21 道標の灯り
誰も動けなかった。マリオンもカルヴィンもアルノーも耳を塞ぎ、襲いかかる不快感に耐えている中では、頭に血を上らせ風のように飛びかかろうとする悪魔に対処などできない。
モルデティヨスは驚愕に目を見開いているアルノーに向かって、蜥蜴のような両手を伸ばした。
マリオンにはそれがアルノーを捕まえて、絞め殺そうとしている動作に見えて、言葉にならない制止の声を上げる。しかしそんなことで怒れる悪意の塊が止まるわけもなかった。
手がアルノーに届きそうになった時、地面から黒く小さな物体が跳び上がり、モルデティヨスの手と酷似したものが翻った。
≪ギャアアアァ!≫
鋭い五本の鈎爪に引き裂かれたモルデティヨスは、地面に倒れ込む。だが悪魔はそんな事実はあってはならないとでもいうように、よろめきながらもすぐに身を起こして、自分の前に立ち塞がったものを睨み付けた。
≪オ前……!≫
ギィは何倍も大きくなった右手をすぐに動かせるように構えながらも、体のほうは変わらず小さく、つぶらな瞳は無表情に相手を見上げていた。
≪オ前、悪魔ノクセニ! 何ヲスル!≫
ギィは首をかしげた。何を言われているのかわからないとでもいうように。
≪コレハ俺ノ獲物ダ! 他ノ悪魔ノ領域二手ヲ出スナド有リ得ナイ。未熟者デアロウト許サレナイゾ! オ前ガ俺ノ名前ヲ教エタノカ!?≫
臆することなくギィはすぐに頷いた。
≪ウン。オ前、恐ガッテ名前モ言ワズニ契約シタカラ、簡単二解除デキタ≫
≪何ノツモリダァ!≫
激昂して叫ぶモルデティヨスは、先程のギィの攻撃のせいなのか、不快な声であっても、マリオンたちの精神に直接苦痛を与えるほど酷いものではなくなった。
それでもマリオンにとっては怒り狂う悪魔など恐ろしい。動けるようになったマリオンは、とにかく悪魔から離れたかった。どくどくと跳ねる心臓を宥めながら、モルデティヨスに気づかれないように、ゆっくりとアルノーの隣に立つ。
悪魔の怒りを真正面から見て固まっていたアルノーの腕を引くと、彼ははっとしてマリオンを見上げた。
素早く人差し指を口に当てて、声を出さないように伝えると、マリオンは気配を殺しながらゆっくりと後退する。
契約者であったアルノーよりも、ギィに怒りの矛先が向かったモルデティヨスは、マリオンたちの動きにまるで気づいていなかった。
≪ソンナ未熟ナナリヲシテイルクセニ、俺ノ名ヲ人間二教エルナド! オ前、消滅サセテヤル!≫
≪デキナイヨ。名前ヲ知ラレルノヲ恐ガル奴ニナンカ≫
淡々と返すギィは、相手を逆撫でしようとしているのか、そのつもりはないのかわからないが、モルデティヨスのほうは馬鹿にされたと受け取ったようだった。
影のような体が膨らみ、大男と赤子程であった二体の体格差が更に開いた。端から見ればギィは弱々しく、このままでは抵抗もできずに嬲られるという結末が、容易に想像できてしまう。
しかしギィの冷静な様子と、先程確実にモルデティヨスにダメージを与えたことを考えれば、悪魔に見かけなど関係ないのかもしれない。
マリオンは助けなくてはいけないのではないかという思いを胸の奥に押し込んだ。きっとここで一番弱いのは、マリオンとアルノーなのだ。
どうしても、何かをしなくてはいけないという焦燥感が湧いてくるが、弱点でしかない者が、余計な手出しなどするべきではない。
≪黙レ! 人間ノ手助ケヲスル矮小ナ悪魔ガ!≫
≪契約モ、マトモニデキナイ脳ナシ悪魔ー≫
ギィが人間の子供のように楽しげに煽りながら言い返す。あまりにも子供らしい口調なので、やはりわざとなのかはわからない。
そして煽ることには慣れている悪魔も、煽られることには慣れていないらしい。簡単に怒りを膨らませた。
≪ア゛ア゛ア゛ア゛ァ! 消滅サセテヤル!≫
ゾワリ、と心臓が萎縮した。
悪魔が持つ純粋な悪意というものが、音によって周囲に、波紋のように広がっていったかのようだった。
