2 花売りのマリオン
朝日の訪れと共にマリオンは目を覚ました。
サイドボードにあるゼンマイ式目覚まし時計を止めると、起き上がってベッドの上で大きく伸びをする。
歩いて窓辺へ向かうと、少しずつ日が長くなっていることを実感した。街中のガス灯は半分近くが既に消えている。
悪魔が恐れる、そして人間にとっては安全な夜明けが来たことを知らせていた。
この部屋の前にあるガス灯を彼が消すところも見ていたいが、仕事があるのでそうもいかない。マリオンはカーテンを閉めると朝の支度を始めた。
籠を持ってアパルトマンを出ると、ちょうど遠くからボーッという低い音が聞こえてきた。の街を一周する、蒸気機関車の始発が動き出したのだろう。
「おや、もうそんな時間か」
通りを歩いていた新聞配達人がぼやくように独り言を言った。
「おはよう、ジョセフさん。もう仕事は終わりそう?」
マリオンが笑顔で尋ねると、ジョセフは困り顔で帽子ごしに頭を掻いた。
「いやあ、昨日飲んじまったからかな。いつもならもう二つ向こうの通りまで終わっているはずなんだが、まだこんなに残ってら」
そう言って彼は新聞が入っている鞄を手で叩いた。
「あら、大変。フランツおじいさんに怒られちゃうわね」
「笑いごとじゃねえよ、嬢ちゃん。あのじいさん新聞が来るのを扉の前で耳をすまして待ってるんだぜ。ちょっとでも遅れたら嫌味ったらしく文句を言いやがるんだ。まったく、そんなに新聞が好きなら、あんたが新聞屋になりゃいいだろうに」
愚痴をこぼしながらもジョセフは急ぐ気配がない。しかし彼が特に仕事に不真面目なわけではなかった。この街の住人は皆がこんなものだ。
「いいわね、それ。新聞好きなフランツおじいさんが新聞配達人になったらきっとすごく仕事がはかどるわ。あっ、でもそうしたらジョセフさんの仕事がなくなっちゃうかも」
「何言ってやがる。あんな足腰の弱ったじいさんが俺よりもいい仕事ができるわけがないだろ。俺はこの地域全部の家に誰が住んでいるか頭の中に入っているし、人足に負けないくらい足が丈夫なんだぜ」
苦り切った顔で怒ったように言うジョセフに、マリオンは笑顔を崩さない。
「じゃあ、ジョセフさんが本気を出せば、あっという間に配達が終わるんじゃない? そしたらフランツおじいさんも怒ったりしないわよね。ジョセフさんは怒られないし、フランツおじいさんは新聞が時間通りに読めるし、いいことだらけだわ」
とてもいいことを思い付いたかのように明るく言うマリオンに、ジョセフは気が抜けたようなため息を吐いた。
「はぁ、言うようになったな、嬢ちゃん。さすがエヴリーヌさんの孫だよ。仕方ねぇな。じいさんが怒りすぎてポックリ逝っちまう前に配達してやるよ。じゃあな、嬢ちゃん。行ってくる!」
言うが早いがジョセフは走り去ってしまった。そのしっかりとした足取りにマリオンは手を振りながら首を傾げる。
「お酒が残っているんじゃなかったのかしら……」
その疑問に答えてくれる者はいない。まあいいかと思い直し、マリオンは自分も仕事場へと急ぐ。
街の外れにある花畑。そこがマリオンの朝の仕事場だ。
しっかりと管理されていることがわかる、色とりどりの美しい花が咲き誇る区画。その花の手入れをすることからマリオンの仕事は始まる。
害虫を駆除したり、黄色くなった葉を取り除いたりしていると、すぐに仕事仲間が集まってきた。
「おはよう、マリオン」
「おはよう、フランソワーズ、ルイーズ」
同じ年頃の娘たちが、眠そうに挨拶をする。どちらもマリオンにとっては少し先輩だ。
彼女たちは作業をしながら早速おしゃべりを始める。
「ねぇ、聞いた? シャロワが今度、香水の新作を出すんですって。今までにない自信作だっていうのよ」
「シャロワなんて高くてわたしたちには手が出せないわよ。ルイーズったらいつもどこでそんな情報を仕入れるのかしら」
「でも欲しいわけじゃないけど、わたしもどんな香りかくらいは知りたいわ。ねぇ、バラを何百本も使った香水があるって本当だと思う?」
流行の複雑な形に髪を纏めているルイーズが興味津々といった風に話し、おっとりとしたフランソワーズが苦笑で返す。そこへマリオンが楽しげに話を盛り上げるというのが、いつもの彼女たちの姿だ。
手を働かせながらも、口は器用に別の動きを続けているのは、どこの女性の職場でも変わらない。
