい。アンナや古本屋のジョセフとおしゃべりをしながら、今日も夕方前には売り切れそうだとほっとしていると、アンナに含みのある声で呼ばれた。
「マリオン、想い人が来ているよ」
「えっ、どこ?」
慌てて周囲を見渡したマリオンは、すぐにもう見慣れたと言える、夕日色の髪の青年を見つけた。
「カルヴィン!」
歓声を上げたマリオンに、彼は怯むように一度立ち止まってから再び歩き出す。もう何度かここには来ているのに、カルヴィンはいつもそんな反応をする。
しかしそれも無理のないことではある。マリオンがあからさまなので、カルヴィンは彼女の想い人だと周知されてしまっているのだ。彼女を娘か孫のように可愛がるここ一帯の店主たちは、彼女の恋の行く末に興味津々だった。
カルヴィンは以前、アンナに職業を尋ねられ答えると、満足げに頷かれたことがある。おまけに妻も恋人もいないとわかると、ニヤニヤと意味ありげに見られてしまった。
マリオンではなく自分をそんな目で見てくる理由がカルヴィンにはわからなかったが、マリオンにはもちろんわかった。妻も恋人もいないのに、何度も花を買いに来るなんて、花売りに会いに来ているに決まっていると思われたせいだ。
アンナの中では既に二人が両想いになっているかもしれない。しかし、残念ながらマリオンはカルヴィンがちゃんと花を必要として買いに来ていることを知っていた。
「こんにちは、カルヴィン。花を買いに来てくれたの?」
「ああ」
「いつも、ありがとう。これはどう? 開きかけの花が多いわよ」
マリオンはいつカルヴィンが買いに来てもいいように、籠の奥のほうに隠しておいた花束を見せた。
「君に任せる」
「ふふ、任せておいて。ギィの好みはだいたいわかってきたから。この前アイリスが気に入ったって言っていたのよ。小花よりも大振りの花のほうが好きみたいだけど、ラベンダーは好きなんですって。香りがいいからかな」
花を整えてからカルヴィンに渡すと、彼は何か言いたげにマリオンを見ていた。
「どうしたの?」
「少し、聞きたいことが……いや、いい。何でもない」
カルヴィンは周囲の店番たちに様子を窺われていることに気づいて言いかけた言葉を打ち消した。
「そう?」
「ああ、また」
カルヴィンはお金を渡して花を受け取ると、背を向けて行ってしまった。
自業自得ではあるが、マリオンの態度のせいで周りから注目されているから、カルヴィンはこのところ花を買ってすぐに立ち去ってしまう。
もっと普通にしていればよかったと後悔したが、後の祭りだ。それはもう仕方がない。それよりもここ最近、カルヴィンがずっとマリオンに対して何か言いたそうな顔をしていることのほうが気になった。
元々鋭い目付きをしているのに、更に重い空気を纏わせてそんな顔をしているのだから、マリオンが喜ぶような内容ではないのだろうとしか思えない。だからマリオンも深く追及できないままでいた。
「もう、行っちゃったのかい?」
呆れたような顔をするアンナに、マリオンは苦笑を返した。
マリオンから買った花束を持って家に帰ろうとしていたカルヴィンは、ふらふらとした足取りの女性に立ち塞がれて足を止めた。
薄汚れてほつれた服を着た女性は、赤い顔に濁った目をしている。酒の匂いの他には特に強烈な臭いがしないことから、浮浪者ではないことは窺えた。
花を後ろ手に隠しながら、彼女を避けて通りすぎようとしたカルヴィンだが、女性は更に近づいてくる。
「なあ、あんた、マリーがどこにいるか知ってるか?」
まるで知り合いを見つけたかのように話しかけてくる女性に、カルヴィンは表情を変えずに答えた。
「いや、知らない」
酔っぱらいの相手などしたくないのですぐに去ろうとしたが、女性はしつこく食い下がった。
「知らないのかい、マリーだよ! 今は花売りをしているはずなんだ!」
カルヴィンは思わず女性のほうを振り返ってしまい後悔した。マリーと呼ばれる人物など大勢いる。さっき会ったばかりの彼女ではない。
しかしカルヴィンが否定する前に、女性はまくし立てた。
「花売りなんてしけた商売しやがって。恩を仇で返す気だよ! 知らないのかい、金髪で美人のマリーだ!」
カルヴィンの脳裏にはっきりと一人の女性が浮かぶ。淡い茶色が混じった優しい色合いの金髪と空色の瞳。
「知らない」
きつい口調で言い切るが、頭の中では否定しきれなかったカルヴィンは気のない風を装って尋ねた。厄介な知り合いなら、彼女に近づけさせないために。
「そいつはあんたの何なんだ?」
女性は薄く笑って言った。
「マリーはあたしの娘だよ」