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ソワレと灯火  作者: 山吹ミチル
一章
22/43

22 夜が更けて

 あれが本当に魂だけが行ける世界なのだと実感したのは、浮遊したような感覚の後、バルモンのアパルトマンの部屋で、瞼を開いた時だった。

 体が重く感じたが、恐らくそれは錯覚だろう。普段は無意識にでもできる、ただ身を起こすという行為に、やけに時間がかかっていた。それはまさしく、ちょっと体を留守にしてしまったせいで、魂が戸惑っているかのようだった。

 風が当たる。色がある。薄い壁の向こうから、隣家の話し声が聞こえて、どこからともなく煮込み料理の匂いが漂ってきていた。

 戻って来たのだ。

 マリオンはほっと安堵の息を漏らした。

 アルノーが奇妙な夢から覚めたような顔をして、きょろきょろと辺りを見回していたから、なんだか泣きたくなる。


「帰ろう、もう遅い」


 いち早く目を覚まして立ち上がっていたカルヴィンが言った。


「そうだね。アルノー、おばさんが心配しすぎて泣いてしまうわ」


 そう言うと、アルノーは酷く慌てた。


「やばい、今何時だ!?」

「さぁ……」


 この家に時計があるのかどうかはわからないが、あったとしても室内の灯りは消えたままなので、見つけ出すのは困難だろう。


「俺、走って帰るから! カルヴィン、マリオンのこと頼むな」

「待って、アルノー! 一人で帰ったら危ないよ!」

「大丈夫、ちゃんと明るい道しか歩かないからさ!」


 言い終わらないうちに、アルノーは部屋を出て行ってしまった。


「ちょっと、アルノー!」


 あの子はついさっきまで悪魔のせいで酷い目に遭っていたことを忘れているのだろうかと疑いたくなるくらい、あまりにもいつも通りのアルノーだった。

 母親が心配なのだとしても、夜道が恐くはないのかと呆れる。


「ギィ、付いて行ってやってくれないか?」


 ため息まじりにカルヴィンが言う。


≪イイヨ≫


 頷いてギィはアルノーを追いかけた。


「俺たちも帰ろう」

「ええ」


 部屋には未だ意識のないクレマンが横たわっていたが、もう悪魔は来ないのだからと放っておくことにした。

 アパルトマンを出ると、カルヴィンは通りのガス灯から火種をもらい、点火棒に火を点ける。もう仕事は終わっているはずだが、これがないと落ち着かないのだと言った。

 もうすっかり夜は更けていた。家々からの話し声もまばらで、ベッドに入っている人も少なくはないだろうと思える静けさの中、夜道を通り過ぎていくのも、ひやりとした冷気ばかりだ。

 こんな時間に外を出歩いたことなど数えるほどしかないマリオンは、カルヴィンの隣にぴたりと寄り添って歩いた。


「ねぇ、カルヴィンはいつもあんなことをしているの?」


 マリオンはずっと疑問に思っていたことを尋ねた。

 あんなこととは、悪魔の世界へ行って、悪魔と対峙することだ。


「いつもという程、いつもじゃない。あんなことは頻繁には起こらない」

「じゃあ、何度かはあるのね。それって灯し人のお仕事なの?」


 カルヴィンは驚いてマリオンを見下ろした。


「まさか。俺はギィと一緒にいるから、あんなことができるだけだ。ギィには探し物があって、それに協力しているうちに、ああいうことになったんだよ。他の灯し人は本当に灯りを灯したり消したりしているだけだからな」

「そうなの」


 マリオンとしても他の灯し人全員に、あんなことができるとは思っていないし、ギィがいるからこそ悪魔の世界に行けるのだろうと理解してはいたが、灯し人というのは何か特別な存在なのだと思わせるものがあるのだ。

 あんな体験をした後だから、より一層実感する。

 このガス灯は悪魔から人々を守る、大切な光なのだ。夜を照らす、角灯に閉じ込められた太陽の欠片のような美しい〈魔法シャルムの灯火〉。

 マリオンはガス灯が以前にも増して好きになった。

 それからは二人はしばらく黙って歩いた。

 おしゃべりなマリオンには珍しいことだが、いろんなことがありすぎて何を話せばいいのかわからなかったし、この静けさが家で休息を取る人々に、夜が更けたことを知らせているならば、それを破るべきではないと思った。

