20 悪魔の署名
≪オ前……ナゼ、ソンナコトガデキル?≫
警戒するように離れた場所から、悪魔がカルヴィンを睨み付けた。
マリオンたちの周囲には既に三つのガス灯が灯っている。一つ目の時にも悪魔は体だけはすぐに逃げていた。それでもアルノーを追い詰めることは止めなかったが、今はそんな余裕もないらしい。
「灯し人だからだ」
それで十分答えになるというように、カルヴィンはきっぱり言った。
悪魔の目が憎々しげに吊り上がる。
≪マア、イイ。ドウセソノ掃除人ノ魂ハ、イズレ俺ノモノニナル。契約ガアルノダカラ、ソイツハココカラ出ラレナイ≫
「あんたのものになんかならない。アルノーはわたしたちと一緒に帰るのよ」
気が高ぶっていたマリオンが思わず悪魔に言い返した。すると悪魔はおかしそうにせせら嗤う。
≪ケケケ、帰ルダト! 悪魔ノ契約ヲドウヤッテ破ルトイウノダ? ヤッテミロ、愚カナ娘≫
どうやるかなんてマリオンにはわからない。でもカルヴィンが助けられると言ったのだから、絶対にできるはずなのだ。
マリオンがカルヴィンを見ると、彼は険しい表情で悪魔を睨んでいた。少しだけ不安になり、できるでしょうと聞こうとした時、悪魔の甲高い楽しそうな声が響き渡った。
≪アア、ソウカ! 確カニアルナァ。ソイツヲ助ケル方法ガ!≫
嫌な予感に、マリオンは体を固くさせた。アルノーを助ける方法があるという言葉よりも、悪魔の楽しそうな様子が気にかかる。
とても面白い玩具を見つけたように、ニタリと悪魔は嗤う。マリオンに向かって。
≪オ前ガ、俺ニ願イゴトヲスレバイイノダナ≫
「えっ……」
どうやってこの悪魔をやり込めばいいのか。そんなことばかり考えていたマリオンは、予想外の方法に呆然とした。
≪オ前タチ、ドチラカガ悪魔ト契約シテイルカラ、此処マデ来レタノダロウ。契約シテイルノハ、男ノホウジャナイノカ? ナラバ、新タニ俺ト契約デキルノハ、オ前ダケダ。オ前ガソノ掃除人ヲ助ケロト俺ニ願ウナラ叶エテヤロウ≫
もちろん、マリオンの魂と引き替えに。
悪魔が言っているのはそういうことだ。
喰べられる魂を代えることはできる。犠牲になるのがどちらなのか選ばせてやろうと、悪魔の声は酷く楽しげに弾んでいた。
「ふっざけるなよ! そんなことさせるわけがないだろ!」
アルノーが気色ばんで怒鳴る。
≪ナラバ、ヤハリオ前ガ契約ヲ果タスノダナ。他ニ方法ナドナイノダカラ。娘モ身代ワリマデハシタクナイヨウダシナァ。ケケケケケッ≫
悪魔が嫌らしくマリオンを見た。
戸惑いが大きかったマリオンは、この選択肢の答えを出していたわけではない。しかし薄情な人間だと罵られたような気がして、羞恥に顔を赤らめた。代わりになるという言葉は言えなかったのだ。
でももしアルノーを助ける方法がそれしかないのだとしたら。
マリオンが恐怖に固まりそうになった時、悪魔からの悪意に満ちた視線を阻むものがあった。
目の前にあるカルヴィンの背中を見上げて、マリオンはほっと息を漏らす。途端に冷静な思考が戻ってきた。気をしっかり持たなくてはいけない。
その姿が目に入らなくなればすぐにわかるのだが、マリオンは悪魔の罠にかかりそうになっていたのだ。こんな奴に簡単に負けるわけにはいかない。
決意を新たに気を引き締めたが、危うくそれが崩れそうになったのは、たったの一秒後だった。カルヴィンがとんでもないことを言ったのだ。
「他の悪魔と契約しているのは、俺じゃない。だからあんたと今から契約できるのは俺だ」
「え……」
唖然としたマリオンは口を開いたまま動けなくなってしまった。