花の手入れが終わったマリオンたちは、今度は摘み時の花を選んでハサミでパチンと切った。
近くにある作業小屋へ持っていき、担当者のチェックを受けて代金を支払う。その後は花束を作る作業が始まるのだ。
ここが花売りであるマリオンたちの一番の腕の見せどころだ。どれだけ美しい花束を作れるかで、花の売れ行きも決まるのだから。
マリオンは仕事が終わってから毎日作っている、レースで縁取りされたリボンを付けて、花束をより華やかに見せる工夫をしている。全部の花束には付けられないが、これを籠に入れているだけで、少しでも目を引くことができるのだ。
「相変わらず綺麗ね。やっぱりエヴリーヌさんの孫だわ」
「おばあちゃんはもっともっと綺麗に作るわ」
ルイーズが少し羨ましそうに呟くと、マリオンは胸を張って答えた。
「確かにそうだわ」
くすくす笑いながらフランソワーズが同意する。
「あんた本当におばあちゃん子よねぇ」
呆れ顔のルイーズは肩を竦める。
その時、彼女たちの背後からいきなり怒声が投げつけられた。
「ちょっと、あなたたち何やってるの!?」
ルイーズやフランソワーズよりもまだ少し先輩になるイヴォンヌだ。
「何って……どういうこと?」
普段と変わらない仕事をしていただけのマリオンたちは驚いて疑問を口にする。
「今日はバラデュール家のお屋敷で夜会の飾付けがあるでしょう! 誰か姉さんたちを手伝いに来なさいよ。気が利かないわね!」
理由を告げられると更に驚いて、ルイーズに至っては頭に血を昇らせた。
「何それ! あれはあなたがエリーゼ姉さんに自分だけが手伝いに行くって言っていたんじゃないの。わたしたちちゃんと聞いていたわよ!」
「それはっ。いえ、そんなこと言っていないわよ。いいから誰か手伝いに来なさいよ!」
明らかにしまったという顔をしたのに、イヴォンヌは強引に否定した。どうやら言ったことを忘れていたらしい。
「イヴォンヌ、そんなこと言ったの?」
その場にいなかったフランソワーズがマリオンにこっそり耳打ちして尋ねる。
「ええ、多分エリーゼ姉さんにいい顔したかったのだと思うわ」
「ああ……」
マリオンは正直な感想を口にした。決めつけはよくないとは思うが、イヴォンヌはわかりやすすぎるのだ。自分よりも経験の少ない者には横柄な態度に出るのに、姉さんと呼ばれるベテランの花売りたちには取り入ろうとする。マリオンはそういったタイプがあまり好きではない。
とはいえ、ここは仕事場であり、イヴォンヌもマリオンたちが所属する、パリの街で一番大きな花売り組合に属している、いわば仕事仲間だ。
つまらないいざこざで対立すれば、周囲の人間が迷惑をこうむってしまう。
マリオンは何でもないことのように気楽な口調で言った。
「それならわたしが行くわ、イヴォンヌ。急ぐのよね?」
睨み合うルイーズとイヴォンヌの間に立って、二人の気を逸らそうとする。
「マリオン、行く必要ないわよ!」
「でも姉さんたちが困ってるなら誰か行かなきゃ。大丈夫よ、きっといつものように花を摘んで荷馬車に乗せるだけだから」
「でも一人で手伝うって言っといて、今更急に来いなんて!」
納得がいかないルイーズはマリオンを止めようとするが、それをフランソワーズが押さえつけるように腕を掴む。
「ありがとう、マリオン。よろしくね」
申し訳なさそうに言うフランソワーズをルイーズが睨みつけるが、彼女は気づかないふりをする。
「ならさっさと行くわよ」
横柄な態度を崩さないイヴォンヌに、ルイーズがまた何か言おうとしてフランソワーズが止めた。マリオンにとってはほとんど特にならない仕事を引き受けたのに、なんて言い草だと言いたかったのだろう。
大丈夫だと目で合図して、マリオンはイヴォンヌについて行った。
作業小屋に残った二人はため息を吐く。
「もう、ルイーズ。無闇に喧嘩しないでよ」
「だってあれはないでしょう!」
「そうだけど、あのままじゃルイーズだって姉さんたちに怒られてたわよ。ただでさえあなた心象悪いんだから」
「う……」
「見た目は大人っぽいくせに、すぐ頭に血が昇るんだから。マリオンと正反対よね」
「悪かったわよ……」
ルイーズは憮然として謝った。
フランソワーズの言う通り、誰に対してもあまり態度を変えない怒りっぽいルイーズは、先輩たちから生意気だと見られて叱られやすい。対して、外見や言っていることが子供っぽく見えるのに、たまに中身が大人だと思わせられるのがマリオンだった。