 マリオンのアパルトマンの前に到着すると、二人は向かい合った。


「送ってくれてありがとう」

「ああ」

「それから、アルノーのこともありがとう。助けてくれて、本当に言葉では言い表せないくらい感謝してるの」

「あいつを助けたのはあんただよ」


 カルヴィンは微かに苦笑してそう返したが、マリオンを気遣ってくれてのことだろう。マリオンは首を振った。


「ううん。カルヴィンがいてくれなきゃ、アルノーは助からなかったもの。それに、ギィも」


 マリオンは所在なげにスカートの襞を整えるふりをしてから、窺うようにカルヴィンに目を向けた。


「ねぇ、また会ってくれる?」

「ん? ああ」


 あっさりと返事をされて、少しがっかりした。ちゃんと伝わっていない。


「あの、あのね……用事があるわけじゃないの。ただ会いたいだけなの。それでも……会ってくれる?」


 勇気を振り絞りマリオンは言った。カルヴィンが無理なく断れるような問いかけをしたのは初めてだったかもしれない。

 しかしそろそろちゃんと言わなくてはいけなかったから、思いきったのだ。態度には表しているくせに、はっきりと口にしないのは卑怯者だ。

 困惑しつつも真意を探るような目を向けてくるカルヴィンに、マリオンは笑いかけようとして失敗した。


「わたし、あなたのこと好きだわ」


 カルヴィンの目が見開かれた。マリオンの笑顔がますます困り顔へと変貌していく。


「会って間もないのにこんなこと言うと、信じてもらえなさそうで言えなかったけど、初めて会った時から好きなの」


 急に恥ずかしくなってきて、マリオンは視線をさ迷わせた。もう言わなくてはいけないという義務感のようなものに突き動かされて口にしてしまったが、吐き出してしまえば、恥ずかしさと居たたまれなさが残る。


「まあ、あの……態度には思いっきり出してしまってたけど」


 態度どころか、直接的な言葉を言わなかっただけで、ほぼ告白同然のことを口にしていたのだが。それについてはマリオンも自分のことながらに予想外だった。きっと浮かれていたのだと思う。

 しかしもっと予想外だったのは、あんなことを言われても、好かれていることに懐疑的だったカルヴィンだが。


「あのね、会ってくれるだけでいいのよ。あなたが好意を持ってくれているって自惚れているわけじゃないの。友達としてでいいの。あの……ひとまずは」


 最後にまた余計なことを言ってしまったかとマリオンは後悔した。そっとカルヴィンを見上げると、目が合った途端、彼は大袈裟に肩を跳ね上げた。


「え……いや……」


 すぐさま視線をあらぬ方向へ向け、動揺しながらも必死になって考えを巡らせていることがわかる顔になる。悪魔を前にした時よりも、明らかに慌てていた。

 こういう時には、とてもわかりやすくなるところも好きだなぁと、その顔をじっと見つめながらマリオンは思った。


「ギィが……」

「え?」


 話しを逸らされたのだろうかと思ったが違った。カルヴィンは一言一言捻り出すように言う。


「ギィに……喰わせる花を、買わなきゃいけないんだ。だから、その花を、あんたのところへ買いに行くから」


 マリオンは水色の瞳をぱっと輝かせた。

 それはつまり、これからも会ってくれるということだ。マリオンのお願いを受け入れてくれたということ。それだけでとても嬉しかった。ありがとうと言いたくて、マリオンは口を開く。