行動だけに注視していたマリオンは油断していた。気分が悪くなって思わず踞る。隣でアルノーが心配そうに小さく呼びかけてきた。
大丈夫だという意味を込めて頷いたマリオンは、二体の悪魔から目を離さず、成り行きを見守る。
モルデティヨスは感情のままに、ギィに向かって両腕を振り下ろした。
黒く小さいギィはこの空間ではどこにいるのかわかりにくい。しかし彼があまりにも余裕のある態度だったので、マリオンはこれだけのことでやられるはずがないと思っていた。それでも跳躍した姿を見つけた時は、やはりほっとする。
ギィは遊んでいるかのように、楽しそうにキキッと声を出す。
≪脳ナシ悪魔ハ、スグ怒ルー≫
≪……消ス!≫
ぴょんぴょんと跳び回りながら、ギィはモルデティヨスの攻撃を簡単にかわしていった。
冷静ではないモルデティヨスは、ただギィを追いかけ回すだけだ。何としても鈎爪で引き裂くという目的に執心していた。
だから、周囲の人間のことなど、頭の外に追いやっていたのだろう。
ギィがふらふらとしながらも、ある場所へと誘導していることに、まったく気づいておらず、気づいていたとしても、それを意識などしなかったはずだ。
初めに気づいたのはマリオンだった。続いてアルノーがはっとする。彼は立ち上がって呼びかけようとした。
「カル……!」
それを止めたのはマリオンだった。悪魔はカルヴィンがいるほうへと向かっている。しかしそれでいいのだ、きっと。なるべくならそのことをモルデティヨスに気づかれないほうがいい。
だがこの直後、誰もが予想しないことが起きた。
ずっとギィを追いかけていたモルデティヨスが、癇癪を爆発させたのか、叫び声を上げて頭上へと舞い上がったのだ。
怒りに体を支配された人間と同じように、その行動にたいした意味があるとは思えなかった。
だから恐らくそれは偶然なのだ。高く飛んでから下を見下ろしたモルデティヨス、そしてその悪魔を見上げていたマリオン、彼らの目が合ってしまったのは。
悪魔は視線の先にいるのが、どんな存在であるのか理解した。
繊月のような口が喜びと嘲りに歪み、目が暗い色を宿す。
目が合ったまま、それがマリオンに近づこうとしていた。
「マリオン!」
裂け目のような白い目に魅入られるように硬直していたマリオンは、我に返り声のしたほうを見る。
ギィがこちらへ駆けて来ていた。だが間に合うかはわからない。
その後ろで、カルヴィンが持っていた点火棒を地面につけたまま、思い切り投げつけた。そしてマリオンの名をもう一度呼ぶ。
マリオンはそれだけを見ていた。もう火種が消えてしまった、投げられた点火棒だけを。
上を、見てはいけない。たとえ急速によくないものが近づいて来る気配を感じたとしても。
引き寄せられたように、点火棒はマリオンの手のひらに当たり、止まった。
点火棒の位置を確認する。そしてマリオンは両手でそれをしっかり掴むと、モルデティヨスがいる方向へと突き出した。
≪ギャアアッ!≫
あまりにも近くから叫び声が聞こえてきて、マリオンは驚いて点火棒を手放し、そちらを見てしまった。
苦しみに歪む悪魔の顔が目に入ったのは一瞬だった。
大きな蜥蜴のような手が翻り、モルデティヨスが地面に倒れ伏す。
呆然としているマリオンの元へ、カルヴィンが駆け寄って来た。彼はマリオンが手離し、地面に転がっていた点火棒を掴むと、モルデティヨスに向かって行く。
≪ギャアッ!≫
ジュッと、何かが焦げるような音がした。
カルヴィンがうつ伏せに倒れているモルデティヨスの体の中心に、串刺しの如く点火棒を突き立てていた。
震える腕を抱きながら、マリオンは尋ねた。
「それは……銀?」
「ああ」
カルヴィンの答えを聞いて、少しだけ肩の力が抜けた。
やはり銀だったのか。自分の予測が当たってほっとする。
この世界に入る前、カルヴィンはモルデティヨスに向かってこの点火棒を振り下ろしていた。ほんの少しかすっただけのようにしか見えなかったが、それは確実にモルデティヨスに苦痛を与えていた。だが振り下ろしていたのは、火種が付いていた方とは逆の部分だったのだ。