とはいえ、それを知っているのは親しい者たちだけで、大抵の人からはあまり何も考えていなさそうだと思われているのがマリオンという少女だった。
パリの住人は、金持ちから貧乏人まで、みんな花が好きである。
だから金持ちが夜会を開けば、花で会場を彩るのはよくあることであるし、貧乏であろうが恋人には花を贈る。
花売りは見習いのうちは道端で小さな花束を売って、やがて経験を積んで一人前と認められれば、屋敷や店舗などの装飾、結婚式や葬式で扱う花を用意するようになる。
マリオンは花売りになって一年の見習いだが、祖母のエヴリーヌが花装飾の腕利きであり、腰を痛めて引退した今もまだ名指しで依頼が来てたまに仕事に出掛けることもあって、組合での立場はいいものだ。
だからこそマリオンは雑用をなるべく引き受けるようにしている。反感を買わないために。
エヴリーヌのおかげで厳しい先輩たちからも好意的に接してもらえているのだから、これくらいは当然のこととして受け止めている。
最もフランソワーズによれば、マリオンが叱られにくいのは、いつもにこにことよく働くからでもあるのだが、マリオンはエヴリーヌの影響が強いと信じている。
そんなわけで、イヴォンヌが花畑では足りない分の花を、花市場に買い出しに行く手伝いという、楽な仕事を取ったとしても、特に気にはならなかった。わけでもない。
「貧乏くじねぇ、マリオン」
花摘みを続けていると、先輩の一人から声を掛けられた。
「ええ、早まったかもしれません」
ずっと屈んで仕事をしているので、膝と腰が痛くなってきている。慣れてはいるが、時間が長くなればやはりきついのだ。引き受けなければよかったと、ちょっとくらいは思う。
いやに真顔で答えるマリオンに、彼女はその表情の似合わなさを笑った。
「もういいわよ、マリオン。自分の仕事に戻りなさい」
「えっ、でもまだありますよ」
「もともとこちらの仕事だからいいのよ。時間には間に合いそうだし。それにあんたはもう行かなきゃ、花が売れなくなっちゃうでしょ。はい、お駄賃」
彼女は摘み取った花の中から、バラを三本差し出してきた。駄賃がもらえることは期待していなかったので、マリオンは感激した。
「ありがとう。姉さん、優しい!」
「褒めても何も出ないわよ。ほら、早く行きなさい」
追い払われるように帰されたマリオンは、急いで作業小屋で花束の続きを作った。
今日は売り上げが悪くなることを覚悟していたが、バラがあるならそうとは限らないかもしれない。
全て作り上げて花束を籠の中へ入れていると、机と花束の間に紙の切れ端があることに気づく。手にとってみれば、そこにはフランソワーズとルイーズの名前と共にこう書かれていた。
『ありがとう。今度お礼するわ』
一人しかいない作業小屋で、マリオンは頬を弛ませて笑った。
引き受けてよかった。現金なもので、マリオンは一気に機嫌がよくなった。
足取りも軽く、籠を引っ提げて小走りで街へ向かう。
真っ昼間のパリの街はとても騒がしい。
あらゆる行商人が声を張り上げ、時には楽器やフライパンを鳴らして呼び込みをしているからだ。
「タラァー。新鮮で活きのいいタラ、タラはいかがぁー!」
魚屋が通りの角で、独特の韻を踏みながら声を張り上げているかと思えば、もう一つ向こうの通りでは、カンカンカンと鐘の音が鳴り響く。
「研ぎ屋ぁー。研ぎ屋ぁー。ハサミ、包丁、ナイフ、研ぎ屋ぁー」
高級アパルトマンの前であろうが、誰も音量のことなど気にしない。これがパリの街の名物であり音楽でもあるからだ。
様々な呼び声に誘惑されながらマリオンは自分の持ち場へ向かう。
中央郵便局を通り過ぎ、小さな商店が向い合せに連なって、その間をガラスの屋根で覆っているパサージュと呼ばれる場所がある。その狭い通路を抜けると、そこがマリオンの持ち場だ。
花売りは呼び込みのための楽器も持っていなければ、男性のような力強い大声を出すこともできない。
持っているものはただ可憐な娘という花売りのイメージだけだ。でもそれだって武器にはなる。
だから、花のような笑顔で。歌うように。
「花束はいかが? 可憐な花束。窓辺に、食卓に、あの人の胸元に、可憐な花束はいかが?」
マリオンの澄んだ声が、騒がしいリオンヌの街を通り過ぎた。