 そこへ、二人のものではない声が乱入した。


≪呼ンダ?≫


「うあっ!」

「わぁっ!」


 地面から頭だけを出したギィが二人の間にいた。

 ギィは小首を傾げて、カルヴィンを見上げている。


「あ、あの、ギィ、アルノーを送ってくれたの?」


 何も疚しいことはしていないというのに、マリオンは膝を折ってギィに目線を近づけると、取り繕うような口調で尋ねた。


≪ウン。アル、家帰ッタヨ≫


「そう、ありがとう」


 殊更笑顔で礼を言うと、ギィはまた首を傾げた。


「そうだわ。ギィ、今から二階のわたしの部屋に来てくれる? お花をあげるっていう約束していたよね」


≪花?≫


 ギィの丸い瞳が期待で膨らんだように見えた。


「そう。すぐに渡せるから」


 マリオンはアパルトマンの中へ入って、階段を駆け上がった。

 自分の部屋にある花瓶から生花を抜き取って窓辺へ寄ろうとすると、その前にギィが床から全身を現す。

 深い闇の色ばかりの姿だというのに、マリオンはもう既にこの小さな悪魔を見慣れてしまっていた。微笑んで花束をギィに手渡す。


「はい。今日のお礼よ」


 ギィは嬉しそうに両手で受け取った。

 するとその中のまだ蕾といえる状態だった花が、ぱっと咲き開いた。かと思えば、花全体が一気に萎れていき、ギィの手の中で花束はみるみる枯れていってしまった。

 驚いて見守るマリオンに向かってギィが言った。


≪オイシカッタ≫


「……ああ」


 ようやく合点がいった。悪魔のギィは花の魂を喰べたのだ。だから花は急に枯れてしまった。


「ギィは、花が好きなのね」


 それは人間が花が好きと言うのとは意味が違ってくるが、おいしいと思って喰べるのなら、大した違いではないように思えた。

 ただし、それは植物の場合に限ってだが。


「他の悪魔もギィみたいだったらいいのにね」


 思わずそんなことを言ってしまう。

 するとギィはまた首を傾げた。


≪他ノ悪魔ハ、オ腹空カナイ。ソノホウガイイヨ≫


「え? でも人間の魂を喰べるでしょ?」


≪喰ベナクテモ、存在デキル。デモ、オイシイカラ喰ベル≫


「そうなの……」


≪ギィハ、喰ベナイト、怠クナル≫


「そうなのね。どうしてかな」


 ギィは背中を向けた。するとお尻の辺りで紐状のものがゆらゆら揺れている。よくよく見れば、それは尻尾だった。


≪ギィ、尻尾半分シカナイ。ダカラ怠クナル。悪魔二盗ラレタカラ≫


 マリオンは驚いてギィを見た。


「悪魔に盗られたの?」


≪ウン。デモ取リ返スヨ≫


「あ、じゃあ……ギィの探しているものって尻尾だったのね」


 ギィは頷いた。

 しかし当たり前のように取り返すという宣言をしているが、それはとても大変なことのようにマリオンには思える。


「ねぇ、わたしに何かできることがあったら言ってちょうだい。協力するから」


 不思議そうに、ギィはまた首を傾げた。

 そしてなぜかマリオンに向かって両手を伸ばすので、マリオンは顔を近づけて、ギィの表情をもっとよく見ようとした。

 ギィはマリオンの頬を両手で包んだ。まるで大人が幼子にする行為のようで、今度はマリオンが首を傾げてしまう。ぺたぺたと頬を軽く叩くと気が済んだのか、蜥蜴に似た手を下ろす。


≪カル、呼ンデル≫


「あっ、そうね。待たせてしまっているわ」


 ギィがするりと床に消えると、マリオンは窓から外を見下ろした。

 ちょうどギィが、今度は地面から顔を出したところで、それを確認したカルヴィンは、二階のマリオンの部屋の窓を見上げた。


「じゃあ、俺も帰るから、灯りの近くにいるようにな」

「わかったわ。じゃあ、また明日ね。灯し人さん」

「ああ、また明日。……マリオン」


 正面にいるマリオンがかろうじてわかるくらいの小さな笑みを、カルヴィンが溢した。

 気を許してくれたかのようなその笑顔と言葉に、マリオンは今日の疲れがすべて吹き飛ぶくらいの、満ち足りた気持ちを味わう。

 幸せな笑顔を返すと、カルヴィンは顔を逸らしてしまった。挨拶を終えたから帰るだけだとわかっているが、素っ気なく感じてしまうのは恋心故だろうか。

 それでもマリオンは口元を弛めながら、彼らの後ろ姿を見送った。





 背中に感じる穏やかな視線に、振り切りたいような、そうしたくないような、相反する感覚を覚える。

 しばらくして振り返ってみると、やはりマリオンはまだ窓辺にいて、こちらを見ていた。手を振られてぎこちなく返し、またすぐに正面を向いて歩き出す。

 姿が見えなくなるまで見送ってくれるつもりなのだろう。別にどこかへ旅立つわけでもないのだから、特別に嬉しいということも、逆に迷惑だと思うようなことでもない。それなのにやけに彼女のその行動を意識してしまう。