悪魔にとって確実に脅威となるものは二つ。苦手なだけの子供を除けば、光と銀、この二つだけだ。
だからマリオンは、そこに銀が仕込まれているのだろうと考えていた。
銀がこの世界でも効力を発揮するのかはわからなかったが、ギィがカルヴィンの元へと、モルデティヨスを誘導していたのは、カルヴィンがこの点火棒を持っているからなのだろうと思ったのだ。
「癇癪を起こして人間を襲おうとするなんて、下等も下等の悪魔だな」
冷たく感情のこもらない声が響いた。
「お前たち悪魔は野蛮な人間や動物とは違う、高等な存在じゃなかったのか?」
≪ア゛ア゛ア゛ッ≫
呻き声を上げたモルデティヨスは、もう本当に何もできなくなってしまったのか、不快感どころか弱々しさすら感じさせた。
カルヴィンはそんな悪魔にも容赦しない。逃れようと身を捩るモルデティヨスに、一層点火棒を──銀を押し付ける。
そんなこれまでにないカルヴィンの表情を見たマリオンは、彼が怒っているのだと気がついた。
感情をなくしているのではなく、怒りが強いためにそのように見えるのだ。
「ギィ、どうだ?」
右手を元の大きさに戻していたギィは、モルデティヨスの体をペタペタと触っていた。
≪コイツ、違ウ≫
「そうか」
彼らにだけわかる会話をしたあと、カルヴィンは鋭い目を細めた。
「なら、こいつにもう用はないな。いなくなってもらおう」
≪ヤメロ、人間如キガ! 何ヲスル気ダ!≫
相手を卑下しながらも、嗄れた声は段々と懇願の色が混ざり始める。
「消滅させやしないさ。他の悪魔に目を付けられても困るからな」
興味なさげに返された言葉に、モルデティヨスはもちろん安心などしなかった。
≪何ヲスル気ダ≫
「ギィ」
≪ウン≫
ギィは再び右手を大きくさせると、モルデティヨスの体を押さえつけた。するとカルヴィンが点火棒を持ち上げる。
銀から解放されたモルデティヨスは微かにほっとしたようだが、身動きは取れないままだ。不安げに目を揺らしている。
カルヴィンは屈んでモルデティヨスの体の中心よりやや下の辺りを探るように見ていたが、おもむろに手を伸ばした。
≪ガァッ!≫
黒い何か紐状のものをカルヴィンは掴んでいた。牛の尻尾に似ているが、先端は毛ではなく、槍の刃のような形をしている。
出てきた場所と、それが悪魔に繋がっていることからして、きっと悪魔の尻尾なのだろうとマリオンは思った。
≪ヤメ……ガァァアア!!≫
制止の言葉を最後まで言わせることもなく、カルヴィンは尻尾の根元に銀を押し付けた。
モルデティヨスは必死に抵抗していたが、最早その動きすら弱々しく、ギィに容易く押さえ込まれている。
躊躇なく、カルヴィンはナイフで紐を切るように、点火棒を左右に動かしていた。焼石に水を落としたような音が響く。
やがて尻尾はぷつりと千切れた。カルヴィンは顔を顰めてそれを見ると、ギィに手渡す。ギィはモルデティヨスから離れて右手を元の大きさに戻していた。
モルデティヨスを拘束するものは、もう何もなくなっていたが、そのことをカルヴィンもギィも気にしてはいなかった。
≪捨テテ来ル≫
悪魔の尻尾を持ったギィが言った。
≪ヤメロ、返セ≫
≪ヤダ≫
ようやく聞き取れるくらいの、からからに干からびた生き物のような声で訴えた悪魔に拒絶を返し、ギィは水面に沈むように地面に潜って、姿を消してしまう。
≪ア゛ァァ≫
憐れみを誘う嘆きを漏らしながら、 モルデティヨスは同様に地中へと消えていった。
もうこの悪魔には、何の力も残っていないのだろうと思える姿だった。
完全にモルデティヨスの姿がなくなったのを見届けると、カルヴィンは踵を返しマリオンの前で足を止めた。膝を折り、へたりこんでいる彼女と目線を合わせる。
難しそうな顔をするカルヴィンに、マリオンは何か怒られてしまうのではないかと身を竦めた。
「すまない。耳を塞いでいるように言っておくべきだった」
悔いを滲ませた声でカルヴィンは謝った。