カルヴィンの言っていることの意味がわからなかった。あれじゃあまるでカルヴィンが、今からあの悪魔と契約をしようとしているみたいだ。でもカルヴィンはギィと契約しているのだから、あの悪魔の話からすると、同時に二体の悪魔と契約するのは無理なのではないだろうか。
ではなぜあんなことを言ったのか。
マリオンも困惑していたが、マリオンよりももっと事情を把握できていないアルノーは相当慌てた。
「何言ってるんだよ、カルヴィン! まさか契約する気かよ!?」
振り返ったカルヴィンは鋭い目付きを更に鋭くさせ、マリオンに向かってポツリと呟いた。
ギリギリ届くくらいの声は、恐らく遠くにいる悪魔には絶対に聞こえないようにするため。
すぐに前に向き直ったカルヴィンは、ゆっくりと悪魔に向かって歩き出した。
「俺がお前と契約しよう」
「カルヴィン!」
走り寄ろうとするアルノーを、マリオンは手首を掴んで止めた。
「マリオン……?」
どんな顔をすればいいのかわからず、マリオンは眉間にぐっと力を入れた。悪魔には苦渋に満ちた表情に見えればいいと思いながら。
≪オ前、本当ニ悪魔ト契約ヲシテイナイノカ?≫
疑いの目を向けてくる悪魔に、カルヴィンは点火棒を掲げた。
「悪魔と契約している奴がこんなもの持ってるわけがないだろう?」
納得できる答えだったのか、悪魔はふむと頷いた。
≪ケケケ、ヨカッタナァ、掃除人。代ワリニ死ンデクレル奴ガイテ。本当ニヨカッタナァ≫
いちいち情感をつけて喋る悪魔は、人間を傷つけられる場面を見過ごせないらしい。
マリオンは素早くアルノーの手首を掴んでいる手に力を入れた。何かを叫ぼうとしていたアルノーが動きを止める。
賢いアルノーはマリオンの何もするなという無言の訴えを、正確に感じ取っていた。
「それであんたのほうはどうなんだ? 俺と契約する気があるのか?」
カルヴィンの問いかけに悪魔は考え込む仕草をしてからちらりとアルノーに視線を向けた。
≪アア、イイダロウ≫
憎々しげに睨まれていることが、さも嬉しげだった。
≪契約シテヤロウ。ダカラソノ火ヲ消セ≫
「わかった」
カルヴィンはガス灯の一つに足を向けた。悪魔はこの時ばかりは余計なことをしないかと、カルヴィンに注視している。
今しかないと思ったマリオンは周囲を見回した。
悪魔が現れる少し前から姿が見えなくなっていたギィは、すぐに見つかった。マリオンの影の中から頭半分だけを出して、隠れながらも見つけてもらうのを待っていたかのように、マリオンを見上げている。
マリオンは悪魔に注意しながら、悲嘆に暮れた様を装って膝をついた。同じようにすべきかと思ったのか、アルノーも腰を落とすと、すぐにギィに気づいて息を飲んだ。
「何だこれ……! 悪、魔……?」
それでも遠くにいる悪魔には気取られないように、驚きを行動に移さなかったところは流石だった。
カルヴィンが一つ目のガス灯を消していた。
「悪魔だけど、ギィは大丈夫だよ」
マリオンが説明すると、アルノーは先程のカルヴィンの言葉が頭を過ったのだろう、口をつぐんだ。
ギィの言う通りにしてくれ。
そう、カルヴィンは言っていたのだ。
しかしそれでも悪魔に対する抵抗があるのだろう、アルノーは口を引きつらせている。ギィの姿があまり悪魔らしくないおかげで、この程度の反応で済んでいるに違いない。
「ギィ、どうすればいいの?」
そこにギィがいることを気付かれないよう、マリオンはなるべく視線を向けないようにして尋ねた。