 隣ではギィが、機嫌よさげに角を揺らしていた。

 普段ならば目立つことはしないように注意するが、今はもう深夜に近く、通りを歩いている人間は誰もいない。今日くらいはいいだろう。


≪マリノ花、オイシカッタ≫


 しかしギィが嬉しそうに報告すると、カルヴィンは他の注意すべきことを思い出してしまった。


「ギィ、彼女のことを気に入ったのはわかるが、だからといってあんなところへまで連れて行くな。今回は何とかなったからよかったが、たまたまなんだからな」


 ギィは首を傾げた。


≪カル、何言ッテルカ、ワカラナイ≫


「わからないって……マリオンを悪魔の世界に連れて行っただろう?」


≪連レテ行ッテナイヨ≫


 カルヴィンは目を見開いて足を止めた。


「連れて行ってない? じゃあ、何でマリオンはあの世界に来れたんだ?」


≪ワカラナイ。デモ、マリ勝手二来タ≫


 その言葉はカルヴィンにとてつもない衝撃を与えた。

 人間が生きたまま悪魔の世界に行ける方法は主に二つだ。悪魔と契約すること、もしくは悪魔に招かれること。ごく稀に突発的に迷いこんでしまう人間もいるにはいるが、あの状況でたまたまそんな偶然が起きたなんてことはないはず。

 だからカルヴィンはあの時、ギィがマリオンをあの世界に招いてしまったのだと思ったのだ。そうとしか考えられなかったから。

 しかしギィが何もしていないのだったら、残る可能性は一つだ。


≪マリ、少シ変≫


 カルヴィンの疑いを助長するように、ギィが言った。


≪スゴク薄イ。デモ、悪魔ノ気配シタ≫


 カルヴィンは息を飲む。


「何だ、それは。……彼女が悪魔と契約しているということか?」


≪ワカラナイ。気配、スゴク薄カッタ≫


 心臓の音が、いやに大きく聞こえ出した。

 ごく普通に、状況だけで考えるならば、それはマリオンが悪魔と契約をしているのだということを意味する。ただ悪魔と話しをしたり、触れ合ったりしただけの人間から、悪魔の気配を感じ取れる程、ギィも敏感ではない。そうであるならば、今回のことでもアルノーが契約者なのだとすぐにわかっていただろう。

 その人間と触れ合って、じっと意識を研ぎ澄ませていれば、契約者かもしれないことがわかる程度なのだと、カルヴィンは以前ギィから聞いていた。

 つまり、カルヴィンはマリオンを疑うべきだった。

 悪魔など見たこともないという素振りをしながら、誰にも気付かれずに彼女は悪魔と契約をしているのだと。

 しかしカルヴィンはすぐに否定する。

 そんなはずはない。あんなにも、悪魔などに魂をくれてやるなと、アルノーに訴えていたマリオン自身が、悪魔と契約をしているなどということがあるはずがない。

 彼女の今までの行動や、多くの言葉が嘘だったなんてことはあるはずがない。

 だが否定しながらも、そのことに確信を持てる程、カルヴィンはマリオンという少女のことをよく知っているわけではなかった。

 どうすればいいのかわからない。

 いつだって、自分が何をするべきかすぐに判断できるカルヴィンが途方に暮れていた。


「ギィは……マリオンのことを気に入っているんだろ?」


 僅かな希望にすがるように尋ねた。


≪ウン。マリ、好キ≫


「……そうか」


 頭の中に、先程マリオンに言われた言葉が甦る。


 ──わたし、あなたのこと好きだわ。


 笑おうとして不安に負けてしまったような顔をして、彼女は言ったのだ。

 どうしようもできない痛みが、胸を襲った。

 夜闇が深みを増していく。



 

これにて一章完結です。

二章開始までしばらく間が開きますが、引き続きお付き合いいただけますと幸いです。

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