マリオンが驚いてよくよく顔を見ると、彼は気遣わしげな表情をしているだけだった。元々の目付きが鋭いので、勘違いしてしまっただけだ。
きっと女であるマリオンには、見せてはいけない光景だったと思っているのだろう。
「ううん、大丈夫」
何てことない、とまでは言えないが、マリオンは平気だと首を振った。
痩せ我慢ではなく、先程モルデティヨスに襲われそうになった時の緊張感が尾を引いているせいで、どこかぼんやりしていたのだ。おかげでそれほどの衝撃は受けていない。
「いや、危ない目にも遭わせた。悪魔はプライドが高いから、感情で人を襲うなんてことは、普通はしないんだ。油断していた。点火棒に気づいてくれてよかったよ」
口元を弛めたカルヴィンが褒めてくれたように感じて、マリオンは照れて下を向いた。
「でもそれって、わたしが勝手に付いてきてしまったせいでもあるから。足手まといだったでしょう?」
言ってしまってから、マリオンはしまったと思った。
いくらそれが事実であろうと、カルヴィンの口から直接足手まといだと言われれば、やはりショックだ。
しかしカルヴィンは、マリオンが初めて耳にするくらいの、優しい声で答えた。
「いや……あんたがいてくれて助かったよ」
ぱっと顔を上げたマリオンが見たのは、目付きの悪さがどこかへ行ってしまった、穏やかな目をしたカルヴィンだった。
思わず瞬きも忘れて見入る。
しかしカルヴィンはすぐに顔を逸らしてしまった。
「アルノーも、大丈夫か?」
「ああ、うん、まあ……」
複雑そうな表情で、アルノーは曖昧に頷いた。そして急に驚いたのか、さっと後ずさる。彼の視線の先には、地面から頭を生やしたギィがいた。
「早かったな」
カルヴィンの言葉に答えることなく、ギィは体ごと地面から出てくると、マリオンに歩み寄って、小さな足で彼女の膝の上に乗り上げた。
どうしたのだろうと思っていると、ギィはマリオンの顔をよく見ようとしているのか顔を近づけてくる。そして何かを尋ねるように首を傾げた。
口の形もなく、目はオレンジがかった白い丸があるだけで瞳孔もないので、ほとんど表情が窺えない。だがマリオンはカルヴィンと同じように、心配してくれているのだろうかと思った。
「大丈夫よ」
そう言うとギィは納得したらしく、顔を離して頷くと、膝から下りてカルヴィンの足元へ行き、彼を見上げた。
僅かに目を見張っていたカルヴィンは、やや間を置いてからギィの言いたいことを理解したらしい。
「あ、ああ、そうだな。帰ろう」
「帰れるの?」
ここがどこなのかすら把握していなさそうなアルノーが、真っ暗な空間に視線をさ迷わせながら聞いた。
「当たり前だろう。連れ戻すためにここまで来たんだから」
アルノーは虚を突かれた顔をした。
「……そう」
拗ねたように口を曲げてそっぽを向くと、ボソボソとありがとうと礼を言う。
他人に優しくされることが少ないアルノーの、精一杯の照れ隠しなのだと、マリオンにはわかった。
こっそり笑ったマリオンの目の前に、手のひらが差し出される。
「立てるか?」
「ええ」
今は魂だけの存在だからだろうか、あんな目に遭ったというのに、体に力が入らないという感覚はない。マリオンはカルヴィンの手を借りて立ち上がると振り返った。
「帰ろう、アルノー」
「……おう」
カルヴィンは来た時と同じように、マリオンと手を繋いだまま歩き出す。マリオンは空いているほうの手をアルノーに差し出した。
思い切り嫌そうな顔をしたアルノーに、マリオンはムッとする。
「はぐれるよ」
「大丈夫だ」
カルヴィンが向かおうとしていた方向を指し示した。その先にあるものを見つけて、マリオンはあ、と声を漏らす。
遠くに白い光が並んでいた。
角灯に閉じ込められた、見慣れた美しい灯り。
日常とかけ離れた場所にあっても、それは道を照らすという自身の役割を十分理解しているかのように、安心感だけを与えてくれる。
ここが帰り道だと、ガス灯が教えていた。