どうして気付かれないほうがいいのか自分でもわからないが、この状況に対応するための情報が少ないマリオンは、とにかく現状を変えるような動きは最小限にすべきだと思ったのだ。ギィの行動があの悪魔から隠れようとしているように見えるからというのもある。
≪アル、署名ドコニアル?≫
「しゃべっ……! え? 俺? 署名?」
アルノーは何を言われているのかまったくわからないという顔をする。
≪悪魔ノ署名。体ノドコカニアル≫
やはりわからないのか、不気味そうな顔をし出したアルノーの首元を、マリオンが指差した。
「アルノー、それじゃない? それ煤じゃないよね」
首と肩の中間あたり、黒い不可思議な模様が描かれていた。普段の煤だらけの姿では誰も気付かないような、意味があるのかないのかわからないような模様だ。おまけに背中寄りにあるせいで、本人も気付き辛い。
「何だこれ……」
首を捻ってようやく見つけたアルノーはますます不気味そうな顔をした。悪魔の署名が体にあると言われれば、そうなるだろう。
≪見セテ≫
その言い方が子供のようだったからか、眉根を寄せながらもアルノーはギィが見えるように体をずらした。
二つ目のガス灯が消える。
影の中から頭部分を全部出して、奇妙な模様を覗きこんだギィは、嬉しそうに丸い目を輝かせた。
≪ワカッタ。契約、取リ消セル≫
「えっ」
「本当に?」
あまりにもあっさり言われたせいで、思わずマリオンとアルノーは疑いを向けたが、ギィはこくんと頷いた。
≪アイツ雑魚悪魔。力弱イ≫
「……だから取り消せるの?」
≪違ウ。臆病ダカラ≫
どういうことなのかわからなかったが、今はその説明を聞いている場合ではない。
「どうすればいいの?」
ギィがアルノーを手招きした。
これ以上は近寄りたくなかったらしいアルノーは、渋面を作るが、マリオンに睨まれて仕方なく顔を寄せる。
そんなアルノーの様子を気にすることもなく、ギィはこそこそと彼に耳打ちした。
「……そんなことでいいのか?」
信じられないという顔をするアルノーに、一緒になって聞いていたマリオンまで同意したくなった。やってみろと挑発した悪魔に対して、あまりにも簡単な解除法だ。
≪早ク≫
急かされたことにハッとしてカルヴィンのいるほうへ目を向けると、既にガス灯はすべて消されていた。カルヴィンは点火棒を逆さに向けて、火口を地面に下ろそうとしている。
「アルノー!」
焦ったマリオンが名前を呼ぶと同時にアルノーも立ち上り、大きく息を吸った。
「俺が契約をしたのは、あんただ!」
アルノーが叫ぶ。
点火棒の先端が地面についた。
悪魔が何事かと訝しげにこちらを見る。
「モルデティヨスじゃない!」
言い切ったアルノーとマリオンが固唾を飲んで見守る中、悪魔が裂け目のような目を大きく開いた。
造作が単純な顔立ちであっても、明らかにわかるくらいに、悪魔は表情を強張らせていた。
アルノーの肩にある模様から黒い靄が浮かび上がる。
「いっ、て……!」
小さな悲鳴を上げたアルノーが、自分の肩に目をやった。靄はすぐに空中に溶けるようにして消えてなくなる。模様があった場所も、日に焼けた肌があるだけだ。
「消えた?」
「契約が解除されたっていうこと?」
≪ナゼダ!!≫
嗄れた怒声が周囲に響き渡り、心臓を引っ掛かれたような不快感に襲われた。マリオンはすぐに耳を塞いだが、そんなものでは防げないほどの音量を悪魔は出す。
≪オ前、ナゼ俺ノ名前ヲ知ッテイル!!≫
なぜと問いながら、誰もそれに答える余裕がないことには頓着しない。それほどに悪魔は激高していた。
≪アレハ悪魔ニシカ読メナイハズダ! ナゼ!≫
自身を脅かす灯りがなくなった悪魔は、自分の名前を口にしたアルノーへ、猛然と向かっていった。